
琥珀の共鳴 (レゾナンス) 12
第十二章 人類の残響
午前六時。特殊心理対策課・緊急対策本部。開演まで残り三日。
その数字が、特殊心理対策課本部のあらゆるモニターへ表示されていた。まるで終末までの残り時間を告げるカウントダウンのようだ。
徹夜明けの職員たちが慌ただしく動き回っている。大型モニターには市内各地の映像が映し出されている。駅前。病院。学校周辺。商業施設。住宅街。音声は微弱だが、どこも幸福の旋律が流れていて異常だった。どこからか幸福旋律が流れているようで、誰かが口ずさむと誰かが重ねる。そして、また誰かが口ずさむ。生活や行動の一部になりつつあり、最悪な状況だった。
「最新報告です」
分析官が立ち上がるが、相変わらず顔色が悪い。疲労だけではなく、恐怖が混ざっているようだった。
画面が切り替わる。
「現在までの琥珀熱患者数は、二千九百八十三名」
会議室がざわつく。前日比の八百人以上の増加。変わらず異常な速度だ。
さらに報告は続く。
「夢の共有率、八十九パーセント」
誰かが小さく息を呑む。
とうとう、九割が見えてきた。
「イベントの参加希望者、二十一万二千三百四名」
こうなると、もはや市民音楽ホールの規模など関係ない。そんなことはお構いなしに、参加者は増え続けている。夢の中で同じ場所へ誘われているようだ。
突然、対策課課長の御堂が立ち上がり、話し始めた。
「もう隠せないな」
そう呟く。会議室の空気がガラリと変わるのを感じ、詩乃は資料から目を離し、顔を上げた。御堂は黙っていたが、しばらくして、机の上へ、どさっと一冊のファイルを置いた。最上位の機密指定ファイルのようで、赤いラベルが付いており、【機密指定】の重々しい文字が目を引く。
「それは、何ですか」
詩乃が聞くと、御堂は静かに答えた。
「対策課が百年以上封印してきた記録の一部だ」
会議室が一層ざわつき始めるなか、御堂はファイルを開く。
そこには古い写真が貼られていた。白黒写真で戦後間もない頃の街並みが写っている。焼け跡の瓦礫。泣いている人々。その写真の隅に、ぼんやりと何かが写っていた。
黒い影。
人の形をしていない巨大な塊。
「これが、最初の観測記録だ」
そう御堂が言った。
「最初の観測……?」
三崎が眉を寄せる。御堂は頷く。
「伊織が最初に発見したわけではない」
ページがめくられる。大震災。戦争。大規模災害。凶悪事件。社会不安。資料は時代を跨いで続いていた。そして、どの時代にも同じ記述が残されている。
大規模悲劇発生後、原因不明の集団幻覚を確認
同一の巨大な影を目撃
詩乃の背筋が冷たくなる。
夢で見たあの存在。舞台の奥にいたあの怪物なのか。
「榊が潜航で見た巨大な黒い影のような存在は、新しい存在ではない。人類史の影に、ずっといたものなんだ」
そう御堂が静かに言った。会議室の空気が一層重くなる。
御堂は続けた。
「人は感情を生む。怒り。悲しみ。嫉妬。絶望。後悔。願い。祈り」
誰も口を開かない。御堂が問いかける。
「では、消えた感情はどこへ行くと思う」
誰も答えられなかった。御堂はモニターへ視線を向ける。
「どこにも行かず、積み重なるんだ」
とても静かな声だった。だが、その静けさに詩乃は恐怖を感じた。
「人類は何千年もかけて、処理できなかった感情を捨て続けた。そして、捨てられた感情が集まった結果が、”あれ”だ」
会議室の空気は止まっているようだった。御堂の言っている”あれ”とは、詩乃が夢の潜航で見た巨大感情の存在。あの巨大な怪物を指している。七罪結晶の源。
”あれ”は、怪物なのではなく、人類の残響だった。
◆◆◆
午後一時。会議終了後、詩乃は資料を抱えたまま地下の資料保管庫へ向かった。一人になりたかった。整理が追いつかない。
伊織。巨大感情存在。十年前の事故。全てが繋がり始めている。だが、まだ一つ分からないことがある。なぜ伊織は幸福旋律を作ったのか。なぜそこまでして、あの存在を救おうとするのか。
資料棚の奥の古い研究記録を調べていると、その中から一枚の映像ディスクが見つかった。録画の日時は、十年前の事故発生三時間前。
詩乃は緊張を抑えるように、何度も深呼吸をした。
落ち着け。ここまで来たら、何を見ても取り乱してはいけない。
震える指で再生ボタンを押した。
若いころの伊織が映る。まだ半琥珀化していない、普通の伊織だった。
事故前の研究室の映像の中で、彼はカメラを見つめている。そして、カメラに向かって静かに話し始めた。
『もしこの記録を見ているなら、たぶん僕は、失敗した』
詩乃の胸が痛む。伊織は続ける。
『僕は最初、苦しんでいる人々を幸福で救えると思っていた。でも違ったんだ』
しばしの沈黙が続く。映像の中の伊織は、悲痛な表情をしていた。視線が落ちる。とても苦しそうだった。
『感情は消えない。幸福へ変えても残ってしまう。いや、それよりも、むしろ増えていく』
詩乃は映像を見つめ続ける。伊織は恐怖を感じているようだった。
十年前から既に――
『そして、見つけたんだ。…”あれ”を』
声が小さくなり、画面が乱れ、ノイズが走る。
伊織が顔を上げる。
『”あれ”は、人類の感情の墓標だ』
詩乃の瞳が揺れる。
『誰にも届かなかった感情、誰にも理解されなかった感情、捨てられた感情、忘れられた感情。全部がそこに集約されている』
研究室に漂う空気が重くなる。そして、伊織は最後に静かな声で言った。
『だから、誰かが終わらせなきゃいけない』
そこで、映像が途切れた。
◆◆◆
午後六時。保管庫の照明だけが静かに光っている。詩乃はずっと、動けずにいた。
伊織は最初から知っていたのだ。幸福旋律は、巨大な感情存在を終わらせるための手段だったのだろう。では、なぜわたしに打ち明けなかったのか。なぜ、なにも話してくれなかったのか。どうして。どうして――
その時だった。保管庫の照明が一瞬だけ明滅する。
キィィィィン……
幸福旋律の高音。酷い耳鳴りに詩乃が顔を上げる。
通路の奥の暗闇。そこに、誰かが立っていた。
長い髪。白い服を着た女。見覚えがない。だが、初めて見るはずなのに、なぜか嫌な予感がする。忘れているだけなのか。どこかで見かけたことがある気もする。なぜか知っているような気もした。その女は、悲しそうにも懐かしそうにも見える表情を浮かべて微笑んでいる。そして口を開いた。
『やっと見えるようになったのね』
詩乃の背筋に冷たいものが走る。
「誰なの?」
詩乃は女に問いかけるが、女は答えない。ただ、優しく笑って話し続ける。
『あの子は、ずっと一人だったの』
詩乃の心臓が大きく脈打つ。あの子。あの子とは、伊織のことなのだろうか。
『だから――』
女の姿が、霧のように、光のように揺らいで消えかけていく。
『今度は、あなたが見つけてあげて』
照明が再び明滅すると、次の瞬間、女の姿は消えていた。残されたのは静寂だけ。壁の時計に目をやる。
開演まで残り三日。