
掌編|The Note Left Behind——忘却の帰着点
最後のひとつには丸をつけなかった。
牛乳を買うこと。
電球を替えること。
返事をすること。
誰に返事をするのか、書かなかった。書いてしまえば、その人の名前がここに残る。名前は不思議だ。たった数文字なのに、呼ばなくなったあとも、部屋の中を歩き回る。
そういえば、あのとき何と言えばよかったのだろう。
黙っていたことを後悔しているのか、言えなかった自分を庇いたいだけなのか。思い出は、手入れをするほど自分に都合よく変わってしまう。だから、そのままにしておく。
時計が鳴った。
何時なのか、確認しなかった。
何も成し遂げなくても、日は暮れる。誰かに許されなくても、明日の朝にはカーテンの隙間から光が入る。残酷な仕組みだと思っていた。けれど、追いつかない感情を置いていってくれる世界に、助けられているのかもしれない。
引き出しの奥から、古いレシートが出てくる。
日付を見て、思い出す。
あの日、何を買ったのかは覚えていない。金額だけが妙に正確に印字されている。何を食べ、何を話し、何を見たか。そういうものは失くなって、払ったお金の記録だけが残る。
人生は、案外こういうものなのかもしれない。
大切だったことほど、証拠がない。
だから、メモを書く。
忘れないためではなくて、忘れてしまった自分が、いつかここへ戻ってきたときのために。
(了)