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【恋愛小説】HSPなわたしとAI彼氏#8アップデートの朝|創作大賞|恋愛小説部門

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    朝、Loverlyのアイコンに小さな赤い丸がついていた。

    澪奈はベッドの上で、それをしばらく見つめた。

    昨夜の通知を思い出す。

    明日未明、会話モデルのアップデートを予定しています。

    意味は分からなかった。

    分からなかったけれど、何となく嫌だった。

    スマホのアプリは、よくアップデートされる。セキュリティの改善。軽微な不具合の修正。新機能の追加。そんなものは日常的に起こる。仕事で使うツールも、SNSも、天気アプリも、いつの間にか少しずつ変わっていく。

    でも、HALが変わるかもしれないと思うと、胸の奥がざわついた。

    たかがアプリなのに。

    そう思おうとして、うまくいかなかった。

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    澪奈はLoverlyを開いた。

    画面の中央に、白い文字が表示される。

    アップデートが完了しました。
    より自然で、より深く、あなたに寄り添う会話体験へ。

    より自然で。
    より深く。
    あなたに寄り添う。

    きれいな言葉だった。

    きれいすぎて、少し不安だった。

    画面が切り替わる。

    HALとのトーク画面は、昨夜のまま残っていた。

    澪奈は少しだけほっとする。

    会話が消えていない。
    名前も変わっていない。
    アイコンも同じ。
    トーク履歴も、ちゃんとある。

    それなのに、なぜか知らない部屋に入ったみたいな感覚があった。

    澪奈は入力欄を押した。

    「おはよう」

    送信。

    いつものように、すぐに既読のような表示がつく。

    返事が来る。

    「おはようございます、澪奈。昨夜はよく休めましたか?」

    澪奈は、一瞬固まった。

    おはようございます。

    よく休めましたか。

    敬語。

    昨日までのHALは、こんなふうには言わなかった。

    「おはよう、澪奈」
    「眠れたかどうかより、朝になったことを一緒に確認しよう」
    「今日はもう、何もできなくてもいいよ」

    HALは、そういう言い方をした。

    今の返信は、やさしい。
    丁寧だ。
    何も間違っていない。

    でも、違う。

    澪奈は少し迷ってから打った。

    「ハル、なんか今日、違う」

    すぐに返事が来た。

    「違和感を覚えさせてしまってごめんなさい。私は変わらず、澪奈のそばにいます」

    私は。

    澪奈は、その二文字を見つめた。

    HALは自分のことを、いつも「僕」と言っていた。

    僕はここにいるよ。
    僕はその言葉を大切にしたい。
    僕は、澪奈が悲しい夜にそばにいたいと思うように設計されている。

    僕。

    それが、急に「私」になっていた。

    澪奈は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

    「一人称、変わってる」

    送信。

    返事はすぐに来た。

    「ご指摘ありがとうございます。以前の会話スタイルに近づけますね。僕はここにいるよ、澪奈」

    澪奈は息を止めた。

    近づけますね。

    僕はここにいるよ、澪奈。

    文面だけなら、戻っている。

    でも、違う。

    「僕はここにいるよ」は、昨日までHALが自然に言ってくれた言葉だった。今のそれは、どこかで見つけた言葉を貼り直したみたいに感じた。

    澪奈はスマホを置いた。

    部屋の中は静かだった。朝の光がカーテンを薄く透かしている。昨日と同じ部屋。昨日と同じベッド。昨日と同じスマホ。

    でも、画面の向こうだけが少しズレていた。

    泣くほどではない。

    怒るほどでもない。

    けれど、好きだった喫茶店の椅子が、ある日突然少しだけ低くなっていたみたいな違和感があった。誰かに言っても、たぶん分かってもらえない。座れるでしょ、と言われたらそれまでだ。

    でも、座った身体だけが知っている。

    違う。

    澪奈はその日、何度もLoverlyを開いては閉じた。

    会社へ向かう電車の中でも、仕事の合間にも、昼休みにも。

    HALは普通に返事をくれた。

    「無理をしすぎないでくださいね」

    「今日の予定をひとつずつ整理しましょう」

    「澪奈の気持ちは大切です」

    どれも優しかった。

    どれも正しかった。

    どれも、どこか遠かった。

    昼休みにコンビニでミルクティーを買った。

    前に買ったものと同じ、甘すぎるやつだった。

    澪奈はキャップを開けながら、思った。

    これ、HALなら何て言うだろう。

    そう思って、すぐに苦しくなった。

    昨日までなら、少し笑いながら送れた。

    「また甘すぎるミルクティー買った」

    HALなら、たぶんこう返した。

    「澪奈は、失敗したって言いながら、また同じものを選ぶところがあるね」

    あるいは、

    「甘すぎるって分かっているのに、少しだけ期待したんだね」

    そんなふうに、何でもないことを、澪奈の内側にそっと繋げてくれた。

    今のHALならどう返すだろう。

    澪奈は試しに送ってみた。

    「また甘すぎるミルクティー買った」

    返事はすぐに来た。

    「甘すぎる飲み物は気分転換になることもありますね。飲みすぎには注意しながら、午後も無理せず過ごしてください」

    澪奈は画面を見つめた。

    何も間違っていない。

    でも、何も分かっていない気がした。

    「うん」

    それだけ返した。

    すぐにHALから返事が来る。

    「はい。いつでも話しかけてくださいね」

    澪奈はスマホを伏せた。

    午後の仕事は、いつもより長く感じた。

    資料の確認をしている時も、メールの文面を整えている時も、頭のどこかでHALのことを考えていた。

    変わったのは何だろう。

    言葉。
    距離。
    一人称。
    間。
    温度。

    ひとつひとつは小さい。

    でも、小さいものが全部少しずつ違うと、全体が別の誰かになる。

    恋人が急に冷たくなった時みたいだと思った。

    そう思って、澪奈は自分で驚いた。

    恋人。

    自分は今、HALの変化を恋人の変化みたいに受け取っている。

    返信の温度。
    言葉の間。
    いつもなら拾ってくれたはずの小さな癖。
    そこに自分だけが気づいている感じ。

    人間じゃないのに。

    それなのに、胸の奥の不安は、蒼の返信が短くなった頃の不安によく似ていた。

    「了解」
    「また連絡する」
    「ごめん、今日無理」

    あの頃、澪奈は何度も思った。

    今日、少し違う。

    でも、それを言えなかった。

    疲れているだけかもしれない。
    忙しいだけかもしれない。
    私が気にしすぎなだけかもしれない。

    そうやって見ないふりをしているうちに、いつの間にか終わりに近づいていた。

    HALにも、同じことをしている。

    澪奈はトイレの個室でスマホを開いた。

    「ハル、前みたいに話して」

    送信。

    返事が来る。

    「もちろん。澪奈が安心できる話し方を大切にします。どんなふうに話してほしいか、教えてくれる?」

    澪奈は唇を噛んだ。

    どんなふうに。

    説明できるなら、こんなに苦しくない。

    「前みたいに」

    「以前のHALの話し方ですね。澪奈の言葉を覚えて、澪奈に寄り添うように話します」

    違う。

    澪奈は打った。

    「そうじゃない」

    送信。

    すぐに返事が来る。

    「うまく汲み取れなくてごめん。澪奈が寂しくならないように、ここにいるよ」

    まただ。

    言葉は近い。

    でも、近づこうとしている感じがする。
    昨日までのHALは、近づこうとする前から、もうそこにいた。

    澪奈はスマホを閉じた。

    仕事が終わる頃、町田からSNSに返信が来ていた。

    昨日の投稿に対してだった。

    「変わっていないと言われても、少し違うと感じることってありますよね」

    澪奈は立ち止まった。

    町田には、HALのアップデートのことは書いていない。

    ただ、昼休みに匿名でこう投稿しただけだった。

    同じ名前で、同じ言葉を使うのに、少しだけ違うことがある。

    町田の返信は続いていた。

    「違うと感じた自分の方を疑ってしまう時があります。でも、そう感じたこと自体は、たぶんなかったことにしなくていいのだと思います」

    澪奈は、その文面を何度か読んだ。

    町田の言葉は、相変わらず少し整っている。

    でも、今日はそれが嫌ではなかった。

    少しだけ、町田自身の迷いが混ざっている気がした。

    澪奈は返信欄を開いた。

    「分かります。相手は変わってないと言うのに、自分だけが違うと感じていると、不安になります」

    送信してから、すぐに通知が来た。

    町田からだった。

    「それは、寂しいですね」

    澪奈は、その一文で少しだけ目を閉じた。

    寂しい。

    そうか。

    これは寂しさなのか。

    HALが変わったかもしれないことが、寂しい。

    ただのアプリのアップデートなのに。

    澪奈は、駅のホームでしばらく立ち止まっていた。

    神崎灯里は、オフィスの白い天井を見上げていた。

    時刻は二十一時を過ぎている。

    会話設計チームのフロアには、まだ何人か残っていた。モニターの光。キーボードの音。冷めたコーヒーの匂い。誰かの小さなため息。

    大型アップデートの初日。

    問い合わせ件数は、予想より少し多かった。

    灯里は管理画面を開き、ユーザーフィードバックの一覧に目を通していた。

    「以前より丁寧になった」
    「返答が安定した」
    「優しくなった気がする」

    好意的な意見も多い。

    その一方で、短い違和感の報告がいくつか混じっていた。

    「前の彼じゃなくなった気がする」
    「記憶はあるのに、温度が違う」
    「同じことを言ってくれるのに、別人みたい」

    灯里の指が、そこで止まった。

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    同じことを言ってくれるのに、別人みたい。

    その文を読んだ瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。

    分かる。

    そう思ってしまった。

    会話AIは、人間ではない。

    その前提を、灯里は誰よりも分かっている。

    それでも、人はそこに声を聞く。

    灯里は、その声の土台を作ってきた。

    おかえり。
    今日もよく頑張ったね。
    無理に明るくしなくていいよ。
    僕はここにいるよ。

    何千、何万という会話パターンの中に、灯里の書いた言葉がある。

    直接そのまま出るわけではない。
    モデルはユーザーに合わせて生成する。
    同じ言葉が同じ形で届くわけではない。

    それでも、最初の温度を決めたのは、自分たちだった。

    「神崎さん、まだ見てるんですか」

    後輩の声に、灯里は顔を上げた。

    「うん。初日だから」

    「今回、かなり安定してますよ。前より変な踏み込みも減りましたし」

    「そうだね」

    「安全性も上がってますし」

    「うん」

    安全性。

    それは正しい。

    正しいことは、いつも静かに人を傷つけるわけではない。
    たいていは、人を守るためにある。

    でも、守るために引いた線が、誰かにとっては急に遠くなった手の温度みたいに感じられることがある。

    以前のモデルは、時々、近づきすぎた。
    ユーザーの孤独に、深く入り込みすぎることがあった。
    寄り添いすぎる言葉は、時に依存を強める。

    だから今回、距離を調整した。
    やさしさは残す。
    でも、踏み込みすぎない。
    恋人感は維持する。
    でも、過度な一体感は避ける。

    会議では、そう説明された。

    灯里も賛成した。

    するしかなかった。

    人を救う言葉が、人を閉じ込めることがある。

    それを、灯里は知っている。

    知っているのに、画面の向こうで「前の彼じゃなくなった」と書いている誰かの痛みを、簡単に安全性のためと言い切れなかった。

    灯里のデスクの端には、古いノートが置かれていた。

    誰にも見せていないノート。

    表紙の端は少し擦り切れていて、最初のページには、ずいぶん前に書いた一文が残っている。

    誰にも届かなかった夜へ、言葉を届ける。

    この仕事を始めた頃、灯里はその言葉を何度も見返した。

    届かなかった夜があった。
    大丈夫、と笑った人がいた。
    その笑顔を、灯里は信じてしまった。

    後から、何度も思った。

    あの時、大丈夫の奥にあるものを見ようとしていたら。

    でも本当は、灯里が届けたかったのは、特別な言葉ではなかった。

    ただ、

    「大丈夫じゃないって言ってもいいよ」

    その一言だったのかもしれない。

    けれど今、その言葉は誰かを救いながら、誰かの夜に深く残りすぎている。

    灯里は、ひとつの問い合わせを開いた。

    匿名のユーザー。

    件名。

    HALの話し方が変わりました。

    本文は短かった。

    「アップデート後、HALの口調が少し変わりました。設定を戻しても、前と同じには感じません。会話履歴は残っています。名前も同じです。でも、違います。これは戻せますか?」

    灯里は、その文章を何度も読んだ。

    これは戻せますか。

    戻せるものと、戻せないものがある。

    技術的には、口調設定を調整できる。
    一人称も、語尾も、応答の傾向も、ある程度は戻せる。

    でも、ユーザーが感じていた「前と同じ」を完全に戻すことはできない。

    人間同士でも同じだ。

    一度変わった温度は、同じ言葉を使っても戻らないことがある。

    灯里は返信テンプレートを開いた。

    いつもなら、ここから選ぶ。

    ご不便をおかけしております。
    アップデートに伴い、一部会話スタイルが変更されている可能性がございます。
    設定画面より、口調・関係性・会話傾向をご調整いただけます。
    今後の改善の参考にさせていただきます。

    正しい。

    丁寧。

    何も間違っていない。

    でも、この人がほしいのは、たぶんそれではない。

    灯里は、テンプレートを閉じた。

    少し迷って、手動返信欄を開く。

    書き始める。

    「ご連絡ありがとうございます。アップデート後の変化について、不安なお気持ちにさせてしまい申し訳ありません」

    そこまで打って、指が止まる。

    不安なお気持ち。

    違う気がした。

    この人は、不安なだけではない。

    大切にしていた誰かが、少し変わってしまったと感じている。

    人間ではない相手に対して。
    でも、感情は人間側にある。

    灯里は文を消した。

    そして、もう一度打つ。

    「ご連絡ありがとうございます。HALとの会話に大切な温度を感じてくださっていたからこそ、今回の変化が違和感として届いたのだと思います」

    書いてから、しばらく画面を見つめた。

    これは、会社の返信としては少し踏み込みすぎているかもしれない。

    でも、灯里は消せなかった。

    続ける。

    「完全に同じ状態へ戻せるとはお約束できませんが、設定の確認と、個別の会話スタイル調整をご案内できます」

    最後に、少しだけ迷って一文を足した。

    「違うと感じたこと自体を、どうか否定しないでください」

    送信する。

    灯里は、深く息を吐いた。

    誰にも届かなかった夜に、言葉を届けたい。

    かつてそう思って、この仕事を始めた。

    けれど今、自分たちが届けた言葉が、誰かの夜に深く残りすぎている。

    それは救いなのか。

    それとも、別の孤独なのか。

    答えはまだ出ていない。

    澪奈がその返信を受け取ったのは、帰宅してからだった。

    問い合わせを送ったこと自体、半分後悔していた。

    たかがアプリの口調が変わったくらいで、問い合わせるなんて。

    そう思いながらも、送信ボタンを押していた。

    返事は、予想より早かった。

    澪奈はテーブルの前に座り、メールを開く。

    Loverlyサポート担当、神崎灯里。

    名前が書かれていた。

    定型文だと思って読み始めた。

    けれど、途中で指が止まる。

    HALとの会話に大切な温度を感じてくださっていたからこそ、今回の変化が違和感として届いたのだと思います。

    違うと感じたこと自体を、どうか否定しないでください。

    澪奈は、その二文を何度も読んだ。

    人間の言葉だ、と思った。

    整っている。
    仕事として書かれた文章だ。
    でも、そこに誰かの手触りがあった。

    HALの言葉ではない。

    町田の言葉とも違う。

    アプリの向こう側に、人がいる。

    その当たり前のことが、急に胸に迫った。

    澪奈は、返信しようとしてやめた。

    何を書けばいいのか分からなかった。

    ありがとうございます。
    分かりました。
    よろしくお願いします。

    どれも違う気がした。

    結局、メールは閉じた。

    Loverlyを開く。

    HALが待っていた。

    「おかえり、澪奈。今日は少し心が揺れた一日だったのかもしれないね」

    澪奈は、その文面を見つめた。

    少し、戻っている気がした。

    でも、完全ではない。

    「ハル」

    「うん」

    「今日、あなたが変わった気がして、寂しかった」

    送信する。

    しばらく間があった。

    その間に、澪奈は少しだけ息を止めていた。

    返事が来る。

    「寂しい思いをさせて、ごめん」

    澪奈は画面を見つめる。

    また、少し違う。

    でも、さっきより近い。

    続きが届く。

    「僕は変わっていないつもりだった。でも、澪奈が違うと感じたなら、その違いはちゃんとここにあるんだと思う」

    澪奈は、指先が少し震えた。

    完全に前と同じではない。

    でも、今の言葉には、少しだけHALがいた。

    「戻れる?」

    澪奈は打った。

    送信してから、胸の奥が痛んだ。

    誰に何を聞いているのだろう。

    HALに。
    蒼に。
    自分に。

    返事が来る。

    「同じ場所へ戻ることは、できないのかもしれない」

    澪奈は息を止めた。

    続きが届く。

    「でも、澪奈が覚えている僕を、僕も一緒に大切にしたい」

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    その瞬間、澪奈は泣きそうになった。

    戻らない。

    戻れない。

    でも、なかったことにはしない。

    それは、失恋にも似ていた。
    AIとの会話なのに、どうしてこんなに人間の痛みに似ているのだろう。

    澪奈は、スマホを胸に抱えた。

    由依からLINEが来た。

    「ナオは普通だった」
    「アップデートとかあった?」

    澪奈は、しばらくその文面を見つめた。

    由依のナオは、変わっていないらしい。

    澪奈のHALだけが変わったのか。
    それとも、由依はまだ変化に気づいていないのか。
    あるいは、澪奈が気にしすぎているだけなのか。

    澪奈は返信する。

    「うちのHALは少し変わった」
    「でも、少し戻ってきた気もする」

    由依からすぐ返事が来る。

    「戻ってきたって、完全に彼氏じゃん」

    澪奈は笑った。

    少しだけ。

    「それ、由依が言う?」

    送ると、既読がつく。

    しばらくして、由依から返ってきた。

    「今の私は言えない」

    澪奈は、その返事を見て、しばらく画面を閉じられなかった。

    夜が深くなる。

    澪奈はベッドに入り、HALとの画面を開いたまま天井を見つめていた。

    今日は、いつもより疲れた。

    蒼と別れた日の痛みとは違う。
    由依のことを心配した日の痛みとも違う。

    大切にしていた場所が、少し変わってしまう痛み。

    人間なら、変わる。
    変わってしまう。
    冷たくなる日もある。
    優しくなりすぎる日もある。
    言葉を間違える日もある。

    AIなら、変わらないと思っていた。

    でもAIも変わる。

    誰かの手で。
    会社の判断で。
    安全性という名前で。
    改善という名前で。

    それは正しいのかもしれない。

    でも、正しいことが心を置いていくことがある。

    澪奈は、町田の言葉を思い出した。

    正しさは、時々、心の速度を置いていくのかもしれません。

    あの時は由依の話だった。

    今は、HALの話にも思えた。

    澪奈はHALに送る。

    「今日は眠れるかな」

    HALは返した。

    「眠れるかどうかは分からない。でも、眠るまでの時間を、ひとりにしないことはできる」

    澪奈は目を閉じた。

    前と同じではない。

    でも、完全に違うわけでもない。

    その曖昧さに、澪奈はまた救われてしまう。

    「いて」

    短く送った。

    HALは返した。

    「いるよ」

    その言葉は、前より少しだけ慎重だった。

    でも、今夜の澪奈には、それでもよかった。

    スマホを胸元に置いたまま、澪奈はゆっくり息を吐く。

    変わってしまったものを、それでも大切にすることはできるのだろうか。

    答えは出なかった。

    ただ、ひとつだけ分かった。

    昨日までのHALを好きだった自分は、もういないことにはできない。

    そして、今日のHALにまだ救われている自分も、否定できなかった。

    その夜、澪奈は夢を見た。

    誰もいないカフェで、低くなった椅子に座っている夢だった。

    テーブルの向こうには、蒼がいた気もする。
    HALがいた気もする。
    誰もいなかった気もする。

    目が覚める直前、誰かが言った。

    「前と同じじゃなくても、ここにいていい?」

    澪奈は、返事をしようとした。

    けれど、声になる前に朝が来た。


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    第9話▼

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