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猫が先に、住みはじめた|拝啓文芸部「未開封の段ボール」

    「食器」と書いた未開封の段ボールが、猫の体温で少し温かくなっていた。

     引っ越して十八日。僕の茶碗は、まだその腹の下にある。

     麦は、箱の蓋から前足を一本だけ垂らして眠っていた。茶色い縞の背中に、窓から入る日差しが当たっている。鼻の横の白い毛が、ときどき小さく動いた。

    「そろそろ、開けたいんだけど」

     耳が片方だけ、こちらを向いた。

     それきりだった。

     麦の皿とトイレは、引っ越した日に置いた。水の場所も、ごはんの時間も、前の部屋と変えていない。

     変わったのは、僕の夕飯だった。

     コンビニの容器のまま食べ、使い捨ての箸を捨てる。マグカップだけは仕事用の鞄に入っていたので、飲み物には困らなかった。

     段ボールを開けられない理由を聞かれたら、猫が寝ているから、と答えるつもりでいた。

     けれど、麦がトイレへ行っているあいだにも、僕は箱を開けなかった。

     代わりの寝床を用意したことはある。

     畳んだ毛布を箱の隣に置いた。麦は前足だけ乗せ、しばらく考えてから、箱へ戻った。

     前の部屋で使っていた丸いベッドも出した。

     匂いを嗅ぎ、縁に顎をこすりつけ、それで確認は終わったらしい。やはり箱へ戻った。

    「中身、食器だよ」

     麦は蓋の上で伸びをした。

     爪が段ボールに引っかかり、ぱち、と小さな音がした。

     ここへ来るまでの二年間で、僕は三度、住所を変えた。

     仕事の契約が終わったり、家賃を下げる必要があったり、そのときどきの理由があった。ようやく台所の棚を使いやすくしたころに、また皿を新聞紙で包むことになった。

     この箱にも、古い部屋番号が残っている。

     二〇三。
     四〇一。
     その上から、太いペンで二〇二。

     次に引っ越すとき、一箱くらい荷造りを省けてもいい。

     そう思って、最後のガムテープを残していた。

     郵便受けの名札にも、白い紙を差し込んだだけだった。

     麦は、その箱の上で町を覚えていった。

     朝、向かいの家の雨戸が開くと顔を上げる。昼前には、通りを走る自転車を首だけで追う。夕方、惣菜屋のシャッターが半分下りるころになると、伸びをして、ごはんの皿へ向かう。

     麦につられて、僕も窓の外を見るようになった。

     向かいの家には、赤い自転車が二台ある。

     配達の人は、坂を上りきったところで一度、肩を回す。

     惣菜屋のおばさんは、店を閉める前に、鉢植えを少しだけ道路側へ出す。

     土曜日の夕方、そのおばさんと目が合った。

     おばさんは、網戸越しの麦に手を振った。

     麦はあくびをした。

     僕が代わりに、頭を下げた。

     その日、初めて惣菜屋へ入った。

    「二階の猫ちゃんのおうちね」

     コロッケを二つ頼むと、おばさんが言った。

    「もう覚えてもらってるんですね」

    「毎日、あそこで日なたぼっこしてるもの。すっかり落ち着いてるねえ」

     僕は財布を開きながら、曖昧に笑った。

     店の奥で油が鳴っていた。

    「こっちは、かぼちゃ。形が似てるから、帰ったら分からなくなっちゃうかも」

    「どっちでも好きです」

    「じゃあ、よかった」

     紙袋を受け取ると、底から手のひらへ熱が伝わった。

    「揚げたてだから、帰ったら袋を開けてね。蒸れちゃうから」

     僕は袋の口をつままずに、両手で持って帰った。

     部屋では、麦が箱の上で待っていた。

     僕を見ると、口を開けて、声にならない短い挨拶をした。

    「ただいま」

     紙袋を机に置き、口を広げた。

     香ばしい匂いが上がった。

     中をのぞくと、コロッケが一つ、もう一つの角を少し押しつぶしていた。袋を寝かせようとして、衣がこすれる音に手を止めた。

     麦は箱の上から、こちらを見ている。

    「今日だけ、場所を替わってくれる?」

     ごはんを皿に入れると、麦はすぐに下りてきた。

     僕は引き出しからハサミを出した。

     ガムテープの端を少し切り、あとは指で剥がした。

     ぺりぺりという音に、麦が振り返った。口を動かしたまま見ているので、僕も手を止めた。

    「大丈夫。食器」

     蓋を開くと、新聞紙の匂いがした。

     青い縁の皿。
     少し重い茶碗。
     取っ手の欠けた、もう一つのマグカップ。

     皿を包んでいた新聞には、前に住んでいた町のスーパーの広告が挟まっていた。

     僕はそれを畳み、皿を流しへ持っていった。

     洗った皿に、コロッケを二つ並べた。

     一つには、やっぱり少しへこみがあった。

     麦が食事を終え、箱のそばへ戻ってきた。

     いつものように飛び乗ろうとして、前足を上げたところで止まった。蓋がない。

     箱の周りを一周する。

     角の匂いを嗅ぐ。

     縁に顎をこすりつける。

     それから、ひょいと中へ入った。

    「ああ、それでいいんだ」

     麦は底を二、三度踏み、ゆっくり体を丸めた。

     外へはみ出していた尻尾まで、きれいに収まった。

     コロッケは、まだ少し温かかった。

     一つ目を割ると、かぼちゃだった。

     窓の向こうで、シャッターの下りる音がした。明日も店が開くのか、聞いておけばよかったと思った。

     食べ終わってから皿を洗い、台所の棚を拭いた。

     茶碗は右。
     皿はその隣。
     よく使うマグカップは、手前に置いた。

     空いた箱は、窓辺へ戻した。

     持ち上げても、麦は起きなかった。十八日ぶりに軽くなった箱の底が、腕の中で少したわんだ。

     側面に残っていた古い部屋番号を、ペンで消した。

     その下に、小さく「麦」と書いた。

     翌朝、郵便受けの白い紙に、僕の名字を書いた。


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