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洋書を読むのに、独学者である僕が必要だったもの


    先日『FLOWERS for ALGERNON』という小説を読み終わった。

    多くの人には『アルジャーノンに花束を』というタイトルの方が馴染みがあるかもしれない。

    なぜわざわざ原著のタイトルを出しているかといえば、別にカッコつけたいわけでもなく、いや、カッコつけたい気持ちがないわけではないんだけども、それは過去の「これ英語のまま読めたらかっこいいだろうな」と思う僕自身の憧れへとっているポーズであって、まあつまるところ、自画自賛の一部とも言えなくもないが……。

    とにかくこの作品は、僕が読んだ洋書の中で最も長いもの一つであった。

    ページ数にして、300。

    しかもそれなりに難しい単語や言い回し、専門用語などをくぐり抜けて、巻末までたどり着いたのである。

    とかなんとか言っているものの、僕が手に取ったのは講談社がご丁寧に日本語のルビを振ってくれているもの。

    そんな補助輪があっても、読了にはおよそ半年という時間を要した。

    ただこの補助輪、読者の英語読解的成長という面をまったく無視しているらしく、最終盤になっても『At first/最初に』『it’s important/重要だ』といったおせっかいを焼いてくる。

    まあこれは、英語学習者のためのものというよりも、この作品を原著で楽しむ、読み通すためのものという性質があるがゆえなのだろう。

    だからもはやそのターゲット圏ではない僕という人間が文句を言うのは、ファミレスに行って高級ワインをご所望するが如く見苦しいものなので、つつしんで自重しようと思う。

    ルビ、卒業、ということで。

    しかし、この記事は『FLOWERS for ALGERNON』の書評ではない。

    理由は後述するが、それは僕自身のとある価値観に由来している。

    それは言語の神秘性とでも呼ぶべきものへの信仰である。


    ◇


    翻訳というもの全てに言えるのだが、一つの事象を二つの言語で表現したとして、それらがそっくりまったく同じことを表現するという事態は絶対にありえない。

    『Car』と『車』という二つの語が並んでいたとして、これらの距離が限りなく近づくということはあっても、ぴったり重なるということはない。

    僕は別に、こういうことを取り上げて、日本語がやいの、英語がやいの、ましてや翻訳がやいのと言いたいわけではない。

    ただ日本語には日本語の、英語には英語の秩序なり、雰囲気なり、美徳なりがあり、それは神秘なのであり、そしてそれを手探りで追いかけ、尻尾を掴みかけたり、ときには体温を感じたりできるようになることが、他言語学習には必要なのだなと感じたというだけだ。

    ゆえに図書館の海外文学コーナーに並べられたあれやこれやは、どれをとってもその作者の作品であるとは言えないわけである。

    それはそれ。

    僕個人の肌感覚では、訳文の面白さも理解しているつもりである。

    レイブラッドベリや、カズオイシグロをはじめ。

    ただ僕が英語をしているのは、彼らのような作者自身の、あの迫真の演技の俳優の、地図を片手に街行く異邦人の肉声に迫りたいからということになる。

    とかなんとか理屈をこねているが、僕がこの作品を、きちんと読めたとは言い切れないこともまた事実で。

    きちんと読めないことに慣れた、という方がニュアンスとしては正しいのかもしれない。

    実際、話が込み入ってくるにつれて、「これなんだっけ」とすら思えないような単語に出会うこともしばしばだった。

    だんだんと英語の情報の並び、というものが身についてくると「読めるけれども意味はわからない」という不思議な体験をすることになる。

    漢字を習いたての小学生の時分なんかは、常にこんな感じだったのかもしれない。

    ここで役に立ってくれるのが想像力である。

    いや、もはや妄想力、といってしまってもいいのかもしれない。

    例えば「I have a apple, But ~」という文があったとしよう。

    そして~の部分は、未知の単語郡で構成されているものとする。

    ここで一般的見地からすると、読む手を止めてその単語群を辞書でひいたり、わからないゆえに相応のストレスを感じてしまい、作品を読むことそのものから遠ざかってしまったりするかもしれない。

    しかし僕のように作家を志し、日々妄想に邁進し、逆に現実から遠ざかってしまっている人間からすれば、これは格好の学びの機会になる。

    「りんごは持ってるけど、腐らせちゃって……」みたいなことを言っているのではなかろうか。

    いや、あるいは「確かにりんごは持っている。持ってはいるが、きさまにやる分はない」という緊迫した駆け引きが始まったのかもしれない。

    はたまた「持ってるぜ。ただし……俺の胃の中でな!」といった逆転劇のさなかなのかも……。

    いずれにせよ、こと小説という場においては、半生をささげ、自ら手を動かしてきた僕のような読み手にとって、わからない単語の三つや四つ、むしろ妄想力をくすぐられるというものなのだ。

    さらにここにコンテクストというものが加われば、およそ「まったくわけがわからない」という状況はなくなるのである。

    今まで何気ない会話をしていたのに「待てよ、今持っているこのりんご。これははたして本当にりんごなのか」という哲学的問いが始まる可能性は文脈的にみて低いのである(ないわけではないけれど)。


    ◇


    さて、さんざんふんぞり返って偉そうなことを言ったので、最後にこの考え方の良くないところにも言及しておこうと思う。

    それは「読み手ごとに、認識の誤差が生じすぎる」という点である。

    僕は自分が読み終えた洋書の内容について、誰かになにか感想的なものを共有したことはない。

    「え、これってそんな話だっけ」と言われることを過度に恐れているから。

    だから僕は、未だに書評ができない。


     
     
    日々にユーモアをひとつまみ。 日常に肩が凝りそうな方へ、知的なユーモアを。 note歴4年、物書き歴10年。 知的変態。元書店員。乙一好き。 はじめての方は、こちらのサイトマップをどうぞ。 https://note.com/otukawa_/n/ncecf2de58b19

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