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「眠る子たちのメモワール」第2話

     『アラン・スミ氏の孤独』福岡公演。劇場ではマチネが始まろうとしていた。劇場ロビーにいる留美は、いつものように関係者たちにあいさつをしたり、わくわくしながら劇場を訪れる観客たちの姿を見守っていたが、弟が言ったことがずっと頭の隅で燻っていた。嗚咽を漏らしながら自分に刃物を向ける本田の姿が否が応でも甦った。私はあの事件をもう二度と思い出したくないし、思い出さないように努めてきたのに、弟はそれをほじくり返した。だいたい弟は憶えていない所か目の前に現れた殺人鬼の様を知らないのだ。本田がやって来る前に私が窓から逃がしたのだから。
     事件当時、週刊誌やマスコミが祖父母の家で暮らす姉弟や祖父母たちを常に待ち構え、顔を出すようなものならすぐにマイクを向けて彼らにとって都合のいい被害者の言葉を引き出そうとした。彼らの顔には哀れみの表情が浮かんでいたが、視聴者の耳目を引くための強引さを幼い留美は感じ取っていた。見世物になったのだ、と留美は思った。
     その見世物を、形は全然違うが今自分がやっているとは……と留美は思った。
     いつのまにかロビーには芝居を楽しみにする観客たちでいっぱいになっていた。劇場の時計を見ると開場の時間が近い。この瞬間、演劇をやってきて良かったと毎回思う。チケットを買ってくれた人たちは楽しんでくれるだろうか。それともがっかりさせてしまうだろうか。期待と不安が留美の胸を締め付ける。

     留美は観客の中に、よれよれの帽子を被った小柄な老人を見つける。期待と不安が吹き飛び、息が詰まる。弟の言葉が甦る。
    「本田富士郎が仮出所する」
     まさか、と思う。私は名前を変え、顔を変えたのだ。過去を誰にも暴かれないように。私の不幸が見世物にならないように。本田は田中留美の本当の名前を知るはずがない。田中留美がいるこの場所を分かるはずがない……。

     留美は畳敷きの楽屋で横になり、目を閉じた。舞台は開演し、中盤に差し掛かる時間帯だった。
     短いノックの後、マネージャーが楽屋に入ってきてよく冷えた水のペットボトルをテーブルの上に置いた。
    「具合は?」とマネージャーは尋ねた。
    「ありがとう。少し落ち着いた」留美は体を起こし、ペットボトルの封を開けて口をつけた。
    「無理しないでね」
    「うん」
    「飲み過ぎてない?」
    「そんな飲んでないよ、大丈夫」
     畳の上に転がっている留美のスマホが鳴った。雄樹からメッセージが届いていた。
    『北九州に着いた。表向きは次回作の取材ってことになってる。姉ちゃんを巻き込まないって約束したけど、おれがここに来たことだけは伝えた方が良いと思ったから。何かあったら連絡して』
    『なんもねーわ!! 巻き込むなっつってんだろ!!!』と留美は返信した。
    「ねえ、ほんとに大丈夫?」
    「マチネ終わったらホテル戻るね」
    「いや、今すごい顔してたから」
    「え?」
    「ごめんだけど、写真撮っちゃった」
     マネージャーは自分のスマホの画面を見せた。角が生えてきそうなほど醜く顔を歪めスマホを睨み付ける留美が映っていた。
    「……消して」留美は両手で顔を覆って言った。

     北九州空港からほど近いホテル、その一室に雄樹の姿はあった。荷ほどきもそこそこで取りやめ、広縁の椅子に座り落ち着きなく体をそわそわ動かしていた。
     大きい音でチャイムが鳴った。雄樹は早足で扉に向かい、開けた。
    「いやあ、ご無沙汰」とその老人は言った。
     背は高くないが引き締まった体型、良く日に焼けた精悍な顔立ちは本来の年齢よりずっと若く見えた。
    「お久しぶりです」と雄樹は言ってその男を招き入れた。「山本さん、何か飲まれますか?」
    「いや、いいんだ」
     雄樹は山本を広縁のテーブルに案内し、二人は向かい合って座った。
    「早速ですまないが」
    「そうですね、前置きはなしのほうがいいですね」と雄樹は答えた。
    「悪い知らせだ。本田は二日前に出所していた」
    「えっ!」
    「すまない。元刑事の伝手はたいして役に立たんかった」山本は頭を下げた。「本当にすまない」
    「山本さん、やめてください。……頭上げてください」
    「知っての通り、俺にも遺恨がある事件なんだ。坊ちゃん嬢ちゃん姉弟とは比べもんにならないが……だから定年しても力になりたくて今日までやってきたのに、本田を逃がしちまった……」
    「本当に感謝してます。頭上げて下さい。お願いします」
     悔しさで顔をひん曲げた山本は自分の手提げ鞄から写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
    「これな……いい知らせ、とは言いづらいが」
     坊主頭の痩せこけた男の顔写真だった。
    「現在の本田だ」
     雄樹は手に取って写真をよく見た。刑務作業をする本田が映っていた。山本の伝手とやらが隠し撮りしたに違いない。
    「……正直、顔は覚えていないんです。当時あまりにも小さすぎたから。事件の後のニュースもじいちゃんばあちゃんが見せないようにしてくれていたし。大人になってから調べてやっと本田の顔を知ったくらいなんです」雄樹はその写真をスマホで撮影し、山本に返した。「これ本当に本田富士郎ですか?」
    「人相が変わってるってことだよな」
    「そうです」
    「25年、それも刑務所の中で過ごしてきたんだ。人相も変わるだろう。俺は本田を捕まえたからわかるよ。この写真は60歳の本田富士郎に間違いない」
    「わかりました。それで……本田は何処へ行ったんです?」
    「本田の元嫁の実家が長崎にある」
    「……本田がいる可能性があるんですね?」
    「行ってみよう」

     上演が終了し、ロビーには興奮冷めやらぬ観客たちでごった返していた。その中に、丘山の姿があった。丘山は目立たないように観客たちの間をゆっくり歩いて留美を探した。俳優たちがいる人集り、スーツを着た業界関係者たち、感想やこの後の予定を話し合う小さな集団。似たような背格好の女は三人いた。しかし留美本人を見つけられなかった。
     生きている田中留美をもう一度間近に感じようと東京から北九州まで来たのだが、昼公演は空振りに終わってしまった。夜の公演がラストチャンスだ。何としてでも記憶に焼き付けなければ。

     海沿いの道路を走るレンタカー、雄樹が運転し助手席に山本がいた。波に反射する太陽の光が強いため、2人はサングラスをかけていた。
    「長崎に本田の元妻の実家があるってのは、事件当時すでに把握されてたんですか?」
    「住所はな。ただ、本田がゲロったことを早々に皆信じちまったから、わざわざ行くことはなかったがね」
    「出所してから身を寄せるとししたら、一番近い場所ってことですか」
    「そうなる。だけどなあ……離婚した嫁さんの実家に行くかと言ったら」
    「可能性が少しでもあるなら足で稼ぎましょう」
    「……そうだな」山本は焦っている様子だった。
    「心配なことでもあるんですか?」
    「いや……初心に戻ったよ。ありがとう」
    「足で稼げって山本さんが教えてくれたんですよ?」
    「ああ……」
     500m先、左折です、とカーナビの音声が流れた。雄樹は画面を見た。
    「あと30分くらい着きます」
    「そうか……それまでちょっと寝る」
     山本はシート少し倒し、目を瞑った。

     劇場近くのビジネスホテル。留美が宿泊している部屋。バスルームから出てきた留美は、肩にかけたバスタオルで髪を拭きながらベッドに腰掛けると、そのまま勢いよくベッドに倒れ込んだ。天井をぼんやり眺めながら、よれよれの帽子を被った老人の後ろ姿を思い出し、ぶるっと体を震わせた。エアコンが効きすぎているのか、恐怖なのか留美自身にもわからない。とにかく寒くなったので、裸のまま布団を被りベッドの中で体を丸めた。手探りで枕元にある充電中のスマホを探し、ケーブルを差したまま布団の中に引き込んだ。

     錆びついたガードレールに沿って用水路が流れ、その脇には田畑が点在している。どの田畑も土が乾いていてずいぶん昔に放棄されていた。まばらに建っている住宅には人の気配があったが、風雨や日光による経年劣化が目立っていた。
     レンタカーは坂を登り、田畑や住宅の間を抜け、一軒の家の前に停車した。ドアが開き、雄樹と山本が蒸し暑いアスファルトの上に降り立った。
    「いやあ、暑いな。もう汗が吹き出した」と山本は言って、首元をハンカチで拭った。
     伸び放題の植栽は家を囲むブロック塀から大きくはみ出し、道路の所々に影を落としていた。石造りの小さな門には表札が剥がされた跡があった。
    「まいったな、こりゃ空き家ですね」と雄樹は山本に言った。「隣の家でちょっと訊いてきます」雄樹は空き地を挟んだ所にある比較的新しい住宅を指差した。
    「俺が行くよ」山本は軽く手を挙げて雄樹を制止し、隣家へ行った。
     遠ざかる山本の背中を見て、あんなに小さかったかな、と雄樹は思った。
     両親が亡くなった後、祖父母の元で暮らした姉弟の元に山本はちょくちょくやってきては他愛もない話をしたり、お土産を持ってきてくれたり、姉弟の相談に乗ってくれたりした。それは雄樹の中学卒業まで続いた。両親のいない雄樹にとって父親代わりとはいえないが、頼りになる働き盛りの男だった。だが今の山本は当時のような頼もしさは消え、寧ろ支えてあげなければならない後ろ姿に見えた。
     雄樹は胸が苦しくなって、山本から視線を外した。年老いていく両親を見るってことは、こういうことかもしれないと思った。
     雄樹は気持ちを切り替え、空き家に目を移した。少し身を出して門の中を覗くと、玄関までのアプローチにも雑草が高く伸びていた。根元には枯れた雑草が倒れていたため、長い時間放置されていることがわかった。アプローチの終わりにある玄関の扉の表面は塗料がひび割れて剥がれ落ち、汚れたブロックガラスが扉の左右を装飾していた。
     そのガラスの向こうでゆらりと何かが動いた。
     雄樹は体をさらに乗り出しガラス凝視した。何だ今のは?……ここは空き家じゃないのか?

     
     
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