
琥珀の共鳴 (レゾナンス) 9
第九章 七罪結晶
市民音楽ホール地下三階に集結された、感情鉱石たちの七色の光がゆっくりと脈打っていた。詩乃のような調律師たちは古くから、それらを総称してこう呼ぶ。七罪結晶。人間の感情が極限まで濃縮され、災害化した鉱石は、本来ならば同じ場所に存在できない。互いに反発し、侵食し合い、やがて崩壊する。今までは、それが常識だった。しかし、目の前の七罪結晶は違う。まるで、一つの楽曲のように共鳴している。
「撤収だ!全員上へ退避っ!」
現場責任者が叫び、職員たちは慌ただしく動き始める。だが詩乃だけは、その場を離れられなかった。伊織の録音テープの最後の言葉。
『感情は消せない』
『必ずどこかに残るようだ』
胸の奥で何かが引っかかっている。十年前、苦しみを幸福へ変換するために、伊織は幸福旋律を完成させようとしていた。だが、今ここにあるのは幸福だけではない。感情を大きく分けた七つ全てがここに集結している。
「……そういうことなの」
詩乃は小さく呟いた。三崎が振り返る。
「何かわかったのか」
詩乃は七罪結晶を見つめた。黄金色の《蜜琥石》。漆黒の《黒哭石》。灰色の《灰蝕泥》。深紅の《紅妬石》。深い青色の《青睡晶》。深緑の《翠飢石》。妖しい紫の《紫艶晶》。その一つ一つが、本来であればどれも感情災害の鉱石だ。しかし、これらは人間そのものでもある。怒り。不安。嫉妬。怠惰。欲望。幸福。そのどれか一つでも欠ければ、人は人として保てなくなる。
「伊織は幸福を作りたいんじゃない…」
三崎が眉を寄せる。
「は?」
「逆、だったようです」
詩乃の瞳が揺れる。
「幸福だけじゃ人は壊れてしまう。十年前の事故、幸福旋律の失敗で、伊織自身が一番よく分かっているはずです。だから、幸福だけでは完成しないんです。七つ全てが必要だったんです」
三崎の顔色が変わり、声が一段と低くなる。
「待て、それってつまり――」
詩乃は頷き、七罪結晶の中央を見た。
「伊織は今、人間そのものを作ろうとしてるのかもしれません」
◆◆◆
夕方――。
対策課本部での緊急対策会議が開かれた。参加者は対策課上層部、幸福汚染地区の警察官たち、医療機関、政府関係者。会議室の空気は張り詰めていた。大型モニターには市内マップが表示されており、赤い点が無数に広がっている。幸福汚染発生地点が増えている。その数、三百四十二件。前日比の二倍以上だ。分析官の一人が立ち上がり報告する。
「琥珀熱患者は現在、三百九十八名」
誰かが舌打ちをした。
「隔離病棟は、ほぼ満床です」
「夢の報告は」
分析官の表情が曇る。
「増え続けています」
モニターが証言記録へと切り替わる。
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『最近は毎晩、同じ夢を見る』
『会場へ行かなきゃいけない気がする』
『知らない人たちと歌っていた』
『ピアノの音が聞こえる』
『もうすぐ始まるって言われた』
『2月25日、23時の開演』
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会議室が静まり返る。とうとう、《Resonance》の開演日時が夢の中で共有され始めた。誰もが理解していた。これは偶然ではない。集団催眠でもない。共鳴だ。街全体が一つの夢を見始めている。
その時だった。別の分析官が立ち上がる。
「もう一件あります」
声が震えていた。
「何だ」
「新しい感情災害の報告です」
モニターが切り変わる。映し出された写真に、詩乃は息を呑んだ。学校。病院。オフィスや駅。そこには、様々な場所が映し出されており、その全てに深紅の結晶が生えている。
「紅妬石…」
誰かが呟く。それは、七罪結晶の一つ、嫉妬感情の鉱石だった。
分析官は続ける。
「本日だけで、二十三件を確認しました」
「被害内容は」
「同僚への暴行、ストーカー行為、家族間傷害、そして、自傷」
会議室の空気が変わる。幸福汚染だけではなく、別の感情までが活性化し始めている。
「どういうことだ」
誰かが叫ぶ。詩乃は静かに答えた。
「街全体で、七罪結晶が共鳴しているようです。感情が増幅され始めています」
つまり、始まったのだ。――伊織の計画が。
◆◆◆
深夜。詩乃は一人で機密情報保管室にいた。机の上には十年前の研究資料、事故記録、被験者データが開かれており、そこには、一枚の写真も置かれていた。写真は、大学時代の研究室で撮ったもので、十年前の詩乃と伊織が二人とも笑って写っていた。当時の二人は、幸せそうに見えた。お互い、未だ何も失っていない二人がそこにいた。詩乃は写真を見つめた。
今では考えられない。自分もこんな顔で笑っていた時期があったのか。伊織は、写真の中でも変わらない優しい笑顔。人を救いたいと願っていた頃の伊織だ。
「……あなたは、何を見たの」
静かな部屋で一人呟く。十年前の事故の日。本当は伊織に何が起きたのか。なぜ姿を消したのか。なぜ今になって戻ってきたのか。そして、これから何を始めようというのか。
その時、資料の中から一枚の紙が落ちた。詩乃には見覚えがない。古いメモのようで、事故資料に挟まっていたらしい。
詩乃が拾い上げると、そこには伊織の字で、たった一文だけ書かれていた。
『もし感情を消せないなら』
裏面にも何か書いてある。詩乃は、震える指でメモを裏返した。
『全部抱えたまま救うしかない』
詩乃の呼吸が止まる。
その時、資料室の照明が一瞬だけ明滅した。そして、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。
ぽろん。
詩乃は顔を上げる。だが、ここには詩乃以外、誰もいない。それなのに、耳元で伊織の声が聞こえ始めた。
『やっと気づいたね』
詩乃は立ち上がるが、もう声は消えていた。残ったのは静寂だけ。そして、胸の奥に残る不安。
伊織の目的は、本当に世界を幸福で満たすことなのだろうか。それとも、もっと別の何かを完成させようとしているのか。その答えはまだ見えない。だが、確実に《Resonance》の開演は近づいていた。