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「普通」という名の呪いを、わたしが解くまで

    多くの人が、その輪郭のぼやけた言葉のなかに入ろうと、あるいは外れないようにと、爪先立ちで生きているような気がします。
    かく言うわたしも、その一人でした。
    世に言う「普通の父親」や「普通の男」という、誰が決めたのかも分からない窮屈な服を無理やり着ようとしては、あちこちが破けてため息をつく。
    そんな人生の前半戦でした。

    でも、五十路を越えた今、鏡に映るエプロン姿の自分を見て、ふと思うのです。
    「まあ、これも悪くない」と。
    ガチガチに凝り固まっていた呪いが、いつの間にか解けていたことに気づくのです。
    これは、わたしが「普通」という名の呪いと格闘し、 最終的には仲良くなってしまうまでの、少し長くて、ちょっと滑稽な物語です。

    ✅他人の顔色ばかり伺っていた、あの頃のわたしへ

    わたしの実家では、父が世界の中心でした。
    正確に言えば、父の機嫌が、その日の世界の天気を決めました。
    アルコールという燃料を常に補給している父の周りには、いつ噴火するか分からない火山のように、ピリピリとした空気が漂っていました。
    家族は皆、その噴火に巻き込まれないよう、息を潜めて暮らすのが日常。
    それが、我が家の「普通」でした。

    幼いわたしは、生き残るためのスキルとして、高性能な「ご機嫌センサー」を体に搭載しました。
    父の足音、ドアの開く音、声のトーン。
    あらゆる情報を瞬時に分析し、安全な距離を保つ。
    この能力は、悲しいかな、社会に出てからも大いに役立ってしまいました。

    上司の眉間のシワを読み、同僚の溜め息の意図を探り、友人の言葉の裏にある感情を推し量る。
    常に誰かの「正解」を探して動くものですから、周りからは「気の利くいい人」に見えたかもしれません。
    しかし、心の中はすり減る一方でした。
    自分の意見というものが分からなくなり、ただただ波風が立たないことだけを祈る日々。
    忖度と自己犠牲の達人、なんて冗談めかして言いますが、その実態は、自分の人生のハンドルを他人に明け渡しているようなものでした。

    そんな生き方が、体に悲鳴を上げさせないはずがありません。
    頻脈、多汗、原因不明の体重減少。
    体に表れた異変は「バセドウ病」という診断を受けました。
    その後、心を蝕む「うつ病」と「パニック障害」も経験しました。
    今思えば、心も体も「もう、他人の顔色を伺うのは限界だ!」と、わたしに必死のストライキを起こしていたのでしょう。
    皮肉なことに、病気で動けなくなったことで、わたしは初めて強制的に「自分」と向き合う時間を得たのです。

    ✅妻の「何でもない冗談」が壊してくれた心の壁

    治療を経て、少しずつ自分を取り戻していくなかで、人生最大の転機が訪れました。
    妻との出会いです。
    彼女と、彼女の家族が、わたしの凝り固まった「普通」を、いとも簡単に破壊してくれたのです。

    忘れもしません。
    初めて彼女の実家を訪れた時のこと。
    食卓で、妻が父親である義父に、からかうような口調で冗談を言ったのです。
    その瞬間、わたしの全身が凍りつきました。
    高性能ご機嫌センサーが、経験したことのない異常値を叩き出し、警報を鳴らします。
    「まずい!噴火する!」
    しかし、次の瞬間、義父は「うるさいわ!」と笑いながら言い返し、部屋は温かい笑いに包まれました。

    わたしは、目の前で起きたことが理解できませんでした。
    「え、父親にそんな口の利き方をしていいの?」「殴られないの?」
    わたしの辞書には存在しなかった家族のコミュニケーション。
    それは、雷に打たれたような、とんでもないカルチャーショックでした。
    その時、腹の底から理解したのです。
    ああ、わたしのいた世界が「普通」じゃなかったんだ、と。
    妻の何でもない日常のワンシーンが、わたしが何十年もかけて築き上げてきた心の壁に、決定的なヒビを入れてくれました。

    そのヒビは、やがてわたしを大きく変えていきました。
    妻が仕事の夢を追いかけて単身赴任した時、わたしがごく自然に「じゃあ、家と子供のことは任せとけ」と言えたのも、あの日の衝撃があったからです。
    こうしてわたしのワンオペ兼業主夫生活が始まりました。
    「男は外、女は家庭」という世間の「普通」から見れば、少し変わった形だったかもしれません。
    でも、営業カバンを置いてエプロンを締め、子供たちの「おいしい!」という笑顔に包まれる毎日は、他人の顔色を伺っていた頃より、ずっと心穏やかで、誇らしいものでした。

    ✅まとめ:わたしの「当たり前」を、これからはわたしが作る

    もちろん、長年かけて染み付いた呪いが、ある日突然きれいさっぱり消え去るわけではありません。
    今でもふとした瞬間に、人の顔色を伺ってしまう臆病な自分が顔を出すことがあります。

    でも、今は分かるのです。
    「ああ、昔の癖が出てるな」と、その自分を少し離れたところから眺めて、やれやれと肩をすくめることができるようになりました。

    「普通」の物差しなんて、本当は人の数だけあるのかもしれません。
    わたしの家は、妻が外で夢を追いかけ、わたしが家を守り、子供たちはそれぞれの道を歩み始め、足元では三匹のオス猫が好き勝手に暮らしている。
    これが、紆余曲折の末にたどり着いた、わたしたち家族の「当たり前」であり、かけがえのない「普通」なのです。

    もし、あなたが今、「普通」という名の呪いに息苦しさを感じているのなら。
    大丈夫。
    その物差しは、誰のものでもない、あなた自身のものです。
    時にはそれをどこかに放り投げて、あなただけの「心地よい当たり前」を探しに行っても、誰も罰など与えませんから。

    さて、今日も愛妻弁当の箱を開けながら、わたしの「当たり前」の幸せを、ゆっくり噛みしめることにします。


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