
琥珀の共鳴 (レゾナンス) 11
第十一章 救済の設計図
夢のホールが徐々に崩れていく。観客たちの歓声とピアノの残響。無数の顔を持つ巨大な感情存在の怪物。そして、舞台の中央に立つ伊織。
全てが光の中へ溶けていった。
詩乃が目を覚ましたとき、共鳴潜航室の白い天井が視界へ飛び込んできた。薄っすらと聞こえる、警告ランプの機械音。規則的な電子音。現実。だが、心臓だけは、まだ夢の中に残っているように早鐘を打っている。呼吸が荒く、額には汗が滲んでいるようだ。
「榊!」
三崎の声が聞こえた。詩乃はゆっくりと身体を起こす。頭が重い。潜航後の特有の反動だった。しかし、今までとは違い、夢で見た光景が異様なほど鮮明に残っている。
「大丈夫か?!」
三崎が尋ねるが、詩乃はすぐには答えなかった。
夢を思い返してみる。伊織。十年ぶりに見た姿だが、身体の半身は半琥珀化していた。ベロア調の観客席。そして、あの巨大な塊。無数の感情で構成された怪物。
だが、頭から離れないのは別のものだった。伊織の表情だ。あの時、伊織は観客たちを一人ひとり見ていた。本当に来てくれたことを喜ぶように。しかし、そこにいる人々を利用しようとしている人間の目ではなかったように思える。実験材料を見る目でもなかった。本当に歓迎しているように見えたし、感謝をしているようにも見えた。そして、巨大な塊を見上げた時のあの顔。
詩乃は目を閉じ思い出す。
あれは恐怖ではない。歓喜でも憎悪でもない。もっと別の感情がそこに表れていた。昔から何度も見てきた表情だ。研究室や相談室で、救えなかった患者の記録を見た時、伊織はいつも同じ顔をしていた。助けたいのに、その想いが届かない相手を見る表情。救えなかった人を見つめる、あの表情。
「もしかして、伊織は……」
返事を返さない詩乃から声が漏れ、三崎が振り返る。
「何だ?どうした?」
詩乃は唇を噛んだ。
認めたくなかった。だが、否定もできない。
「まだ、救おうとしているのかもしれません」
三崎が眉を寄せる。
「誰をだ」
詩乃は答えられなかった。
観客か、街か、人類なのか。それとも、あの怪物なのか。そこがまだ分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。伊織は世界を壊そうとしている人間の顔をしていなかったということだ。
◆◆◆
翌朝――特殊心理対策課・地下資料保管庫。開演まで、あと四日。
夢の潜航で見たものを、御堂と三崎に連携し報告書を出したあと、詩乃は、また一人で過去資料を漁っていた。十年前の情動共鳴転換プロジェクトの事故報告書、被験者記録、研究資料。何百冊ものファイルの中に、一冊だけ異質なものがあった。それは、黒いノートで題名はない。手に取った瞬間、胸がざわついた。そっと表紙を開くと、伊織の字が見えた。
『怒りは消えない』
『悲しみも消えない』
『幸福へ変換しても残る』
ページをめくる。
『感情はエネルギーではない』
『記憶だ』
さらに続く。
『だから捨てられない』
詩乃の指が止まる。これは研究記録ではなく、伊織の思考の断片なのだろう。誰にも見せなかった伊織の本音たちが綴られているようだ。
ページを進める。
『人間は感情によって壊れる』
『だが、人間は感情によってしか救われない』
詩乃は静かに息を吐いた。
学生時代の伊織らしいと思った。誰かを救いたい。苦しみを減らしたい。そう願っていた頃の文章だ。だが、事故直前のページから筆跡が変わりはじめる。文字が乱れ、筆圧も強い。明らかに様子が違った。
『やっと見つけた』
その一言だけのページがあり、次のページへ。
『感情は消えない』
『蓄積する』
『行き場を失った感情はどこへ行く?』
さらに続く。
『観測した』
詩乃の背筋に冷たいものが走る。
"観測"。その言葉が引っかかる。
ページをめくる。
『巨大な感情反応』
『個人ではない』
『もっと大きい』
そして、最後のページにたどり着くと、そこにはスケッチが描かれていた。巨大な影、無数の顔。怒り、悲しみ。嫉妬や欲望。絶望に幸福。潜航した夢で見た存在に酷似している。舞台の奥にいた怪物。
詩乃は息を呑んだ。
伊織は十年前に、既にあれを見ていたのだろうか。
◆◆◆
潜航の疲れがあったため、一度帰宅し、午後の緊急招集に備えた。
第六会議室には、御堂、三崎、分析官たちが集められている。全員の表情は相変わらず険しい。大型モニターには、市内マップが表示されており、赤い点で埋め尽くされていた。
「追加報告を受けた琥珀熱患者は、二千百三十二名」
分析官が静かに話し始める。患者数の増加速度が異常だった。
会議室が静まり返り、画面が切り替わる。
「さらに、夢の共有率は八十二パーセントを突破」
誰かの溜息が聞こえる。もう市民の大半が、あのホールを、あの舞台を、そして伊織を見ているのだ。
「イベント参加希望者は、十五万八千人に増加」
三崎が苦笑する。
「ホールに入りきらねぇな」
「はい」
分析官も疲れ切っていた。
「ですが、増加はまだ止まっていません」
それが問題だった。患者は増えるし、夢を見る人間も増える。そして、参加希望者も増える。何かが完成へ近づくほどに、街全体が引き寄せられている。
会議終了後、詩乃は屋上へ出た。
美しいオレンジ色の夕暮れ。そこから街を見下ろす。周辺に見えるビル群や道路。住宅街。見た目はいつもと何ら変わらない。だが、もう元の街ではなくなっていた。遠くから、微かな歌声が聞こえる。
ラー……
ララ……
ラー……
あの幸福の旋律。誰かが歌うと誰かが重ねる。そして、また別の誰かが続く。まるで街そのものが巨大な合唱団になっているみたいだった。
詩乃は目を閉じる。
伊織。
あなたは何を見たの?
十年前、何を知ってしまったの?
その時、スマートフォンが震えた。非通知の表示に胸がざわつく。出なくても分かる。きっと伊織だろう。数秒間迷ったが、通話ボタンを押す。静寂。そして――
ぽろん。
ピアノの一音。懐かしい音の奥で、伊織が笑う気配がした。
『ノートを見つけたんだね』
詩乃の身体が硬直する。
監視をされているのだろうか。いや、そんなはずはない。地下資料保管庫のセキュリティーは万全だ。感情を読まれているのだろうか。
『そろそろ話そうか』
伊織の声は、昔と同じように穏やかだった。
『君には知る権利があるからね』
そう言うと、伊織は静かに話し始めた。
『あれは敵なんかじゃない』
詩乃の瞳が揺れる。
夢で見たあの存在。巨大な怪物。
『人類が生み出したものなんだよ』
夕暮れの風が吹き、遠くで幸福の旋律が響く。
『そして、もう限界がきているんだ』
伊織の声が少しだけ悲しげになり、そこで通話が途切れた。
人類が生み出したもの。
限界。
その言葉の意味をまだ理解できない。だが、真実は確実に近づいていた。
開演まで残り四日。