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䞉浊芳聖䌝 14、日曜院の䜏職時代3

    日曜院の䜏職時代3

    日曜院
    恵照山日曜院愛知県蒲郡垂枅田町門前、昭和45幎頃

    、錊旗䌚に入䌚

    芳聖は、昭和2幎19274月、錊旗䌚に入䌚した。

    錊旗䌚ずは、昭和2幎1927、遠藀友四郎無氎倧森䞀声・䞉浊延治らが、昭和維新運動を掚進する目的で立䞊げた囜家䞻矩の団䜓で、山口鋭之助、枥矎勝も顧問になっおいる。芳聖は、実兄の「䞉浊延治」に勧められ4月に入䌚し6月には䞉河支郚を立䞊げた。

    錊旗䌚に入䌚したお蔭で芳聖は、圓時、錊旗䌚の顧問であった理孊博士・宮䞭顧問官「山口鋭之助」に垫事しお本接孊もず぀がくを孊ぶこずが出来るようになった。

     出雲囜珟・島根県束江に束江藩士・山口軍兵衛瀌行の䞉男ずしお生たれる。1884幎、東京倧孊理孊郚物理孊科を卒業。
     東京倧孊予備門教諭、第䞀高等孊校教授を歎任。1897幎、京郜垝囜倧孊理工科倧孊教授に転じ、文郚省から留孊生ずしおドむツ・フランスに掟遣され3幎間孊んだ。1901幎、理孊博士号を取埗した。
     その埌、孊習院に移り次長に就任。1905幎、第9代院長ずなり翌幎たで圚任。さらに、宮内省に転じ、図曞頭、諞陵頭を歎任し、宮䞭顧問官ずなる。

    芳聖の著曞から匕甚したす。

    「錊旗䌚」に入䌚したお蔭で、顧問の「山口鋭之助」先生の埡邞宅ぞ盎々参䞊しお、「倧囜隆正」先生の「本ツ孊」を埡教導しお頂く事が出来る様になりたしお、斯くしお䞀倧転機ずなった昭和二幎も終りたしお、昭和䞉幎戊蟰幎の明治維新以来䞀還暊六十幎を経た幎を迎えたした。
    『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』序文31頁

    、䞭田圌生ずの瞁談

    昭和2幎19279月、数えで24才の芳聖に、瞁談がもちあがった。盞手は芳聖が東京の孊生時代に家庭教垫をしおいた女性で、お茶の氎女子高等垫範孊校を昭和2幎3月卒業した「䞭田圌生明治40幎3月生れ」さん。父芪は、東京郜緎銬区の豊玉刑務所の所長をしおいた「䞭田達治」氏。

    芳聖は、倧正15幎1926幎12月1日に、恵照山日曜院の䜏職に就任したが、6月には院代を眮いお、月の内半分は遠祖の埡陵探し、埌の半分は東京郜䞭野区の「新井薬垫」に隣接した「高橋」ずいう家の二階を間借りしお、東京での修逊・研鑜ず維新運動に充おおいた。

    その頃、孊生時代に家庭教垫をしおいたよしみで「䞭田家」を蚪問した所、䞭田達治氏ず挢孊で意気投合し、芳聖が月2回ほど䞭田家を蚪問し、䞭田氏は挢詩を講矩し、芳聖は四曞五経を講矩する内に昵懇の仲ずなり、䞭田氏の芁望で嚘の匥生を嫁に貰っおほしいず蚀われおいた。

    この「圌生さん」の姉「文代」さんが、名叀屋に嫁いでいたので、芳聖は、家庭教垫時代のよしみで、京郜ぞ出る時などに、時々遊びに行っおいた。その関係で、芋合いの話しが出お、芳聖は「圌生さん」ず名叀屋でお芋合いをした。

    その時、䞀床、日曜院が芋たいずいう事になり、昭和2幎1927幎9月、䞭田父嚘が、愛知県蒲郡垂の日曜院ぞやっお来お2泊しお垰宅し、昭和2幎1927幎の11月に結婚匏をする運びずなった。

    お寺の芋孊から垰った「䞭田父子」が、芳聖を芪族に玹介するため、芳聖に「䜏職の姿」で䞭田家に来おくれず連絡しおきたので、芳聖は翌10月、それならば本圓の坊䞻の姿を芋せおやろうず思い立ち、久しぶりに頭を剃り䞊げ、墚染めの法衣に手甲を぀け、頭陀袋を提げお鉄鉢を持ち、錫杖を぀いお、修行僧が托鉢する姿で䞭田家を蚪問し芪戚䞀同の垭に出た。

    するず、墚染めの衣を着お頭を剃り䞊げた芳聖の姿を芋た芪戚䞀同が、あの乞食坊䞻の家内にするこずは可愛そうだず心配しお倧反察したので、圌生さんもその気になっお、この瞁談は砎談ずなった。

    芳聖は、単玔に「僧䟶の本圓の姿はこういうものだ」ずいう事を芪戚の方々に芋せようずしたのだが、結局、この瞁談は、䞲呂䞻宰神の蚈画には無かったので砎談になった。䞲呂䞻宰神の蚈画は「䞲呂の解明」にあった。

    コラム・超䞖志のここだけの話
    京郜の孊生時代の芳聖の初恋の女性、小田垣枅子さんも、䞭田匥生さんも明治30幎(1907)䞁未幎生れである。尊良芪王劃の埡匣殿 (西園寺公顕女)も䞁未幎生れである。蚘録は無いが、恐らく束良倩皇皇后綟子姫長慶院法皇王女も䞁未幎生れであったず思う。

    、䞭西久次郎氏が青朚文献を携えお来る

    昭和2幎19279月、䞭田父嚘が2泊しお垰宅した翌日の事である。代々䞉浊家に仕えおいた豊川垂埡油町欠間の「䞭西久次郎」氏明治11幎昭和26幎・青朚和田尉盛勝の子孫が、䞭西家に䌝わる宀町時代に曞かれた叀文曞「青朚文献」を携えお日曜院にやっお来お次のように述べた。

     䞉浊家は長慶倩皇の皇孫である。貎家の埡家宝は倧正2幎埡尊父が亡くなられお財産限りをせられた時、私の家が昔からお出入りであった関係で、運送代金䞉癟䞡の圢ずしお、私がそっくり持ち垰っお私の凊に保管しおある。
     今日、長慶倩皇が皇統譜に埡登列になった䞊は、䜕ずかしお埡陵を䞉河に埡決定䞋さる様に宮内省ぞ請願せねばならぬ。䞉浊家の事に぀いおは私がよく知っおいるから。『䞲呂哲孊ず地文孊』昭和40幎5月号14頁、芁玄

    芳聖は、䞭西氏に「私が長慶倩皇の皇孫であるかどうかずいう事は別問題ずしお、千皮文献に明瞭に蚘されおいる以䞊は䞀本朚䞇犏寺に玍むずいう䜍眮を探し出しお、宮内省に請願しお調査しお頂くべきだ」同䞊著ず申し䞊げたそうだ。

    【参照】䞉浊家の系図には長慶倩皇に぀いお「応氞十六幎薚六十䞃、播州西山に葬る、埌䞉州五井䞀本朚に遺品を玍めお陵ずす」ずあり、青朚文献には「埡尊䜓五井䞀本朚䞇犏寺に玍む」ずなっおいた。

    青朚文献別名千皮文献ずは、豊川垂埡油町欠間の䞭西家に䌝わる、南朝忠臣千皮忠顕の子孫「青朚平銬」が応氞30幎1423ず31幎1424に曞き残した芚え曞。

    詳现は「束良倩皇正良 №79」を参照䞋さい。

    、綟姫塚䞊臈塚を発芋

    船明
    静岡県浜束垂倩竜区船明地図マピオン

    この時、芳聖が芋た青朚文献の䞭に「束良芪王の埡坊塚」の所圚地、「長慶倩皇の皇女綟姫」の萜ち行き先の地名が曞かれおあったのず、「圌生さん」の日曜院蚪問などの䞀連の出来事が、その時䞍明であった遠祖「束良倩皇皇后綟姫」の埡陵を探す神颚䞲呂解明䞊、倧倉圹に立った。

    䞭西久次郎氏が携えおきた叀文曞「青朚文献」には、束良倩皇・皇后綟姫に぀いお次のように曞かれおあった。原文は党郚挢字だが読みやすくするため送り仮名を補った
    「寛成芪王の皇子束良芪王は䞉州五井矎䞖賜原に萜ち絊う、薬垫寺建立の開基成り、成韍ず号し絊う」「成韍は応氞二十四幎五月、埡坊に厩ず」
    「寛成芪王の息女綟姫は宮路䜐倪倫ず遠州光明寺村に萜ち絊う」

    この時、束良倩皇の埡陵は、6歳の時、父・垂次郎ず䞀緒にお参りした「ご先祖の墓」埡坊塚、豊川垂埡油の束䞊朚附近であり、その皇后綟姫の萜ち行き先は「静岡県磐田郡光明村」である事が刀明したのである。

    そこで、芳聖は、20萬分の1の地図でその圓時䜏職をしおいた「卍恵照山日曜院」ず「束良倩皇埡陵」を結んで西方に延長した所、倉敷垂の「匥生町」を䞲呂し、東方に延長するず「静岡県磐田郡光明村」を䞲呂しおいた。

    「匥生町」「湊川神瀟」「恵照山日曜院」「束良倩皇埡陵」「静岡県磐田郡光明村」

    匥生
    岡山県倉敷垂地図マピオン

    この䞲呂は、南朝忠臣倧楠公奉斎の「湊川神瀟」を䞲呂しおいたので、芳聖は、楠朚正成公のお導きに盞違ないず感涙に咜び぀぀感謝した

    芳聖が静岡県磐田郡光明村浜束垂倩竜区に調査に出かけたずころ、二俣から光明村に入るずすぐ船明ず云う集萜があり、そこに菊氎の王の付いた五茪の塔のある瓢箪型をした塚を発芋した。浜束垂倩竜区船明2619番地、秋葉街道152号線の東偎

    芳聖が、その傍らに䜏んでいる「杉本宇吉」ずいう人に聞いおみるずその塚は、通称「䞊臈塚」ず呌ばれおいるず蚀われたので、ここに間違いないず確信し、「阿匥陀経」を䞀巻読経しお、ねんごろに回向した。

    䞊臈塚
    浜束垂倩竜区船明地図マピオン

    因みにこの塚の五茪の塔の菊氎の王は「菊」即ち皇族が、「氎」即ち挂流されおいる、ずいう意味だそうだ。

    䞊臈塚の䜍眮が特定できたので、垰宅埌䞋蚘の䞲呂が解明できた。

    画像
    䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』269頁

    「圌生」―「湊川神瀟」―「元町」―「黒田」―「垂子」―「卍恵照山日曜院」―「束良倩皇埡陵」―「西黒田」―「光明村船明」―「黒田」

    、長慶倩皇の埡陵は嵯峚慶寿院址に決たる

    これは埌日談ですが、昭和5幎1930、青朚文献に基き、䞭西久次郎氏が䞭心ずなっお東䞉河豊川垂埡油䞀本朚における長慶倩皇の埡陵の調査を宮内省に䟝頌したずころ、

    宮内省は係官の是沢恭䞉氏を掟遣しお䞀週間ほど調査したが、初めから真剣で調査する気などなく、結局、長慶倩皇の埡陵は、昭和19幎1944幎2月5日、京郜の嵯峚慶寿院址の地に決たり、

    同幎2月23日、宮内省䞻催の「長慶倩皇山陵埡治定奉告の儀」が執行され、嵯峚東陵の築造が進められる事になり、9月4日、「修補竣工の儀」が執行された。

    しかし、芳聖によるず、この決定は日本神界の埡神霊がお喜びになられなかった為、昭和19幎194412月7日には東南海倧地震マグニチュヌド8.0、死者1223名、党半壊5400戞が、昭和20幎1945幎1月13日には䞉河倧地震マグニチュヌド7.1、死者2306人、党半壊2侇3千8癟戞が起きたのだそうだ。

    これらの地震は、戊争䞭の報道管制によっお新聞・ラゞオなどの報道があたり詳しくなされなかったので、あたり知られおいないが、倚くの犠牲者が出た倧地震であった米軍による人工地震説もある。

    党おの地震が神霊界の意思衚瀺であるなどずいうこずは垞識では玍埗できないこずだが、私は、地震が神霊界の意思衚瀺であるず思われる個人的な䜓隓をしたこずがあるので、そういう堎合もあるず思う。


    🟣バックナンバヌ総合

    🔎情報拡散のお願い

    この蚘事に到着された貎方様ずのご瞁に感謝しおいたす。これは皇祖神・倩照倧埡神から地䞊に掟遣された神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖が解明した神颚䞲呂や䞉浊芳聖䌝の玹介蚘事のバックナンバヌです。

    䞉浊芳聖が解明した神颚䞲呂には、日本民族の進むべき道が、明確に瀺されおいたす。日本民族の危急存亡の時に圓たり、䞀人でも倚くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散䞋さいたすよう、宜しくお願い臎したす。

    䞲呂䞻宰神は、なぜ、長期間かけお神颚䞲呂を構築し、このように神皇正統の倩皇を顕地されるのかこの䞀点を培底的に講究したすず、神颚䞲呂の芁諊が理解でき、今我々は、䜕を第䞀ずすべきかが分かりたす。ここに日本民族の存亡が掛かっおいるのです。真実に目芚めたしょう

    2千幎以䞊の長幎月を掛け神颚䞲呂を構築された、䞲呂䞻宰神・倩照倧埡神様のご苊心ず、生涯を掛けお神颚䞲呂を解明された䞉浊芳聖垫のご努力が、日本囜ず日本囜民の皆様の幞せの為に生かされたすよう願っおやみたせん。
    神颚䞲呂は、神界から日本民族ぞの目に芋えるメッセヌゞ啓瀺です。

    神颚䞲呂ず神颚䞲呂に昭瀺されおいる「神皇正統家」は日本民族の宝ですさらに研究を進めたしょう
    䞀人でも倚くの方に、神颚䞲呂の存圚をシェアしお頂きたすよう宜しくお願いしたす。
    神颚䞲呂を䞻宰しおおられる神様は、倩照倧埡神様ですので、䞲呂の存圚を䞀人でも倚くの方々にお知らせするず、倩照倧埡神様がずおもお喜びになられたす。

    出兞は䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』を始め『䞲呂哲孊第䞀茯』『神颚䞲呂』『䞲呂哲孊』『䞲呂哲孊ず地文孊』『神颚䞲呂の解明』等、通算181号いずれも神颚䞲呂講究所発行、1955幎1971幎 を参考にしお、研究成果を加味したした。

    🟡前号№127   
    🟢次号№129

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    🟡最埌たでお読みいただき有り難うございたす。
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    ブ ロ グ 䞲呂哲孊研究䌚
    メ  ルshinpukanro024@yahoo.co.jp
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    青幎時代に、神皇正統家に極秘で䌝承された神颚䞲呂を孊ぶ神瞁に恵たれ、爟来、现々ず䞲呂哲孊の研究を実斜しお参りたした䞀孊埒です。神颚䞲呂を玹介しながら、日本神界の神経綞かみしくみを研究考察しお参りたす。䞀人でも倚くの方々に䞲呂哲孊の存圚を知っお頂ければ望倖の喜びです。

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