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Photo by2024gts

赤ちゃんとおじさんの「そのまま」性 ~死について~

    もしいまあなたが赤ちゃんに戻ったら?

    どう感じますか?

    一人で外にいけない、暑さ寒さをコントロールできない
    言葉を使って思いを伝えられない

    孤独を感じるかもしれない

    でもなにもできないことで、周りが動いてくれるかもしれない

    赤ちゃんが突然、「あー、今日はいつもとなんか違うなぁ。何かやだなぁ」としゃべったらどうだろうか?
    これまで一生懸命、赤ちゃんのために色々してあげないと、と思っていたのが、
    突然ある距離をおきたくなり、どこまで助けたらいいんだろうかと躊躇しだすのではないだろうか

    赤ちゃんはもぞもぞしか動けず、意味のある文章は話せず、何かを訴える

    それに対して周りがいかに動くか。赤ちゃんで居続けてもらうために、「そのまま」でいいよというメッセージとともに周りが動く
    しかし赤ちゃんはそのままでいいというメッセージを無視するかのように泣き叫んだり、突然くしゃみしたり、動き出したりする

    「そのまま」でいいとは?

    赤ちゃんに対して、赤ちゃんのままでいてほしいのだろうか?
    ここに対して、どの部分に対して「そのまま」でいいと思うのだろうか?

    例えば、将来優しい子になってほしいとか、基本的な運動や学校の勉強はできてほしいと概ね思うのではないだろうか。それはつまりは「そのまま」ではないことになる

    でも、赤ちゃんという時期を飛び越してボスマイベイビーのように人に指示したり、自分の考えをのべたりされてもちょっと違うのではないだろうか。

    そういった意味では「そのまま」でいてほしいと願い、赤ちゃんのかわいらしさや手がかかることの喜びがある

    ウェルビーイングのそのままとは

    あなたはそのままでいいんだよ。

    これを言われて安心するときと期待感のなさへの反抗と両方ある。

    「そのまま」でいることのどこにポイントをおいたらいいのだろうか?

    赤ちゃんのなにもできないときに戻って「そのまま」でいいと言われたら、どう感じるだろうか。
    介護されてるような感じや、病気になったように、みんなに迷惑をかけている感じなどいたたまれなさがある。でも「そのまま」でいいんだと言われウェルビーイングを育むために必要な言葉でもあると思う。

    仕事で疲れたり限界を感じてあるときの「そのまま」性

    仕事に疲れたり、人間関係に疲れたり、毎日何かに疲れて帰ってきて、疲弊して頑張ってるけど、もう頑張れなくなって、自己否定が始まりこれ以上みんなに迷惑をかけられないよとなったときに、「そのまま」でいいんだよと言われたときに「えっ、そうなの」という思いや「あっ、そのままでいいのかぁ」という思いや、「でも、そんなこと言っても周りが迷惑に感じてるよ」と思う気持ちと複雑な気持ちになる

    「そのまま」とは

    赤ちゃんが赤ちゃんとして、そのままでよく、それによって周りも世話をやく喜びや手間がかかる喜びがある
    赤ちゃんも自分で自分のことができず泣いたりはしゃいだりして、求めているものが満たされると嬉しい。お互いに嬉しい。

    仕事に疲れ、自己否定になり、できない自分にばかり目を向けて、でも「大丈夫だよ、そのままでいいんだよ」と言われ、これまで自分で自分を否定し続けてきた自分が認められて、涙が出ることがある。
    「あっ、そのままでいいのかぁ」「何でここまで自分を否定し続けてきたんだろう」「でも誰かがこれをやらないと駄目なんじゃないか」
    と、安心感とでも現実が変わらないことに対する諦めと。

    赤ちゃんとしての存在、あなたとしての存在

    赤ちゃんが赤ちゃんとして認められて、できないことを周りが埋め、赤ちゃんの形と周りの優しさによって隙間がうまる。まるでパスルのような感じである。

    一方社会に出ると、ジグソーパズルの1ピースとして自分が存在し、右隣のピースが埋まらない。だから自分の形を変えて隣のピースまで埋めようとする

    でも自分の形は変わらない、変えてみんなのために埋めたいけど変わらない。周りもそこを埋めてくれよ、隣のお前が埋めてくれよと、無言の圧力があるが、埋められない。だってそこにはまる形のピースをしていないし、自分は自分の形の役割はできるけど、隣のピースの役割は頑張ってもできない、埋めたい気持ちもあるけどできない

    空白に対する所作

    隣に空白があるとき、つまりは不完全なときどうするか。
    それが人生と思うことだろう。

    なぜ空白を埋めないといけないのだ、そりゃうまってた方がいいだろう。きっと多くの人が思う、だって埋まってなかったら困るじゃんとか、隣の人が責任もって埋めてよ、埋めてくれなかったら社会が回らなくなるよ、って。

    きっとそうだと思う。それ以外にないと思う。

    でも埋めなくても、社会が少々回らなくても、常に時間は進んでいき、変化していく。
    空白が広がるのか小さくなっていくのかすらわからないけど、時間とともにジグソーパズルの枠は大きく変化していく。
    折角いまの社会にあわせて自分の形を変えたのに、次の瞬間にはその形だ困るからちょっと出てってと言われたりもする。
    だったら空白が残っててもいいんじゃないか。

    いや、むしろ空白を大事にしておくことの方がいいんじゃないか?空白があれば自由もある、空白があれば悲しみもあるかもしれない、空白があれば怒りもあるかもしれない、
    だから感情があるのかもしれない。どうにもできない空白に対して人が集まり色々な感情で埋めていく。能力ではないもので埋めていく。
    それが自然の営みであり、生命体の営みと言えるかもしれない

    死について

    赤ちゃんと死は対極にありそうだが、一周回って近かったりもする
    かといって、死は遠くにありそうだが、いつも隣にはいて、細胞レベルにおいても生と死は常に一緒に存在している

    生と死の狭間としても空白は必要なのではないか?空白を埋めてしまいたくなるが、埋まらないことのジレンマや怒りや哀しみ含めて人生である。また自分のピースの形を変えることは難しいし、また自分のピースの形は唯一無二でもあり、そのままとしての価値があり、その形に味わいがあり、赤ちゃんのように存在しているだけで価値があるというのもどんなに歳を重ねてもその価値はその人の中にあり続ける。

    形と空白、
    まるで色即是空空即是色である

     
     
    錯覚でからだを変える「量子認知身体療法」の考え方を書いています。 頭と体は別々に動いていて、そのズレに気づくと生きやすくなる。 動画の錯覚は、ブログで自分の手で体験できます。 鍼灸師/身体イメージ研究(修士) https://imherenow.link/start/

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