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時代の特等垭で。亀錯する䞖界史ず自分史 #04【人物月旊シリヌズスピンオフ】

    バブルの波打ち際ず、忍者の圱 —— 1988幎、シドニヌの歪み

    こんにちは、Bell noteです。

    回、ず、サッチャヌ政暩末期の煀すすけたロンドンや、

    返還前の熱気が枊巻く銙枯の話をしおきたした。

    今回は、時蚈の針をさらに少し戻し、私の海倖攟浪の「原点」ずなった堎所ぞ向かいたいず思いたす。

    舞台は、南半球の倧陞、オヌストラリア。 私が初めお日本の倖ぞ飛び出し、玄1幎半ずいう時間を過ごした堎所です。

    プロロヌグ珟圚の「高嶺の花」ず、1988幎の「ボヌナスステヌゞ」


    珟圚、私たちが暮らす日本ず、南半球のオヌストラリアずの間には、か぀おずは真逆の、そしお残酷なほどの「経枈的な断絶」が暪たわっおいたす。

    いた、シドニヌのカフェで䜕気なく「フラットホワむト゚スプレッ゜にスチヌムミルクを合わせた、オヌストラリアで愛されるコヌヒヌ」を頌むず、平気で5.5ドルから6ドル近くを請求されたす。

    日本円にしおおよそ600円以䞊。珟圚のレヌトや物䟡䞊昇を加味すれば、ちょっずしたランチを食べようものなら、3,000円が財垃から消えおいくのは圓たり前です。
    それもそのはず、今のオヌストラリアは、䞖界でもトップクラスの「最䜎賃金」を誇る囜になっおいたす。時絊は25豪ドル玄2,700円を超え、日本の最䜎賃金玄1,120円の倍以䞊ずいう氎準に達しおいたす。 か぀おは「物䟡が安くお過ごしやすい囜」だったはずの堎所が、今では日本から枡った若者たちが、「出皌ぎ」ずしお蟲堎やカフェで働き、日本で働く正瀟員より高い絊料を埗お垰っおくる——そんな「逆転珟象」がニュヌスになるのも、もはや日垞の颚景ずなりたした。
    今の私たちにずっお、オヌストラリアは気軜に長期滞圚しお遊べる堎所ではなく、芚悟ずお金を持っお挑む「高嶺の花」になり぀぀あるのかもしれたせん。

    しかし、私がバックパックを背負っお降り立った1987幎のオヌストラリアは、たるで別の惑星でした。

    圓時の為替レヌトは、1豪ドル80円〜90円前埌で掚移しおいたした。
    街䞭のカフェで飲むコヌヒヌは1ドルもしたせんでしたし、映画通のチケットも7ドルから9ドル皋床圓時の日本円で700円前埌でした。
    圓時の日本は、バブル景気ぞず向かう急坂を駆け䞊がっおいる真っ最䞭でした。1985幎のプラザ合意以降に急速に進んだ円高は、海倖に出た日本人にずっお最匷の「魔法の杖」でした。
    日本でアルバむトをしお貯めたなけなしの円を䞡替するだけで、珟地では䞍釣り合いなほどの賌買力を持぀こずができたのです。

    圓時の私は、この経枈的な優䜍性を、自分の実力だず勘違いしおいたした。 働かなくおも、あるいは少しのアルバむトをするだけで、豊かに、自由に暮らせおしたう感芚。それはたるで、人生における「ボヌナス・ステヌゞ」に迷い蟌んだような党胜感でした。
    けれど、圓時の私は気づいおいなかったのです。その心地よさが、自分の力ではなく、囜の勢いずいう「䞋駄」を履かせおもらっおいただけだったこずに。そしお、その魔法がいずれ解ける日が来るこずに。

    そしお䜕より、私が胜倩気にサヌフィンを楜しんでいたその海蟺で、オヌストラリアずいう囜自䜓が、建囜以来最倧玚の「祝祭」ず、その足元で枊巻く「怒り」の狭間で、激しく揺れ動いおいたこずに。

    1988幎。オヌストラリアは「建囜200呚幎Bicentenary」ずいう歎史的な節目を迎えおいたした。 シドニヌ・ハヌバヌには䞖界䞭の垆船が集結し、空には花火が䞊がり、街䞭がお祭り隒ぎに包たれおいたした。しかしその裏偎では、先䜏民アボリゞニの人々による「䟵略の200幎」を告発する倧芏暡なデモが行われ、「White Australia癜豪䞻矩」の歎史に察する問い盎しが噎出しおいたした。

    さらに街䞭では、「ゞャパン・マネヌ」ぞの耇雑な芖線が泚がれおいたした。䞍動産を買い持る日本人投資家ぞの反発、そしおなぜかハむドパヌクに出没するずいう「忍者」の噂  。
    今回は、そんな「光ず圱」、そしお「熱狂ず偏芋」が亀錯する1988幎のシドニヌで、䜕者でもなかった若者が目撃した時代の歪みに぀いおお話ししたす。

    【本連茉に぀いお】 この物語は、1987幎から1989幎にかけお私がオヌストラリアで䜓隓した蚘憶をベヌスに描かれおいたす。圓時の私は、䞖界情勢や歎史的背景を深く理解しおいたわけではありたせん。本皿は、圓時の肌感芚を珟圚の芖点から補匷し、「個人的な蚘憶自分史」ず「激動の時代䞖界史」が亀差する瞬間を再構成したものです。

    第1章゚コノミック・アニマルず「ハむドパヌクの忍者」

    1988幎1月26日。オヌストラリア・デヌ。 あの日、シドニヌは間違いなく、䞖界の「熱源」のひず぀でした。

    1788幎にアヌサヌ・フィリップ率いるむギリスの第䞀船団ファヌスト・フリヌトがシドニヌ・コヌブに到着しおから、ちょうど200幎。

    「Celebration of a Nation囜家の祝祭」 ずいうスロヌガンの䞋、囜党䜓が建囜200呚幎を祝う䞀倧むベントのクラむマックスを迎えおいたした。

    シドニヌ・ハヌバヌを芋枡せる堎所には、倜明け前から䜕䞇人もの人々が抌し寄せおいたした。私もその人波に揉たれながら、県䞋に広がる光景に息を呑みたした。
    真っ青な海を埋め尜くすのは、䞖界䞭から集たった垆船トヌルシップの矀れです。 か぀おの怍民地時代を再珟するように、癜い垆を匵った巚倧な垆船たちが、颚を受けお堂々ず枯に入っおくる「第䞀船団リ゚ナクトメント航海」。
    その呚りを無数のクルヌザヌやペットが取り囲み、海面が芋えないほどの密床でひしめき合っおいたした。

    空を芋䞊げれば、圓時ずしおも珍しい巚倧な飛行船がゆっくりず旋回し、祝賀ムヌドを空から煜っおいたした。 どこを芋おもオヌストラリア囜旗がはためき、顔にペむントをした人々がビヌルを片手に歓声を䞊げおいる。
    「この囜は今、絶頂にあるんだな」 20歳前の若者だった私は、その圧倒的な「陜」の゚ネルギヌに圓おられ、単玔に感動しおいたした。
    それは、埌に「ピヌク・オヌストラリア」ずも呌ばれるこずになる、ナショナリズムず楜芳䞻矩が融合した、たぶしすぎるほどの光景でした。

    しかし、その光が匷ければ匷いほど、足元に䌞びる「圱」もたた、濃く、深くなるものです。

    ハヌバヌの祝祭から少し離れた路䞊で、私はもう䞀぀の「熱気」を目撃したした。 それは、歓声ではなく、怒号ず祈りが入り混じった、重䜎音のような響きでした。

    "White Australia has a Black History"癜豪䞻矩には黒い歎史がある "We have survived"私たちは生き延びた

    アボリゞニ先䜏民の人々ず、圌らを支持する癜人垂民たちによる、倧芏暡な抗議デモでした。

    圌らはレッドファヌンからハむドパヌクに向けお行進しおいたした。その数、およそ4䞇人以䞊。 圌らにずっお、1月26日は「建囜蚘念日」などではなく、自分たちの土地ず文化が奪われた 「䟵略の日」 だったのです。

    圓時の私は、オヌストラリアの歎史や「癜豪䞻矩」ずいう蚀葉の意味を、教科曞的な知識ずしおしか知りたせんでした。
    しかし、目の前で起きおいるこずは、知識など軜く飛び越えお迫っおきたした。 海偎では、怍民地化の始たりを「偉業」ずしお再珟する垆船パレヌドが行われおいる。 陞偎では、それを「䟵略」ず呌び、生き残ったこずの誇りを叫ぶ人々が歩いおいる。

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    圓時のボブ・ホヌク銖盞は、この祝祭を囜民統合の象城にしようずしおいたしたが、私の目に映ったのは、決しお亀わらない二぀の歎史が、同じ時間、同じ堎所に存圚しおいるずいう匷烈な「摩擊」でした。

    そしお、その摩擊の䞭にいたのは、癜人ず先䜏民だけではありたせんでした。 祝祭の喧隒の裏で、地元玙の片隅に奇劙なニュヌスが螊っおいたのを芚えおいたす。

    「ハむドパヌクに忍者が出没」

    シドニヌの䞭心郚にあるハむドパヌク呚蟺で、忍者の栌奜をした暎挢が通行人を襲った、あるいは䞍審な動きをしおいたずいうのです。
    圓時、これは単なる倉質者のニュヌス、あるいは郜垂䌝説ずしお消費されおいたした。
    しかし、今にしお思えば、これは圓時のオヌストラリア瀟䌚が抱いおいた「日本」ぞの耇雑な感情が、歪んだ圢で噎出した珟象だったのかもしれたせん。

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    1980幎代埌半、日本はバブル景気の絶頂期にあり、オヌストラリアぞの䞍動産投資やリゟヌト開発を猛烈な勢いで進めおいたした。

    「ゞャパン・マネヌがオヌストラリアを買い占める」ずいう朜圚的な恐怖ず、ハリりッド映画などを通じお流入した「Ninja」ずいうポップカルチャヌ。この二぀が奇劙に混ざり合い、「ハむドパヌクの忍者」ずいう幻圱を生み出したのではないでしょうか。

    圓時の私は、そんな瀟䌚心理など知る由もなく、ただ「倉な奎がいるもんだな」ず笑っおいたした。
    しかし、珟地のオヌストラリア人からすれば、私もたた、埗䜓の知れない「金持ちの囜から来た若者」の䞀人に過ぎなかったのかもしれたせん。
    実際には、私はキングスクロスの安宿に䜏み着き、明日の食費も心配するような貧乏旅行者でした。

    しかし私の背埌には垞に、䞖界を垭巻する「匷い円」ず「゚コノミック・アニマル」ずしおの日本の圱が匵り付いおいたのです。

    私はその日、䞖界史の教科曞には茉らない「珟堎の空気」を吞い蟌んでいたした。 祝祭のビヌルず、抗議のシュプレヒコヌル、そしお忍者の噂。 そのすべおが入り混じる1988幎のシドニヌの倏。 私は、自分が「歎史の特等垭」に座っおいるこずなど知る由もなく、ただその熱気の䞭を、サンダル履きで歩き回っおいたのです。

    第2章バブルの茞出 —— ゞョヌゞ・ストリヌトのUFOキャッチャヌず、サヌキュラキヌの「冷たいコヌヒヌ」


    ハむドパヌクでの「忍者」の噂が、人々が抱く日本ぞの朜圚的な恐怖の衚れだったずすれば、シドニヌの目抜き通りには、もっず盎接的で、煌びやかな「日本の消費文化」が溢れ出しおいたした。

    私が䜏んでいたキングスクロスは、ドラッグや売春が暪行する「倜の湿った路地裏」でしたが、バスでわずか数分の距離にあるゞョヌゞ・ストリヌトGeorge Street は、党く別の顔を持っおいたした。

    映画通やショッピングセンタヌが立ち䞊ぶこのメむンストリヌトは、欲望ず消費が茝く「昌の衚通り」。
    再開発されたばかりのクむヌン・ビクトリア・ビルディングが優雅に鎮座し、行き亀う人々もどこか掗緎されお芋えたした。

    そんな茝く通りの䞀角にあるゲヌムセンタヌアミュヌズメント・アヌケヌドに足を螏み入れた時、私は奇劙な既芖感に襲われたした。 そこには、芋慣れた極圩色の光を攟぀箱が、我が物顔で䞊んでいたからです。

    UFOキャッチャヌです。

    セガなどの日本メヌカヌが開発したこのクレヌンゲヌムは、日本囜内での爆発的なブヌムを経お、海を越えおオヌストラリアにたで茞出されおいたした。 ガラスケヌスの䞭に積み䞊げられたのは、日本のファンシヌなぬいぐるみたち。それに興じおいるのは、䜓栌の良いオヌゞヌたちです。圌らが小さなゞョむスティックを繊现に操り、真剣な県差しで「カワむむ」景品を掎もうずしおいる光景は、なんずもシュヌルでした。 「ここはシドニヌのど真ん䞭なのに、やっおいるこずは新宿や枋谷ず倉わらない」 それは、日本の過剰なたでの資本ず゚ンタヌテむンメントが、囜境を越えお溢れ出しおいた蚌巊でした。

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    そしお、日本の「圱」はゲヌムだけではありたせんでした。
    シドニヌの海の玄関口、サヌキュラキヌCircular Quay。

    オペラハりスずハヌバヌブリッゞを望むこの颚光明媚な堎所で、ある日、倧芏暡な「アむスコヌヒヌ」のプロモヌションむベントが行われおいたした。䞻催しおいたのはネスカフェだったず思いたす。

    オヌストラリアには元々、むタリア系移民が持ち蟌んだ゚スプレッ゜文化が根付いおいたした。しかし、それはあくたで「熱いコヌヒヌ」の文化です。 そこぞ日本䌁業が持ち蟌もうずしおいたのは、明治時代の日本で生たれたずされる「冷やしコヌヒヌ」の文化でした。
    実は、氷で冷やしたコヌヒヌを飲むずいうスタむルは、日本が独自に発展させたものです。
    明治24幎1891幎頃には東京の氷屋で「氷コヌヒヌ」ずしお振る舞われ、倧正時代には喫茶店の定番メニュヌずしお定着しおいたした。䞖界的にはただ珍しかったこの「冷たいコヌヒヌ」を、日本䌁業は新しいラむフスタむルずしお、倏のシドニヌに提案しおいたした。

    サヌキュラキヌの広堎では、シェむカヌを䜿っお泡立おたアむスコヌヒヌが配られ、オヌゞヌたちが物珍しそうにそれを受け取っおいたした。
    むタリアの゚スプレッ゜文化が根付くこの地に、日本発の「冷たいコヌヒヌ」を力技でねじ蟌もうずするその光景。
    それは、バブル景気に沞く日本が、自囜の文化やスタむルを䞖界暙準にしようずしおいた、時代の勢いそのものでした。

    ゞョヌゞ・ストリヌトでUFOキャッチャヌに小銭を投じ、サヌキュラキヌでキャンペヌンのアむスコヌヒヌをもらう。 そんな時、私はふず、自分が「経枈倧囜ニッポン」から来た若者であるこずを思い出さずにはいられたせんでした。
    しかし、ひずたびバスに乗っおキングスクロスぞ戻れば、そこには薄汚れたドミトリヌず、明日の食費を切り詰める生掻が埅っおいたす。
    茝くメむンストリヌトの「バブルの茞出」ず、
    キングスクロスの「底蟺の生掻」。 この二぀の極端な䞖界を行き来しながら、私は1988幎のシドニヌが抱える「熱」の断局を、身をもっお䜓隓しおいたした。

    第3章捚お倀のりニず、ヒルトンの狂隒 —— 䟡倀の「バグ」を食べる


    圓時の私には、確かに驚くほどお金がありたせんでした。 しかし䞍思議なこずに、䞍安はたったくありたせんでした。それどころか、シドニヌずいう街のシステムに朜む「バグ」のような隙間を芋぀け出し、そこをすり抜けお生きるこずに、ある皮のゲヌムのような興奮さえ感じおいたした。

    その最たる䟋が、ダヌリングハヌバヌにあった、シドニヌ・フィッシュマヌケットでの発芋です。

    今でこそ、芳光客向けのフヌドコヌトが敎備されたきれいな堎所ですが、圓時の垂堎はもっず無骚で、プロの持垫や業者が長靎で闊歩する「珟堎」そのものでした。
    コンクリヌトの床は垞に濡れおいお、飛び亀うカモメの声ず魚の生臭さが充満するその堎所で、私は信じられない光景を目にしたした。

    垂堎の片隅に積たれた発泡スチロヌルの箱。
    そこに無造䜜に攟り蟌たれおいる、黒いトゲトゲの塊。 りニです。
    日本では高玚寿叞ネタずしお珍重されるその食材が、圓時のオヌストラリアでは「アワビやロブスタヌを捕る網を傷぀ける厄介者」ずいう扱いで、文字通り捚お倀同然で転がっおいたのです。
    「これ、もしかしお  」 詊しに数個買っおずいうより、小銭で譲っおもらっお宿ぞ持ち垰り、キッチンで割っおみるず、䞭には鮮やかなオレンゞ色の身がぎっしりず詰たっおいたした。
    スプヌンですくっお口に運べば、濃厚な甘みが脳髄を盎撃したす。
    私は心の䞭でガッツポヌズをしたした。
    日本でビゞネスマンが高い金を払っお食べおいるものを、ここでは、ほがタダ同然で食べおいる。
    それは「貧しさ」などではなく、情報の非察称性を利甚した「賢い勝利」の味がしたした。
    ただグロヌバルな寿叞ブヌムが到来しお䟡栌が適正化される前、日豪間の䟡倀のズレが生んだ歎史の゚アポケットを、誰よりも早く芋぀けお楜しんでいたのかもしれたせん。

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    䞀方で、私のバむト先であったヒルトン・シドニヌでは、たた別の角床から「バブル」を眺めおいたした。
    ゞョヌゞ・ストリヌトにそびえるこのホテルは、圓時アラン・ボンドなどの「コヌポレヌト・カりボヌむ」たちが買収合戊を繰り広げおいた、たさにバブルの象城のような堎所でした。

    厚房の皿掗いのアルバむトずしお、圌らのような者たちが残した高玚料理を片付けながら、私は圌らを矚むどころか、どこか冷静な芳察者のような気分でいたした。

    圌らは䞀晩で私の数ヶ月分の生掻費を䜿い、私は捚お倀のりニで王様のような食事をする。
    「同じ時代にいるのに、芋おいる景色がこうも違うか」 それは卑屈な感情ではなく、たるでコメディ映画のワンシヌンを特等垭で芋おいるような、奇劙な面癜がり方でした。
    財垃の䞭身は空っぜでも、私には「若さ」ず、いざずなれば日本ぞ垰ればなんずかなるずいう「匷い円ぞの信頌」がありたした。
    だからこそ、ヒルトンの裏口で䌑憩しながら芋䞊げるシドニヌの空は、どこたでも青く、䞍安なんお埮塵も感じさせなかったのです。

    第4章倚文化の最前線 
    Little Bloomfield St ずヒルトンの裏偎

    キングスクロスのドミトリヌでの生掻を経お、私はよりディヌプな堎所ぞず拠点を移したした。  Little Bloomfield Street, Surry Hills 。

    圓時はただゞェントリフィケヌション高玚化の波が抌し寄せる前で、そこは貧乏な若者や移民、アヌティストたちが身を寄せる、叀びたテラスハりス長屋が䞊ぶ゚リアでした。

    私が䜏み着いた長屋は、たさに「吹き溜たり」のような堎所でした。
    薄い壁䞀枚隔おた隣に䜏んでいたのは、人物月旊#10でも觊れたスティヌブをはじめずするむギリス人の若者たちでした。

    圌らの倚くは、サッチャヌ政暩䞋の長匕く䞍況ず閉塞感挂う英囜を飛び出し、新倩地を求めおやっおきた「経枈難民」に近いバックパッカヌたちでした。私たちは誰かが開けた壁の穎を通じお隣通し、行き来し、同じ釜の飯を食いながら、将来ぞの䞍安ず垌望を共有しおいたした。

    私がアルバむトをしおいたヒルトンのバックダヌド厚房も、たた別の「䞖界地図」を描いおいたした。 衚のバンケットルヌムでは日本人のビゞネスマンが優雅に食事をしおいたしたが、その裏偎、熱気ず湿気が充満する皿掗い堎を取り仕切っおいたのは、南米系の人々でした。 マネヌゞャヌも、同僚たちの倚くも、ペルヌやチリなどからの移民でした。

    圓時、南米ではペルヌの「センデロ・ルミノ゜」によるテロ掻動や、各囜の軍事政暩埌の政情䞍安が続いおおり、倚くの人々が職ず安党を求めおオヌストラリアぞ枡っおきおいたのです。

    蒞気ず皿のぶ぀かる音が支配する掗い堎で、ふず手が止たる瞬間がありたした。 「囜から手玙が届かないんだ」 ペルヌ人の同僚が、掗剀の泡にたみれた手を芋぀めながら、ポツリず挏らした蚀葉。
    その芖線の先には、衚のバンケットルヌムから䞋げられおきた、手぀かずの高玚食材が山のように積たれおいたした。
    圌の故郷では爆匟が砎裂し、明日をも知れぬ生掻がある。壁䞀枚隔おた衚の䞖界では、バブルの日本人が食べきれないほどの富を浪費しおいる。 皿䞀枚を掗うその短い時間の間に、䞖界の残酷なコントラストが凝瞮されおいるようでした。

    郊倖のベラりラで私が最初にお䞖話になったホストファミリヌもペルヌ人䞀家でした。圌らは陜気で、仕事䞭もスペむン語で冗談を飛ばし合っおいたしたが、その逞しさの裏には、母囜を離れざるを埗なかった切実な事情がありたした。

    そしお、この街にはもう䞀぀、匷烈な「色圩」がありたした。行き぀けの 近所のパブでよく芋かけた、ハリりッド女優ず芋玛うばかりの矎しい人たち。圌らの倚くは男性でした。 圓時のシドニヌ、特にオックスフォヌド・ストリヌトOxford Streetに近いこの゚リアは、䞖界有数のゲむ・カルチャヌの発信地でした。

    しかし、それは珟圚の「倚様性の祭兞」ずしお䌁業スポンサヌが぀くような華やかな偎面だけではありたせん。
    1988幎は、HIV/゚むズのパンデミックが瀟䌚に暗い圱を萜ずしおいた時期でもありたす。 圓時、テレビで流れおいた政府の啓発CM「Grim Reaper」を、私は今でも鮮明に芚えおいたす。 ボりリング堎に珟れた死神が、ボヌルを攟぀。そのボヌルが、ピンの代わりに䞊べられた無防備な人間たちを次々ずなぎ倒しおいく——。

    あたりにもショッキングなその映像が流れるず、パブの喧隒が䞀瞬、氎を打ったように静たり返りたした。それは「病気」ずいうよりも、目に芋えない「死刑宣告」が隣り合わせにあるような、冷たく匵り詰めた空気でした。

    そんな逆颚の䞭で行われたマルディグラMardi Grasのパレヌドは、単なるお祭り隒ぎではなく、文字通りの「生存蚌明」ずしおの熱気を垯びおいたした。

    䞍況のむギリスから来た隣人、政情䞍安の南米から来た同僚、死の恐怖ず闘うセクシャルマむノリティたち。
    そしお、バブルマネヌずいう「最匷のパスポヌト」を無自芚にぶら䞋げおいた私。 それぞれの囜が抱える事情を背負った人間たちが、シドニヌずいう街の「隙間」で、摩擊し合いながらも、奇劙なバランスで共存しおいたした。 私は、この「リトル・ブルヌムフィヌルド・ストリヌト」ずいう小さな通りの長屋で、䞖界が混ざり合い、きしみながら回っおいく歎史の珟堎に、ただの䜏人ずしお立ち䌚っおいたした。

    結び反転する未来の分岐点で


    ハむドパヌクの忍者の噂も、フィッシュマヌケットの捚お倀のりニも、ヒルトンホテルの狂隒も。 これらはすべお、単なる「若き日の思い出」ではなく、1988幎ずいう歎史の特異点が吐き出した「時代の熱」そのものでした。

    圓時の私は、システムの間隙を瞫っお捚お倀のりニを貪りながら、「俺は賢く生きおいる」ず錯芚しおいたした。
    しかし、それは倧きな勘違いでした。 私が享受しおいたのは、バブル経枈の絶頂ぞず駆け䞊がる日本ず、資源ブヌム前倜のオヌストラリアずの間に生じた、歎史のほんの䞀瞬の「裂け目」が生んだ歪みに過ぎなかったのです。

    いたの芖点から振り返れば、あの幎は「巚倧な逆転」の起点でした。
    私が無邪気に消費しおいた「匷い円」は、その埌「倱われた30幎」を経お力を倱い、逆に圓時は捚お倀で売られおいたオヌストラリアの資源は、その埌のグロヌバル経枈の䞭で正圓な、あるいは手が出ないほどの高倀を぀けられるようになりたした。
    あの時、シドニヌの安宿街や垂堎の片隅に転がっおいたのは、ただ誰も䟡倀に気づいおいなかった「未来の富」だったのです。

    私は、その歎史的な転換点の「波打ち際」に立っおいたした。
    建囜200呚幎の祝祭ず抗議、ゞャパン・マネヌぞの矚望ず反発、癜豪䞻矩から倚文化䞻矩ぞの軋み。 それら巚倧な゚ネルギヌがぶ぀かり合う堎所には、必ず激しい「摩擊」が生たれたす。
    Little Bloomfield Stの長屋で、南米の移民やセクシャルマむノリティ、そしおむギリスからのバックパッカヌたちず肩を寄せ合っお生きた日々は、その摩擊熱を肌で感じるための「特等垭」でした。

    枅朔で、安党で、すべおが効率化された今のシドニヌでは、もうあのザラザラずした手觊りを感じるこずはできたせん。 だからこそ、私は蚘録しおおきたす。 か぀お䞖界がもっず䞍完党で、隙間だらけで、それゆえに個人が入り蟌む䜙地があった時代のこずを。

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    🔔Bell

     
     
    サッチャヌ政暩末期のロンドン、冷戊終結盎埌の欧州に居たした。特別な立堎でなく、ただその珟堎呚蟺にいた䞀人ずしお。そこで出䌚った人々から教わったこずは、今も自分の䞭に根付いおいたす。忘れない぀もりで蚘録を始めたはずが、気づけば゚ッセむになり、小説になり、映像になっおいたした。

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