ベルケ
| ベルケ Бэрхэ(Berkh) | |
|---|---|
|
ジョチ・ウルス第5代当主 第4代ハン | |
| 在位 | 1257年 - 1266年 |
| 死去 |
1266年 ティフリス |
| 埋葬 | バトゥ・サライ |
| 家名 | ボルジギン氏 (ジョチ家) |
| 父親 | ジョチ |
| 母親 | スルターン・ハトゥン |
| 宗教 | イスラム教 |
ベルケ(Berke、? - 1266年)は、ジョチ・ウルスの第5代当主(ハン、在位:1257年 - 1266年)。バトゥの弟で、ジョチの三男。母はスルターン・ハトゥン(エミン部族)。漢語表記では別児哥、ペルシア語資料では بركاى (Barkāy) または بركه (Barka) と綴られる。
生涯
[編集]生まれ
[編集]ジョチの三男として生まれる。母はエミン部族出身のスルターン・ハトゥン。
ジョチの死
[編集]1225年、父ジョチが他界すると、次男のバトゥはジョチ家当主を相続してその兄(長男)オルダと父の軍隊を分け合い、オルダはスィフーン(シル)川の北方に位置する地方を領有し(オルダ・ウルス)、バトゥはサライを中心にヴォルガ河畔地方を領有した(バトゥ・ウルス)[1][注釈 1]。オルダ・ウルスにはウドゥル、トカ・テムル、シンクル、シンクムの弟たちが属し、それ以外の弟たちはバトゥ・ウルスに属したため、ベルケはバトゥのウルスに属した[3]。
チンギス・カンの崩御
[編集]1227年、チンギス・カンが崩御すると、遺言どおりに遺産相続が行われ、長男ジョチ家には4000人が相続された[4]。葬儀の後、参列した諸王侯・部族・軍隊の首領たちは別れてそれぞれの幕営地へ帰った[5]。しかし2年後、長期にわたる空位は帝国に弊害を招くということで、再び一族は会して皇帝選挙をすべきてあるという意見が一致した[6]。
1229年春、諸王侯と諸将はモンゴル高原のあらゆる地点からケルレン河畔へ赴いた[6]。カスピ海北方の地方からはオルダ、バトゥ、シバン、タングト、ベルケ、ベルケチェル、トカ・テムルなどのジョチの諸子が、イリ川流域からはチャガタイとその諸子・孫が、イミル河畔からはオゴデイが、女真族と接する地方からはテムゲ・オッチギンが参集し、監国であるトルイはこれらの諸王侯をチンギス・カンのオルドで迎えた[6]。
コーカサス北部の征服
[編集]バトゥを総司令官とする征西遠征軍はルーシを征服後、コーカサス北部地方へ戻り、この地方に住む諸民族の征服を開始した[7]。チェルケス人とクリム人は早々に征服され、キプチャク人の残りをバトゥの弟ベルケが攻撃した[7]。キプチャクの首領の一人コチャン・ハンはガーリチ公ムスチスラフ・ムスチスラヴィチの舅であり、部下の4万戸を率いて避難場所を求めるためにハンガリー王国へ移動した[7]。1238年冬、モンゴル軍はマンガスを包囲し、6週間の末にこれを奪い、翌年(1239年)の春、これに隣接するデルベント地方を征服した[7]。
グユクの崩御と新皇帝選挙
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1248年、第3代皇帝のグユク・カンが崩御すると、ジョチ家のバトゥとトルイ家ソルコクタニ・ベキは協力し、トルイの長男モンケを新皇帝に推戴しようと考え、オゴデイ家、チャガタイ家と対立した。アラ・カマク山にいたバトゥはその場でクリルタイを招集したが、オゴデイ家の主要な人物が欠席の中、モンケを推戴した[8]。クリルタイは翌年(1249年)春にも開催され、今度はオノン川、ケルレン川に近いチンギス・カンの旧直轄地において行われた[9]。この会議では諸王侯と軍の首領たち全体にモンケを承認させ、それまでの間はオグルガイミシュに摂政の任を継続してもらうよう布告した[9]。この頃のオグルガイミシュはその息子ホージャ・オグルとナグとで摂政業務を分担していたが、その仕事は各州に対する約束手形を振り出してあらかじめ国庫の歳入を処分することだけであった[9]。さらにオグルガイミシュはカム(巫術師)による妖術にハマり、室内にこもりきりで帝国は無政府状態となっていた[9]。ホージャ・オグルとナグはオゴデイ家の代表としてクリルタイに出席し、モンケの選挙に同意したテムル・ノヤンを非難するとともに、バトゥに書をしたため、チンギス・カンの郷土から離れた場所でクリルタイを開催したこと、不完全な状態で決定したことに同意できないと伝えた[10]。対してバトゥは新たなクリルタイに参加するよう勧めるとともに、参集した諸王侯は新皇帝に最もふさわしい人物を選択したのであり、この決定は撤回できないことを伝えた[10]。その後も何度も両者間で使者のやり取りがあったものの、何の進展がなかったため、バトゥは弟ベルケとトカ・テムルに多数の軍隊を率いさせてモンケに随行させ、ケルレン河畔まで赴かせた[10]。しかし、この会議にオゴデイ家とチャガタイ家は出席せず、モンケの選挙は不当であり、帝位はオゴデイ家にあるとした[10]。ベルケは1年の猶予をしたのち、バトゥに命令を仰ぐと、バトゥはもはや遅滞することなくモンケを即位させるよう命じ、国家を乱す者はその首を犠牲にすることになるだろうと明言した[11]。
全帝国内のオゴデイ派を粛清し、功績のあった者に褒美を与える
[編集]モンケ・カアンは全帝国内のオゴデイ派の粛清を開始し、カラコルムからオトラルまでに軍隊を配置した[13]。断事官(ジャルグチ)のバラをチャガタイ家の所領(チャガタイ・ウルス)に派遣し、罪ある者を探し出して死刑に処した[13]。モンケは反対派を壊滅させると自分の即位に協力してくれたバトゥ、ベルケ、トカ・テムルに見事な下賜品を与え、チャガタイ家のカラ・フレグには故チャガタイの所領を与えるとともにそのウルスのカンとし、グユク時代にカン位を与えられていたイェス・モンケを死刑に処することを命じた[13]。
バトゥの死去
[編集]1256年[注釈 3]、ヴォルガ河畔でバトゥは死去した(享年48)[14]。彼はサイン・カン(Sāyin khān/Sain qan)と称されたが、これは「善良なるカン」という意味である[14]。
ジョチ・ウルスの当主となる
[編集]バトゥが死去する前、春にモンケが第2回のクリルタイを開催していたため、嫡子のサルタクがこのクリルタイに派遣されていた[15]。訃報はただちにモンケの宮廷に伝えられ、モンケはサルタクをバトゥの後継者に任命した[16]。しかしながらサルタクはジョチ・ウルスへ帰還中に病没し、さらにモンケがその後継者に追認した末弟のウラクチもその半年後に夭折したため、最終的にはバトゥの次弟のベルケが継いだ[16]。
アリクブケとクビライとの争い
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1260年、モンケ・カアンの2人の弟、クビライとアリクブケが同時期に第5代皇帝に即位し、2人の皇帝が並び立ち、互いに対立し合った[17]。クビライは自らカラコルムに進軍し、オンギ河畔の「オンギのオルド」を夏営地と定めた[18]。カラコルム城はもともと華北から食糧の供給を受けていたのであるが、クビライがその供給を断っていたため食糧危機に陥っていた[18]。アリクブケは食糧不足に悩んだため、自身の幕下にいたチャガタイ家のアルグをチャガタイ・ウルスのカンにするという条件に、チャガタイ・ウルスから武器食糧の調達と、クビライの援軍としてやってくるフレグとベルケの軍隊を妨害することを命じた[18]。アリクブケは北のケム・ケムジュート地方へ逃れたが、極度の窮乏状態に陥ってクビライに使節を送り、自分の企みを悔いていること、兄クビライの最高主権を承認していること、クビライのもとに赴く意思があること、自分の軍馬に休養を取らせる必要があること、アルグ・カン、フレグ・カン、ベルケ・カンらの到着を待っていること、他の諸王侯とともに帝国継承の問題を解決するためにこの3人を招いたことなどを伝えた[18]。クビライはこれを承認すると返答し、3人の君主(カン)の到着前に二人で会見したいと希望した[19]。クビライは従弟のイスンゲをカラコルムに残し、自身は開平府へ帰った[19]。
フレグとベルケの反目
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ベルケはイスラム教徒であったため、イルハン朝のフレグに対してしばしば強硬な意見を吐いていた[20]。ベルケはフレグの残酷さ、友人に対しても敵に対しても加える暴力、多数のイスラム都市の破壊、アッバース朝ハリーファの処刑について非難した[20]。また、フレグのペルシア遠征に従軍していたジョチ家のクリ、バラカン、トタルがフレグによって殺されたことを疑った[20]。フレグはベルケの非難と叱責に堪えかねて「ベルケを尊敬するに足りない」と言明し、ベルケもまたフレグによって殺された多数の人々の復讐をすべきとトタルの従兄ノガイ率いる3万の軍を差し向けた[21]。
1262年8月、フレグはペルシアのすべての州から集めた軍を率いてアタラクを出発し、チョルマグンの子ノヤン・シレムンの前衛はシャマーハ市付近で完敗を喫した[22]。11月、ノヤン・アバタイはシルワーン州で敵に勝利した[22]。12月、フレグはこの勝ちに乗じてシャマーハから進軍してデルベント関の敵軍を駆逐し、ノガイを敗走させた[22]。フレグはこの勝利にかまけて酒と宴楽にひたっていたところ、ノガイの反撃にあってテレク川の付近で敗れ、逃走兵は凍った川を渡ろうとしたが割れて多数が溺死した[23]。一方でベルケはマムルーク朝のスルターン・バイバルスに書簡を送り、使節を交換し合った[24]。
1263年4月、フレグはこの失敗に意気消沈してタブリーズ市に帰った[23]。フレグは新しい軍を徴発して戦闘準備をさせるよう命令をくだし、タブリーズに滞在していたベルケ所属の商人に対し、先の敗北の復讐として彼らの財産を没収した[23]。ベルケはこれに対し、ジョチ・ウルス領内のフレグ所属の商人を殺した[23]。これに対しフレグはバトゥ家に所属するブハーラー市民を殺した[23]。
マルコ・ポーロの父と叔父が来訪
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1259年、ヴェネツィア商人であるニッコロ・ポーロとマテオ・ポーロの兄弟はヴェネツィアを出発し、海路コンスタンティノープルに向かい、ヴォルガ河畔のベルケ・ハンの宮廷へ赴き、この宮廷で1年間滞在した[26]。ベルケがフレグに敗れた後、両兄弟はチャガタイ・ウルスのバラクのいるブハーラ市に赴いた[26]。両兄弟はこの地に3年間滞在したが、たまたま通りかかったイルハン朝のフレグが派遣した元朝への使節が同行するよう誘ってきたので、二人は同意して元朝へ赴いた[26]。両兄弟は数年間中国に滞在した後、1269年にヴェネツィアに帰国したが、また翌年(1270年)末ごろに元朝へ出発し、今度はニッコロの子マルコ・ポーロも同行し、1274年に中国に到着した[26]。マルコ・ポーロは元朝で使われていた数々の言語に通じていたため、クビライ・カアンから登用され、帝国各地の重要な任務を任されて元朝には17年間滞在した[26]。彼は1290年に元朝を去り、イルハン朝のアルグン・ハンにコケジン妃が嫁ぐ[注釈 4]のに同行し、海路でホルムズまで行き、そこから1295年にヴェネツィアに帰国した[26]。
アリクブケの処分
[編集]1264年、クビライ・カアンはアリクブケ・カアンを降し、その部下の10人を死刑に処したが、アリクブケとモンケの子アスタイの審判にはフレグ・カン、ベルケ・カン、アルグ・カンの列席を希望した[27]。アルグは「自分はクビライの承認なしにチャガタイ・ウルスの当主になったのだから、自分の意見を表明する立場にない」と述べ、フレグは「この際とられたすべての処置に同意し、すぐにクリルタイに出席する」と言明し、ベルケも同じ返答をした[27]。
東ローマ帝国へ侵入
[編集]ルーム・セルジューク朝のイッズッディーン・カイカーウス2世は亡命先のコンスタンティノープルにおいて長い間待ちくたびれ、自分が再びルームのスルターンに返り咲くことはないとあきらめていた[28]。ある時、東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはコンスタンティノープルを留守にするため、カイカーウス2世が逃亡しないように彼を小さな海岸都市エーノスに抑留した[28]。1265年、たまたまジョチ・ウルスのベルケ・カンの軍隊がブルガル人を率いてヘムス山を越えて侵入し、東ローマ帝国の北方諸州を掠奪した際、カイカーウス2世を救出した[28]。カイカーウス2世はベルケの宮廷へ向けて出発したが、途中クリミア半島において自分の救い主とみなしていたベルケ・カンの死去を聞いた[28]。ベルケを継いだモンケ・テムルはカイカーウス2世にクリミアの封邑を与え、カイカーウス2世はこの地に留まり、1279年に死去した[29]。
ノガイのイルハン朝侵攻とベルケの死去
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1266年、イルハン朝のアバカ・ハンはジョチ・ウルスのノガイがデルベント関を越えてイルハン朝領に侵入してきたという報を受けた[30]。王侯ヨシムトはクル川を渡り、アクスゥ水の付近で敵に遭遇した[30]。戦闘は血みどろもので、勝敗は長らく決しなかった[30]。この戦闘でノガイは目に傷を負い、彼の軍は算を乱してシルワーン地方へ退却した[30]。この成功に乗じてアバカ・ハンも自らクル川を渡ったが、ベルケが強力な一軍を率いて進軍していることを聞いて退却し、すべての橋を切断させ、川の南岸に陣取った[30]。両軍は川を挟んで互いに弓を発射しながら、二週間相対した[30]。ついにベルケはティフリス市の付近で渡河するためにクル川を遡ったが、この行軍中に死去した[30]。これによりベルケの軍は退却し、彼の遺骸をサライ市に埋葬した[30]。ベルケの後を継いでモンケ・テムルがジョチ・ウルスの第6代当主となった[31]。
ベルケのイスラーム改宗
[編集]北アフリカ出身の歴史家イブン・ハルドゥーンによると、ベルケの改宗はナジュムッディーン・クブラヴィーの弟子サイフッディーン・バーハルズィーの勧めであるという[32]。また、ジューズジャーニー(Jūzjānī)はベルケの改宗を以下のように記している[32]。
信頼のおける人々は次のように述べる。チンギス・ハンの子ジョチ・ハンの子ベルケ・ハンの領土は、チン、キプチャークであった。父ジョチがホラズムを取り、軍隊をサクスィーン、ブルガール、サカーリバに率いた時、このベルケ・ハンは母から生まれた。彼の父は言った。「余はこのわが子をムスリムにしよう。そこでへその緒がムスリムによって切られ、ムスリムの父を飲むように彼にはムスリムの乳母をつけよう。なぜならば、わが子はムスリムになるのだから」この命令によって彼のへその緒をムスリムが切った。ムスリムの乳母たちの乳を飲んだ。教育を受ける年代になると、ムスリムの学者たちから一団の人々を選び、彼のためにその中から一人をコーランの知識を教えるために選んだ。また、別の信頼に足る人々はこのように述べている。彼はコーランの知識をホジェンドの町で、その町の一人の敬虔な者から受けた。割礼の年齢になると、割礼をおこなった。成人に達すると、ジョチ・ハンの軍営にあったすべてのムスリムの部隊は彼が指揮を執った。父ジョチ・ハンがチンギス・ハンの毒殺によってこの世を去ると、彼の兄弟バトゥ・ハンが父の地位についた。バトゥはベルケ・ハンをかくも強大になし、彼には権威・家臣・領地が与えられた。ヒジュラ暦631年(1233/34年)に、ベルケ・ハンの使節の一団が、スルタン・サイード・シャムスアルドニャー・ワッディーン陛下のもとに到着し、贈り物をもたらした。この帝王は常勝モンゴルの帝王たちについて知識を持っていなかったので、彼らと交渉をもたず追放した。彼らをカーリーユールの聖地に送ったが、彼らはムスリムだった。 — ジューズジャーニー『ナースィル史話』第23章
また、アル=ヌワイリー(al-Nuwayrī)は『諸学の究極(Nihāyat al-arab fī funūn al-adab)』で、ベルケがチンギス・カンの子孫の中でイスラームに入信した最初の人物であると以下のように記す[33]。
ベルケより前にイスラームに入信した人々については知られていない。ベルケがイスラーム教徒になると彼の家臣の大部分がイスラームに入信し、妻のジジャク・ハトゥンもイスラームに入信したとする。彼女は天幕でモスクを作り、旅行中も携帯した。 — アル=ヌワイリー『諸学の究極』
また、ウテミシュ・ハッジは『チンギスの書』で以下のように述べる[34]。
ベルケ・ハンは出生のときからムスリムであった。彼は生後母親の乳も他の非ムスリムの女性の乳をも吸わなかった。このため、ジョチは自分の魔術師、占い師に見せた。彼らが、「彼はムスリムです。ムスリムは非ムスリム女性の乳を飲みません」と述べたので、ジョチがムスリムの女性を探してあてがうと、彼は乳を飲み始めた。この出来事から何年か後、彼の父ジョチ・ハンが死亡した。彼は周囲は信心者でなかったので、スィグナヒに来た。彼はこの国へ来るとシャイフ・ナジュムッディーン・クブラヴィーの高弟の一人、数ある聖者の中でも秀でた聖者シャイフ・アル=アーラム・シャイフ・サイフッディーン・バーハルズィーの賞賛に値する特質について聞き、強い希望と愛情から彼のもとへ行って師事し、数年の間、聖者になるための最後の段階を成就するために熱心に努力した。彼はさらにサイン・ハン(バトゥ)が死に、彼のベク達が(ベルケを即位させる)同意のために、フラグ・ハンのもとに使者を派遣するときまで、シャイフのもとに留まって仕えた。 — ウテミシュ・ハッジ『チンギスの書』
系図
[編集]ジョチから大オルダまでの系図
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ バトゥが青帳汗(Kök Orda)、長兄のオルダが白帳汗(Aq Orda)を任じて、それぞれジョチ・ウルスの右翼(西部)・左翼(東部)の統治を分担した。13-14世紀のモンゴル帝国時代にはこのような記録は見えず、赤坂恒明によれば、これはバトゥ家が断絶した後、ジョチ・ウルスが青帳(キョク・オルダ、Kök Orda)、白帳(アク・オルダ、Aq Orda)に政治的に分かれていたとする後代の年代記やロシア側の資料などの記述を、バトゥの時代に溯及して論じたものであろうとしている[2]。
- ↑ 『世界征服者の歴史』では7月1日だが、『集史』では1,2月としている。[12]
- ↑ 『集史』『ムイッズ・アル=アンサーブ』ではバトゥ他界の年をヒジュラ暦560年(1252年 - 1253年)としているが、『タリーフ・イ・キプチャク・ハーニー』『タリーフ・イ・ミュネッジム・バーシー』ではヒジュラ暦654年(1256年)としており、ウィリアム・ルブルックとヘトゥム1世が1254年にバトゥと会っていることを考えて、この方が正確であるとされる[14]。
- ↑ コケジンがイルハン朝に到着した時にはアルグンは亡くなっていたため、その子ガザンに嫁いだ。
出典
[編集]- ↑ 佐口 1968, p. 348-349.
- ↑ 赤坂 2005, p. 293-305.
- ↑ 北川 1996, p. 74.
- ↑ 佐口 1968, p. 59.
- ↑ 佐口 1968, p. 62.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 63.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 159.
- ↑ 佐口 1968, p. 266.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 271.
- 1 2 3 4 佐口 1968, p. 272.
- 1 2 佐口 1968, p. 274.
- ↑ 佐口 1968, p. 276.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 290.
- 1 2 3 佐口 1968, p. 348.
- ↑ 佐口 1968, p. 349.
- 1 2 佐口 1968, p. 350.
- ↑ 佐口 1971, p. 12.
- 1 2 3 4 佐口 1971, p. 14.
- 1 2 佐口 1971, p. 15.
- 1 2 3 佐口 1973, p. 369.
- ↑ 佐口 1973, p. 370.
- 1 2 3 佐口 1973, p. 371.
- 1 2 3 4 5 佐口 1973, p. 372.
- ↑ 佐口 1973, p. 376.
- ↑ 佐口 1973, p. 373.
- 1 2 3 4 5 6 佐口 1971, p. 59.
- 1 2 佐口 1971, p. 24.
- 1 2 3 4 佐口 1976, p. 65.
- ↑ 佐口 1976, p. 66.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 佐口 1976, p. 8.
- ↑ 佐口 1976, p. 224.
- 1 2 杉山・北川 2008, p. 370.
- ↑ 杉山・北川 2008, p. 372.
- ↑ 杉山・北川 2008, p. 374.
参考資料
[編集]書籍
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 3巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫189〉、1971年1月。ISBN 4582801897。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 4巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫235〉、1973年1月。ISBN 4582802354。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 5巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫298〉、1976年12月。ISBN 4582802982。
- 杉山 正明、北川 誠一『世界の歴史〈9〉大モンゴルの時代』中央公論新社〈中公文庫 S 22-9〉、2008年8月25日。ISBN 978-4122050440。
論文
[編集]- 北川, 誠一「ジョチ・ウルスの研究 1:『ジョチ・ハン紀』訳文 1」『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』志茂碩敏〈科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書〉、1996年3月、67-90頁。 NCID BA30986214。
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