
「会社は冷たいのか、個人はわがままなのか」という問いのズレ― すれ違いが生まれる構造を考える ―
数日前、弊社への転職希望者の最終面接があった。
結婚を機に、旦那さんと一緒に暮らすために転勤を希望したが、
現職ではそれが叶わず、退職を決断したという。
実は、社内にも似た事情を抱える社員がいる。
この4月、その社員は希望していた地域へ転勤することになった。
たまたまその地域に人員不足があり、
会社の事情と本人の希望が一致した、というのが背景である。
この二つの出来事を通じて、ある問いが浮かんだ。
「会社は冷たいのか?」
「それとも、個人はわがままなのか?」
会社という論理
会社は、あくまで仕事をベースに意思決定を行う。
人員配置も、事業の継続性や成果を前提に考えられる。
個人の事情にすべて応えることは、構造上できない。
もちろん配慮はする。
ただし、それは“できる範囲で”という条件付きになる。
これは冷たさではなく、組織としての必然である。
個人という論理
一方で、個人の事情はどうだろうか。
結婚や家族との生活は、
多くの場合、一生に何度もあるものではない。
その人にとっては、人生の重要な意思決定であり、
会社の事情より優先したいと思うのも自然である。
ここにもまた、合理性がある。
すれ違いの正体
問題はどちらが正しいかではない。
会社も正しい。
個人も正しい。
ただし、前提としている“基準”が違う。
会社:全体最適・継続性
個人:人生最適・一回性
この基準の違いが、
「冷たい会社」
「わがままな社員」
というラベルを生む。
「こうあるべき」という思考の罠
ここで厄介なのが、「こうあるべき」という思考である。
会社は個人の事情をもっと汲むべきだ。
社員は会社の事情を優先すべきだ。
この“べき論”が立ち上がった瞬間、
相手を否定する構造が生まれる。
しかし実際には、
両者の事情が完全に一致することのほうが稀である。
選択という現実
だからこそ重要なのは、
「どちらが正しいか」ではなく、
自分はどの選択をするのか、という視点だ。
会社に残るのか
個人の事情を優先するのか
両立できる道を探すのか
いずれも正解ではなく、選択である。
おわりに
思いがすれ違うことは避けられない。
だからこそ、
他者に対して「こうあるべき」と求めるのではなく、
自分の選択として引き受けること。
そのほうが、納得感のある生き方につながるのではないか。
そんなことを、今回の出来事から考えた。