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琥珀の共鳴 (レゾナンス) 7

    第七章 蜂蜜色の夜


    その夜、詩乃は眠ることを諦めた。解析室の窓の外では、午前二時を過ぎた街が静かに光っている。机の上には二十一個の琥珀片。どれも微かな黄金色の光を放ちながら、呼吸をするように脈打っている。

    幸福。

    それは本来、人を生かす感情だ。誰かを愛した時、目標を叶えた時、大切な人が笑った時、その一瞬のために人は苦しみに耐える。だから詩乃は知っている。幸福そのものは悪ではないことを。問題なのは、永遠の幸福だった。失うことも、終わることも、傷つくこともない幸福。そんなものは存在しない。それは感情ではなく、ただの麻酔だ。そして伊織は今、その麻酔を街全体へ流し込もうとしている。


    午前二時十三分――
    解析室の時計が、その時刻を示した瞬間だった。

    キィィィィン……

    机の上の琥珀片たちが一斉に鳴り始めた。詩乃は身体が緊張して強張っていくのを感じた。今までで最も大きな共鳴だ。空気が震え、視界が歪む。そして、暗転した。


    気づくと、詩乃は大学時代の研究棟の廊下に立っていた。懐かしさを感じる古い木造校舎。夕暮れ。窓から差し込む橙色の光。廊下の先。一つだけ開いている教室があった。ピアノの音が聞こえる。詩乃たちの研究室だ。

    ぽろん。

    ぽろん。

    懐かしい音に胸が痛む。詩乃は教室の扉へ近づいた。そして、ゆっくりと扉を開ける。そこには、久瀬伊織がいた。まだ二十代で、何も失っていない頃の彼だった。以前にも見た光景。ピアノの前に座り、穏やかに鍵盤に触れている。夕日が横顔を照らしていた。

    「……伊織」

    詩乃の声が漏れる。彼が振り向き笑う。その笑顔を見た瞬間、詩乃の胸の奥が強く締め付けられる。
    あの頃は、間違いなく幸せに包まれていた。伊織はいつも音楽の話をしていた。誰かを救う音。苦しみを軽くする音。心を守る音。世界を少しだけ優しくする音。

    「また難しい顔をしているね」

    若い伊織が言うが、詩乃は返事ができない。
    これはただの私の記憶だ。ただの過去。本物なんかじゃない。それなのに、その光景はあまりにも鮮明だった。

    「今日、怒ってる人を見たんだ」

    伊織は鍵盤へ触れながら言う。

    「駅でさ」

    ぽろん。

    柔らかな音が鳴る。

    「すごく怒っていたよ」

    ぽろん。

    「でもさ」

    伊織は笑った。

    「本当は苦しかったんだと思うんだ」

    詩乃は、この会話を知っていた。
    これは、学生時代に本当にあった会話だった。まだ二人が感情調律の研究を始めたばかりの頃、伊織はよく言っていた。感情には理由があると。怒りの奥には悲しみがあり、嫉妬の奥には孤独があり、不安の奥には恐怖がある。だから感情を消してはいけない。理解しなければならない。と、そう言っていた。


    再び視界が揺れる。夕陽が滲み、研究室が歪む。床へ黄金色の液体がだんだんと広がっていく。蜂蜜のような粘液。濃密な黄金色の幸福。甘い香り。それが伊織の足元から、以前のように溢れ出ている。止まることなく、どんどんと広がり、教室全体を埋め尽くしていく勢いだった。詩乃は一歩後退した。嫌な予感がする。
    「伊織」
    彼は気づかない。笑顔のまま幸せそうにピアノを弾き続けている。幸福すぎるほどに。そして、詩乃は見てしまう。伊織の右手の指先が琥珀になり始めていた。宝石のように美しい透き通った金色。異常な速さだった。
    「やめて!伊織!」
    詩乃の呼びかけも聞かず、彼は演奏を続ける。

    ぽろん。

    ぽろん。

    ぽろん。

    旋律が変わる。今までの優しい音ではないが聞いたことがある。これは、幸福の旋律。現在、街を侵している死の音色。
    「やめて!」
    詩乃は叫ぶ。その瞬間、伊織が演奏を止めた。急な静寂の中、伊織がゆっくりと振り向き、その瞳が詩乃を見つめ笑った。優しく、悲しそうに詩乃を見つめる。
    「ごめんよ」
    詩乃の呼吸が止まる。伊織は続けた。
    「間に合わなかったね」
    その言葉の意味を理解する前に、目の前の景色が崩れ始めた。研究室の窓が砕ける。壁が歪む。夕陽が溶け、黄金色の蜂蜜が世界を埋め尽くしていく。そして、詩乃は見た。教室の奥の黒い影。人ではない、巨大な塊。感情の集合体なのだろうか。そこには、無数の顔が埋め込まれている。泣いている顔。怒っている顔。嫉妬している顔。苦しんでいる顔。絶望している顔。あらゆる負の感情が絡み合った存在が、そこに集結していた。それが、伊織の背後で脈動している。

    ドクン。

    ドクン。

    ドクン。

    そして、その塊から声が聞こえてきた。無数の声だ。男。女。子ども。老人。全員が同じことを言っていた――

    『幸せになりたい』

    詩乃の背筋が凍る。
    これは、幸福旋律の源ではない。もっと前の、もっと根源的なものだ。人間が抱え続けてきた願い。苦しみから逃れたい。幸せになりたい。その感情が、ついに形を持ってしまった。
    その瞬間、伊織が振り返る。
    「詩乃」
    伊織の声は、いつも通り静かだった。
    「君なら止められるかもしれない」
    世界が崩れ、音が消える。光が砕ける。そして、最後に伊織が言った。
    「だから来て」
    その瞬間、詩乃は現実へ引き戻された。


    解析室――
    時刻は、午前二時十四分。たった一分しか経っていない。だが、詩乃の全身は汗で濡れていた。荒い呼吸。震える指。
    あれは夢ではない。記憶でもない。あれは、伊織からの接触だ。
    その時、机の上の端末が鳴る。画面には【緊急通信】と表示されている。三崎だった。
    『榊!』
    声が切迫している。
    「何かありましたか」
    数秒の沈黙のあと、三崎は言った。
    『市民音楽ホールの地下で』
    嫌な予感が走る。
    『色んな色の大量な感情鉱石が見つかったそうだ』
    詩乃の瞳が見開かれる。幸福だけではないのか。

    伊織は、完成の日のために準備をしている。そして、その日は確実に近づいていた。



     
     

    未灯

     
     
    未灯-MITOU- ■『琥珀の共鳴(レゾナンス)』創作大賞2026 ファンタジー小説部門 中間選考通過 巡り会えたご縁に心より感謝いたします。 たちどまる時間を、短い物語に。ショートショートや短編小説を不定期で綴っています。 X ▷ https://x.com/mitou423