
残された言葉は、誰のものなのか / 哲学に意味はあるのか 第八.五話 【残されたメモ|#拝啓文芸部】
金曜日の午後。
学生が研究室に入ると、先生は机の上に積まれた書類を確認していた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は少し散らかっていてね」
学生はいつもの椅子に座ろうとして、机の端に置かれた紙の束に気づいた。
「これ、動かしてもいいですか」
「ああ、すまない。そちらに寄せておいてくれるかな」
学生が紙の束を持ち上げると、その下から小さなメモ用紙が現れた。
『白い花』
それだけが書かれていた。
「……白い花?」
学生は思わず声を上げた。
「先生、これ、何のメモですか」
「ああ。前に、中庭の花の名前を調べようとしただろう」
「タマスダレのことですか」
先生は紙を覗き込んだ。
「そう。あの日、君が帰ってから書いたんだ」
「先生、あのあとメモしてたんですね」
「答え合わせを忘れないようにね」
学生は少し笑った。
「でも、これだけ見ても何の花か分かりませんね」
「確かに、白い花はたくさんあるからね」
「名前を調べるためだったんですか」
「そうだよ」
「もう調べたのに、残してたんですね」
先生はメモを手に取った。
「捨て忘れていたんだろうね」
「じゃあ、もういらないですね」
学生がそう言うと、先生は紙をくずかごの方へ動かした。
「あ、待ってください」
先生の手が止まった。
「どうしたんだい」
「……何でもないです」
学生は少し考えてから言い直した。
「いや、何でもなくはないんですけど」
「うん」
「何か、捨てるのがもったいない気がして」
先生はメモを机に戻した。
「もう用事は済んでいるけれどね」
「そうなんですよね。名前も分かったし、別に大事な紙でもないのに」
先生は湯を沸かし、学生の前に薄めの紅茶を置いた。
「ありがとうございます」
学生はカップを受け取り、もう一度メモを見た。
「これを見ると、あの日のことを思い出すんです」
「花の名前を調べたこと?」
「それもですけど、先生が『知らない』って普通に言ったことです」
「そうだったのか」
「先生でも知らないことがあるんだって、意外でした」
先生は少し笑った。
「答えられないことの方が多いくらいだよ」
「それを聞いて、少し安心したんです」
学生は紅茶を一口飲んだ。
「私、分からないことを人に聞くのって、苦手なんです」
「前にも、そんな話をしていたね」
「でも先生が、あの花の名前を知らないって普通に言ったでしょう」
「うん」
学生はメモを指で押さえた。
「私が安心したことなんて、このメモには書いてないんですよね」
「書いたときには、君がそう感じていたことも知らなかったからね」
学生はしばらく考えた。
「先生、記憶って、どこにあるんでしょう」
「ずいぶん大きな質問だね」
「頭の中って言われたら、それまでですけど」
「では、もう少し違う話をしてみようか」
先生は自分のカップを持って席に戻った。
「ジョン・ロックという哲学者は、記憶と、自分が自分であることの関係を考えたんだ」
「自分が自分であること?」
「昨日の君と今日の君は、同じ人だろう?」
「もちろんです」
「では、昨日の出来事を全部忘れてしまったら?」
「……それでも私だと思います」
「そう思うよね」
「ロックは違うんですか」
「ロックは、意識が過去の経験に届くことを、人格の同一性を考えるうえで重視したんだ」
学生は少し考えた。
「つまり、覚えているから、同じ自分だって分かる?」
「そういう方向の考え方だね」
「でも、忘れたこともいっぱいありますよ」
「そこが、この考え方の難しいところなんだ」
「忘れたら、昨日の私じゃなくなるんですか」
「少なくとも、記憶だけで人を説明しようとすると、そういう問題が出てくる」
学生は少し眉を寄せた。
「それなら、私が忘れても、先生が覚えていたらどうですか」
「どういうことかな」
「あの日のこと、私が全部忘れたとしても、先生は覚えてるかもしれないでしょう」
「そうだね」
「それって、私の過去が消えたことにはならないですよね」
「少なくとも、君がここに来て話したという出来事は消えないね」
学生はカップを両手で包んだ。
「何だか、少し安心します」
「どうして?」
「自分が忘れたことを、誰かが覚えてくれてるかもしれないから」
「うん」
「逆もありますよね。先生が忘れたことを、私が覚えてるとか」
学生は紙を持ち上げた。
「先生は、何を忘れないためにこれを書いたんですか」
「花の名前を調べることだよ」
「やっぱり、そうですよね」
先生は少し考えた。
「でも、君があの日の私の言葉を覚えていたことは、今初めて知った」
「覚えててほしかったんですか」
「いや。覚えてもらうつもりで言ったわけじゃないからね」
「そういう言葉の方が、残ることもあるんですね」
「あるのかもしれないね」
学生はメモを見た。
「この紙には『白い花』しか書いてないのに」
「君が思い出すのは、花だけじゃなかった」
「はい」
「私も、君が何を覚えているのか知らなかった」
「じゃあ、このメモ、先生にとっても意味が変わりましたね」
「そうだね」
「ちょっと得した気分です」
二人は少し笑った。
窓の外では、木の枝が風に揺れていた。
「先生」
「何だい」
「人って、自分が何を残してるか、分からないものなんですね」
「どういうことかな」
「覚えてほしいことを言っても、忘れられるかもしれない。でも、何でもないつもりで言ったことが、誰かに残ることもある」
「そうだね」
学生は少し黙った。
「だったら、ちゃんとしたことを言おうって考えすぎなくてもいいのかもしれません」
「そう思う?」
「だって、何が残るか分からないなら、全部は選べないですから」
「確かにね」
「先生には普通のことでも、私にはそうじゃなかったんです」
先生はうなずいた。
「そう言ってもらえるとは思わなかったな」
「先生も、何か分かったことがありました?」
「君が何を覚えていたか、かな」
学生はメモを机に戻した。
「でも、何でも取っておいたら、物だらけになりますね」
「それは困るね」
「先生の机みたいに」
「耳が痛いな」
学生は笑った。
しばらくして、紅茶を飲み終えた学生はカップを流しに運んだ。
「先生、そのメモ、どうします?」
「さっきは捨てようと思ったけれど」
「けれど?」
「もう少し、ここに置いておこうかな」
学生は少し考えた。
「そうしてください」
「君が持って帰ってもいいよ」
「いえ、先生が持っててください」
「どうして?」
「先生が忘れたとき、また見つけられるように」
先生はメモを机の端に置いた。
学生は鞄を肩に掛ける。
「じゃあ、また来週」
「また来週」
扉が閉まった。
研究室に静けさが戻る。
先生は机の上のメモを見た。
『白い花』
花の名前は、もう分かっている。
調べるためのメモとしては、とうに役目を終えていた。
先生は紙を手に取り、裏返した。
裏には、何も書かれていなかった。
あの日、学生が何を感じていたのか。今日聞くまで、先生は知らなかった。
そして学生は、今日までこのメモの存在を知らなかった。
同じ時間の中にいたのに、お互いの知らないことがある。
先生はメモを表に戻した。
『白い花』。たったそれだけの言葉が、思いがけず、二人の間にもう一度あの日を連れてきた。
何を覚えていられるかは、分からない。何が誰かに残るかも、選べない。
先生は紙を捨てず、いつもの本の脇に置いた。
次にあの花が咲いたら、今度は名前を知っている。
けれど、名前を知らなかった日のことも、忘れずにいられたらと思った。