東周
| 東周 | |||||
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紀元前770年頃(建国時)の周の領土 | |||||
| 公用語 | 上古漢語(金文) | ||||
| 首都 |
洛邑 (紀元前770年 – 前256年) | ||||
| 王 | |||||
| 前770年 - 前720年 | 平王 | ||||
| 前314年 - 前256年 | 赧王 | ||||
| 人口 | |||||
| 前273年 | 約30,000,000人 | ||||
| 変遷 | |||||
| 洛邑へ遷都 | 前770年 | ||||
| 滅亡 | 前256年 | ||||
| 通貨 | 刀銭 | ||||
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東周(とうしゅう、拼音: 、紀元前770年 - 紀元前256年[1])は、中国の歴史上の王朝。洛邑への遷都後の周朝の便宜的な呼称で、鎬京に首都を置いていた時代の周を西周と呼ぶ。東周の時代の始まりは「春秋時代」の開始でもある。
周は紀元前770年に、鎬京(現在の陝西省西安市)から洛邑(現在の河南省洛陽市)に遷都した。これが東周の始まりで、25人の王が即位し、515年間続いた。
申侯の乱により、西周12代王の幽王が亡くなると、諸侯らは元々の太子であった宜臼を王とした[2][3](平王)。即位して二年、鎬京は戦火により破壊され、犬戎が侵攻し略奪されていた。そのため洛邑に遷都した(平王東遷)。これ以後の周を「東周」と呼び、以前を西周と呼んだ。東周の前半期、二百数十年ほど、諸侯が覇を争った。この時代は歴史書春秋に因み「春秋時代」と呼ばれる。東周の後半期、二百数十年は、周の天子の権威が漸失された。この時代を戦国策に因み「戦国時代」と呼ぶ[4]。
平王の東遷以後は、管轄する領域は大幅に減少し、一つの小国へと成り下がった。戦国時代には徐州相王で、魏の恵王[5]と斉の威王[6]が王号を自称した。続けて、大規模な諸侯が王号を唱えた。秦の恵文王や韓の宣恵王が[7]、その後も燕の易王[8]・宋の康王[9]・中山の王サクが自称した[注 1][注 2][10]。王号自称は周王の権威低下を表した。また、短期間ではあるが斉の湣王と秦の昭襄王はともに帝号を名乗っている[11]。
襄王十七年(紀元前635年)には王子帯による反乱が発生したが、襄王は鎮圧することができず、春秋五覇の晋の文公に救いを求め、鎮圧した[12]。襄王二十年(紀元前632年)、襄王は晋の文公によって河陽で践土の会盟を行った[13]。
定王元年(紀元前606年)には、春秋五覇の楚の荘王が陸渾の戎を討伐した。そして周の九鼎の軽重を問うた[14][注 3][15]。
赧王の時代には、東周の国勢は益々衰え、同時に内部での争いが絶えなかった。周は東周国と西周国に分かれていて、赧王は西周に遷都した[16]。赧王八年(紀元前307年)、秦が両周の道を借りて韓を攻めようとしたが、周人は道を貸さなかった[17][18]。赧王六十年(紀元前256年)には西周国が秦によって滅亡し、赧王も死した[19]。これにより中国の王朝で最も長い790年続いた周王朝は滅亡した。七年後には、東周国も秦によって滅亡し[20]、周王室の祭祀は完全に途絶えた[10]。
歴史
[編集]西周の滅亡・東遷
[編集]幽王3年(紀元前780年)、美女の褒姒が入宮し、幽王の寵愛を得て、子の伯服を産んだ。幽王は正室の申后と子の太子宜臼を廃し、褒姒を正室としその子の伯服を太子とした[21]。
褒姒は笑わなかったために、幽王は笑わせる方法を考えた。多数の方法を考えたが、成功しなかった。最終的に「烽火戯諸侯」という方法を考えた。ある日、幽王は緊急事態の知らせの烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。幽王は褒姒を笑わせるために、次々に烽火を上げために、諸将は狼煙を信用しなくなった[22][23]。
幽王は佞臣の虢石父を任用したため、国人の怨みを買った。虢石父はよくへつらって利を好んだ。申后の父で太子の祖父に当たる申侯はこのことに憤怒した。紀元前771年、申侯は繒や犬戎とともに周へ侵攻した。幽王は烽火を上げ救援を求めたが、諸侯は援軍を出さなかった。幽王や伯服・鄭の桓公らは驪山で殺された[24]、褒姒は犬戎に連れ去られ[25]、都の鎬京は荒された。申侯や魯侯、許の文公は平王(宜臼)を擁立し、天王と称した[26]。鎬京から洛邑に東遷した。
中期
[編集]東周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。
さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し[27]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった曽の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[28]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った[29]。
しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の
