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武周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武周
周
武周の位置
公用語 中古漢語
首都 神都(洛陽)
皇帝
690年 - 705年 武則天
変遷
武則天の帝位簒奪(唐の中断) 690年
武則天の退位(唐の再興) 705年
先代 次代
中国歴史
中国歴史
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周(しゅう、690年 - 705年)は、武則天が唐に代わり建てた王朝。先秦時代の周朝や南北朝時代の北周などと区別するため、武周とも呼ばれる。武則天は中国の歴史上の唯一の女帝であった。

載初元年(690年)9月9日、唐の先帝睿宗等の6万人以上が国号を改称することを上奏した。武則天は国号を唐から周に改め、国都を洛陽に定め、自らの尊号に聖神皇帝と定めた。神龍元年(705年)、宰相の張柬之等が宮廷で政変を起こし、武則天を退位させた。中宗は復位し、唐の旧制を復活させた。同年12月、武則天は上陽宮(中国語版)で没した。

歴史

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武則天の登位

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唐の宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[注 1]。

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ[注 2]。

治世

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奉先寺大仏

帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[注 3]。

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣、狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[注 4]。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。

滅亡

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