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カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン
Catherine-Dominique de Pérignon
生誕 (1754-05-31) 1754年5月31日
フランス王国、ラングドック、グラナド(英語版)
死没 (1818-12-25) 1818年12月25日(64歳没)
フランス王国(復古王政)、パリ
最終階級 元帥
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カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン(Catherine-Dominique de Pérignon、1754年5月31日 - 1818年12月25日)は、フランス革命戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。1811年にペリニョン帝国伯爵、1817年にペリニョン侯爵。1804年にナポレオンによって任命された4人の名誉元帥のうち一人(他の3人はケレルマン、セリュリエ、ルフェーヴル)である。

生涯

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1754年5月31日、南フランスのグラナド(英語版)で生まれた[1]。貴族の家系出身であり、陸軍に入ってプレサック伯(comte de Preissac)のエー=ド=カン(英語版)(副官)になったものの、不公正な出来事に遭って軍を離れた[1]。

フランス革命が勃発するとこれを支持して、1791年9月にオート=ガロンヌ県から立法議会議員に選出されたが、すぐに辞任してピレネー・オリアンタル方面軍(英語版)に入った[1]。1792年に旅団将軍、共和暦2年雪月3日(1793年12月23日)に師団将軍に昇進した[1]。1794年11月にジャック・フランソワ・デュゴミエの後を継いでピレネー・オリアンタル方面軍の司令官になり、1795年2月にロサス包囲戦(英語版)に勝利した[1]。同年にバーゼルの和約が締結されると、共和暦4年葡萄月24日(1795年10月16日)に五百人会議員に選出された[1]。総裁政府からの陸軍大臣(英語版)の就任打診は辞退したものの、代わりに1796年に在スペインフランス大使(英語版)への任命を受けた[1]。ピレネー戦線での活躍によりスペインでも名声が高く、ド・ペリニョンの大使就任は歓迎された[1]。

1798年にイタリア方面軍(英語版)に派遣され、1799年のトレッビアの戦い(英語版)とノーヴィの戦い(英語版)で武勲を挙げたものの、ノーヴィでは重傷を負ってロシア軍の捕虜になり、捕虜として18か月間過ごした[1]。

共和暦9年芽月8日(1801年3月29日)に護憲元老院議員に選出され、共和暦12年花月29日(1804年5月19日)に帝国元帥に叙せられ、共和暦12年牧月25日(1804年6月14日)にレジオンドヌール勲章グラントフィシエを授与され、共和暦13年雨月13日(1805年2月2日)にレジオンドヌール勲章グランテーグルを授与された[1]。1806年9月にパルマ・ピアチェンツァ両州の総督に任命され、1808年から1813年まで両シチリア軍総司令官を務め、1811年9月6日に帝国伯爵に叙された[1]。しかしナポレオン戦争期を通して軍人としては活躍していない[1]。

1814年にナポレオンの皇帝退位に賛成して、同年6月4日に国王ルイ18世により国王同輩格貴族(英語版)に叙された[1]。また聖ルイ勲章(英語版)シュヴァリエを授与された[1]。1815年の百日天下でもナポレオンを支持せず、同年の第二次王政復古を経て1817年5月3日に聖ルイ勲章コマンドゥールを授与され、1817年5月31日に侯爵に昇叙された[1]。

1818年12月25日、パリで死去した[1]。

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 “Catherine, Dominique de Pérignon”. Assemblée nationale (フランス語). 2026年9月20日閲覧.

関連文献

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  • 『歴史群像シリーズ48 ナポレオン戦争編』学研、1996年11月。ISBN 4-05-601362-4。 
  • エミール・ブガーリ 著、小牧大介 訳『ナポレオンの元帥たち』新紀元社、2001年7月。ISBN 4-88317-886-2。 
外交職
先代
ジャン=フランソワ・ド・ブルゴワン(英語版)
在スペインフランス大使(英語版)
1796年
次代
ローラン・ジャン・フランソワ・トリュゲ(英語版)