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琥珀の共鳴 (レゾナンス) 13

    第十三章 白き残響


    詩乃は眠れずにいた。
    保管庫で見た白い女は誰なのだろうか。見覚えが無いわけでもない。そして、あの言葉が頭から離れない。

    『あの子は、ずっと一人だったの』

    伊織は十年間、誰にも知られず、誰にも理解されず、たった一人で何を見続けてきたのだろうか。


     ◆◆◆


    翌朝、午前七時の特殊心理対策課・分析室。
    詩乃は三崎と共に、昨夜の地下資料保管庫の監視カメラの映像を確認していた。女が現れたのは、昨日の午後六時ごろ。しかし、映像には何も映っていない。通路。棚。照明。映っているのは、それだけで、白い女の姿は存在しない。
    三崎が腕を組む。
    「幻覚じゃねぇのか」
    詩乃は首を横に振った。
    「違います」
    確信があった。あれは琥珀熱による幻覚ではない。
    「あれは、感情共鳴体なのかもしれません」
    三崎が眉を寄せる。
    「何だそれ」
    「人が死んでも、感情だけが残ることがあるんです。強すぎる想いは、場所や記憶に定着します」
    調律師の間では珍しくない現象だった。
    怒りは黒哭石になる。
    嫉妬は紅妬石になる。
    ならば、人格を持った感情の残響が存在しても不思議ではない。
    「十年前の事故記録を洗いなおしてください」
    詩乃が三崎に言う。
    「伊織の女性関係も。全てお願いします」
    「ああ、了解」
    三崎は驚いた顔をしたが、詩乃の顔は真剣だった。


    結果は二時間後には出ていた。捜査官が資料を持ってきて、詩乃に差し出す。
    「一名います」
    ファイルには、写真が一枚入っていた。長い髪で柔らかな笑顔を浮かべた白衣姿の女性。名前は――

    橘 美琴

    十年前の年齢は、二十四歳。心理音響研究主任だった。彼女は、十年前の共鳴炉事故で死亡していた。
    その名前を見た瞬間、詩乃脳裏に忘れていた記憶が蘇った。なぜ、今まで忘れていたのだろうか。
    それは、大学時代の深夜の研究室。時計は午前一時を回っていただろう。伊織はピアノの前に座り、詩乃はデータを解析していた。そして、美琴はコーヒーを配っていた。
    「また徹夜?」
    美琴が呆れたように笑う。
    「研究者は寝ませんから」
    伊織が真顔で答える。
    「嘘ばっかり。この前なんて、鍵盤の上で寝てたじゃない」
    詩乃が吹き出し、伊織が珍しく顔をしかめる。そんな何気ない夜の記憶だった。研究室の雰囲気は、いつも温かかった。それは、美琴がいたからだ。彼女は二人よりも年上で、頭がよく面倒見が良かった。そして、誰よりも周りの人間を見て分析をし、相手によってころころと応対を変えられるような器用な女性だった。
    ある日、研究室の窓際で美琴が突然言った。
    「詩乃ちゃん」
    「はい?」
    「伊織くんってね」
    窓の外を見ながら、少しだけ寂しそうに笑う。
    「誰かを助けたい人じゃないのよ」
    「え?」
    詩乃は、意味が分からないというように首を傾げて彼女を見ていたが、美琴は静かな声で続ける。
    「あの子はね、目の前の人を助けたいと思ってしまう人なの」
    その意味を、当時の詩乃には理解できなかった。だが、今なら分かる。伊織はいつもそうだった。目の前の一人を見捨てられない。だから、自分を壊してでも、目の前の人に手を差し伸べる。そんな人間なのだ。

    詩乃は無言で資料を閉じる。
    胸が痛んだ。美琴は、詩乃よりもずっと前から伊織を理解していた。


     ◆◆◆


    その頃――市民音楽ホール。
    七罪結晶が脈動していた。黒哭石。灰蝕泥。紅妬石。青睡晶。翠飢石。紫艶晶。蜜琥石。七つの感情結晶が囲むその中心のピアノの前に伊織は座っていた。伊織の他には誰もいない。薄暗い静寂のなかで一人佇んでいたが、厳密に言えば独りではない。伊織の背後には、巨大感情のあの存在が蠢いている。人類の残響。何百年もの間、未処理になっている感情たちの集合体。

    ドクン。

    ドクン。

    ドクン。

    生き物のように脈打つそれを、伊織は振り返る。
    巨大な顔の中には、怒りや悲しみ、絶望や嫉妬、幸福。無数の感情が現れていた。だが、それを見つめる伊織の瞳に恐怖はなかった。憎しみもない。ただ、悲しみだけがあった。
    「もう少しだよ」
    静かな声で伊織が話しかけると、巨大な感情存在が、まるで答えるように震えだす。
    「終わらせてあげるからね」
    その言葉は、敵へ向けるものではなかった。それは、苦しみ続ける誰かへ向けた、優しさがこもった言葉だった。


     ◆◆◆


    午後、対策課へ新たな報告が入り、分析室が騒然となった。
    「夢の共有率が九十二パーセント突破!」
    「患者数は三千八百七十一名に増加!」
    「七罪結晶反応、市内全域で増加中!」
    市内各地に七色の光点。モニターが色鮮やかな点で光っている。
    街そのものが巨大な共鳴器になり始めていた。
    始まる。伊織の計画が。想定よりも早く――


    その夜、詩乃は、美琴の資料を読み返すために資料室に残っていた。事故当日の記録。避難ログ。監視映像。そして、事故発生直後の記録。そこに残されていた証言に目が止まる。

    研究員A
    『橘主任が最後まで残っていました』

    研究員B
    『久瀬さんを外へ逃がそうと、自分を犠牲に…』

    研究員C
    『主任は、他の皆を先に避難させると言っていました』

    詩乃の手が止まる。そこには、小さなUSBメモリが入っていた。
    パソコンにUSBを差してファイルを開くと、そこには動画が保存されていた。その動画の日時は、事故発生時刻。詩乃は動画を再生した。
    映像記録の画面が映る。若い自分と若い伊織。若い美琴。研究室では警報音が鳴り響いている。赤いランプ。暴走する共鳴炉。
    「二人とも!先に行きなさい!」
    美琴が叫ぶ。
    「主任!」
    伊織が叫ぶ。
    「早く!」
    床が揺れ、ガラスが割れる。共鳴音が響き渡る。
    映像を観て、詩乃は凍りついた。
    忘れていた。いや、忘れようとしていたのだろう。最後に二人を押し出したのは、美琴だった。
    「行きなさい!」
    それが、美琴の最後の言葉だった。

    映像はそこで途切れてしまった。


     ◆◆◆


    詩乃はいつの間にか眠ってしまい、夢を見た。
    場所は、事故前の研究室だった。昔のままの美琴。伊織。そして、詩乃自身が三人で笑っている。そんな穏やかな時間。失われてしまった時間。夢の中の美琴は、詩乃を真っ直ぐに、そして悲しそうに見ていた。

    『間違えないで』

    詩乃の身体が強張る。何を間違えないでと言っているのだろう。詩乃が声を出そうとしたが、美琴は続ける。

    『伊織くんは、世界を救いたいんじゃない』

    研究室が揺らぐ。光が歪む。

    『あの子が救いたいのは…』

    美琴の声が震える。だが、その瞬間、夢は砕けた――

    詩乃は、何かを叫ぶように飛び起きた。身体は、熱でうなされたかのように汗だくだった。時計を見ると、午後十一時を回ったところだ。詩乃の荒い息使いの他には何も聞こえず、部屋の中は静寂に包まれている。だが、しばらく息を整えて耳を澄ませてみると、遠くから幸福旋律が聞こえてくる。だが、詩乃の頭には、美琴が言いかけた言葉だけが反響していた。

    『あの子が救いたいのは…』

    開演まで残り一日。真実は、もうすぐそこまで来ていた。



     
     

    未灯

     
     
    未灯-MITOU- ■『琥珀の共鳴(レゾナンス)』創作大賞2026 ファンタジー小説部門 中間選考通過 巡り会えたご縁に心より感謝いたします。 たちどまる時間を、短い物語に。ショートショートや短編小説を不定期で綴っています。 X ▷ https://x.com/mitou423