御料車
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御料車専用車(トヨタ・センチュリー・ロイヤル) | |
| 基礎情報 | |
|---|---|
| 運用開始時期 | 1913年(大正2年) |
| 管理・運用 | 宮内庁管理部 車馬課 自動車班 |
狭義には、皇ナンバーが付けられた天皇皇后の専用車両が御料車と呼ばれ、令和期以降はそれらの車両(公務用御料車)に「私的行事用御料車」を含めて御料車として扱われている[W 1](→#天皇の自動車)。広義には、それら専用車以外であっても、天皇が乗車する自動車について御料車と呼ばれる。鉄道や馬車のそれと区別するため、本来の呼び名は御料自動車だが、「御料車」と通称される[1][W 2]。この記事では、特に注意書きを書かない場合、皇ナンバーを付けた車両のことを「御料車」、「御料自動車」と記述する。
御料自動車は天皇皇后の専用車両と位置付けられており[2]、天皇が乗車する際はボンネット先頭に天皇旗が掲げられる。同車は天皇皇后専用車ではあるものの、慶弔事のあった皇族や[3][注釈 1]、国賓として訪日した外国首脳[5]、(車が選択された場合は)信任状捧呈式の大使[6]に対して差し回され、乗車の機会が贈られることがある。差し回しの際は、天皇旗ではなく、乗客となる皇族の皇族旗や、国賓の国旗が車両先頭に掲げられる。
平成期以降、御料自動車にはリムジンタイプとセダンタイプの2種類があり、用途に応じて使い分けられている[7](→#セダン御料車の導入)。初の国産御料車である日産・プリンスロイヤルが全て引退した2008年(平成20年)以降、リムジンはトヨタ・センチュリーロイヤル、セダンはトヨタ・センチュリーが使用されている[W 2]。
法律上の扱い
[編集]一見するとナンバープレートが付けられていないように見えることから、特殊な位置づけの自動車だとみなされがちだが[7][W 4]、一般車と同様、道路交通法や自動車検査登録制度(車検)といった法律や制度の対象となっている[7][W 4]。
ナンバープレートについては、道路運送車両法施行規則で特別の定め(第11条第2項)があり、定められた様式として、直径10 cm・円形の皇室用ナンバープレートが車体前部と後部に取り付けられている[7](→#ナンバープレート)。一般車がナンバープレートを装着している位置には、装飾として、菊花紋章が付けられている[7][6]。
車検については、保安上の理由から、宮内庁管理部車馬課の自動車班が担当し、自動車整備士の国家資格を持つ職員が、皇居内の車馬課整備工場で行う[W 5]。東京運輸支局で発行された自動車検査証も存在し、登録番号は皇室用ナンバープレートの番号で「皇1」などとなっている。フロントガラスには検査標章のシールが貼られている[W 6]。
登録上は自家用車となるため車庫証明も必要で、自動車損害賠償責任保険(自賠責保険)の契約締結や、自動車重量税の納付が必要となる[6]。自動車税については、省庁や自治体等が保有する一般の公用車と同じく、地方税法の規定(第148条)により免除となる[6]。
公道を走行する際は一般車両と同様に道路交通法の対象となる[W 7]。一例として、天皇を乗車させている場合であっても、警察車両や救急車、消防車などの緊急車両の通行に対しては、道を譲り、一時停止などをする義務がある[W 7]。運用の上で警察によって交通信号機の操作(進路上の信号を青信号にする)が行われることはあるものの、信号機による指示にも従う義務がある[W 8][W 7]。
ナンバープレート
[編集]皇室が使用する自動車には、天皇皇后専用車の自動車だけに取り付けが許されるナンバープレートである皇ナンバーが装着された車両と[1]、一般車と同じ「品川」ナンバーが装着された車両(平成期までは特別車と呼ばれた)がある。
皇ナンバーについては道路運送車両法施行規則[注釈 2]にその定めがあり、法律上の扱いでは、皇ナンバーの車両の乗員として想定されているのは天皇、皇后、皇太后の3者のみだが(同則第11条2)、現在は、(法律制定時に存在しなかった)上皇と上皇后もそれに含まれると考えられている[W 4]。
皇室用ナンバープレートには「皇」の1字とアラビア数字が金色で書かれており、「皇1」といった表記がされている[W 1]。プレートそのものには銀メッキが施されている[W 1]。このプレートの形状や書式は、道路運送車両法施行規則の中で定められている。
このナンバープレートは、鋳物製で、鋳型は宮内庁が保有している[6]。使いまわしはされず、新車が導入されるたび、新規に製造される[6]。
2021年末時点では下記の割り当てがされている[W 9]。
| # | 分類 | 車種 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 皇1 | 第1号御料車 | トヨタ・センチュリーロイヤル(GZG51) | リムジン |
| 皇2 | 第2号御料車 | トヨタ・センチュリーロイヤル(GZG52) | 寝台車、病患輸送車[8](霊柩車) |
| 皇3 | 第3号御料車 | トヨタ・センチュリーロイヤル(GZG51) | リムジン。特装車(防弾強化)[W 10]。 |
| 皇5 | 第5号御料車 | トヨタ・センチュリーロイヤル(GZG51) | リムジン。特装車(防弾強化)[W 10]。 |
| 皇7 | 第7号御料車 | トヨタ・センチュリー(GZG50)※2代目 | セダン |
| 皇8 | 第8号御料車 | トヨタ・センチュリー(UWG60)※3代目 | セダン |
| 皇9 | 第9号御料車 | トヨタ・センチュリー(UWG60)※3代目[W 11] | セダン[W 11] |
| 皇13 | 第13号御料車 | トヨタ・センチュリー(UWG60)※3代目 | セダン |
| 皇14 | 第14号御料車 | トヨタ・センチュリー(GZG50)※2代目 | セダン |
| 出典: [8][W 9] | |||
「皇1」は国会開会式(1月)や全国戦没者追悼式(8月15日)などの公式行事への行幸(行幸啓)を中心として使用されている[W 5][W 12]。
「皇1」も含め、番号ごとの役割分担が規則などで決められているわけではないものの[W 12]、日産・プリンスロイヤル時代に寝台車(霊柩車)に割り当てられていた「皇2」はセンチュリーロイヤルでも寝台車が引き継ぎ、ロールス・ロイスのオープンカーに割り当てられていた「皇10」はトヨタ・センチュリーのオープンカーが引き継ぐ[W 5]、といった具合に、先代からの流れで同じ役割の車両に番号が引き継がれる例は存在する。
「皇11」以上の番号は臨時で割り当てられている例がほとんどで、最も大きい数字は(現在も使用中の)「皇14」で、この番号は過去にも使われていた記録がある[8]。「皇4」は忌み数として欠番で[8][W 5]、「皇4」の割り当てが行われた例は過去にも確認されていない[8][注釈 3]。
天皇の自動車
[編集]天皇・上皇の乗用車は令和期には下記の3種類がある。
- 公務用御料車
- 「皇」ナンバーを付けた公用車。上記したように法律で特に区別されている。
- 品川ナンバーを付けた公用車。私的な行事で使用される。平成期に「特別車」として導入され、令和期になってから御料車として扱われるようになった[W 1]。
- 天皇が個人の資産として所有するもので、公用車ではない。
内外装の特徴
[編集]外装
[編集]
菊花紋章が、車体の前後にひとつずつ、車両後部ドアに左右にひとつずつ、計4つ掲出されている[9][注釈 4]。ボンネット前端部には天皇旗などを掲げるための器具が取り付けられるようになっている[注釈 5]。
メルセデス・ベンツ・770までの車両では、御料馬車からの伝統的な塗色である
戦後に昭和天皇用の貴賓車として導入され、後に御料車に変更されたキャデラック・75リムジンは、御料車となった後も地味なグレーの塗装が維持され、同時期に導入されたロールス・ロイスの車両複数もいずれも漆黒で塗装され、以降の御料車では黒系の塗装が施されている。
内装
[編集]リムジンのセンチュリーロイヤルでは、後部客室の座席には高級毛織物(ウール)地が用いられ、客室の内装はベージュ色で統一されている[11][9][注釈 6]。センチュリーロイヤルでは天井部は和紙、乗降ステップに御影石が用いられているほか、随所に天然木が使用されている[12]。運転席のある前部シートは3人掛けのベンチシート(革張り)で、後部客室との間はガラスで仕切りが設けられ、相互のやり取りにはインターホンなどの通話装置や伝声管を使用する[9]。
御料車特有の装備として、三種の神器である剣璽を安置するための台座を客室内に取り付けられるようになっている[9]。剣璽動座が行われる際は、この台座を使って天皇の座席の両隣に天叢雲剣と八尺瓊勾玉が載せられることになる。天皇皇后が同時に外出する行幸啓の際、通常は御料車の後部座席に並んで乗車するが、この剣璽動座が行われる際は天皇と皇后が別々の車両に分乗して移動することになる[W 13]。
沿革
[編集]皇室と自動車の初期の接点
[編集]皇太子献納車の渡来
[編集]1900年(明治33年)2月11日、宮内省は、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の婚約を発表し、同年5月に皇太子の結婚の儀が催されることになった。日本国内では東宮御慶事奉祝会が組織され、名士や省庁、民間組織がそれぞれ献納品を発表して名品の献納が盛んに行われた。太平洋を隔てた米国のサンフランシスコの日本人会でも、電気自動車を献上することを決め、この車両は同年9月に宮内省に納められた。「皇太子献納車」と呼ばれることになるこの電気自動車が、皇室と自動車との最初の接点となった[14]。
同車は試運転中に軽微な事故を起こしたことで、献上は見送られたが、嘉仁親王は御所内で同車の試運転を台覧した[14][注釈 7]。この時の試走は慎重を期して低速で走らせたものだったためか、親王は「自動車とはことのほか速度の遅きものである」と述べたとされる[14]。
有栖川宮威仁親王の尽力
[編集]続いて、1900年代半ば、欧州歴訪から帰国した有栖川宮威仁親王が、今後の国家発展のためには自動車の導入が不可欠になるという考えの下、日本への自動車の導入を積極的に図り始めた。威仁親王は嘉仁親王の教育係である東宮輔導を務めており(任:1899年 - 1903年)、皇太子献納車の存在も知っていたと推測されている[15]。威仁親王は、1905年(明治38年)にドイツ帝国のヴィルヘルム皇太子の結婚式に出席するため渡欧し、同年8月、フランス製の自動車「ダラック号」と、専任のイギリス人運転士を伴って日本に帰国した。同年10月12日、威仁親王は持ち帰った同車で初めて参内し[16]、10月15日には嘉仁親王を伴って同車で参内した[13][注釈 8]。
その後、親王自らダラック号を運転して各地に赴くようになった。ある日の道中で、車両の整備を手掛けていた吉田真太郎、内山駒之助に、日本の国情に合った自動車を作るよう下命した[注釈 9]。技師の内山はこの依頼を達成し、日本初のガソリン自動車となる国産吉田式自動車(タクリー号)を完成させた。これを喜んだ威仁親王本人も同車を購入し、これが皇室にとっては最初の国産車となる。
1908年(明治41年)8月1日、威仁親王はダラック号、タクリー号を擁し、当時の自動車愛好家の名士たちとともに日比谷公園から立川市(日野の渡し)までのドライブ会を挙行した[17][20]。これは日本初のドライブ会(ツーリング)だと言われている[17][20]。加えて、1909年(明治42年)4月にドイツのメルセデス、1910年(明治43年)4月にイギリスのデイムラーを新たに取り寄せ、ダラック号を含めたこれら3台は、皇室にもたらされた最初の高級車にあたると考えられている[15][注釈 10]。
明治天皇による関心
[編集]明治天皇が皇太子献納車、ダラック号、タクリー号を見たかは定かではない[注釈 11]。一方、自動車に関心を覚えていたことはたしかで、1904年(明治37年)春もしくは1908年(明治41年)5月には自動車が走る様子を天覧したという逸話がある[22][23]。それは三越呉服店が宮城に参内して謁見した際のもので、天皇は明治宮殿の東御車寄に停められていた同店のトラック(献上品を運搬していた)に興味を示し、自ら希望して見たという話が伝わっており[14](諸説あり[注釈 12])、これは歴代天皇と自動車の最初期の接点だと考えられている[22]。
- 皇太子献納車(1900年)
御料自動車導入の経緯
[編集]
1910年(明治43年)春、清の光緒帝の弟の載濤が軍事視察のため日本を訪れた際、帝国陸軍が大隈重信らから自動車を借り上げて接遇に使用し、同年秋に載洵が日本を訪れた際にも自動車を使用し、成功を収めた[13]。翌年にはドイツ帝国のヴィルヘルム皇太子の訪問がある予定であったことから、宮内省内でも、貴賓の接遇用として、御料自動車の導入が検討されることになった[13]。
1910年中に明治天皇は皇室への自動車導入に裁可を出し、同年末、皇室令規定が改正され[29]、宮内省は調度寮に自動車の運転士9名を配置することを告示した[14][注釈 14]。この時に、宮内省の公文書の中では初めて「自動車」という単語が現れた[14]。
翌1911年(明治44年)から自動車導入に向けた本格的な調査が始まった[31]。同年1月、有栖川宮威仁親王は、有栖川宮家の家従でお抱え運転士の有馬純篤を自動車研究の名目でヨーロッパに派遣し、各国王室の調査を命じた(同年8月に帰国)[17][注釈 15]。この際、イギリス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリアの各王室でどういった自動車が使われているのか、各国大使館に調査が依頼された[29][30][31][注釈 16]。
同時に、当時日本で随一の自動車通とみなされていた、大倉財閥・男爵家の大倉喜七郎(当時は喜七)も宮内省の調査に協力し、スウェーデン王国への問い合わせを行うという形で参画を始めた[33][31]。
調査結果は威仁親王を中心として検討が行われ[33]、結論として、イギリスのデイムラー社の車両と、ドイツのダイムラー社の車両(メルセデス)が御料車にふさわしいとして奏上された[31]。1911年(明治44年)11月、皇室経済会議が開かれ、デイムラーとダイムラー(メルセデス)に加えて、臣下車はイタリアのフィアットからも調達するということで、外務省を介して自動車の製造がこの3社に依頼される[34][35][36](→#車種選定の経緯)。同時に、宮内省は大倉に車両製作の監督と、ヨーロッパ各王室の運転士服装の調査を下命し、大倉は12月に渡欧した[24][34][35][17][注釈 17]。
1912年(大正元年)の12月31日から翌年1月にかけて、天皇専用の御料車のほか、貴賓車や臣下車(運搬車を含む)など、前年に発注した計9台の自動車が横浜港に順次到着した[38][24][36][39]。
1913年(大正2年)3月10日、宮内省の調度寮に自動車部が設置され、検討開始から3年の歳月を経た末、皇室で御料車の使用が正式に始まった[40][36][41][42][43][注釈 18]。(→#デイムラー・リムジン 57.2HP)
同年4月14日、大正天皇は青山御苑にて初めてこの御料車(デイムラー)に試乗した[17][39](運転は佐藤武夫[39])。明治天皇は自動車に興味を示したという記録はいくつかあるものの、実際に乗車したという記録はないため[44][25]、この時の大正天皇が「自動車に乗った」最初の天皇にあたると考えられている。
自動車鹵簿
[編集]御料自動車が導入されたことにより、鹵簿(ろぼ。車列)や運転士に関する規定など、御料自動車独自の運用規定を整備する必要が生じ[46]、1921年(大正10年)に
馬車を公式としていた鹵簿の在り方は、1923年(大正12年)に起きた2つの凶事を境に大きく様変わりすることを余儀なくされる。
まず、9月に発生した関東大震災で、皇居内の主馬寮の庁舎、特に馬車舎が壊滅的な被害を受け、鹵簿で使われていた主だった儀装馬車も大破してしまった[48]。そのため、この時を境にして、公式の鹵簿でも自動車が使用されることが多くなっていった[48]。
続いて、12月に起きた虎ノ門事件により、御料車の防弾性能のなさが問題視されるとともに、随衛が即応できなかったことも問題視された[45][47][注釈 20]。この事態を受け、事件直後の1924年(大正13年)1月に御料車の横を守る側衛として従来の騎馬に加えてサイドカー(宮内省は「側車」と呼んだ)が導入され[45][47]、さらに、1925年(大正14年)10月に改訂された自動車鹵簿の規定では、騎馬による側衛が廃止され、側衛はサイドカーに統一された[46][注釈 21]。これは、舗装道路の増加によって騎馬では御料自動車に追随することが難しくなってきたという事情や[47]、騎馬とサイドカーが混在した警衛はあまりにも仰々しいものとなり、皇室と国民との親和を妨げることが懸念されたといった事情もあった[47][注釈 22]。
その後、馬車は天皇の乗り物としては即位の礼などのごく限られた儀式でのみ使用されるようになり、通常の公式行事で乗用される御料車として復権することはなかった。自動車鹵簿の形態は、1925年(大正14年)の改定でひとまず確立し、その後も同じ形式の車列が戦後まで用いられ続けることになる[47]。戦後は、馬車が主流だった時代の用語に基づいた「自動車鹵簿」という呼び方も廃れ、単に車列(御車列)と呼ばれるようになった。
「赤ベンツ」
[編集]3代目の御料車として、1932年(昭和7年)からメルセデス・ベンツ・770(W07)が順次導入され、防弾車も配備された[8]。従来のイギリス車に代えてドイツのダイムラー・ベンツの車両が選ばれた理由は定かではなく、当時の不穏な社会情勢を反映して、華奢な印象のイギリス車よりも、もっと安全で頑丈な車への要望が強かったためだと考えられている[49]。加えて、国際関係の点で、導入を始めた時点で日本とドイツ(ヴァイマル共和国)との関係は良好なものではなかったのだが(詳細は「日独関係」を参照)、イギリスとの関係に距離が生じつつあった(詳細は「日英関係」を参照)ことが少なからず影響を及ぼしたと考えられている[49][50][注釈 23]。この時期を境に、日本はナチス・ドイツ(1933年成立)、イタリア王国という枢軸国側へ傾斜の度を徐々に強めていくことになる[49]。
導入された7台の内の6台が戦後まで生き延び、結果として1969年(昭和44年)まで35年に渡って御料車の任を務めた[49]。
終戦後の1947年(昭和22年)から1954年(昭和29年)にかけて、昭和天皇は日本全国の46都道府県を巡幸した(詳細は「昭和天皇の戦後巡幸」を参照)。この際に現地での移動に主に使用されたのもこのメルセデス・ベンツ・770だった[51]。そのため、国民にもその存在は広く知られた御料車となり、「赤ベンツ」と通称された。
国産御料車の誕生
[編集]1960年代になると、「御料車は国産で」という機運が高まり、昭和天皇の意向も受けて、国産御料車の製作が検討されるようになった[55]。
宮内庁からその旨を打診され、その中でどのメーカーにすればよいか問われた自動車工業会(現在の日本自動車工業会)は、皇太子明仁親王との縁が深いことも鑑みて、プリンス自動車工業を推薦し、同社に依頼することが決定するに至った[56][55]。そうして、1965年(昭和40年)9月に開発が始まり、1967年(昭和42年)に初の国産の御料車となる日産・プリンスロイヤルが完成し、以降、41年間の長きにわたって使用されることになった[55]。
セダン御料車の導入
[編集]1989年1月、昭和天皇が崩御し、平成へ改元された際、即位した天皇明仁に引き継がれた御料自動車は、4台の日産・プリンスロイヤルのみだった[57]。天皇明仁は、皇太子時代から、プリンスロイヤルのような大型リムジンの御料車は「特別な装い感」が強く、日常での使用は(国民から)好まれないのではないかと案じていた[57](天皇明仁の御料車観については別記)。
そこで、皇太子時代に公用車(東宮特別車)として乗用していたセダンの日産・プレジデント(1983年式)とトヨタ・センチュリー(1983年式)を、一般車と同じ品川ナンバーのまま、引き続き公務において使い続けることにした[57]。こうした天皇の意向を受けて、御料車においても、即位の2ヶ月後にはプレジデント(1989年式)が導入され[57]、同車に「皇1」の番号が与えられた[8]。
以降、御料車にはセダンタイプも用意する習わしとなり、1996年(平成8年)にはプレジデントの退役に伴い、トヨタ・センチュリーが御料車の「皇1」を引き継いだ[8]。(→#導入されたセダン型御料車)
リムジンのプリンスロイヤルも使用が継続され、かつての輿や馬車のように、御料自動車においても、行幸の種類によって車両の使い分けがされるようになった。2006年(平成17年)には、新たな御料車専用のリムジンとして、トヨタ・センチュリーロイヤルが導入され、その後の2年間でプリンスロイヤルを置き換えた。
現在の御料車
[編集]2019年5月1日、天皇徳仁が即位して、令和へと改元された。これまでの改元と異なり、この改元は天皇の生前退位によるもので、先代天皇明仁は上皇となった。御料車への影響として、従来の天皇皇后専用車だけでなく、上皇上皇后専用車も御料車(皇ナンバーを付ける)として管理されている[W 14]。
代表的な御料車 (リムジン)
[編集]御料車の代表的車種はいずれもリムジンタイプの大型乗用車であり、以下、しばしば名前が挙げられる代表的な6車種について記載する。
- デイムラー・リムジン 57.2HP(1913年 - 1927年)
- ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト(1921年 - 1936年)
- メルセデス・ベンツ・770(1932年 - 1968年)
- キャデラック・75リムジン(1958年 - 1970年)
- 日産・プリンスロイヤル(1967年 - 2008年)
- トヨタ・センチュリーロイヤル(2006年 - )
デイムラー・リムジン 57.2HP
[編集]|
第1号御料車 | |
| 使用時期 | 1913年(大正2年) - 1927年(昭和2年): 14年間 |
|---|---|
| 輸入業者 | 大倉組[50]、日本自動車合資会社[58] |
| 車両数 | 2台(#各車両) |
最初の御料自動車として、1913年(大正2年)3月10日、宮内省にデイムラー・リムジン 57.2HPと同・ランドレー 38.4HPの2台が導入され、御料自動車の使用が始まった[40][36][41][42][43]。
御料自動車の導入を決めたのは明治天皇だったが、1912年(明治45年)に崩御したため、大正天皇が御料自動車に乗った最初の天皇となった。
車種選定の経緯
[編集]1911年(明治44年)、御料車導入に向けて行われた事前調査の結果、最後に候補に残ったのはこのデイムラーと、ダイムラーのメルセデスだった[31]。最終選考に際して、宮内省は両車の仕様書を東京大学の総長である濱尾新に送り、同大に内容の精査を依頼した[31]。そこで、デイムラーの仕様書は同大から酷評を受けたことから、最終的に同年11月に、御料車はメルセデス、貴賓車はデイムラーということで決定し、発注が行われた[31]。
宮内省は大倉喜七郎(当時は喜七)に製作の監督、試運転の立ち合い、日本への輸送を委任してヨーロッパへと派遣し、大倉には発注車両について「出先ニ於テ此ノ仕様書ニ優リタル廉アルトキハ変更スルモ差支ナシ」という大きな権限を与えた[59]。現地で製作を監督した大倉は、そうした権限に基づいて、御料車として2台のデイムラーを採用し、メルセデスは貴賓車とする変更を行った[59]。
1912年(大正元年)12月31日にメルセデスの貴賓車が三島丸で横浜港に到着し、次いで、1913年(大正2年)1月15日入港の加賀丸で臣下車の運搬車(トラック)とバス(メルセデス・12人乗りバス[60])の2台が、1月27日に熱田丸でデイムラーの御料車2台を含む6台が到着した[39]。到着した車両はすぐに試運転に回され、その結果も良好で、2月末までにすべての試運転を終え、2月25日には兵庫県舞子で療養中の有栖川宮威仁親王にもその旨を知らせる電報が送られた[39]。
1913年(大正2年)3月10日、輸送を手掛けた大倉の日本自動車合資会社から、御料車2台が正式に宮内省に納入された[58](同日、宮内省の調度寮で自動車部が発足[37])。同年4月14日、青山離宮にて、大正天皇が御料車に初めて試乗し、御料自動車に乗車した最初の天皇となった[39]。
初代の正運転士は、有栖川宮家のお抱え運転士だった有馬純篤が務め[24]、同じく、大倉組(日本自動車)出身の佐藤武夫、川原房吉も宮内省技手として加わり、この3名が主馬寮付きの最初の運転士となった[37][17][25][61]。この3名が御料車や貴賓車の運転士を務めつつ、指導役となり、他の各車両の運転士が養成された[37]。
車両の特徴
[編集]
第1号御料車はイギリス国王のジョージ5世の公用車と基本的に同じ仕様の車両で、当時のデイムラー社では最大の6気筒9.4リッター、57.2馬力(HP)のエンジンを搭載している[58]。7人乗りの自動車[58]。
第2号車は車体やボディはほとんど同じ仕様で、エンジンは38.4馬力のエンジンを搭載している[58]。発注時点では予定されていなかった車両で、臣下車として予定されていたデイムラーの2台の内の1台を御料車としたもの[58]。追加は大倉の判断によるものだが、追加された理由はよくわかっていない[58]。
外装について、
コーチビルダーはフーバー社(Huber)[66]。2台ともオープンドライブリムジンで、運転席部分には横の窓がない[58]。運転席と後部座席はガラスで仕切られていることから、行き先などの指示は伝声管によって運転士に伝えられる[58]。
内装は、絹の太いモールを配した淡黄褐色の生地で、螺鈿細工を施した銀製の金具が使われていた[58]。
当時の写真から、車体側面の菊花紋章や、乗車中であることを示す屋根上の識別灯は日本に到着した後で装着されたと考えられている[58]。
各車両
[編集]| 分類 | 車種 | 年式 | 導入年月日 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 第1号御料車 | デイムラー・リムジン 57.2HP[25] | 1912年式 | 1913年(大正2年)3月10日 | 1927年6月20日に退役[62]。陸軍自動車学校へ寄贈[62][8]。 |
| 第2号御料車 | デイムラー・リムジン・ランドレー 38.4HP[25] | 1912年式 | 1913年(大正2年)3月10日 | 1927年6月20日に退役[62]。陸軍造兵廠へ寄贈[8]。 |
| 出典: [67][8] | ||||
ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト
[編集]|
第3号御料車 | |
| 使用時期 | 1921年(大正10年) - 1936年(昭和11年): 15年間 |
|---|---|
| 輸入業者 | |