カラ・フレグ
| カラ・フレグ | |
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チャガタイ・ウルスの第2代当主 初代カン | |
| 在位 | 1242年 - 1246年、1252年 |
| 死去 |
1252年 |
| 配偶者 | オルクナ・ハトゥン |
| 子女 | ムバーラク・シャー 、トゥグルク・シャー、バイラーム |
| 家名 | チャガタイ家 |
| 父親 | モエトゥケン |
カラ・フレグ(モンゴル・テュルク語:Qara Hülegü、ペルシア語:قرههولگو / قرههولاقو Qara Hūlagū/Qara Hūlāqū、 ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代、第4代当主(1242年-1246年、1252年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。
名前について
[編集]『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記ではカラー・フーラークー(قرا هولاكو Qarā Hūlākū)、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも)カラー・フーラーウー( قرا هولاووQarā Hūlāwū)とも書かれる。
生涯
[編集]1242年、チャガタイは臨終の際、子のモエトゥケンが先のバーミヤーン攻囲戦で亡くなっていたため、そのウルスを孫のカラ・フレグに継承し、この世を去った[1]。同じ年、イラン総督のコルグズがチャガタイ・ウルスでチャガタイ家の官吏と口論になり、逮捕、連行されてチャガタイ・ウルスで尋問を受けたのち、カラコルムで裁判にかけられた[2]。
1246年、第3代皇帝のグユク・カンは生存している息子を差し置いて孫を当主に選ぶのは不可解であるとし、チャガタイの子イェス・モンケにチャガタイ・ウルスの領有権とカン(Qan)位を与えた[1]。同じ年[要検証][要出典]、コルグズの裁判の決着がつかず、チャガタイ・ウルスに送り返されて裁判を受けることになり、カラ・フレグは彼の口に土を詰めて処刑するよう命令した[3]。
1248年、皇帝グユク・カンが崩御したため、クリルタイが開催されるとトルイの長男モンケが推挙されたが、オゴデイ家とチャガタイ家のイェス・モンケはこれに反対したため、即位は難航した[4]。1251年になって、オゴデイ家とチャガタイ家がクリルタイに出席しなかったため、第4代皇帝にモンケが即位することとなった[5]。
1252年、モンケ・カアンは自身の即位に反対した勢力を粛清するとともに、チャガタイ・ウルスの当主(カン)であったイェス・モンケを処刑し、代わってカラ・フレグを次の当主にすることを決めたが、カラ・フレグは赴任する途中で死去してしまう[6]。代わりにカラ・フレグの妃オルガナはイェス・モンケの死刑を実行し、チャガタイ・ウルスの政務を代行する[6]。
宗族
[編集]カラ・フレグの正妃は、オイラト王家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの娘チェチェゲンとの娘であったオルクナ・ハトゥンであり、彼女との間にムバーラク・シャーを儲けている。他にトゥグルク・シャーとバイラームという娘たちがいたらしい。トゥグルク・シャーはスルドス部族出身のマング=テムルという部将に嫁ぎ、イディ・クルトカという娘を儲けた。このイディ・クルトカはイルハン朝のガザンの妃となっている。
系図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 4巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫235〉、1973年1月。ISBN 4582802354。
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