
流し台の下|拝啓文芸部「残されたメモ」
二十六歳ではじめてひとり暮らしをしたアパートを出るとき、流し台の下の扉の裏に、メモを一枚貼った。
「冬は結露がひどいです。でも、朝日がとてもきれいな部屋です」
次に住む誰かへの、ちょっとした置き土産のつもりだった。
あれから九年。結婚して、五年で離婚して、私はまたこの街に戻ってきた。
不動産屋で間取り図をめくっていると、見覚えのある部屋があった。二〇一号室。空いていた。
迷ったのは、一瞬だけだった。
鍵を受け取って、真っ先に流し台の下を開けた。
メモは、まだあった。紙は黄ばんでいたけれど、私の字はまだ読めた。
その下に、知らない字が二行、増えていた。
「結露、本当にひどかったです。窓は毎朝拭きました」
「朝日、本当にきれいでした。おかげで早起きになりました」
思わず笑ってしまった。会ったこともない人たちが、同じ窓を拭いて、同じ朝日を見ていたのだ。
三行目は、もっと小さな字だった。
少し右上がりの、見慣れた癖のある字。
「ここで君が毎朝何を見ていたのか、やっとわかった」
離婚したあと、彼がこの街に越したことは、人づてに聞いていた。まさか、この部屋だったとは思わなかった。
結婚していたころ、この部屋の話をしたことがあった気がする。朝日がきれいだったと、一度くらいは。彼はそれを、覚えていたのだろうか。
翌朝、六時過ぎに目が覚めた。
カーテンを開けると、窓は結露で真っ白だった。袖で拭くと、その向こうから光が差しこんできた。
九年前と、同じくらいきれいだった。
私はペンを取って、四行目を書いた。
「知ってる。一緒に見ればよかったね」
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、Mr.Qさんの「拝啓文芸部」のお題「残されたメモ」への参加作品です。
会ったことのない誰かと、同じ場所で同じ景色を見ていた。そんなつながりを、一枚のメモから書いてみました。
心に残った言葉や場面があれば、ぜひコメントで教えていただけたらうれしいです。
ほかの記事や作品は、こちらのマガジンにまとめています。
家族との日常や、AIを使って感じたこと。
→ くらしのひとこま|あおのエッセイ
創作企画のお題から生まれた作品たち。
→ お題から生まれた物語|企画参加作品集
短編や連載、二次創作などの物語。
→ 物語の本棚|小説・創作作品集
はじめましての方は、こちらもどうぞ。
→ あおと家族の自己紹介
企画元のお題記事はこちらです。