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私が私と出会った夏の日

    やっぱり、あの時のお姉さんは、私だったのだ。
    書斎の窓から見える景色は、あの日と同じ、生命力に満ちた深い緑に染まっている。
    机に置かれた一杯のコーヒーからは湯気が立ち上り、私の心の揺らぎを映すかのように静かに揺れていた。
    いよいよ、私もあの時の「お姉さん」の出番が来た。
    過去の自分の窮地を救うため、目の前に静かに渦巻く、この時空の歪みに飛び込まなければならない。
    ごくり、と喉が鳴る。
    理論では理解していても、いざ自分がその特異点に身を投じるのかと思うと、足がすくむほどの勇気がいる。
    でも、やらなければならない。
    やらなければ、あの夏の日の少女、つまり過去の私は、命を落としていたかもしれないのだ。
    それを知っているのは、あの時の絶望を知る幼い私と、その記憶を抱いて大人になった、今の私しかいないのだから。
    記憶の蓋を開けると、むせ返るような夏の匂いとともに、あの日の出来事が鮮やかに蘇る。
    それは、まだ私が世界の広さも、その残酷さも知らなかった、小学生の夏休みのことだった。

    ✅ママと一緒に大勢でキャンプ

    その夏、私は家族や母の友人たち家族と一緒に、山奥のキャンプ場を訪れていた。
    大人たちは木陰にタープを張り、慣れた手つきでバーベキューの準備を進めている。
    男の子たちは我先にと川へ駆け下り、甲高い歓声を上げていた。
    私は、そういう活発な遊びにはあまり興味が持てず、一人で草むらにしゃがみこみ、花の蜜を吸う蟻の行列を飽きもせず眺めていた。
    「危ないから、あまり遠くへ行っちゃだめよ」

    ママの声が、背中に優しく降りかかる。
    私は「はーい」と元気よく返事をしながらも、心は別のものに奪われていた。
    視線の先に、見たこともないほど美しい、瑠璃色の翅(はね)を持つ蝶がひらひらと舞っていたのだ。
    その神秘的な輝きに魅せられた私は、まるで糸に引かれるように、ふらふらと立ち上がった。
    蝶は、まるで私を誘うかのように、木々の間を縫って飛んでいく。
    あと少し、あと少しで手が届きそうなのに、するりとかわされてしまう。
    大人たちの賑やかな声がだんだんと遠くなり、代わりに蝉時雨と風が木々の葉を揺らす音だけが耳に届くようになった。
    気づけば、私は鬱蒼とした森の中に、たった一人で立っていた。
    瑠璃色の蝶の姿は、もうどこにもなかった。

    ✅山で一人、そして私との出会い

    最初は、すぐに戻れると思っていた。
    来た道を辿れば、あの賑やかな場所に戻れるはずだと。
    しかし、目印のない森の中では、自分の方向感覚など何の役にも立たなかった。
    焦れば焦るほど、足元の木の根に躓き、汗が滲む。
    太陽は西の稜線に傾き始め、森は急速に光を失っていく。
    「ママ!」

    叫んでも、返ってくるのは自分の声の虚しい木霊だけ。
    心細さが恐怖に変わり、涙が溢れて止まらなくなった。
    日が完全に落ちると、森は闇の支配する世界へと姿を変えた。
    昼間はあんなに賑やかだった蝉の声は止み、代わりに梟のもの悲しい鳴き声や、得体の知れない獣が笹を揺らす音が、すぐそばから聞こえてくる。
    寒さと空腹、そして絶望が、小さな体を容赦なく蝕んでいく。
    もうだめだ、ここで死んじゃうんだ。
    そう思った時だった。
    カサリ、と背後で音がした。
    恐怖で体が凍りつく。
    けれど、それは獣ではなかった。
    闇の中からすっと現れたのは、一人の「お姉さん」だった。
    年の頃は二十代後半だろうか。
    私と同じように軽装だったが、その佇まいは不思議なほど落ち着いていた。
    「大丈夫?」

    その声は、震える私の心に温かく染み渡った。
    私は頷くことしかできない。
    お姉さんは私の隣にそっとしゃがみ込むと、持っていた水筒から温かいココアを注いでくれた。
    甘い香りが鼻腔をくすぐり、一口飲むと、体の芯からじんわりと温もりが広がっていく。
    「どうしてここにいるってわかったの?」

    私が尋ねると、お姉さんは少しだけ寂しそうに微笑んで、こう言った。
    「あなたがここにいるって、知っていたから。…大丈夫、あなたは助かる。もう少し頑張れば、麓から明かりが見えるわ。あの光の方へ、まっすぐ進むの」

    彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
    それは予言のようでもあり、約束のようでもあった。
    彼女が指し示した方向を、私は夢中で歩いた。
    一度だけ振り返ると、お姉さんは闇の入り口に静かに佇み、私を見守っていた。
    その姿を確認した途端、私は再び前に向かって駆け出していた。
    やがて、木々の切れ間から、お姉さんの言った通り、捜索隊の懐中電灯の光がいくつも見えたのだ。

    ✅あの時の事は私しか知らない

    助け出された後、私はお姉さんのことを大人たちに話した。
    しかし、誰もそんな女性は見ていないと言う。
    捜索隊の記録にも、そんな人物は存在しなかった。
    いつしか、それは私が恐怖のあまり見た幻か、あるいは山に棲む精霊のようなものだったのだと、自分に言い聞かせるようになった。
    けれど、心のどこかではずっと分かっていた。
    あのお姉さんの眼差し。
    それは、ただの同情や憐れみではなかった。
    まるで、私の痛みも、恐怖も、そしてこの先の人生さえもすべて知っているかのような、深く、そしてどこか懐かしい眼差しだったのだ。
    大人になり、様々な経験を重ねる中で、あの夏の日の記憶はより一層、その輪郭をはっきりとさせていった。
    そして、ある物理学の論文を読んだ時、点と点が線で繋がった。
    時空の連続性、因果のループ。
    すべてが仮説の域を出ない話ではあったが、私には確信があった。
    あの時、私を助けてくれたのは、未来の私なのだと。
    そして今、私はあの夏の日のお姉さんと同じ年齢になり、あの時と同じ状況が再現されるのを、ただ待っていた。
    目の前の空間が陽炎のように揺らめき、幼い私の悲痛な心の叫びが、時空を超えて響いてくる。
    さあ、行かなくては。
    あの日の私を救うために。
    この不思議な因果の輪を、私自身の手で完結させるために。
    時空の歪みに身を投じる。
    体が引き伸ばされ、ねじ切られるような感覚。
    しかし、その先には、暗い森で孤独に震える一人の少女がいる。
    私は彼女に温かいココアを渡し、正しい道を指し示さなければならない。
    ふと、一つの疑問が脳裏をよぎる。
    私が過去の私を救うことで、今の私は存在し続けることができる。
    では、このループを最初に始めたのは、一体誰だったのだろうか。
    もし、誰も助けに来なかった最初の世界線があったとしたら、そこにいた「私」は…。
    思考は、ねじれた時空の中で霧散していく。
    私がこれから果たすのは、救済なのだろうか。
    それとも、ただ決められた役割を演じるだけなのだろうか。
    もはや、それを確かめる術はない。
    私の意識は、ただひたすらに、あの夏の日へと向かっていく。
    瑠璃色の蝶が舞う、あの運命の夏の日へと。


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