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ドレゲネ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドレゲネ(モンゴル語:ᠲᠦᠷᠭᠡᠨ᠎ᠡ、転写: Töregene、生没年:? - 1246年)は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン)オゴデイの第6または第2皇后(カトゥン)で、第3代皇帝グユクの生母。諡号は昭慈皇后。史料によっては、トレゲネ[1]と書かれることもある。

名前について

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『元朝秘史』の中期モンゴル語表記ではトゥレゲネ(Töregene、Төрэгэнэ)、『集史』などのペルシア語表記ではトゥーラーキナ・ハートゥーン(ペルシア語: توراكنه خاتون 、転写: Tūrākina khātūn)などと綴られる。『元史』などの漢字表記では脱列哥那、禿里吉納、脱里干納と表記される。

日本における「ドレゲネ」という表記について村上正二は『モンゴル秘史2 チンギス・カン物語』の中で、ポール・ペリオとルイ・アンビスの『Historie des Campagnes de Gengis Khan.Leiden,1951』[注釈 1]をもとに以下のように記している[2]。

ドーソン『モンゴル帝国史』にTurakinaとあるが、Döregene(『集史』ではDörägänä)とするのが正しい(Pelliot et Hambis,p.90)。 — 村上正二『モンゴル秘史』p311

生涯

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出自

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ドレゲネの出自について、諸史料は一致してナイマン部の出であったとするが、特にペルシア語系図集の『五族譜』にはクト・ブカ・テギン(Qutu buga tekin)なる人物の娘であったと伝えられる[3]。また、ティムール朝時代に編纂された『高貴系譜』は『五族譜』に見られない「カイル・ブカ・テギン(Qair buga tekin)の娘のクチュグル(Küčügür)」なる后妃名を挙げるが、これはドレゲネと同一人物で、Qair buqa tekinはQutu buga tekinの誤記、「クチュグル」はナイマンの氏族名クチュウト(Küčü'üd)の転訛とみられる[3]。よって、ドレゲネはクチュウト・ナイマン族のクト・ブカ・テギンの娘であったと推定される[3]。

また、ラシードゥッディーンの『集史』の記述によれば、最初はチンギス・カンの第二皇后となったクラン・ハトゥンの父でウハズ・メルキト(Uvas Mergid)氏族長のダイル・ウスンの妃(『元朝秘史』ではトクトア・ベキの子クドゥの妃[4])であったが、チンギス・カンのメルキト討伐によって捕らえられ、オゴデイの夫人となったとされる[5]。

オゴデイ崩御

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高麗遠征、ヨーロッパ遠征、南宋遠征の間、オゴデイは狩猟と飲酒にふけっており、カラコルムから1日の距離にあるカルチャガンの離宮(春の離宮)[注釈 2]、オルメクト(夏の離宮)、クケ・ノール(秋の駐留地)、オンギのオルド(冬営地)を季節移動で巡回しつつ、悠々自適に暮らした[6]。オゴデイは度を越して飲酒にふけるようになる[7]。チンギス・カンも生前これに対して叱責していたし、チャガタイも1人の将校に監視させていた[7]。ついにオゴデイはチェチェク・チャガン沢付近における狩猟から帰るなり病気にかかった(1241年3月)[7]。皇后のドレゲネは狼狽し、耶律楚材にどうすればよいか尋ねると、耶律楚材は正義と慈悲の政治を行い、大赦をおこなうことを勧めた[8]。ドレゲネは直ちに大赦をおこなうと、オゴデイは少し回復した[8]。11月、オゴデイはまた病気になり、耶律楚材の諫めを無視して狩猟に出かけた[8]。そこでオゴデイはウテグ・クラン山の付近で深夜まで飲酒に興じた[8]。翌朝オゴデイは寝床に臥したまま絶命していた[8]。享年56、その遺体は起輦谷に葬られた[8]。[注釈 3]

監国となる

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オゴデイは最初、その最も寵愛していた三男のクチュを後継者に指名していたが、1236年に南宋遠征で死去したため、クチュの長男であるシレムンを次の後継者と考え、宮廷で育てていた[10]。しかし、ドレゲネは長男グユクを帝位につけたいと望んでいた[10]。

1241年12月、オゴデイが崩御すると、帝国の人々の注目はチンギス・カンの諸子の中で唯一生き残ったチャガタイに向けられた[11]。チャガタイはオゴデイからの信任が厚かったため、ますます尊敬を受けていた[11]。しかし、チャガタイは他の帝室諸王侯と協力してドレゲネに監国の大権を与えた[12][13]。

監国という大権を得たドレゲネは帝室の諸王侯と軍の首領たちにオゴデイ崩御を知らせ、後継者を選挙するためにオゴデイのオルドへ来るよう招集をかけた[10]。ドレゲネはまず中書右丞相のチンカイを罷免し、アブドゥル・ラフマーンを財務長官に任命した[14]。この人事に反対した耶律楚材は1244年に死去した[14][15]。マフムード・ヤラワチの子でトルキスタンとトランスオクシアナの行政長官であったマスウード・ベクはドレゲネに拘留されることを恐れてバトゥのもとへ避難した[16]。また、ドレゲネの命を受けたアルグン・アカはイラン総督コルグズを逮捕し、代わってイラン総督となった[16]。ドレゲネはコルグズに対して宿怨があったため、彼を禁固刑に処した[16]。これらのドレゲネの行動は彼女の侍女であるファーティマの意見によるものとされている[16]。

テムゲ・オッチギンの謀反

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オゴデイの崩御後まもなく、その叔父テムゲ・オッチギンが帝位を簒奪しようともくろみ、軍隊を率いてドレゲネの本営に近づいた[16]。ドレゲネは 「どうして、これほど大勢の者を引き連れて、息子の妻のところへやってきたのか[注釈 4]」と親しみのある態度で問い、テムゲの息子を派遣した[16]。ちょうどそのとき、西方遠征からグユクが到着したことを知ったテムゲ・オッチギンは計画を遂行するのは適当ではないと判断し、「陛下のお悔やみを言いに来たのである」と言って引き返していった[16][18][19]。[注釈 5]

皇帝選挙でグユクが即位する

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皇帝選挙のためのクリルタイは1246年の春まで開催されることはなかった[21]。その理由は帝国の最有力者であるバトゥがドレゲネとグユクを好まず、足の病を口実に出席を引き延ばしたからである[21]。他の諸王侯は最有力者バトゥの不在の中皇帝選挙を行うことを欲しなかったが、ドレゲネはついにクケ・ノール付近の地でクリルタイを開催し、バトゥ不在の中、皇帝選挙を強行した[21]。この会議に出席したのはチンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギン、トルイの寡婦ソルコクタニ・ベキ、オゴデイ家、ジョチ家、チャガタイ家の子孫とそのノヤンと首領たち、中国の長官、ペルシア総督のアルグン・アカ、トルキスタン総督のマスウード・ベク、ルーム・セルジューク朝のルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世、ウラジーミル大公ヤロスラフ2世、ジョージア王国のダヴィト6世とダヴィト7世、アレッポの君主の弟、アッバース朝カリフの使節、ニザール派の教主ムハンマド3世、モースルのザンギー朝、ファールスのサルグル朝、ケルマーンのカラヒタイ朝の各使節であり、いずれも見事な貢納品を携えてきた[22]。8月、会議の参加者は摂政ドレゲネの勢力に屈して満場一致でグユクに投票し、グユクは第3代モンゴル帝国の皇帝に即位した[23]。グユクは父オゴデイが使っていた皇帝号「カアン」を使わず、ただの「カン」を名乗った[24][25][26][27]。

死去

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ドレゲネはグユク即位の2か月後に死去した[28]。するとその侍女ファーティマに対する反発が沸き上がり、シラというサマルカンド出身のイスラム教徒は、グユクの弟コデンがファーティマの巫術によって病気にかかったとして彼女を告訴した[28]。また、コデン本人も生前彼女の処刑を要求していたため、グユクはファーティマを審問する命令を下した[28]。審問ではファーティマを棒で打ち、拷問したうえで自白させ、彼女の顔と体中の穴を縫い、毛氈に包んで河に投げ込んで溺死させるという極刑に処した[28][注釈 6]。ファーティマの友人たちも極刑に処され、シラもまたグユクの子ホージャ・オグルに魔法をかけたという罪で処刑された[28]。

後世の影響

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ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になった。1248年4月、グユクも遠征途上で急死した[30]。

皇后としての位置づけ

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『元史』后妃伝では第六皇后とあり、后妃表には

正宮孛剌合真皇后(ボラクチン)
脫列哥那六皇后(ドレゲネ)
昂灰二皇后(アルクイ)
乞里吉忽帖尼三皇后(キルギクテニ)
禿納吉納六皇后(ドレゲネ(重複))
業里訖納妃子(エルゲネ)
…

とある[2]。『集史』オゴデイ・カアン紀では第二カトゥンであり、

ブラクチン・ハトゥン(Būraqčīn Khātūn / بوراقچین خاتون)(ボラクチン)
トゥラキナ・ハトゥン(Tūrākīna Khātūn / توراکینه خاتون)(ドレゲネ)
ムカ・ハトゥン(Mūkā / موکا)(モゲ)
ジャジン・ハトゥン(Jājin / جاجین)(ジャチン)

とある[2]。両史料の記述の違いについて、内モンゴルの研究者宝音徳力根は「ドレゲネは当初『元史』の伝える通り「六皇后」であったが、二皇后や三皇后が早くに亡くなったことにより、恐らくはその穴を埋める形で第二皇后(カトゥン)に昇格した」ものと推定している[31]。

子

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『集史』オゴデイ・カアン紀によるとドレゲネの子は

の5子とされている[32]。

一方で『元史』や『元史』に基づいて後世に編纂された『新元史』等では

  • グユク

のみとしている。現在の研究ではコデンの生母はキルギクテニ、クチュの生母はボラクチン、カシの生母はアルクイと見なす説が有力であり、これらが全てドレゲネの子であったとする『集史』の記述は史実と見なされていない[33]。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 中国語史料『聖武親征録(Shengwu qinzheng lu)』のフランス語訳・注釈書
  2. ↑ この離宮はカラコルム宮殿を建てた中国人建築師とペルシア人建築師によって造営されたものであった[6]。
  3. ↑ オゴデイの死には不明瞭な部分がある。毒殺の気配も漂う。また、忠臣として誇大視されがちな耶律楚材が絡んでいる疑いさえある。実はオゴデイは正確にいつ死んだのかさえ史料で食い違う。さらに微妙な問題は「盟友」チャガタイが前後して他界していることである。チャガタイの場合も史料の記述が妙にあいまいで、正確な死亡時期を確定できない。[9]
  4. ↑ モンゴルでは世代ごとに父、子、孫と呼び合う慣習があり、テムゲ・オッチギンから見てオゴデイとドレゲネ夫妻は実際は「甥とその妻」であるが、「息子とその妻」と呼ぶことは不自然ではない。杉山正明は、既に皇位継承候補がチンギス・カン=テムゲ・オッチギンの孫世代であることを踏まえ、それから二世代も上のテムゲ・オッチギンに出る幕はない、と言外に伝えた言葉ではないかと推測する[17]。
  5. ↑ なお、この一件から間もなくテムゲ・オッチギンは死去し、長子であるジブ(ジブゲンとも)も早世したことから、その嫡男でまだ幼いタガチャルと、「庶兄」のトデの間でオッチギン家の当主位を巡る争いが起こった[20]。この時、テムゲ・オッチギンの重臣であったウイグル人のサルギスと千人隊長のコルコスンが皇后ドレゲネに直訴し、ドレゲネの認可を得ることでタガチャルが無事当主の座を相続することができたとの逸話がある[20]。
  6. ↑ 血を出さない処刑法は貴人に対する処刑法とされている[29]。

出典

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  1. ↑ 佐口 & 1968-12, pp. 128, 139, 145, 146, 214, 218, 256, 291, 338.
  2. 1 2 3 村上 1972, p. 311.
  3. 1 2 3 宝音徳力根 2024, p. 175.
  4. ↑ 村上 1972, p. 307.
  5. ↑ 佐口 & 1968-12, pp. 214, 215.
  6. 1 2 佐口 & 1968-12, p. 125.
  7. 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 127.
  8. 1 2 3 4 5 6 佐口 & 1968-12, p. 128.
  9. ↑ 杉山・北川 2008, p. 130.
  10. 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 214.
  11. 1 2 佐口 & 1968-12, p. 140.
  12. ↑ 佐口 & 1968-12, p. 146.
  13. ↑ 『元史』巻114列伝1后妃1,「太宗昭慈皇后、名脱列哥那、乃馬真氏、生定宗。歳辛丑十一月、太宗崩、后称制摂国者五年」
  14. 1 2 佐口 & 1968-12, p. 215.
  15. ↑ 『元史』巻146列伝33耶律楚材,「後以御宝空紙付奥都剌合蛮、使自書填行之。楚材曰『天下者先帝之天下。朝廷自有憲章、今欲紊之、臣不敢奉詔』。事遂止」
  16. 1 2 3 4 5 6 7 佐口 & 1968-12, p. 218.
  17. ↑ 杉山 & 1996-5, pp. 93–94.
  18. ↑ 杉山 1996, pp. 92–94.
  19. ↑ 堀江 1985, pp. 231–236.
  20. 1 2 杉山 2004, pp. 45–47.
  21. 1 2 3 佐口 & 1968-12, p. 221.
  22. ↑ 佐口 1968, p. 221-222.
  23. ↑ 佐口 1968, p. 224.
  24. ↑ 杉山 2014, p. 248.
  25. ↑ 樺山 1997, p. 86.
  26. ↑ 杉山・北川 2008, p. 124.
  27. ↑ 『元史』巻114列伝1后妃1,「太宗昭慈皇后、名脱列哥那……丙午、会諸王百官、議立定宗。朝政多出於后」
  28. 1 2 3 4 5 佐口 1968, p. 256.
  29. ↑ 村上 1970, p. 334.
  30. ↑ 杉山 1996, pp. 94–98.
  31. ↑ 宝音徳力根 2024, p. 171.
  32. ↑ 佐口 & 1968-12, p. 139.
  33. ↑ 宝音徳力根 2024, p. 174.

参考文献

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書籍

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  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 2巻、平凡社〈東洋文庫209〉、1972年4月。ISBN 978-4582802092。 
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡<上>』講談社〈講談社現代新書 1306〉、1996年5月20日。ISBN 978-4061493063。 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2004年2月。ISBN 4876985227。国立国会図書館書誌ID:000007302776。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776。 

論文

[編集]
  • 堀江雅明「テムゲ=オッチギンとその子孫」『東洋史苑』第24巻、龍谷大学東洋史学研究会、1985年3月31日、225-270頁、CRID 1573668927660463104、ISSN 0387-6403、NAID 110009877568。 
  • 宝音徳力根「窩闊台子孫的“太子” 称号及汗位継承権問題」『中国史研究』、中国社会科学院古代史研究所、2024年、170-188頁。 

関連項目

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