
琥珀の共鳴 (レゾナンス) 8
第八章 地下楽園
市民音楽ホールの地下で発見された感情鉱石。その報告は、対策課全体を震撼させた。鉱石は幸福感情だけではなく、憤怒、嫉妬、不安、怠惰、強欲、色欲、そして幸福。七つの感情結晶が、まるで誰かが意図的に集めたかのような異様な光景だそうだ。実際に、伊織の手で集められたのだろう。偶然で説明できる量ではない。そう思いながら、詩乃は搬送車の後部座席で資料を読んでいた。隣には三崎がいる。運転席には対策課の職員。時刻は深夜四時。空はまだ薄暗かった。
「どのくらいの量なのでしょうか」
詩乃が三崎に聞く。三崎は資料から目を離さず答えた。
「概算で二トンだそうだ」
感情鉱石が二トン。通常の感情災害なら国家レベルの緊急案件だった。
「全部同じ場所にですか?」
「ああ」
「あり得ない」
感情鉱石は不安定だ。種類が違えば反発もする。憤怒は不安を砕き、嫉妬は幸福を侵食する。通常なら共存などできない。だが、今回の鉱石群は違うようだ。全てが安定しているという。まるで、一つのシステムとして機能しているように。
◆◆◆
夜明け前の市民音楽ホール到着した。巨大な建物は静まり返っている。黄色い封鎖線。数十台のパトカー。規制灯。周囲には既に多くの職員が集まっていた。詩乃たちが到着すると、現場責任者が駆け寄ってきた。
「この地下です」
顔色が悪い。相当なものを見たのだろう。そんな事はお構いなしに三崎は聞く。
「誰が発見した」
「設備点検業者です」
「なにか被害は」
「今のところは…」
責任者は言葉を濁し、唾を飲み込んだ。
「何だ」
「中へ入った人間の半数が…次から次へと泣き始めました」
詩乃の目が細くなる。
感情の共鳴。それもかなり強いようだ。
「案内してください」
◆◆◆
詩乃たちは、男に案内され地下三階へ移動した。重い鉄扉が開く。その瞬間、詩乃は足を止めた。今まで経験したことがないほどの、濃く甘い香りが鼻を突く。蜂蜜。果実。花。さまざまな幸福感情の臭いがする。だが、それだけではない。それに続くように、焦げたような臭い、鉄の臭い、湿った土の臭いと、無数の感情が混ざり合っている臭いがした。そして、目の前の光景に誰もが言葉を失った。地下倉庫の広い空間の中央に、鉱石の山が築かれていた。
憤怒感情で現れる、鋭く尖った黒哭石。嫉妬感情の深紅の輝きを放つルビーのような紅妬石。強欲感情を表す深緑色のエメラルドのような翠飢石。快楽への渇望、嫉妬を表すアメジストのような紫艶晶。二十七人が搬送された病棟に現れた、怠惰を象徴するサファイアのような青睡晶。不安や恐怖を吸収し続ける灰色のタールのような灰蝕泥。そして、甘い香りを放ち、幸福感を増幅させる、今回の事件の要となる琥珀化した黄金色の結晶――蜜琥石。
七色の鉱石が、堆く積み上がっている状態だった。
「なんだよ……これ」
三崎が呟くが、詩乃は答えられない。
この光景は、理解を超えていた。感情鉱石は災害だ。本来なら存在しているだけで互いを侵食する。だが、ここでは調和している。まるで、甘美なオーケストラのように美しい光景だった。
ドクン。
その時、空間が脈打った。誰かが息を呑む。
ドクン。
もう一度。
鉱石の山が生き物のように鼓動している。
「全員後退!」
職員が叫ぶが遅かった。
ドックン。
三度目の鼓動。その音に少し遅れて感情が空間全体へ溢れ始めた。怒り。悲しみ。嫉妬。孤独。不安。欲望。絶望。何千人分ものありとあらゆる感情たち。職員らが膝をつく。泣き出す者。怒鳴る者。震える者。混乱。まさに、特大の感情災害だった。
「共鳴器を!」
詩乃が叫び、職員らが動く。だが、その時、詩乃だけは気づいていた。
これは暴走ではない。感情の流れがおかしい。誘導なのか。感情がある一点へ集まっていく。鉱石の山の中心。そこには、何かが埋まっているようだ。
詩乃は近づくと三崎が叫ぶ。
「榊!」
だが、詩乃は止まらない。それが何かを確かめなければならない。
そして、見つけた。鉱石の中心、黄金色の結晶に埋もれた場所。そこにあったのは、古いカセットレコーダーだった。詩乃の呼吸が一瞬止まる。
これには見覚えがある。大学時代、伊織が使っていた録音機に似ていた。何度も見たので、忘れるはずがない。震える手で再生ボタンを押してみる。
ガチッ。
ザザっとノイズ音が鳴る。そして、若い男の声が流れ始めた。
『もしこれを聞いているなら』
声の主は、伊織だった。十年前と変わらない声。それは録音だが、声は震えていた。
『たぶん、僕は失敗した』
周囲が静まり返る。
『感情は消せない』
ザザッ
『幸福へ変換しても』
ザザッ
『必ずどこかに残るようだ』
詩乃の胸が締めつけられる。その録音はまだ続く。
『だから僕は別の方法を試すよ』
その瞬間、レコーダーの奥から。別の音が聞こえた。何人もの誰かの泣き声が聞こえてきて、最後にまた伊織の声が入る。
『もし君がここまで来たのなら』
『ごめんね』
そこでカセットテープは止まった。誰もが動けずにいた。だが、詩乃は理解した。伊織は最初から知っていたのだ。幸福旋律が危険なものだと。それでも止められなかった。いや、止めなかったと言う方が正しいのだろう。
その時、地下全体が大きく揺れ出した。
ドクン。
今までで最大の鼓動が鳴り、七色の鉱石の山が光り始めた。そして、黄金色の光が全てを飲み込んだ。
これは前兆だ。伊織の旋律の完成が近い。市民音楽ホールは、ただの会場ではない。巨大な共鳴装置。一万人を捧げるための祭壇なのだ。