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拝啓、気まぐれな猫へ

    拝啓、気まぐれな猫へ。

    今日も来なかったね。 別に、待っていたわけじゃない。 ただ、君が来るかもしれないと思って、窓を少しだけ開けておいただけだ。 夜はもう涼しいから、風がよく入ってくる。 カーテンが揺れるたびに、君が来たのかと思ってしまう。 我ながら、馬鹿みたいだ。

    君は気まぐれだから。 来るときは毎晩来るくせに、来なくなると、何日も顔を見せない。 最初に会ったのは、去年の秋だったね。 仕事から帰ってきたら、窓の外に君がいた。 こちらをじっと見ていた。 私が窓を開けると、逃げるでもなく、鳴くでもなく、ただ座っていた。 「寒いの?」 そう聞いたら、君は少しだけ目を細めた。 あれが返事だったのだろうか。

    それから君は、ときどき来るようになった。 毎日ではない。 二日続けて来たかと思えば、一週間来ない。 忘れた頃に、何事もなかったような顔をして窓の外に座っている。 だから私は、君を待たないことにした。 待っていると、来なかった日の寂しさが増えるから。 それでも窓は、少しだけ開けておいた。 君が来たとき、すぐに気づけるように。

    変だよね。 君は私の猫じゃない。 名前すら知らない。 撫でさせてもくれない。 手を伸ばすと、すぐに一歩下がる。 それなのに、君が来る夜だけは、少しだけ嬉しかった。

    今日も来なかった。 だから、手紙を書くことにした。 君には読めないだろうけど。 もし読めるのなら、伝えておきたいことがある。

    私は、あの人にも同じことをしていた。 帰りが遅い夜は、窓を少しだけ開けていた。 「いつ帰ってきてもいいように」 そう思っていた。 馬鹿だよね。 窓を開けていたって、帰ってくる人は帰ってくるし、帰ってこない人は帰ってこない。

    あの人がいなくなってから、もう三年になる。 三回目の秋だ。 最初の頃はただ部屋の隅で泣いていたのに、三年も経つと、一人で食べる夕飯にも、誰もいない部屋の静けさにも、すっかり慣れてしまった。 そうやって少しずつ平気になっていく自分が、どこか寂しかった。

    それなのに私はまだ、ときどき玄関の音を聞く。 鍵が回る音。 ドアが開く音。 「ただいま」 その声を。

    もちろん、聞こえるはずがない。 分かっている。 分かっているのに。 君が窓の外にいると、少しだけ思ってしまう。 もしかしたら、また帰ってきたのかもしれない、と。

    だから君には、少し感謝している。 君が来る夜だけは、過去を捨てきれない自分を、まだ誰かを待っている自分を、許せる気がするから。

    勧められたわけでもないのに、窓を開けて待ってしまう。 でもね。 もう、待たなくてもいいのかもしれない。 君が来なくても。 窓を開けていなくても。 あの人が帰ってこなくても。 私は、ちゃんと朝を迎えられる。

    だから、明日も来なくていい。 無理に来なくていい。 君は気まぐれな猫なんだから。 来たいときだけ来ればいい。 私はもう、待っていないから。

    ……そう書いてから、窓を閉めようとした。 そのとき。 小さな音がした。

    「にゃあ」

    振り返ると、窓の外に君がいた。 いつものように、少し離れたところに座っている。 私は笑った。 「なんだ。来たの」

    君は答えない。 ただ、いつものように私を見ている。 私は窓を開けた。 けれど、今日は手を伸ばさなかった。 君も、近づいてこなかった。 知識なんていらない。 その距離が、ちょうどいい。

    しばらくして、君は振り返った。 そして、暗い庭の向こうへ歩いていった。 私は追わなかった。 もう、追わなくていい。

    窓を閉める。 カーテンを引く。 部屋の明かりを消す。 それから私は、初めて窓を少しも開けずに眠った。

    朝になれば、きっと君はいない。 それでいい。 来ない日があるから、私は君を待てた。 そして今日からは。 来なくても、君を思い出せる。

    拝啓、気まぐれな猫へ。 また、いつか。 来たいときに来てください。 私はもう、待っていません。

    自由にしていてください。 来てくれたら、少しだけ嬉しいです。



    【参加企画】 Mr.Qさん開催「拝啓文芸部」のお題「気まぐれな猫」への参加作品です。 


     
     
    心理・哲学・人間観察が好きです。日常に潜む違和感や、言葉にならない感情を物語にしています。

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