メインコンテンツへスキップ
見出し画像

短編:琥珀色の記憶

    ◉風まかせ文芸部【思い出】参加作品

     ──忘れたい記憶ほど、なぜか琥珀色で胸に残る。

     氷がゆっくりと溶けていた。その音は過去からのささやきに似ている。
     グラスの内側を淡い光がなぞり、女はぼんやりとその光を目で追っていた。照明の反射が揺れるたび、心の奥の記憶をかき混ぜられているような気分だった。

     そのバーのカウンターは、夜更けでもほどよく賑わっていた。低く流れるジャズと、グラスの触れ合う乾いた音。
     壁には古い鏡が掛けられ、灯りの揺らめきが幾重にも反射している。グラスの琥珀色が映るたび、鏡の奥に、どこか別の夜がかすかに息づいているようにも見えた。
     それでも彼女の周囲だけが、まるで薄い膜で仕切られているように静かだった。ほかの客たちの笑い声は遠く、音楽さえ霞んで聞こえる。
     黒いブラウスに黒いタイトスカート。肌の白さが、控えめな照明に淡く浮かび上がる。髪は肩で切りそろえられ、前髪の影が瞳を半分隠していた。
     彼女の存在には近寄りがたい静けさがあった。誰もが彼女を一瞥しては、何もなかったように視線を逸らす。それは無意識の敬遠──つまり、関わりを持つことに小さな畏おそれを感じているからに違いなかった。
     グラスの底を見つめながら、彼女は思う。

    ──この琥珀色の液体は、忘れるための鍵であり、同時に、けっして開けてはいけない扉でもある。

     一口飲むたび、心の奥で錆びついた記憶が軋んで、かすかな音を立てる。痛いほど静かな音だ。
     止めたいのに、止めることができない。むしろその痛みだけが、いまの自分を「生きている」と感じさせる。

    「おかわりを」

     かすれた声でそう言うと、バーテンダーは無言で頷き、同じ酒を注いだ。琥珀の液体がグラスに流れ落ちる音が、やけに長く響く。
     その音を聞きながら、彼女はふと微笑む──笑う理由もよくわからないままに。

     思い出すのは、最後に笑った日のことだ。
     あの夜、店を出た瞬間に降り出した雨の匂い。街灯の光が傘もない彼の肩に落ち、少し滲んで見えた。
    「すぐ戻るよ」
     笑ってそう言った彼の声だけが、今も胸の奥で温度を保ったまま残っている。
     あれが、思い出として閉じ込められた最後の瞬間だった。戻らなかった。連絡も、言葉も、約束も。
     携帯の着信履歴には、もう誰の番号も残っていない。でも心のどこかでは、まだその声を待っている自分がいる。時間だけが前に進み、心だけがあの夜に取り残されていた。

    「あなたは、何を待っているの?」

     もし誰かにそう問われたら、きっと彼女は笑ってごまかすだろう。だけど本当はもう自分でもわかっている。
     待っているのは、もう戻らない“あの時間”だということを。過去という名の亡霊が、今も彼女の中で呼吸を続けているのだ。
     カウンターに置かれたライターが目に入る。それは彼の形見だった。銀色の表面には細かな傷が刻まれ、年月の重みを宿している。
     火をつけることはもうない。ただ、指先でなぞるだけ。冷たい金属の感触が、まだ自分が現実に触れていることを確かめる儀式のようだった。

     ──もう一杯、飲んだら帰ろう。

     そう思っても、立ち上がる気力が湧かない。この席を離れた瞬間、自分が壊れてしまう気がするからだ。
     ここは、彼女にとって“現実”と“記憶”の境界線だった。グラスの中の琥珀が、まるで過去の思い出たちを閉じ込めた檻のように揺れていた。

     夜は更けていく。氷は音もなく溶け、グラスの中で過去と現在が静かに混ざり合う。
     彼女はその光の揺らぎを見つめながら、ようやく微笑んだ。

     涙が、こぼれないように。

     そして、静かに息をついた。もう誰にも聞こえない祈りを胸の奥深くに沈めるように。

     
     
    不定期に短編小説&ムダ話を書いてます。 短編はサクッと読める一話完結作品です。

    あなたへのおすすめ