クロード・ヴィクトル=ペラン
| クロード・ヴィクトル=ペラン Claude Victor-Perrin | |
|---|---|
|
ヴィクトル元帥(ジャン・グロ画、1807年又は1812年) | |
| 生誕 |
|
| 死没 |
|
| 所属組織 | フランス軍 |
| 最終階級 | 帝国元帥 |
| 墓所 | ペール・ラシェーズ墓地 |
ベルノ公爵クロード・ヴィクトル=ペラン(Claude Victor-Perrin、1764年12月7日 - 1841年3月1日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。フランス復古王政期に陸軍大臣を務めた[1]。
生涯
[編集]1764年12月7日にロレーヌ地方のラマルシュで生まれ、1781年に陸軍に入隊した[1]。1791年に陸軍を除隊して、ヴァランスに引っ越したが、すぐに現地の志願兵に加わり、アルプス方面の前線で戦功を挙げた結果、1年もしないうちに1個大隊の指揮官まで昇進した[1]。
1793年のトゥーロン攻囲戦で戦功を挙げ、旅団将軍に昇進した[1]。その後、ピレネー・オリアンタル方面軍に加わってピレネー戦争に参戦、1796年から1797年までのイタリア戦役ではモンドヴィの戦い、ロヴェレートの戦い、マントヴァ包囲戦で戦功を挙げ、師団将軍に昇進した[1]。一時帰国してヴァンデ県の駐留軍を指揮した後、再びイタリアに戻り、教皇領の軍に対し善戦して、1800年のマレンゴの戦いでも勝利に貢献した[1]。
1802年にフランス領ルイジアナ総督に任命された後、1803年にバタヴィア共和国軍の指揮官になり、1805年から1806年にかけては在コペンハーゲンフランス大使を務めた[1]。1806年に第四次対仏大同盟戦争で対プロイセン王国との戦端が開くと、ジャン・ランヌ率いる第5軍団の参謀総長に就任、ザールフェルトの戦いとイエナの戦いで戦功を挙げたうえ、第1軍団の指揮官としてフリートラントの戦いでも戦功を挙げた結果、ナポレオン・ボナパルトから帝国元帥の任命を受けた[1]。1807年にティルジットの和約が締結されると、ベルリン知事に就任し、1808年にベルノ公爵に叙された[1]。
1808年に半島戦争が勃発するとスペインに派遣され、エスピノーサ・デ・ロス・モンテロスの戦い、タラベラの戦い、バロッサの戦い、カディス包囲戦に参戦した[1]。1812年ロシア戦役では1個軍団を指揮して、ベレジナ川の戦いでフランス軍の渡河を支援した[1]。1813年から1814年までの第六次対仏大同盟戦争にも参戦したが、1814年2月のモントローの戦いで遅参した結果、ナポレオンとの間で非難の応酬になり、ナポレオンはヴィクトルを更迭してエティエンヌ・モーリス・ジェラールに指揮を委ねた[1]。
更迭されたヴィクトルは自尊心に傷が付き、ブルボン家に寝返ることを選択した[1]。そして、ヴィクトルは1814年12月に国王ルイ18世から1個師団の指揮を委ねられた[1]。1815年の百日天下に際してはルイ18世とともにヘントに向かい、同年の第二次王政復古の後に国王同輩格貴族に叙された[1]。
1821年から1823年まで陸軍大臣を務め、1830年の7月革命の後は完全に引退した[1]。1841年3月1日、パリで死去した[1]。
死後の1846年、1793年から1800年までの文書集が出版された[1]。
出典
[編集]関連文献
[編集]- 『歴史群像シリーズ48 ナポレオン戦争編』学研、1996年11月。ISBN 4-05-601362-4。
- エミール・ブガーリ 著、小牧大介 訳『ナポレオンの元帥たち』新紀元社、2001年7月。ISBN 4-88317-886-2。
- Bukhari, Emir (1979). Napoleon's Marshals (英語). Osprey. ISBN 0-85045-305-4.
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ヴィクトル・ド・ファイ・ド・ラ・トゥール=モーブル |
陸軍大臣 1821年 – 1823年 |
次代 アンジュ・イアサント・マクサンス・ド・ダマ |
| 先代 アンジュ・イアサント・マクサンス・ド・ダマ |
陸軍大臣 1823年 |
次代 アレクサンドル・エリザベート・ミシェル・ディジョン |