メインコンテンツへスキップ
見出し画像

挨拶するだけの近所のおじさん

    コンクリートとガラスでできた都会の峡谷から、この坂の多い港町に越してきて、三ヶ月が経った。
    分厚いファイルに綴じられた辞令は、私の生活圏をいとも容易く変えてしまった。
    新しい営業所、新しい同僚、そして新しいアパート。
    すべてが「新しい」という響きとは裏腹に、どこか借り物のような感覚が拭えない。
    そんな中で唯一、自分自身のものだと感じられる時間が、早朝の散歩だった。

    まだ眠りから覚めきらない町の空気を肺いっぱいに吸い込み、アスファルトの匂いと潮の香りが混じり合う道を歩く。
    地理を覚える、というのは半分は本当で、もう半分は、見知らぬ土地で根無し草のように漂う自分の存在を、この地面に確かめるための儀式のようなものだった。

    いつもの散歩コースに、小高い丘がある。
    港を一望できるその丘の頂上近くに、古いけれど手入れの行き届いた一軒家が建っていた。
    毎朝、私がその家の前を通りかかる頃合いになると、決まって庭先で植木に水をやっているおじさんがいた。
    日に焼けた顔に、白いTシャツ。
    多くを語るわけではない。
    「おはようございます」と私が会釈すると、「おお、おはよう」と、少ししゃがれた声が返ってくる。
    ただそれだけの、数秒間の交歓。
    だが、その短いやり取りが、一日を始めるための小さなスイッチになっていた。
    名も知らぬ、挨拶するだけの近所のおじさん。
    その存在は、私の新しい日常にすっと溶け込んだ、朝の風景の一部だった。

    ✅あのおじさんは……だった!

    転勤してからの三ヶ月は、嵐のように過ぎていった。
    新しい業務を覚え、顧客の顔と名前を一致させ、ようやく少しだけ周囲を見渡す余裕が生まれた頃だった。
    金曜の夜、仕事を終えた私を、営業所の先輩が「一杯どうだ」と誘ってくれた。
    「この辺で一番うまい煮込みを食わせてやるよ」と、悪戯っぽく笑う。
    断る理由もなかった。

    連れて行かれたのは、営業所から歩いて数分の、路地裏にひっそりと佇む居酒屋だった。
    年季の入った「大衆酒場」と書かれた赤提灯が、温かい光で私たちを招き入れている。
    がらりと引き戸を開けると、出汁の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
    カウンターだけの小さな店は、仕事帰りのサラリーマンたちで賑わっている。
    その活気に、少しだけ心が浮き立った。

    「大将、やってる?」

    先輩がカウンターの向こうに声をかける。
    そして、その声に応えて振り向いた人物を見て、私は思わず息を呑んだ。

    「おお、いらっしゃい」

    そこに立っていたのは、紛れもなく、毎朝挨拶を交わすあのおじさんだった。
    白いTシャツではなく、藍色の作務衣を粋に着こなし、頭にはきりりと手ぬぐいを巻いている。
    庭先で見る柔和な表情とは違う、職人としての厳しい顔つき。
    しかし、その目元に浮かぶ優しさは、確かに見覚えのあるものだった。

    おじさんも私に気づき、わずかに目を見開いた。
    「あんたは、丘の上の……」

    「ええ、毎朝お世話になってます」

    事情を話すと、先輩も常連客も「世間は狭いなあ」と笑った。
    偶然の再会は、店の喧騒に心地よい和音を添える。
    おじさん――いや、大将は、「そうかそうか」と嬉しそうに頷くと、「まあ座んなさい。今日はサービスだ」と、カウンターの一番良い席を指してくれた。

    目の前に、ことことと音を立てる大きな鍋がある。
    中では、丁寧に下処理されたであろうモツや野菜が、飴色の出汁の中でゆっくりと踊っていた。
    これが、先輩が自慢していた煮込みか。
    大将は慣れた手つきでそれを小鉢によそい、「ほらよ」と私の前に置いた。
    一口、口に含む。
    途端に、味噌と出汁の深いコクと、とろけるようなモツの旨味が口いっぱいに広がった。
    これは、ただの煮込みじゃない。
    長い時間をかけて、丁寧に、正直に作られたものだけが持つ、滋味深い味わいだ。
    その味は、不思議と私のささくれた心を、じんわりと温めていくようだった。

    ✅会社帰りの楽しみができた

    その夜を境に、会社帰りにあの赤提灯をくぐることが、私の新しい習慣となった。
    一人でカウンターに座り、まずは黙って煮込みを頼む。
    大将は多くを語らない。
    私も、無理に話そうとはしない。
    ただ、彼が鍋の世話をする音や、他の客と交わす軽口をBGMに、熱々の煮込みを頬張り、冷えたビールを喉に流し込む。
    その時間が、たまらなく贅沢なものに思えた。

    時折、大将がぽつりと話しかけてくる。
    「今朝は冷えたなあ」とか、「庭の紫陽花が咲きそうだ」とか。
    それは、都会のバーで交わされるような気の利いた会話ではなかったけれど、その無骨な言葉の一つひとつが、乾いた地面に染み込む水のように、私の心に沁み渡った。
    私も、仕事であった些細な愚痴や、故郷の話をぽつりぽつりと話すようになった。
    大将はいつも、「そうか」と相槌を打つだけだが、その背中は、すべてを受け止めてくれているような気がした。

    いつしか、この店は私にとって単なる飲食店ではなくなっていた。
    そこは、一日をリセットし、明日への活力を得るための「居場所」だった。
    転勤族という、常に根無し草であることの宿命を背負った私にとって、暖簾をくぐれば「おかえり」とばかりに迎えてくれる空間があるという事実は、何よりの心の支えとなった。
    常連客とも顔見知りになり、いつの間にか私も、この店の風景の一部に溶け込んでいる。
    三ヶ月前には想像もできなかった、穏やかで、確かな手触りのある日常がそこにはあった。

    ✅繋がりという名の煮込み

    今日もまた、朝が来た。
    いつものように丘を登り、あの一軒家の前を通りかかる。
    大将は、いつものように庭に水をやっていた。

    「おはようございます」 「おお、おはよう」

    交わす言葉は、昨日までと何も変わらない。
    だが、今の私には、この短い挨拶に込められた意味が、以前とはまったく違って感じられた。
    この言葉の向こう側には、あの赤提灯の温かい光と、ことことと煮える鍋の音、そして滋味深い煮込みの味があることを、私は知っている。

    都会では、隣に誰が住んでいるかさえ知らなかった。
    挨拶は、エレベーターの中で気まずく交わす、意味のない記号のようなものだった。
    しかし、この町では、挨拶が温かい繋がりへの扉を開けてくれた。
    それは、土地柄なのだろうか。それとも、単なる偶然だったのだろうか。

    大将は、毎朝何を思いながら、この丘の上から港を眺めているのだろう。
    彼の作る煮込みの深い味わいは、彼が生きてきた時間の深さそのものなのかもしれない。
    私にはまだ、彼の人生のほんの一端しか見えていない。

    辞令一枚で、またいつ、この町を去ることになるか分からない。
    それが転勤族の定めだ。
    その時が来れば、この温かい居場所も、手放さなければならないのだろう。

    だが、もしこの町を離れる日が来たとしても、私はきっと忘れないだろう。
    この丘の上から見た朝の光と、あの赤提灯の下で味わった煮込みの温かさを。
    人と人との繋がりとは、案外、毎朝交わす短い挨拶から始まる、ささやかなものなのかもしれない。
    そしてそれは、丁寧に煮込まれたモツのように、時間をかけてゆっくりと、人の心を解きほぐしていく。
    その一方で、その繋がりが、いつか断ち切られるかもしれない儚いものであることも、私は知っている。
    だからこそ、今この瞬間が、どうしようもなく愛おしいのだ。

    私はもう一度、大将の家のほうを振り返った。
    そして、港へと続く坂道を、昨日よりも少しだけ確かな足取りで下っていくのだった。


    ✅LINE公式アカウント

    画像

    心を整える事のご相談、家事育児の悩みのご相談は
    LINEでご連絡くださいね。
    😊


    ✅お知らせ

    りんだーくの定期マガジン【エッセイ集】を発行しました。
    毎日更新のこの記事よりも、より細かく人生の生き方のコツや日々思った事を書いたエッセイを書いています。
    気になる方はこちらをどうぞ。
    ✅りんだーくの定期マガジン【エッセイ集】


    ✅合わせて読みたい


    ✅インフォメーション

    画像

    🐰X(旧Twitter)(フォローお願いします😊)
    🐰Instagram(見に来てね😊)

    📖Blog
     🔹主夫の楽しい生活Blog(主夫が楽しく暮らすあれこれのBlog)
     🔹
    リン☆だあくの家事MAX(主夫になりたい人を応援するBlog) 
     🔹
    リン☆だあくの副業術(主夫をしながらでも副業をやる情報のBlog)

    🔵お仕事依頼(グラフィックデザイン)
    🔵お知らせ
    🗺サイトマップ

    画像

    🙌サポートして頂けると飛び上がって喜びます!😍

    #エッセイ #コラム #生き方 #毎日更新 #毎日note #楽に生きる #楽しく生きる #人生

     
     
    🐰【主夫/営業/デザイナー/オンライン秘書🧑🏻‍🎨】うつ病・パニック障害だった私が、妻が単身赴任でワンオペ育児兼業主夫を10年間経験▶おかげで考え方激変し楽に生きてる😊|ブログ/note/SNS毎日更新▶note毎日連続更新1000日達成❗▶鬼継続人間|育児経験:育児相談に乗ります!👶

    あなたへのおすすめ