賀陽宮
| 賀陽宮家 | |
|---|---|
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(家紋) | |
| 家祖 |
賀陽宮邦憲王 (久邇宮朝彦親王の第2王子) |
| 種別 | 皇族(宮家) |
| 出身地 | 京都(山城国) |
| 主な根拠地 |
東京府東京市麹町区一番町 (現:東京都千代田区三番町) 兵庫県武庫郡須磨町(現:兵庫県神戸市須磨区) |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
概要
[編集]前日譚
[編集]宮号の由来は、久邇宮朝彦親王が久邇宮家の創設以前に称していた宮号である。朝彦親王は幕末に還俗した際、初めは「中川宮」を称したが、朝廷の首脳部として一会桑政権と連携していた時期に「賀陽宮」と改め宮家の列に加えられていたことがある。宮号は朝彦親王邸の榧(かや)の老木に由来するといい、これに平安時代後期の里内裏である賀陽院(高陽院)の字を当てたものと思われる。
1892年(明治25年)12月17日、久邇宮朝彦親王の第二男子・邦憲王が「賀陽宮」を名乗ることを許された。
○称号 邦憲王殿下ハ自今賀陽 宮ト称セラル — 『官報』第2843号(明治25年12月17日)
事実上の長男であった邦憲王は久邇宮家を継承しうる立場にあったが、病弱ゆえに弟の邦彦王に継嗣の座を譲った。これを気にした邦彦王は、兄にも宮家を立てさせてほしいと宮内大臣や伊藤博文などにたびたび請願した[1]。「賀陽宮」の名乗りを認められたのはその結果であるが、この時点では、あくまでも久邇宮家の一員のまま個人的称号を有するにすぎなかった。
宮家創立
[編集]1900年(明治33年)5月9日、「諸王家」に列せられ、独立した宮家になった[2]。9日には尾崎忠治や郷純造など60名が新たに華族となっており、これらは10日に挙行される皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の婚儀に伴うものであった[3]。
1947年(昭和22年)10月14日、2代・恒憲王の代で皇籍離脱。現在の祭祀継承者は、恒憲王の孫にあたる5代・正憲。
邦憲王が香淳皇后の伯父、恒憲王妃敏子が貞明皇后の姪であるため、現在の皇室とは親戚関係にある。賀陽家と皇室の仲は菊栄親睦会・常磐会を通して深く、正憲は学習院初等科から学習院大学に至るまで今上天皇の同窓生でもあった。
旧皇族全体の中で嫡流であるため、皇籍復帰の有力候補として注目されている。
系図
[編集]邸宅
[編集]宮邸は京都と東京にあった。その他、荻窪、須磨などに別邸があった[5][6]。
京都邸
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大正時代までは本邸。三十三間堂の隣地にあり、現在敷地はホテルとなっており、塀のみ現存する。邸宅は戦後、京都第一赤十字病院の「七条分院」や、京都府赤十字血液センターとして使用された[7]。門と邸宅は1967年(昭和42年)に広島県福山市の神勝禅寺に移築されたが、邸宅については1994年(平成6年)に焼失した[8]。
なお、下級貴族の家系に生まれた堀川直義は、父親が賀陽宮家に仕えていた関係から、門外の官舎に住んでいたという。彼の著書『ブン屋紳士録:面接博士の面接メモ』には「賀陽宮好子大妃には、子どものころたいそう可愛がられて、御殿に始終出はいりし、大妃殿下の食事のお相手をした」といった記述がある。堀川によれば、洋館もあり、撞球室や芝生などで佐紀子女王に遊んでもらったという[9]。
東京邸
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脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 『邦彦王行実』(久邇宮家、昭和14年)
- ↑ 明治33年宮内省達甲第2号(『官報』号外、明治33年5月9日)(NDLJP:2948346/10)
- ↑ 浅見雅男『皇族誕生』(角川書店、平成20年)p.57
- 1 2 週刊新潮 2025, p. 154.
- ↑ 東京市杉並区勢概要. 昭和15年版
- ↑ 有栖川宮舞子別邸と賀陽宮須磨別邸について (特集 地名研究)歴史と神戸 50(2), 26-39, 2011-04-00
- ↑ 『京都府赤十字血液センター30年史』(1992年)
- ↑ “レファレンス協同データベース”. 国立国会図書館. 2024年7月9日閲覧。
- ↑ 堀川直義『ブン屋紳士録:面接博士の面接メモ』(秋田書店、1966年)p.64
参考文献
[編集]- 「安定的な皇位継承のために皇族復帰するかもしれない「旧4宮家」の人々」『週刊新潮』第70巻第17号、新潮社、2025年5月1日、152-155頁。
外部リンク
[編集]
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