メインコンテンツへスキップ
見出し画像

Not Your Fairy Tale

    ──あらすじ──

    三年前、親友モモタロウは姿を消した。

    ある日、サルのもとに一通の封筒が届く。差出人の名はない。中には、水に濡れて読めなくなった便箋と——あの夜になくしたはずの、自分の万年筆。消印は「鬼ヶ島」。かつてモモタロウが復興に携わり、今は一切の情報が途絶えた島だった。

    イヌ、キジ、サルの三人は、わずかな手がかりを頼りに島へ渡る。だが、そこで彼らを迎えたのは、大人が消え、子どもだけが飢える、荒れ果てた島の姿だった。

    モモタロウは、生きているのか。あの夜、本当は何が起きたのか。

    三人が、島の中心でたどり着く真実とは——。

    これは、あなたの知る「おとぎ話」ではないのかもしれない。


    「第一幕」

    【1】

    サルのもとに、それが届いたのは火曜日の朝だった。

    郵便受けを開けると、見慣れない封筒があった。消印は、遠い島の名を刻んでいた。

    封を切ると、中に二つのものが入っていた。

    一つは、万年筆。インクの乾いた、使い古しの万年筆。見た瞬間、胃が締まった。これは自分のものだ。あの夜から、ずっと見つからなかったものだ。

    もう一つは、薄汚れたボロボロの便箋が一枚。何かが書かれていた痕跡はあった。ただ、水を被ったのか、インクが大きく滲んでいた。染みの中にかろうじて、線の集まりがある。文字なのか、ただの汚れなのか、判別がつかなかった。

    消印は、鬼ヶ島。

    サルはしばらく、その便箋を見ていた。裏返して透かしてみた。が、何も読み取れず、首を振った。

    部屋に戻り万年筆をデスクに置き、パソコンを開いた。鬼ヶ島を検索した。

    復興事業の記事がいくつか出てきた。採掘場の再開、インフラ整備、支援物資の輸送ルート。最新のものでも二年ほど前だった。それ以降の記事がない、何の続報もない。

    サルは手帳を取り出し、一行だけ書いた。 「情報が途絶えている」

    スマホを取り上げグループLINEを開いた。「イヌ」と「キジ」と自分の三人、最後のメッセージは数年前だった。

    サルは短く打った。 「至急相談したいことがある。いつ会える?」

    【2】

    電車の中でサルは、万年筆を見つめていた。

    胸ポケットから取り出して、手のひらに乗せる。インクの乾いた、使い古しの万年筆。

    ──脳裏にいくつもの夜が浮かんだ。

    駅裏の、安い居酒屋。四人で、数えきれないほど通った店だった。

    イヌはいつも騒がしかった。カウンターの端で見知らぬ客と腕相撲を始めたり、くだらない賭けごとをして、げらげら笑っていた。負けると「もういっぺん! 今のは、なしだ!」と、子どもみたいに食い下がり、勝てば勝ったで「見たか今の!」と、調子に乗ってまた誰かに絡む。

    その隣で。

    キジが手を叩いて、笑っていた。完璧な化粧で、いつも場の真ん中にいて。たしなめるどころか、誰よりもはしゃいでいた。「イヌー!ここで引いたら、男がすたるよー!」と、けしかけては、自分もグラスを空けていく。負けたイヌが本気で悔しがるのを見て、またけらけら笑う。

    サルは、その少し外にいた。

    たいてい酔う前に、誰かの愚痴を聞かされる係だった。イヌの武勇伝。キジの仕事の話。聞き流しながら、食事をする。騒ぎの輪の中には入らず、少し引いた場所から、三人を眺めている。——それが、サルの定位置だった。

    そして、モモタロウは。

    その全部を見ていた。

    サルのさらに隣で、誰かの空いたグラスに、さりげなく酒を注ぎ足しながら。イヌが暴れれば、笑い。キジが絡まれれば、助け舟を出し。サルが理屈をこねれば「お前は、相変わらずだなぁ」と、目を細める。

    くだらない夜だった。何を話したかも、あまり覚えていない。明日も、来週も、来年も、同じように続くと思っていた。当たり前すぎて、記憶にも残らないような。──そういう夜が、いくつもあった。

    その、いくつもの夜の一つが…最後の夜になるとは。

    誰も、思っていなかった。

    だから、あの夜もいつもと変わらない夜になる…ハズだった。

    イヌは、カウンターで騒いでいた。キジはモモタロウと、何か話しながら穏やかに飲んでいた。サルは……珍しく、深く酔いつぶれていた。気づいた時には閉店で、イヌと二人、なんとか帰宅した。

    だが、翌朝。

    モモタロウは、いなくなっていた。

    それから、行方不明。どこを探しても、見つからず。数日後には、失踪扱いになった。

    ──あの夜から何年、経った。

    「……モモさん」

    サルは、万年筆を胸ポケットに戻した。

    いくつもあった、あの楽しい夜。もう二度と来ない。当たり前だと思っていた時間ほど、失って初めてその重さを知った。

    電車が駅に滑り込んだ。

    ファミレスを指定したのは、サルだった。繁華街から少し外れた、目立たない店。

    イヌが先に来ていた。大きな身体に黒い革ジャン、そしてサングラスをしており、座っているだけで威圧感がある。

    サルが入ってきた。スーツ、薄いファイル、万年筆を胸ポケットに。歩き方だけで頭の回転の良さがわかる。目だけが、野生だった。

    二人の目が合った…三秒ほどの沈黙。

    「顔がより悪人面になったじゃねぇか」とイヌが悪態をつきながら、言い放つ。

    「お前よりマシだ」

    「はぁ?お前、鏡を見たほうがいいぞ」

    「お前こそ、いますぐ鏡を見てこい。トイレは向こうだ」サルが指さす。

    「んだと、こら」

    後ろから声がした。

    「あらあら…相変わらず仲良しなのね。久しぶりに会えて嬉しいわ。」

    振り返ると、女が笑って立っていた。いつからそこにいたのか、わからない。華やかな格好のわりに、足音がない。目だけが、どこか遠くを見ていた。

    イヌとサル、ほぼ同時に舌打ちをした。

    でも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。最後にゆっくりキジも席に着く。

    【3】

    席についてから、サルはテーブルの上に二つのものを置いた。

    万年筆と、薄汚れたボロボロの便箋。

    「これが昨日届いた。消印は鬼ヶ島。差出人の名前はない」

    キジが万年筆を見た。「それ、サルのやつじゃん。…どこにあったの?」

    サルの手が止まった。

    「……なぜ、私のものだと」

    口にしてから、キジ自身も戸惑った。なぜ、こんなことを言ったのか。サルがこれを失くしていたことを、なぜ自分は知っていたのか。…記憶のどこにも、その理由が見当たらない。

    「いや……なんとなく、そう思って」キジはごまかすように笑った。

    サルは、しばらくキジを見ていた。それから万年筆に目を戻した。

    「……ああ。あの夜から、なくしたと思っていたものだ。それが、戻ってきた」

    その小さな違和感を、サルは手帳には書かなかった。書くほどのことではない。と思った。

    イヌが便箋を手に取り、裏返し光に透かした。

    「……なんだこれ」

    テーブルに投げ返した。

    「意味がわからねぇもの出すな、全然笑えんぞ」

    「別にお前を笑かしたくて、呼んだんじゃない」

    サルが眼鏡を直した。

    イヌの視線が、便箋からもう一つの物へ移った。万年筆だ。

    「……そっちは、お前の万年筆なんだろ」

    「ああ」

    「あの夜、失くしたと思った物が…鬼ヶ島から」

    イヌがそこで言葉を止めた。何かが、頭の中で繋がりかけたようだった。

    鬼ヶ島。あの夜。消えたモモ。そして戻ってきた、サルの紛失物。

    イヌの声が、低くなった。

    「……なあ。これ、もしかして——モモが鬼ヶ島から、送ってきたんじゃねぇのか」

    一瞬、三人の間に沈黙が落ちた。

    その可能性を、口にした者はいなかった。だが、全員が心のどこかで、それを願っていた。

    サルは、すぐには答えなかった。それから便箋を指さした。

    「……この便箋を見ろ、水を被って読めなくなっている。だが、きっと最初から読めなかったわけじゃない。ここに届くまでのどこかで、傷んでこうなった。——鬼ヶ島からここまでどれだけの時間と、経路を通ってきたか。まともな郵便で、まっすぐ届いたものじゃないだろう」

    イヌが、口をつぐんだ。

    「それに、差出人の名前がない。名乗る余裕も、なかったのか。あるいは、名乗れない事情があったのか」

    サルは、便箋を静かに置いた。

    「考えられるのは、二つだ」

    サルは指を立て、話を続けた。

    「一つは、送り主がモモさん本人ではない、場合。モモさんに近い誰かが、あの夜のことを知っていて、今になって私に何かを伝えようとした」

    「もう一つは」

    サルは一拍、置いた。

    「モモさん、本人が送った場合だ」

    イヌの息が止まった。

    「ただし、まともに連絡できる状況じゃない。名乗る余裕もなく、書いたものが届くまで、何ヶ月も何年もかかる。無事に届くかも、わからない。このボロボロの便箋が、その証拠だ。——自由に動けず、どこかに閉じ込められ、外と連絡が取れない。かろうじてこの万年筆と便箋を、誰かに託すのが精一杯だった。そう考えれば、無記名も傷んだ便箋も、三年という時間も、説明がつく」

    部屋の空気が、変わった。

    イヌが、テーブルに身を乗り出した。

    「……おい。それって——モモが生きてるかもしれねぇ、ってことだろ」

    サルは、すぐには答えなかった。

    「わからない」

    慎重な声だった。

    「生きているとも、いないとも言い切れない。手がかりが少なすぎる。——ただ」

    サルは万年筆を見つめた。

    「あの夜、消えたきり何の痕跡もなかったモモさんの周りで、三年経って、初めて何かが動いた。この万年筆が、鬼ヶ島から戻ってきた。——それだけは事実だ」

    イヌが拳を握り、その目に消えかけていた何かが、また灯っていた。

    「……なら、確かめるしかねぇだろ」

    「ああ」サルが、頷いた。「だから、わかる範囲で調べてきた」

    キジは何も言わなかった。

    ただテーブルの上の便箋を、じっと見ていた。その表情だけが、二人とは違う色をしていた。

    「まず鬼ヶ島だが…」サルが続ける。

    「復興事業の記事が二年ほど前から途絶えている。続報が一つもない」

    「……途絶えてる?」

    「採掘場の再開、インフラ整備、支援物資の輸送。以前はいくつも記事があった。だが二年ほど前からはゼロだ」

    サルは一拍置いて続けた。

    「それと、浦島さんのことも調べ直した。モモさんと一緒に、鬼ヶ島の復興をやっていた男だ。モモさんを追うなら、一番近くにいた浦島さんは外せない」

    イヌが、眉を寄せた。「……あいつも、まだ見つからねぇのか」

    「ああ。以前の住所は、空き家のままだ。電話も解約されている。知人に当たってもここ数年、音信不通だ。──あの日から、何ひとつ、変わっていない」

    イヌが、低く唸った。

    「復興の代表二人だぞ。それが揃って、同じ時期にぷっつり消えた。…普通じゃ、ねぇよな」

    「ああ。普通じゃない」サルの声が、低くなった。「当時もそれは思った。二人まとめて消えるなんて、大きな事件だ。と。だが、お前も知っての通り、警察や私たちがいくら追っても何もわからなかった。モモさんの情報も、浦島さんの情報も、何も手掛かりすらなかった。結局、私たちにはどうにもできなかった」

    サルは万年筆を見つめた。

    「その切れたはずの糸が。三年経って、鬼ヶ島から戻ってきた…」

    短い、沈黙。

    「だから、確かめに行く。──モモさんのことも、浦島さんのことも。あの島に何かある」

    「……そうだな。で、どうする?早速、鬼ヶ島へいくか?」

    イヌの低い声が響いた。

    「いや、まず先に行っておきたいところがある。モモタロウのおじいさんとおばあさんのところだ」

    イヌが眉をひそめた。「なんで、じいさんとばあさんなんだよ」

    「考えてみろ」

    サルは万年筆をテーブルに置いた。

    「この便せんと万年筆が、今になって私のところへ届いた」

    イヌとキジは黙ってサルを見つめている。

    「差出人は、私がどこに住んでいるかを知っている。 私たちの誰かと関係があることも、知っている。 それだけの情報を持っているなら…」

    サルは一度止まった。

    「モモタロウのおじいさんとおばあさんの居場所を、知っていてもおかしくない」

    イヌの顔が変わった。

    「向こうにも接触があったかもしれない。 あるいは、これから動くかもしれない。」

    「……安否確認か」

    「それと、情報収集だ。おじいさんとおばあさんの方が、 私たちより長くモモさんと一緒にいた。 この便せんについて、何か知っているかもしれない。」

    イヌが少し黙った。

    「……じいさん、ばあさんに会うのは何年ぶりだ」

    「一年か、二年か」サルがそう言うと

    「あの時、どれだけモモを探し回ったと思ってる」と、イヌがイラつきながら言った。

    「警察、知り合い、港、繁華街……本土で当たれるところは、全部当たった。それでも何ひとつ、出てこなかった」

    イヌの声が、低くなった。

    「じいさんとばあさんには、最初のうちはこまめに連絡してた。何か進展があれば、伝えようと思ってな。──だが、報告できることは何もなかった。『今日も、わかりませんでした』そればっかりだったな。」

    「あぁ…そのたびに落胆させてしまう。それがきつかった。そして次第に連絡をしなくなっていった」サルが、静かに継いだ。

    誰も、否定しなかった。

    キジがコーヒーカップを、両手で包んだまま俯いていた。

    「連絡、しづらかったね。……何も報告できることが、なかったから」

    また、短い沈黙。

    「だからこそ、今回は筋を通してから動く」サルが続けた。「モモさんの親族へ。俺たちが動く前に一度、会っておく必要がある」

    「筋ねぇ」イヌが鼻を鳴らした。「お前らしい言い方だな」

    「悪いか」

    「悪くない」

    キジがコーヒーカップをテーブルに戻した。「私も、それが良いと思う」

    イヌがコーヒーを飲み干し「行くか」と立ち上がった。

    三人分の沈黙が、少しだけ変わった。

    【4】

    イヌのピックアップトラックで、一時間かけて着いた。

    郊外の一軒家。よく手入れされた庭。変わっていない、と最初は思った。

    インターフォンを押し、しばらくして扉が開いた。

    おばあさんが三人の顔を見て、目を細めた。

    「……まあ」

    それだけ言って、中に入るよう促した。

    中に入り廊下を歩く。 おばあさんが先導するように進む。

    ふと、サルの目が動いた。

    廊下の壁に、写真が数枚飾られていた。 その中の一枚に目が止まった。モモタロウと浦島が写っていた。

    背景には建設中の建物と、笑顔の鬼たち。写真の下に、小さな文字で「鬼ヶ島復興事業 第三期」と書かれたプレートがあった。

    イヌが一瞬、足を止めた。三人は以前、モモタロウに連れられてこの島を一度だけ訪れていた。

    だが誰も何も言わず、またそのまま歩みを進める。

    ふとサルが呟いた。「廊下の手すりが外されている…?」

    「なんだ?」とイヌが聞き返すが

    「……いや、何でもない」とサルは首を振った。

    おばあさんの足取りは、軽かった。

    進路とは違う廊下の奥、半開きの扉。 キジが不思議に思い、中を見た。

    真新しいベッド。子ども向けの小さなベッド。

    壁には絵本が並んでいた。新しい買ったばかりの絵本。

    片隅に小さな籠。中に桃の形のぬいぐるみ。

    枕元には、名前が書かれた布のタグ。丁寧な手縫いで「モモタロウ」と書いてあるのが、かろうじてわかった。

    「キジ?」イヌが呼んだ。

    キジは扉をそっと閉めた。

    「……なんで子ども部屋が」

    誰にも聞こえないくらいの声で、言った。

    老夫婦は和室に三人を通した。

    明らかに上等な茶器に、丁寧に茶が出された。

    サルの目が一瞬、茶器に止まった。そして隣の机に目が移った。封筒が数通、重ねて置いてあった。一番上の消印──鬼ヶ島。

    おじいさんは上座に座り、ゆっくりと三人を見た。おばあさんはその隣で、にこにこしていた。

    イヌが小声で「なんか変だな」と呟いた。サルが黙って手帳に何かを書いた。

    「よく来てくれたねぇ」

    キジは両手でお茶を受け取り「ありがとうございます」と言った。

    サルが便箋をテーブルの上に置いた。

    「これが、鬼ヶ島の消印で届きました」

    おじいさんが便箋を見て、眼鏡をかけ直した。そして目を細めた。

    「……何も読めんが」

    おばあさんが身を乗り出し、便箋を両手で持った。染みだらけの、何も読めないはずの便箋を。

    震えていた…手が、ではなく、息が。

    「あの子だよ」

    おじいさんに向かって言った。確認ではなく、断言だった。

    「あの子だよ…生きてる。やっぱり生きてたんだよ」

    サルの頭の中で、何かが回った。この便箋は読めない。自分にも読めなかった。イヌにも、キジにも。それをこの人は、一目で断言した。

    おばあさんが顔を上げた。その目に、涙はなかった。確信だけがあった。

    それが三人には、涙より怖かった。

    おじいさんが、静かに口を開いた。

    「そうだな。あの子は…あの島の復興に、命をかけておった」

    三人が顔を上げた。

    「浦島さんと一緒にな。二人でよく、ここにも寄って報告してくれた」

    おじいさんの声は穏やかだった。

    「……ここ何年か、浦島さんも来なくなってしまってなぁ」

    サルの目が一瞬だけ鋭くなり、手帳にまた一行書いた。

    サルが一度言葉を選び直して、静かに言った。

    「…浦島さんは、今どちらにいるかわかりますか。連絡を取りたいのですが」

    おじいさんが首を傾げた。「さあ……わからん。気づいたら、ぱったりと」

    サルは、手帳にまた一行書いた。

    「なるほど、ありがとうございます。それと、お二人は変わりないですか。こちらにも何か届いているかもしれないと思って」

    おじいさんが、静かにうなずいた。「心配してくれたのか、ありがとう」

    おばあさんは便箋から目を離さなかった。「何も来ていないよ。でも、もう来なくていい。あの子は生きてる。それだけでいい」

    「ただ──」サルが続けた。

    おばあさんが静かに便箋をテーブルに置いた。首を振った。

    「やめておくれ」

    しわがれた声だった。でも、震えていなかった。

    「あの子がいなくなって、私たちはずっと地獄のような不安の中にいたんだ。やっと……やっと少しだけ、前を向いて静かに暮らせるようになったんだよ」

    おばあさんの目が、三人を順番に見た。

    「あの子はこうやって生きている。きっと帰ってくる。だから後は静かに待とうと思ってる。お前たちも、もうそっとしておいておくれ。あの子の帰る場所を、守っておいてやりたいんだよ」

    イヌが何かを言おうとして、口を閉じた。

    サルが便箋を静かにテーブルから引き取った。

    キジだけが、おばあさんの目を最後まで見ていた。

    【5】

    帰り際、玄関で靴を履いていると、おじいさんが廊下の奥から言った。

    「……モモタロウは、いい子だったよ」

    過去形だった。

    おばあさんだけが、今も現在形で生きている。

    三人が門を出ようとした時、おばあさんが庭の隅を指さした。

    「あそこにね、桃の苗木を植えたんだよ」

    細い苗木が土から出ており、まだ膝ほどの高さしかなかった。

    「あと十年もすれば、立派な実をつけるだろうから…… あの子が帰ってきたら、一緒に食べようと思ってね」

    おばあさんは、穏やかに笑っていた。

    三人は、何も言えなかった。

    「気をつけて帰るんだよ」

    門が、静かに閉まった。

    【6】

    三人はトラックに乗り込んだ。誰も何も言わなかった。

    イヌがエンジンをかけたが、すぐには発進しなかった。

    しばらくして、イヌがぼそりと言った。

    「……じいさん、ばあさん、ボケちまったのかねぇ」

    声が、少し震えていた。

    サルが窓の外を見たまま言った。

    「……わからないことが、いくつかある」

    誰も聞き返さなかった。

    「まず、廊下の手すりがなくなっていた。年金暮らしで介護用の手すりを外すか?それに、あの高級な茶器」

    イヌが眉をひそめた。「……茶器?」

    「年金暮らしの家に、あれほどのものが並ぶか。」

    サルは手帳を開いた。

    「それに隣の机には、鬼ヶ島の消印がついた封筒が何通かあった。鬼ヶ島と連絡をしている可能性が高い」

    イヌが黙った。

    「それから、おばあさんの『やっぱり』だ。あの便箋を見て『やっぱり生きてたんだよ』と言った。やっぱり、ということは──以前から何かを受け取っていたか、あるいは信じる根拠が別にあったか」

    「……あの便箋は、読めなかったろ」

    「ああ。読めなかった。私にも、お前にも。それをあの人は一目で断言した。読んだのか、読みたかったのか、わからないが」

    そこで言葉を切り

    「…それにあの子供部屋も変。」とキジが口を開いた。

    「子供部屋?そんな部屋あったか…?」とイヌが言った。

    「うん、あった。でもわからない。あの部屋は、今のモモちゃんの部屋にしては小さすぎるし…。 絵本やおもちゃがあるのもおかしい。もっと小さい子供用の──」

    キジはそこで口を閉じた。

    サルが言葉を継いだ。

    「確かにおかしい。わからないことだらけだ。 あとおじいさんはここ何年か、浦島さんも来なくなってしまった。といっていた。浦島さんも、あれからどこへいってしまったんだ。」

    沈黙。

    「鬼ヶ島と何か、やり取りをしている。おそらく、おばあさんは以前から何かを知っている。そして島の情報は、二年も前から途絶えたまま。…確認に行く必要がある」

    キジはずっと窓の外を見ていた。

    三人分の沈黙が、車の中に満ちた。

    やがてイヌがギアを入れ、トラックが夜の道を走り始めた。

    【7】

    繁華街の路肩に、トラックが停まった。

    夜の街の光がフロントガラスに反射していた。ネオンサイン。酔客の声。日常の音。

    誰も最初に降りなかった。

    サルが口を開いた。「鬼ヶ島へは行く。それだけは決まりだ」

    「ああ」

    「ただ、それまでは動くな。特にお前、イヌ」

    「わかってる」

    「わかってない顔をしてる」

    「うるせぇ」

    短い沈黙。

    サルが先に降り、振り返らずに「連絡する」とだけ言った。

    キジが降り際に一度だけ振り返った。

    「ねぇ、イヌ。あの家、変だったよね」

    「……ああ」

    「うん…」

    それだけ言って、キジは夜の街に消えた。

    イヌは一人になり煙草に火をつけ、前を見た。

    庭の隅の細い桃の苗木が、なぜか頭に浮かんだ。

    【8】

    翌日の昼、グループLINEにサルからメッセージが来た。

    「明後日、休みをとれるか?」「取れるなら8時に港に集合」

    @イヌ「余計なことはするな」

    @キジ「急なことが続くが、よろしく頼む」

    既読が順番についた。

    イヌが返した。

    「わかっ」「た」

    誤字だった。送り直しもしなかった。

    キジは絵文字なしで打った。

    「了解」

    いつもと違った。気づいたのは、サルだけだったかもしれない。

    【9】

    部屋の電気は消えていた。

    仕事から帰って、バッグを床に置いて、そのまま電気をつける気になれなかった。

    暗い部屋の中で、バッグから一枚の写真を取り出した。

    四人で撮った写真。古い、色の褪せた写真。

    モモタロウが笑っていた。イヌとサルも、あたしも笑っている。みんな楽しそうに、寄り添いあい。…この頃は、本当に楽しかった。

    キジは写真を、時間を忘れて見ていた。

    泣かなかった。泣けなかった。あの夜から、ずっと泣けなかった。

    仕事をしていれば泣かなくて済んだ。華やかにしていれば泣かなくて済んだ。笑っていれば、誰も聞いてこなかった。

    でも今夜はあの老夫婦の家のことが、頭から消えなかった。

    真新しいベッド。まだ誰も使っていないシーツ。

    「あの子が帰ってきたら、一緒に食べようと思ってね」

    …きっと、もう帰ってこない。

    そう思ってしまう自分がいた。なぜそう思うのか、キジにはわかっていた。でも、それを誰にも言えなかった。

    あの夜のことを。 三年間、ずっと。 イヌにも、サルにも。

    写真の中のモモタロウが、笑っていた。

    四人とも、笑っていた。あの頃は…まだ。

    キジだけが、もうこの写真を同じ気持ちで見れない。楽しそうに並んだ四人の中で、自分だけが知っている、言えなかったことがある。それが、この三年間、ずっと胸の奥に刺さったままだった。

    「……ごめんなさい」

    誰に言うでもなく、呟いた。

    何に対しての「ごめん」なのか、口にした自分でも、うまく掴めなかった。ただ、その言葉だけが、こぼれた。

    キジは写真を、胸の前で強く抱きしめた。

    「モモちゃん……」

    そう呟き…ただ、肩だけが震えた。 涙は、出なかった。

    しばらくして顔を上げ、 写真をバッグの内ポケットに戻した。

    それから、ようやく立ち上がって電気をつけた。 明るくなった部屋が、やけによそよそしく見えた。

    キジは、暗がりに沈んだ窓の外を見た。

    鬼ヶ島へ行く。 何が待っているのか、わからない。わからないけれど…もう、目を逸らしてはいられない気がした。三年間、ずっと逸らしてきたものから。

    「……行かなきゃ」

    誰に言うでもなく、呟いた。 その声が、思ったより小さかった。

    【10】

    当日、港にキジが一番早く来ていた。

    完璧なメイク。完璧な笑顔。

    イヌが来た。「早えな」

    「そう?」

    サルが来た。いつものスーツに、いつもより大きめのバッグを背負っていた。三人、顔を見合わせた。

    イヌがバッグを見た。「大げさだな」

    「情報が二年ほど途絶えている島に行く。大げさではない」

    イヌは、自分の首元に手をやった。服の襟元から、古い紐のネックレスがのぞいていた。先に緑がかった、石が一つ。

    それを、服の中にしまい込んだ。誰にも言わなかったし、誰も聞かなかった。

    「行くか」とイヌが言い、サルも「ああ」と続く。

    キジは「うん」と言って、三人の先頭に立って歩き始めた。

    朝の海が、光っていた。

    「第二幕」

    【1】

    三人はサルが手配した船の甲板で、並んで立っていた。

    最初に見えたのは、煙突だった。

    いくつもの、巨大な煙突。その向こうに、クレーン。採掘機のシルエット。島全体が、機械でできているみたいだった。

    「……静かだな。前に来た時は、もっと──」

    イヌはそこで言葉を切った。

    船が近づくにつれて、サルの眉が少しだけ動いた。

    煙突から煙が出ておらず、クレーンも動いていない。 採掘場、全体が止まっている。

    あれだけの機械が並んでいて、何も聞こえない。

    「故障か?」イヌが誰に問う訳でもなく、つぶやくいた。

    サルは答えなかった。手帳を取り出し、何かを書き加えた。

    キジも何も答えず、静かに島と海を眺めていた。

    やがて島が近づき、桟橋に人影が見えた。 荷受けの作業員が数人。島民らしい鬼もいる。

    サルが、最初にそれに気づいた。 これだけの船が着いて、これだけの人しかいない。

    荷下ろしが始まった。木箱。金属の缶。食料らしきもの。

    作業員は黙々と動いており、島民の鬼たちは遠巻きに見ているだけで手伝おうとしない。

    三人は船から降りた。活気というものが、なかった。あの時とは、別の島のようだった。

    イヌが周りを見回した。

    「人が少ねぇ」

    「あぁ、行こう…」とサルが言った。

    【2】

    三人は村の中心に向かった。

    イヌが最初に気づいた。

    路地の入り口に、鬼の子どもが倒れていた。

    「おい」

    駆け寄った。子どもは倒れているのではなかった。うつ伏せに、寝そべっていた。目を開けて、ただ何も見ていなかった。

    「大丈夫か」

    子どもは答えなかった。

    イヌが肩を揺すり、子どもがようやく顔を上げたが、虚ろな目だった。

    「……お腹すいた」

    それだけ言って、また顔を伏せた。

    イヌが立ち上がった。その顔に何の表情もなかった。

    道の先に、大人の鬼がいた。サルが歩みより「あの子どもは──」

    男は振り向かなかった。

    「知ってる」

    「放っておくのか」

    「知ってる、と言った」

    男は歩き続けた。サルの問いに、もう振り返らなかった。

    三人はしばらく、その後ろ姿を見ていた。

    キジが口を開いた。「……いつから、こんな感じに」

    誰も答えなかった。答えられなかった。

    【3】

    繁華街と呼べるものが、かつてあったのだろうと思われる通りに出た。

    看板が残っていた。店の名前、営業時間、かつての値段表。ただし扉は閉まっていた。

    ほとんどの店が、そうだった。

    明かりが点いている店が、三軒ほどあった。

    一軒は入り口に立て看板が出ていた。サルがそれを読んだ。 『本日のおすすめランチ 5000円~※価格は管理局指定』

    「……ランチが5000円?高けぇにも程があるだろ」イヌがバカにしたように言った。

    三人は店の前に立った。 ガラス越しに中が見えた。

    白いクロスがかかったテーブル。清潔な食器。肉料理。酒。

    船の作業員らしき男たち。それから、見慣れない制服を着た男が二人。皆、笑い大きな声で話していた。グラスが鳴り、また誰かが笑い声を上げた。

    店の外に、子どもたちがいた。 四人、五人。数えるほどに、また一人来た。

    鬼の子どもたちが、ガラスに顔を近づけていた。肉の匂い。焼ける匂い。店の中からは、その匂いが漏れていた。

    子どもたちと目が合うと、皆、一目散に逃げていった。

    【4】

    「入る」とサルが言った。

    「はっ?ここに入るのか」とイヌが言った。

    「食わなければ動けなくなる」

    「だからって、ここは無いだろ」

    サルはその言葉を聞かず、扉を押した。

    ベルが鳴り店員が振り返った。三人をみて一瞬、表情が変わった。しかし次の瞬間には愛想笑いに戻った。「いらっしゃいませ」

    テーブルに案内され、席についた。

    メニューがきて、サルがそれを開いた。手帳にメニューを書き留めた。

    イヌはメニューを開かずテーブルの端を眺め、キジはメニューを手に取ったが開いてすぐに閉じた。

    しばらくして、注文した料理が運ばれてきた。

    イヌがフォークを持ち、切り取り口に運んだ。噛んだ。

    フォークをテーブルに置き、立った。

    「あの時は……こんなんじゃ、なかったろうがよ……!」

    絞り出すような声だった。

    財布から紙幣を出しテーブルに叩きつけた。音が周りのテーブルに聞こえ、数人が振り向いた。

    イヌは振り向かずまっすぐ店の外へ出ていき、ドアが乱暴に閉まった。

    店内の会話が、一瞬止まったがすぐに戻った。

    サルはフォークを取り肉を切った。口に運んだ。 噛み、飲み込んだ。また切り、また飲み込んだ。 味はしなかった。だが、それでいいと思った。燃料だと思った。

    キジは皿を見ていた。 肉が湯気を立て、パンが白かった。スープの表面には油が光っていた。

    店員がカウンターの奥に引っ込んだ。

    キジは、素早くハンカチを取り出し肉を包んだ。 パンも包みバッグの中に入れ、皿を戻した。何事もなかった顔をした。

    サルがそれを横目で見ていたが、何も言わなかった。

    【5】

    イヌは店の外の壁に背を預け、煙草に火をつけようとしてやめた。

    キジとサルが、店から出てきた。

    三人は路地の先を見ると、先ほどの子どもたちがいた。一人が座り込み、一人が壁にもたれ、一人がまたガラスに顔をつけていた。

    キジがバッグを持って、ゆっくりとそちらへ歩いた。

    ハンカチを取り出した。壁にもたれていた子どもの前にしゃがみ、子どもが顔を上げた。

    「食べて」

    キジがハンカチごと、子どもの手に握らせた。

    子どもは、しばらくそれを見ていた。他の子どもたちも集まってきた。

    キジは笑った。その後ろでサルも小さく笑い、イヌは小さく息を吐き出し、口元がわずかに和らいだ。

    三人は少しの間、そこに佇んでいた。

    やがてサルが口を開いた。「行こう」

    「ああ」とイヌが言った。

    「うん」キジも続けてうなずく。

    夕方の光が、止まった採掘機の影を長く引いていた。

    【6】

    日が徐々に傾き始めていた。

    三人は通りを歩き、声をかけた。立ち止まった者はいなかった。

    女が洗濯物を取り込んでいた。サルが近づき「少しだけ話を聞か」

    最後まで言い終わる前に扉が閉められた。

    市場の跡地らしき広場に、男が一人歩いていた。イヌが声をかけようと歩み寄ると、男はそれに気づき足早に去ってしまった。

    キジが先ほどと違う子どもに話しかけようとしたが、走って逃げていってしまった。

    三人は広場のベンチに座り込んだ。

    「誰も話さねぇな」とイヌが言った。

    「みんな、私たちと関わりたくないみたいね」とキジが言った。

    サルが島の地図を手帳に書いていた。桟橋、繁華街、採掘場、住宅区。 それぞれに、気づいたことを書き込んだ。

    イヌが空を見た。「……そろそろ日が暮れるぜ」

    三人とも黙った。誰も言わなかったが、全員わかっていた。

    「宿、どうしようね」キジが誰に言うわけでもなく、呟く。

    「開いている宿がない。あったとしても、今の状況で島民が私たちを泊めるとは思えない」サルがすぐに答える。

    「まさか、こんな状況になるとはねぇ…最悪、野宿か」イヌが続く。

    「たぶん、そうなる」

    イヌが鼻を鳴らした。「さんざんだな」

    誰も否定しなかった。

    【7】

    広場のベンチで途方にくれていると、夕闇の中から小さなオニがこちらに向かって話しかけてきた。

    「ねぇ」

    昼間キジから、食べ物を受け取った子供の一人だ。 ハンカチを両手で持っており、もう中身はなかった。

    「……ついてきて」

    それだけ言った。

    三人は顔を見合わせた後、イヌが先に動き出した。

    【8】

    子どもは、細い路地を迷わず歩いた。

    坂を上り、角を曲がり、また坂を上った。住宅が密集した区画に入った。 かつては人が多く住んでいたのだろうとわかったが、今は半分以上、雨戸が閉まっている。

    突き当たりの家の前で、子どもが止まった。 扉を叩いた。三回。間を置いて、二回。

    しばらくして、扉が内側から開いた。

    青年くらいのオニが、子どもを見た。それから三人を見て、目が細くなった。

    「誰だ」

    「船から降りてきた人たち」と子どもが言った。「ごはん、くれた」

    青年のオニは三人をもう一度、ゆっくりと見た。

    「どこから来た?」

    「本土から」

    「何をしに」

    サルが一瞬だけ間を置いた。

    「…観光と調査だ。本土の役所から、島の現状調査を依頼されている」

    扉の内側が、静かになった。

    オニの目が、変わった。細く、するどく、それから──

    「そうか。とりあえず、中に入れ。」

    【9】

    部屋は薄暗く、窓に布が貼られていた。明かりは、小さなランタンが一つ。それで十分だと思っているのか、あるいはそれしかないのか、判断がつかなかった。

    案内してくれた青年のほかにもう一人、奥から出てきた。

    案内役の青年は、背が高く肩幅があった。警戒するように、こちらを睨んでいる。奥から出てきた方は、痩せて顔色が悪かった。その目だけが、妙に静かだった。二人とも二十代前半ほどに見えた。

    それから、子どもたちがいた。部屋の隅に、五人、六人。小さい順に並んで、三人をじっと見ている。案内してくれた子どもが、その中に戻った。

    先に口を開いたのは、背の高い青年だった。声が低かった。

    「……子どもたちに食事をくれたこと、礼を言う」

    三人に、水が出される。

    「どういたしまして」とキジが言った。

    背の高い青年は続けた。「だが、信用したわけじゃない。本土の役所から調査を依頼されている、と言ったな」

    「ああ」

    「役所の人間が、子どもに飯を分ける理由がない」

    サルは、何も言わなかった。

    「何者だ、本当のことを言え。あんたら、管理局の人間なのか?」

    三人は、床に腰を下ろした。イヌがあぐらをかき、背を壁に預け腕を組んだ。どこからどう見ても、招かれざる客の顔だった。

    「管理局ではない。島の現状を調べに来た。それは本当だ」とサルが言った。

    「誰の指示で」

    「私の判断で」

    「……なぜ」

    「情報が途絶えていたからだ。以前、復興が話題になったのに、ここ二年以上この島と本土で何もやり取りがない。おかしいだろう」

    背の高い青年が、目を細めた。「それだけか」

    「それだけじゃない。だがまず、お前たちの話を聞きたい。この島で今、何が起きている」

    「こちらが聞いている」

    「お互い様だろう」

    短い沈黙が落ちた。部屋の隅で、イヌが動いた。ポケットから煙草の箱を取り出し、背の高い青年を見た。

    「……吸っていいか」

    青年が、少し間を置いてから、痩せた青年に目で合図した。奥から、空き缶が出てきた。灰皿代わりにしろ、ということだろう。イヌは火をつけ、また壁に背を預けた。それきり黙った。

    子どもたちが煙草の煙を、珍しそうに目で追っていた。

    キジが子どもたちの方へ、少しだけ体を向けた。「名前、なんていうの」

    子どもたちが、顔を見合わせた。一番小さい子が、ぽつりと言った。「……スズ」

    「スズちゃん。かわいい名前ね」

    スズが、少し体を揺らした。そして別の子が名乗り、また別の子も続いた。次々と名前が出てきた。青年たちとサルの探り合いを横目に、子どもたちはキジの周りに少しずつ寄り始めていた。

    その中の一人——スズより少し年上の子が、イヌの首元をじっと見ていた。煙草を持つイヌの手元から、視線がゆっくり上がっていく。

    「……あ」

    子どもが、声を上げた。

    イヌの襟元から、ネックレスがのぞいていた。さっき身を起こした拍子に、服の中から出ていたらしい。

    「それ、島のやつだ。おっきい人が持ってるやつ。勾玉っていって、すっごく大事なやつなんだぞ」

    子どもは、得意げに言った。それから、急に不審そうな顔になって、イヌを見上げた。

    「なんで、お前が持ってんだ?」

    イヌの手が、止まった。

    子どもの口調は、生意気だった。でも、その目は真剣だった。よそ者が、島の大事なものを持っている……それが、納得いかないらしかった。

    イヌは勾玉を指で挟んで、少しの間それを見た。

    「……友達から預かったんだ」

    「友達?」

    「ああ。大事な友達だ」

    子どもは、しばらくイヌの顔を見ていた。それから「ふうん」と、まだ少し疑わしそうに言って、キジの方へ戻っていった。

    サルが背の高い青年とやり取りしながら、その様子を横目で見ていた。だが何も言わず、手帳に何かを書いた。

    「話題を少し変えよう」とサルが、青年たちの方へ向き直った。「この島、大人がやけに少ないな。どこへ行った?」

    背の高い青年の表情が、わずかに固くなった。「…関係ない」

    「関係ある。私たちが調べに来た理由の一つだ」

    「お前たちには関係ない、と言った」

    「なぜ関係ないと言い切れる」

    青年が口を閉じた。

    そこで、声がした。「ねぇねぇ」スズだった。キジの膝に手を乗せて、見上げていた。

    「この三人の誰かが、モモタロウさんなの?」

    部屋が、静まり返った。イヌの煙草が、止まった。キジが目を丸くして、スズを見た。サルが、ゆっくりと顔を上げた。

    二人の青年が息をのんだ。背の高い青年の顔に「しまった」と書いてあった。二人が目を合わせる。合ったまま、どちらも何も言えなかった。

    サルが、静かに口を開いた。「……なぜ、いまその名前が出る」

    背の高い青年は答えなかった。

    「モモタロウが、この島の復興に関わっていたのは知っている。だがそれは、何年も前の話だ。……なぜ今、子どもの口からその名前が出る」

    「子どもの言ったことだ。気にするな」食い気味だった。

    「なぜそんなに焦る」

    青年の顔が、わずかに動いた。

    サルが続けた。「お前たちは最初から何かを確認しようとしていた。信用しないと言いながら、中に入れた。本土から来た人間に、用があったからだ。そしてその用は、モモタロウに繋がっている」

    青年が黙った。

    「……危害は加えない」とサルが言った。「それだけは約束する。だから話してくれ」

    長い沈黙。ランタンの炎が揺れた。

    やがて──それまで黙っていた痩せた青年が、低く言った。

    「……お前たちは……モモタロウさんの、なんなんだ」

    その問い方が今までと違った。探りではなかった。すがるような響きが、わずかに混じっていた。

    サルは、すぐには答えなかった。代わりに、胸ポケットから万年筆を取り出し、床に置いた。インクの乾いた使い古しの万年筆。

    「これが、鬼ヶ島の消印で届いた。ボロボロの便箋と、一緒に」

    痩せた青年の目が、その万年筆に吸い寄せられた。じっと、見つめる。その手が、わずかに震えていた。

    「……本当に」

    掠れた声だった。

    「本当に、それが、届いたのか」

    「ああ」サルが言った。「私の元に届いた。何より、これはもともと私の物だ」

    痩せた青年の肩が、小さく揺れた。それを隠すように、顎を引いた。

    「……俺が、送ったものだ」

    イヌが、壁から背を起こした。キジがスズの手を、そっと握った。

    「親父が、モモタロウさんから預かっていた、便箋と万年筆だ。島がどうにもならなくなったら、本土に送れ。受け取った人が、きっと何とかしてくれる。と」

    痩せた青年の声が、少しずつ、ほどけていった。

    「俺たちは、ずっと待っていた。送ったはいいが、届いたかもわからなかった。誰か来るかも、わからなかった」

    そこで一度、言葉を切った。

    「親父の、最後の言葉だった。『きっと来てくれる。モモタロウさんを信じよう』……と」

    部屋が、静かだった。子どもたちさえ、黙っていた。

    サルが、ゆっくりと言った。「……私たちは、モモタロウの親友だ」

    イヌが、煙草を空き缶に押し付けた。「待たせたな」と、ぶっきらぼうに言った。

    痩せた青年が、顔を伏せた。その肩が、今度は隠しきれずに震えていた。

    しばらく誰も口を開かなかった。ランタンの炎だけが、静かに揺れていた。

    「第三幕」

    【1】

    夜が、ゆっくりと更けていった。

    狭い部屋に、青年たちと子どもたち。そこへ、三人。横になる場所を探すだけで、ひと苦労だった。子どもたちは壁際に身を寄せ合い、青年たちは雑務をこなしている。それぞれが、それぞれの過ごし方で、夜を迎えた。

    「答えづらかったら、答えなくていい。……親父さん、亡くなったのか?」

    サルが、唐突に痩せた青年へ聞いた。

    「……わからない」

    痩せた青年はしばらく黙ってから、口を開いた。

    「以前は、親父も一緒に暮らしていた。身体が徐々に弱っていく以外は、特に変わったこともなく。最後に話した夜も、異変はなかった。だが、朝になってみると──いなくなっていた」

    青年の声が、低くなった。

    「身体が弱っていた。一人で、出歩くわけもない。それでも村中に聞いて周ったが、誰も見ていないという。……何が、どうなっているのか」

    「……そうか。すまなかった」

    サルは、そう言って手帳にペンを走らせた。

    失踪か。誘拐か。——それとも、モモさんと同じ何かが。

    今日、見たこと、聞いたことを、細かい字で書き足していく。時折、ページを前に戻し、何かを照合するように目を細めた。万年筆。便箋。途絶えた情報。少ない大人たち。鬼ヶ島の現状。イヌが持っている勾玉。そして──モモさん。ばらばらに散った点を線で結ぼうとしたが、まだ結びきれなかった。

    イヌは、部屋の隅で黙々と体を動かしていた。腕立て、ストレッチ、音を立てず、淡々と。背の高い青年が不思議そうに見ていたが、イヌは気にしなかった。

    「いつ何が起きても、いいようにだ」とだけ、誰にともなく言った。

    キジは、子どもたちに囲まれていた。

    「お姉ちゃん、本土って、どんなとこ?」

    「人がいっぱいいてね、夜でも、電気がついてるの」

    「夜でも? ずっと?」

    「うん、ずっと。眩しいくらい」

    子どもたちが、わあ、と小さく声を上げた。スズがキジの膝に乗り、話を聞いていたが…いつの間にかウトウトしている。キジはその背中を、ゆっくりと撫でていた。子どもたちの前では、自然に笑えた。

    やがて、一人、また一人と、子どもたちが眠りに落ちていった。キジも子どもたちにつられて、目を閉じていった。青年たちも床に転がり、目を閉じた。ランタンの火が、少しずつ細くなっていく。部屋が、寝息で満たされた。

    サルが手帳を閉じ、イヌと目が合った。二人は、音を立てずに外へ出た。

    夜の空気は、冷えていた。止まった採掘機のシルエットが、月明かりの中に、黒く沈んでいる。遠くで、波の音だけがしていた。

    イヌが煙草に火をつけた。煙が、夜にほどけていく。

    「……どう思う」

    サルは少しの間、黙っていた。

    「嘘や罠では、ないだろう。この万年筆を知っていたし、送ったのは自分だ、と。あの反応は、作れるものじゃない」

    「…だよな」

    「だが、わからないことが多すぎる」サルは正直に言った。

    サルは、便箋のことを思い返していた。

    「あの便箋。水を被って、読めないほどボロボロだった。あれだけ傷むのに、どれだけの時間がかかったか。たぶん発送されたのは、ずいぶん前のはずだ」

    イヌが、煙を吐いた。

    「それが、どうかしたか」

    「考えてみろ。あの遺言は『島がどうにもならなくなったら、送れ』だった。──その手紙が、そんなに前に送られていたなら」

    サルの声が、低くなった。

    「この島は…私たちが思うよりずっと前から、もう、限界だったんだ」

    イヌが、黙った。

    夜の波の音が続いた。

    「そしてわからないことは、まだある」サルが続けた。「この島に、大人が少ない理由。あの青年の、親父さんが消えたこと。事故か、誘拐か、それともモモさんみたいに、失踪しているのか。そして、モモさんが島とどう関わって、なぜ消えたのか」

    サルは、夜の海を見た。

    「わからないことばかりだ。だが、一つだけ確かなことがある。この島には、何か大きなものが隠れている」

    「………そう言えば、お前。なんで、そんなアクセサリーを付けている? まさか、いまさらモテたいのか?」

    サルが急に話題を変え、少し意地悪く言う。イヌが、服の上から勾玉に触れた。

    「バカなこと言うな。…あの夜、モモから、預かったんだ。また島へ行く時に持ってくから、それまで預かっててくれ、と」

    サルが少し黙った。

    「……あの夜か」

    「ああ」

    「モモさんがお前に預けて、そして……消えた」

    サルは、それ以上は言わなかった。ただ、頭の中で何かが引っかかった。まだ形にはならない。

    ──大事なものを、あの夜に限って手放していく。それは本当に、偶然なのか。

    「……気にすんな。きっと、深い意味はねぇよ」とイヌが言った。

    「……そうかもな」

    サルは、そう答えた。だが内心では、その引っかかりを消しきれずにいた。深い意味はない。そうであってほしい。だが、もしそうでないとしたら。あの夜、モモさんは…何を思っていたのか。

    答えは、出なかった。サルはそれ以上、考えるのをやめた。手がかりが、少なすぎた。

    しばらくして、イヌがふと笑い出した。

    「……しかし、妙なもんだな」

    「何がだ」

    「何年ぶりだよ。こうやって、お前と二人で、夜中に話すのは。酒か、コーヒーでもあれば、更に良かったな」

    サルは、何も言わなかった。ただ否定せず、少し表情が、緩んでいるように見えた。

    「あの頃も、よくこうやって、くだらねぇこと喋ってたよな。モモのやつが、いつまでも飲み足りねぇとか、愚痴とか、ばっか言って、なかなか帰らねぇから」

    「……そうだな」

    「キジも、ああやって、楽しそうに笑ってたしな」

    イヌの声が、少しだけ柔らかくなった。それから、また固くなった。

    「……楽しかったな、あの頃は。……もう、戻れねぇんだな」

    サルが、夜の海を見たまま言った。

    「あぁ、戻らない。……前に進むしかない」

    「ちっ。お前らしい言い方だな」

    「悪いか」

    「悪くはねぇよ」

    二人とも、それきり黙った。

    懐かしさと、苦さと、わずかな……何とも言えない感情が、夜の中に漂っていた。何年も会わなかった。会わずに、いられた。それでも今、こうして並んで立っていることが、不思議と、嫌ではなかった。事件の渦中にいる。それなのに、どこか……少しだけ、ほっとしている自分がいた。

    イヌが煙草を踏み消した。「…寝るか」

    「ああ」

    二人は、また音を立てずに狭い部屋へ戻っていった。

    【2】

    翌朝。朝の光が、布の隙間から細く差し込んでいた。

    子どもたちは、まだ眠っていた。キジが静かに身を起こし、スズに毛布をかけ直す。痩せた青年が近寄り、「昨夜、子どもたちが、あんなに安心して眠ったのは、久しぶりだ。……色々、ありがとう」と、キジに礼を伝えた。

    イヌが顔を洗って戻ってくる。サルはすでに手帳を開き、痩せた青年と低い声で話していた。

    「ひとつ、聞きたい」とサルが言った。「モモタロウと一緒に、この島の復興に携わっていた人間がいたはずだ。本土から来た、研究者の……」

    「浦島さんのことか」

    痩せた青年が、あっさりと言った。

    三人の動きが、わずかに止まった。

    「知ってるのか」とイヌ。

    「もちろん」痩せた青年の顔が、初めて少しだけ和らいだ。「モモタロウさんと一緒に、島へ来てくれた人だ。医者を連れてきて、井戸を直して、子どもたちに字を教える場所まで作ってくれた。当時は……本当に、よくしてくれた」

    「当時は?」とサルが繰り返した。「今は違うのか」

    青年が、少し言葉を探した。

    「今は、ほとんど見かけない。……多分、島のどこかで研究している、と思うが。しばらく会ってないから、何とも。来た当時、島のための研究をしている、と、誰かから聞いたことがある。病気を治す薬だとか……すまない。そういう難しいことは、俺たちにはよくわからないんだ」

    青年の口調に、疑いはなかった。むしろ慕う響きがあり、恩人を語る顔だった。

    サルは、それ以上は何も言わなかった。手帳に、短く一行だけ書いた。イヌがサルを横目で見る。サルはペンを止めたまま、わずかに首を振った。今は言うな、という合図だった。

    「……その研究をしている場所は、どこだ?」とサルが聞いた。

    「島の中央にある、建物だ。この島で一番立派だから、すぐにわかると思うよ」

    三人は、顔を見合わせた。

    イヌが、声を落として言った。

    「……なあ。もし、浦島がそこにいるなら」

    その先を言わなかった。言わなくても、三人ともわかっていた。

    モモタロウと浦島は、一緒に島の復興をしていた。浦島がこの島にいるなら……モモタロウも、この島のどこかにいるのかもしれない。三年、行方知れずだった男たちが。

    口にすれば、消えてしまいそうだった。だから誰も、はっきりとは言わなかった。

    サルだけが、ぽつりと言った。

    「……確かめに行こう」

    それは、いつもの冷静な声のはずだった。だが、ほんのわずかに、固かった。

    三人は礼を言って、家を出た。子どもたちは、まだ眠っていた。スズが寝返りを打って、小さく何かを呟く。キジはその寝顔を一度だけ見て、そっと外に出た。

    朝靄の島を、三人は中央へ向かって歩いた。しばらく、誰も口を開かなかった。

    やがて、イヌが低く言った。

    「……なあ。あいつら、浦島のこと今でも恩人だと思ってたな」

    「ああ」とサル。

    「医者連れてきて、井戸直して、子どもに字を教えて……確かに良いことして、復興してくれてたんだろうよ。だから、あいつらは今でも慕ってる。なのに、今の島はこのザマだ。大人は消えて、子どもは腹を空かせて……絶対におかしいだろ!」

    「……あぁ」

    「浦島が、仮に研究所にいたとして。ずっと籠もって、外を見てねぇのか……。それとも何か? そんなに、研究が大事なのかよ。俺には、理解できねぇな」

    イヌが怒りに近い調子で、まくしたてる。だが、サルは何も答えなかった。

    答えられなかった、という方が正しかった。

    サルの頭には、イヌには言えない可能性が浮かんでいた。

    ——もし、浦島がこの島をこうした張本人だとして。そしてモモさんが、本当にこの島にいるのだとしたら。その二つが、繋がる線は一つではない。モモさんが、浦島を止めようとしている、という線。囚われている、という線。——そして。

    モモさんも浦島と、同じ側にいる、という線。

    サルはその最後の線を、頭の隅で打ち消そうとした。だが、打ち消す根拠がなかった。

    ふと、サルは隣を歩くイヌを見た。

    イヌは浦島には、あれだけ怒っている。だが、モモさんのことは、一度も疑っていない。「モモも、加担しているかもしれない」。その可能性に、イヌはまるで思い至っていないようだった。いや、思い至らないのではない。イヌの中に、そもそもその線が存在しないのだ。モモさんが、島を苦しめる側に回るなど。イヌにとっては、考えるまでもない。ありえない。

    その揺るがなさが、サルには少し、眩しかった。

    私は、疑ってしまう。論理がどの可能性も、消させてくれないから。だが、イヌは違う。信じている。何の根拠もなく、ただ、まっすぐに。

    サルは口を開きかけて…やめた。

    イヌの前でモモさんを疑うことは、できなかった。もし口にすれば、イヌのその揺るがないものを、汚してしまう気がした。

    サルはその疑いを、一人で飲み込んだ。

    イヌもそれ以上は言わず、ただ歩きながら胸元の勾玉をなぞった。

    ……あの夜。居酒屋で、モモタロウがこれを差し出してきた。「島の連中から、もらったんだ」と、少し困ったように笑って。

    イヌは「じゃあ、お前が持ってろよ」と返した。だが、モモタロウは首を振った。

    「俺には、こういう立派なものは似合わないよ」照れ隠しのように、頭をかいた。「お前なら、何があっても守れるだろ。腕っぷしも、根性もお前が一番だ。──だからまた島に行く時まで、しっかり預かっててくれ」

    イヌは「なんだそりゃ」と、笑った。重い意味だとは思わなかった。

    ……でも結局、モモタロウは島に持っていけなかった。 代わりにそれを持って、島に来たのは自分だった。

    イヌは、その先を考えるのをやめた。考えると、何かが込み上げてきそうだったから。

    朝靄が、少しずつ晴れていく。

    キジは、二人の少し後ろを歩いていた。何も言わず、ただ前を見ていた。その顔から、いつの間にか笑みが消えていた。

    そして島の中央に、それは見えてきた。止まった採掘機や崩れかけた家々の中で、その建物だけがどこか、場違いなほど整っていた。

    【3】

    島の中央に近づくにつれて、道が変わった。

    崩れかけた家々が途切れ、舗装された一本道が現れた。雑草ひとつ生えていない。手入れされている。島のどこにもなかった「整っている」が、そこにはあった。

    その先に、建物があった。白い四角い建物。窓は少なく、どれも閉ざされている。島の何もかもが錆び、傾き、止まっている中で、そこだけが冷たく新しかった。

    イヌが足を止めた。

    「……なんで、ここだけ」

    言葉にしなかった続きを、三人とも感じていた。島が死にかけているのに、ここだけが生きている。その不釣り合いが、ただ不気味だった。

    そして歩き続け、やがて門へたどり着いた。すぐ傍に守衛室のようなものがあり、中に人影が見えた。こちらの様子を、伺っているようだった。

    三人は、足を止めた。

    「どうする」サルが、声を落とした。「アポもない。本土から来た、というだけで、入れてもらえるとは──」

    「俺に任せろ」

    イヌが、言った。

    「は?」

    「見てろって、こういうのは勢いだ」

    イヌが、ぐっと肩を怒らせた。革ジャンの襟を立てる。どこからどう見ても、これから因縁をつけに行く男の背中だった。

    サルが、嫌な予感に口を開いた。「おい、待て。お前まさか力ずくで…」

    だが、イヌはもう歩き出していた。守衛室の前に立ち、大きく息を吸って

    「…浦島くんに、お会いしたいのですが」

    妙に、行儀がよかった。

    声まで、一段高くなっていた。猫を被っているのがバレバレだった。さっきまでの威圧感は、どこへやら。借りてきた猫のように、両手まで揃えている。

    サルの足が、止まった。止めようとして、伸ばした手が宙で固まった。

    ──遅かった。

    キジの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。こんな時なのに。いや、こんな時だからこそ、だったのかもしれない。

    守衛は、不審がる様子もなかった。

    「約束は?」

    「ないです。モモタロウ君のお友達です」

    「……浦島先生から、そういう方が来たら通すように。と聞いています」

    イヌが、振り返った。得意げな顔だった。「な?」俺のやり方が正解だったろ、という顔でサルを見た。

    サルはこめかみを押さえて、低く悪態をついた。「……次から、勝手に動くな」

    「結果オーライだろ」

    「過程が、最悪だ」

    キジが小さく、吹き出した。

    それでほんの少しだけ、三人の肩の力が抜けた。

    だが、サルだけは笑っていなかった。守衛の言葉が、引っかかっていた。

    『浦島先生から、そういう方が来たら通すように。』

    そういう方。

    サルは、その一言を頭の中で繰り返した。浦島は、私たちのような者が訪ねてくることを、あらかじめ守衛に伝えていた。

    つまり、私たちみたいな者が、いつか来ることを予測していた。のか。

    サルは、それを口には出さなかった。ただ手帳を開き、一行だけ書き足した。

    しばらくすると門が低い音を立てて開き、中へ案内された。

    「行くぞ」とイヌが、暢気に言った。

    「ああ」

    門の内側は、外から見た以上に異様だった。舗装された地面に、雑草ひとつない。植え込みは、定規で測ったように刈り揃えられている。島のどこにも残っていなかった「手入れ」が、ここには過剰なほどあった。島が痩せ細っていく分を、すべてこの敷地が吸い上げたかのように。

    イヌが敷地を見回しながら、低くつぶやいた。

    「浦島のヤロー。どっかに失踪したとばかり、思ってたが。本当に、ここにいやがったんだな」

    「三年前」キジが、続けた。「サルが調べた時は、わからなかった。」

    「ああ」サルが、前を見たまま言った。「本土で、消えたはずの男が。島では、こんなに立派な研究所を構えて、暮らしている」

    サルの声が、低くなった。

    「偶然、姿を消したんじゃない。やはり意図的に消えたんだ。誰にも追われないように、本土との縁を全部切って」

    「なんでまた、そこまでして」イヌが眉を寄せた。

    「それを、これから聞く」

    軽口は、そこで途切れた。

    建物の入り口が、近づいてくる。白い四角い壁。閉ざされた窓。近づくほどにその白さが、清潔というより無機質に見えてきた。生活の匂いが、何一つしない建物だった。

    「……なんつーか」イヌが、声を落とした。「病院みてぇだな。それも、あんまり来たくねぇ感じの」

    誰も笑わなかった。

    扉が開いた。

    中へ入ると、かすかに匂いがした。

    薬品のような。古い木のような。消毒液とも、線香とも、つかない。判別のできない、奇妙な匂いだった。鼻の奥に、まとわりついて、離れない。

    イヌが顔をしかめた。「……なんだ、この匂い」

    キジは答えず、ただ無意識にバッグの紐を握っていた。

    サルも何も言わず、廊下の奥へ目をやっていた。白い壁。等間隔に並んだ、閉ざされた扉。そのどれもが、何を収めているのかわからない。匂いは奥へ行くほど、濃くなるようだった。

    職員らしき人影は、案内の者以外になかった。これだけの建物に、人の気配がほとんどない。

    案内の者が、一つの部屋の前で立ち止まった。

    「こちらで、お待ちください」

    通されたのは、応接室のような部屋だった。簡素な椅子と、机。ここも窓は閉ざされており、壁には何も掛かっていなかった。装飾の一切ない部屋だった。

    三人は、腰を下ろした。

    誰も、口を開かなかった。さっきまでの軽口が嘘のようだった。この建物に入ってから、あまり言葉が出てこない。

    イヌが、ソワソワと身体を動かし始めた。落ち着かない時の癖だった。

    キジは両手を、膝の上で重ねていた。指先が、わずかに冷たくなっていくのを、誰にも気づかれないように。

    サルは、手帳を開いていた。だが、ペンは動いていなかった。ただ、村で書き留めたページを、見つめていた。止まった採掘場。消えた大人。弱って消えた、青年の父。誰も見ていない。誰も、説明できない。

    その隣に、サルはもう一行足した。

    「研究所──島が枯れる中で、ここだけが栄えている」

    そして、待った。

    やがて。

    廊下の奥から、足音が近づいてきた。

    ゆっくりとした足音。

    ドアノブが回り、三人が顔を上げた。

    ドアが開いた。

    三人は、息を呑んだ。

    浦島だった。だが、記憶の中の彼とは別人のようだった。頬がこけ、髪には白いものが痛々しいほど混じっていた。白衣のような上着は、くたびれて色を失っている。

    イヌが、何か言いかけて止まった。怒鳴り込むつもりだったのかもしれない。だが、目の前の男があまりにも憔悴していて、声が出なかった。

    「……やぁ」

    掠れた声だった。

    「久しぶりだね。たぶん、三年ほど。いや……もっと、経った気がする」

    浦島は三人とは反対側の椅子に、骨が軋むような動作で腰を下ろした。

    「聞きたいことが、あるんだろう」

    「あるに決まってんだろ!」

    呆気に取られていたイヌが我に返り、感情が噴き出していた。

    「お前!三年間、どこで何をしてた。モモはここにいるのか…生きてんのか!?」

    「イヌ」

    サルが低く、鋭く制した。

    イヌがサルを見た。サルの目は浦島から、逸れていなかった。

    「気持ちはわかる。私も同じだ」サルの声は、静かだった。「聞きたいことなら、山ほどある。三年分みっちりな。——だが、順番にいこう」

    イヌが、まだ何か言いたげに口を開きかけた。だが、サルの横顔を見て、飲み込んだ。

    サルは浦島に向き直り、手帳を閉じる。

    「浦島さん。先に、私から話していいか」

    「ああ」浦島の眉が、わずかに動いた。

    サルは、口を開いた。

    「この島は、死にかけている」

    浦島は答えない。

    サルが、なぜ島の話から入るのか。イヌには、まだわからなかった。だが、サルには算段があった。

    三年ぶりに現れた男にいきなり「モモさんはどこだ、今まで何をしていた」と、核心を色々問うても…はぐらかされ、それまでだ。この男が何を隠していても、島に起きている異常は隠しようがない。動かぬ事実から、詰めていく。一つずつ事実を積み上げ、本性を引き出す。

    「情報が二年以上、途絶えていた。採掘場は止まり、煙突から煙は出ていない。村には子どもと、わずかな若者しかいない。働き盛りの大人が、根こそぎ消えている。子どもが、空腹で道に倒れていた。島民は、外から来た私たちを異様に恐れて口を閉ざす」

    サルの声は、平坦だった。感情を注意深く、排していた。

    「島の人間は、何もかも奪われていた。物資も、金も。レストランの値段は『管理局指定』だ。外の人間が、この島を食い物にしている。そこまではわかる」

    浦島の指が、椅子の肘掛けをわずかに握った。

    「だが、ひとつ、説明のつかないことがある」

    サルは、手帳をもう一度開いた。村のページを。

    「村で聞いた。大人たちが消えていった、と。病でもない、事故でもない。ただ弱って、消えた、と。健康だったはずの者が日に日に痩せて、ある朝、いなくなる。誰も、見ていない。誰も、理由を知らない」

    サルの目が上がり、浦島をまっすぐに見た。

    「金を奪われた島は、貧しくなる。それはわかる。だが、人は枯れるように消えない。これは、搾取では説明がつかない。何か別のことが起きている」

    部屋が、静まり返った。

    サルは、一歩前に出た。

    「そして、この建物だ。島の何もかもが、錆びて、傾いて、止まっている中で。ここだけが、新しく整って金がかかっている。島が痩せ細った分を、そっくりこの研究所が吸い上げているように。──そしてその真ん中に、あんたがいる」

    サルの声が、低くなった。

    「行方不明なって、連絡も取れなかったあんたが。意図的に、姿を消して。誰にも追われないように、本土との縁を切って。こんな島の、こんな建物に籠もっている」

    「浦島さん…あんたは、ここで」

    一語ずつ、区切るように。

    「何を、している。何の、研究だ」

    長い、沈黙だった。

    研究所のどこかで、機械が低く唸る音だけがしていた。

    浦島は、しばらくサルを見ていた。

    それからゆっくりと、視線を外した。サルではなく、その向こうの、何もない壁の、さらに奥を見るような目だった。

    「研究」

    浦島がその言葉を、口の中で転がした。

    「……そうだね。君たちには、そう見えるんだろうね」

    噛み合っていなかった。サルは、研究の中身を問うている。だが浦島は、その問いのずっと手前にも、ずっと奥にもいなかった。

    「採掘場が止まったとか。大人が消えたとか。子どもが、腹を空かせているとか」

    浦島の声は、穏やかだった。穏やかすぎて、かえってぞっとした。

    「……ああ。そうだったね。そういうことも、あったね」

    イヌの顔が、強張った。「『あった』だと? てめぇ、自分が」

    「私はね」

    浦島がイヌの声を、聞いていないように続けた。

    「ただ、集めていただけなんだ。少しずつ。この島から」

    「……集めた?」

    イヌの声が、震えた。

    「集めた、だと。ふざけんな。島を、めちゃくちゃにして。子どもは腹を空かせて、村のやつらは消えていき…そんだけのことして何が集めた、だ! てめぇは、人の暮らしを壊したんだよ!」

    浦島は、その怒声を静かに受けていた。

    そして、ぽつりと言った。

    「……暮らし、か」

    イヌの問いに、答えてはいなかった。むしろその言葉を、自分の中で確かめ直すような声だった。

    「いや。そうじゃないんだ。…いや、そうかもしれないな。私が集めたのは…暮らしでも、生活でもない。もっと別のものだ」

    浦島の視線が、宙をさまよった。正確な言葉を探すように。

    「……時間だよ」

    イヌが、黙った。意味がわからない、という顔だった。

    「この島の者たちから、少しずつ。…時間を、集めた」

    サルの目が、細くなった。「時間? ……何を、言っている。人から時間を集めるなんて、できるはずがない。」

    浦島は答えず、椅子から立ち上がった。

    ゆっくりとした、骨が軋むような動作だった。

    「……言葉で、説明するより」

    掠れた声だった。

    「見たほうが、早い。…ついてきなさい」

    【4】

    三人は、顔を見合わせた。

    イヌが最初に立ち上がり、サルが続いた。

    キジは、一瞬動けなかった。椅子の縁を握ったまま、浦島の背中を見ていた。何かを本能的に、拒んでいるようだった。

    「キジ」サルが振り返った。

    「……うん」

    キジは立ち上がった。足が、少しだけ重かった。

    浦島は廊下を、奥へと進んだ。白い壁。等間隔に並んだ、閉ざされた扉。あの薬品とも古い木ともつかない匂いが、奥へ行くほど濃くなった。

    一番奥に、ひときわ大きな扉があった。浦島が、古い鍵を取り出す。この建物のどこにも似合わない、骨董品のような鍵だった。

    「ここだ」

    鍵が回る、重い音がした。

    扉が開いた。

    部屋は薄暗かった。

    中央に何かが置かれていた。台のような、ベッドのような、何かがあった。そしてその周囲にだけ、機器が密集していた。

    配線、計器がまるでそこにあるものを、取り囲むように。

    そしてその上に、人が横たわっていた。

    三人は、息を呑んだ。

    近づくにつれ、わかってきた。横たわっているのは、綺麗な女性だった。

    眠っているように、見えた。胸が、ゆっくりと上下している。生きていた。確かに生きていた。

    「……誰だ」イヌが、掠れた声で言った。「この人は…」

    浦島がその女のかたわらに立ち、そっとその髪に触れた。慈しむように。

    「乙姫」

    浦島の声は、静かだった。

    「私の……とても、大切な人だ。ずっと、眠っている。もう何年も目を覚まさない」

    イヌが、眉を寄せた。「眠ってる?病気か、何かか」

    「そんな簡単なものなら、よかった」浦島は、乙姫から目を離さずに言った。「私はこの人のために。…島から、すべてを集めた」

    「集めた?」イヌが、聞き返した。

    浦島は答えず、部屋の隅へ目をやった。

    そこに、一つの箱が置かれていた。

    黒漆塗りの、大きな箱。おとぎ話から抜け出してきたような、場違いな箱だった。周りのどんな機械とも、時代が合わない。冷たい近代の部屋の中で、そこだけが別の時間から取り残されたように、静かに鎮座していた。

    サルの目が、その箱に留まった。機器でも、計器でもない。この部屋で、ただ一つ理屈の通らないもの。

    「……その箱は」サルが、言った。「なんだ」

    浦島がその箱に手を伸ばし、蓋にそっと触れる。

    「玉手箱、と言えば。君たちにも、馴染みがあるだろう」

    イヌが、眉をひそめた。「玉手箱? あの、おとぎ話の……開けたら煙が出てきて、爺さんになるってやつか」

    「そう。その話だ」

    「いや、待てよ」イヌの声が、苛立った。「あれは、ただのおとぎ話だろ。作り話だ。なんでそんなもんが、ここに」

    「待て、イヌ」

    サルが低く、遮った。その目は箱ではなく、浦島を見ていた。

    「浦島さん。あんたが何を言おうとしているのか、だいたい見当はつく。その箱で、人の寿命をどうにかした、と言いたいんだろう。──だが、それは無理だ」

    サルの声は平坦だったが、その下に譲らない硬さがあった。

    「寿命は、概念だ。時間は、物理量だ。箱に溜められるものじゃない。煙を浴びて人が老いる? そんな現象はこの世界の、どんな法則にもない。私はそんなモノを信じない」

    「だろうね」浦島が、薄く笑った。「君なら、そう言うと思っていた」

    「茶化すな」

    「茶化してはいないよ…君の言う通りだ。そんなものはありえない。私も、そう思っていた。だからこそ、聞いてほしい。」

    浦島の指が、黒い蓋を撫でた。

    「蓋を開けると、煙が出る。その煙を浴びた者から、時間が抜ける。ほんの少しずつ。本人も、気づかないほど。疲れやすくなり、食が細くなり、眠りが浅くなる。──普通に年老いていくのと、見分けがつかない。」

    サルの、眉が動いた。

    口を、開きかけて——閉じた。

    その症状を、サルは知っていた。ついさっき、村で聞いたばかりだった。

    浦島は、それを見逃さなかった。

    「……心当たりが、あるようだね」

    「…………」

    「村で聞いたんじゃないか。健康だった者が、ある日から弱り始める。理由もなく。日に日に、痩せて。そしてある朝、消える。誰にも、説明がつかないまま」

    サルは、答えなかった。答えられなかった。

    サルの科学が「ありえない」と、叫んでいた。だが、サルの論理は別のことを告げていた。浦島の説明は村で見た現象を、寸分の狂いもなく説明している。病でも、事故でもなく、ただ弱って消える。あの不可解さを、説明できる唯一の筋が、いま目の前にある。

    認めたくない。だが、辻褄が合ってしまう。

    「……仮に」サルが、絞り出すように、言った。「仮に、だ。その話が、本当だとして」

    サルの目が、鋭くなった。科学が無理なら論理で詰める、という目だった。

    「奪った時間は、どこへ行く。消えてなくなるなら、あんたがわざわざ『集めた』と言う意味がない。」

    「いい質問だ」浦島が、頷いた。「ああ、集めた時間は消えない。この箱の中に、少しずつ溜まっていく。そして」

    浦島の手が蓋の上で、裏返すような仕草をした。

    「逆さまにして開ければ、溜めた時間を…今度は誰かに与えられる。…弱った者は力を取り戻し、老いた者は…若返る」

    サルの中で、最後の点が繋がった。

    その視線がゆっくりと、横たわる乙姫へ流れた。

    「……それで、この人を」

    「そうだ」

    浦島が肯定する。

    「島の者たちから、少しずつ集めた時間を。…この人に、注いできた」

    サルはそれ以上、言わなかった。

    論理では、もう否定できなかった。だが、科学者としての最後の一線が、まだ認めることを拒んでいた。こんな、おとぎ話のような話を、証拠もなく…信じるなんて。

    そのサルの内心を、見透かしたように。

    浦島が言った。

    「まだ、信じられない、という顔だね…当然だ。私も、最初はそうだった。だから、自分で試したんだよ」

    サルが、浦島を見た。

    「試した、とは」

    浦島は、すぐには答えなかった。

    その目がイヌを見た。次にキジを。そして、最後にサルに戻った。

    「……言葉では足りない証拠を、見せよう」

    浦島が、サルをまっすぐ見る。

    「サル。こちらへ、来てくれないか」

    「サル」イヌが、低く言った。「行くな。何が、あるか」

    「いや」サルが、言った。「行こう。証拠を見せる、と言うなら見届ける」

    サルは、箱の傍へ歩み寄った。浦島と向かい合う位置に。イヌとキジは、台を挟んだ反対側に残された。

    「何をする気だ」サルが、箱を見下ろした。

    「ほんの少しだけだ」浦島が、蓋に指をかけた。「君のほうに、向ける。私も、浴びる。あの二人には届かない。それに少しだけなら、問題ない」

    「浦島さん…」

    蓋が、わずかに持ち上がった。

    ほんの、数センチ。指の隙間ほどの隙間。

    そこから薄い煙が、すっと立ち上った。色のない煙だった。匂いもほとんどしない。ただ空気が、その一筋だけ揺らいで見えた。浦島が箱をほんのわずかに、サルの側へ傾けた。煙がゆっくりと、サルのほうへ流れる。浦島自身もその煙を浴びた。

    そして、すぐに蓋を閉じた。

    「……これ以上は、やめておこう」

    部屋に沈黙が落ちた。

    何も、起きなかった。煙は、消えた。浦島もサルも何事もなかったように、立っている。お爺さんにも、なってもいない。

    「……なんだよ」イヌが、台の向こうから、拍子抜けしたように、言った。「何も、起きてねぇじゃ」

    「サル」

    浦島がイヌではなく、サルをみて言った。

    「君は、どうだ」

    サルの顔色が、変わっていた。

    ほんの、わずか。だが、確かに感じていた。──身体が、重い。

    立っているだけなのに、足がだるい。瞼が、急に重くなる。気力がすっと、抜けていくような。何かを考えようとするのに、頭が億劫がる。たった今まで、なんともなかったのに。

    「これは……」サルが、自分の手のひらを、見た。指先に力が、入りにくい。「気のせい、では……」

    「気のせいだと、思いたいだろうね」浦島が、静かに言った。「私も、最初は、そう思った。疲れているだけだ、寝不足だ、と。──だが、違う。ほんの少し、時間を抜かれたんだ。」

    サルは、何も言えなかった。

    それから、顔を上げた。

    「……わかった。認めよう。この箱は人の時間を、奪うことができる。目の前で見せられ体験した以上、否定はできない」

    サルの声が、低くなった。

    「だが、だとすると…疑問がでてくる」

    サルはまっすぐ浦島をみた。

    「あんたは島の人間から、時間を集めた、と言った。…どうやってだ?島の連中を一人ずつ、この箱の前に連れてきたのか? そんなことをすれば、誰かが気づく。だが、島の者は誰も、自分が奪われていることに気づいていなかった」

    浦島はしばらく、黙っていた。

    それから、窓の外の煙突を見た。

    「……あの煙突から、流していたんだ」

    静かな声だった。

    「箱から立つ煙を、あの煙突から島全体に。ほんの少しずつ、薄めて撒く。島の空気に混ぜて。島に住んでいるだけで、息をしているだけで、島の者は少しずつ…時間を吸い取られていく」

    サルの、背筋が冷えた。

    「誰も気づかない。ただ、なんとなく疲れやすくなり、老けていく。表面的には、見分けがつかないからね」

    部屋が、静まり返った。

    「長い時間をかけて、島から集められるだけ集めた。少しずつ、少しずつ。そして…乙姫に注いだ」

    浦島の声が掠れた。

    「これで、目を覚ますはずだと。すべてを賭けた。私の集めてきた何もかもを。…だが」

    「この子は、目を覚まさなかった。あれだけのものを、注いで。それでも。……もう、私には打つ手がなかった。集める意味も、とうに消えていた」

    長い、沈黙。

    サルは、その横顔を見ていた。すべてを注ぎ込み、そして何も得られなかった、男の抜け殻のような顔を。

    「……もう一つ、聞きたい」サルが言った。まだ、だるさの残る声で。「あんたは、なぜ、こんなものを持っている。こんな…この世の理から外れたものを」

    浦島の手が、止まった。

    「私のものじゃ、ない」

    「……何?」

    「これは、もともと……乙姫の、ものだった」

    浦島の視線が、横たわる女へ、流れた。

    「彼女が、持っていた。なぜ、こんなものを、持っていたのか。どこで、手に入れたのか。私は、知らない。聞いても…教えてくれなかった」

    浦島の声に、遠いものが、混じった。

    「いたずらっぽく、笑ってはぐらかすんだ。『どこでだと思う?』と。まるで子どもが、宝物の在り処をもったいぶるように。彼女は、そういう人だった。不思議な人だった。どこから来たのかも、本当のところはよくわからないんだ。」

    浦島が、薄く笑った。

    「綺麗な人、というだけじゃ…ないんだ。一緒にいると、世界が少し変わって見えた。当たり前のことが、当たり前じゃなくなる。この箱の話だって、彼女が話すと、おとぎ話が本当のことのように聞こえた。──いや」

    「本当に、本当だったんだ。彼女の語ることは、いつも」

    サルは、その横顔を見ていた。

    目が覚めず、出自の知れない女。この世の理から外れた箱を、当たり前のように持っていた女。──この事件の本当の中心は、浦島でも、玉手箱でもないのかもしれない。この、眠ったまま、何も語らない女なのかもしれない。

    そんな考えが、ふと、サルの頭をよぎった。

    だが、すぐに考えるのをやめた。
    眠る女は何も、語らない。問うても、答えない。
    確かめる術が、どこにもなかった。

    サルは、小さく首を振った。

    乙姫が、何者なのか。なぜ、この箱を持っていたのか。──それは今ここで、解くべきことではない。確かめようのないものに、囚われている場合では、なかった。

    【5】

    「私たちは、そのために来たのではない」

    サルは胸ポケットに手を入れ、あの万年筆を取り出す。それから、もう一つ。畳んで持っていた、薄汚れた便箋を。

    二つを台のかたわらに──眠る乙姫のすぐ傍に、そっと置いた。

    インクの乾いた、使い古しの万年筆。水を被って何も読めなくなった、ボロボロの便箋。

    浦島の目が、その二つに留まった。

    「……それは?」

    「これが鬼ヶ島の消印で、届いた」サルが、言った。「私の家に。だから、私たちはここへ来た」

    「浦島さん」

    サルの声が、変わった。さっきまでの追い詰める響きは、消えていた。代わりに、ずっと抑えてきたものが、滲んでいた。

    「島のことは、だいたいわかった。あんたが何をしてきたかも。その箱のことも。——だが、私たちが本当に聞きたいのは、それじゃない」

    サルは浦島を、まっすぐに見た。

    「モモさん…モモタロウは、どこにいる」

    部屋の空気が、止まった。

    「三年前。あの夜からモモさんと、あんたは消えた。どこを探しても、見つからなかった。警察も、知人も、港も、繁華街も。どこにも、いなかった」

    サルの声が、わずかに掠れた。

    「だが、あんたはここにいた。本土で空き家になって、連絡も取れず。モモさんと、一緒にこの島の復興をしていたあんたが。繋がっていないはずが、ない。あんたは、知っているはずだ。あの夜…モモさんに…何があったのかを」

    イヌが台の向こうで、拳を握った。もう抑えきれない、という顔だった。

    「生きてんのか」

    イヌの声が、絞り出された。

    「モモは。どっかで、生きてんのか。それとも……」

    その先を、言えなかった。三年間、ずっと、言えなかった言葉だった。口にしたら、本当になってしまいそうで。

    「答えてくれ、浦島さん」サルが、言った。「私たちは、それを知るためにここまで来た」

    浦島は、しばらく、二人を見ていた。

    それから、ゆっくりと視線を落とした。台のかたわらに置かれた、万年筆へ。便箋へ。そして、その傍らで眠る、乙姫へ。

    長い、沈黙があった。

    研究所のどこかで、機械が低く唸っていた。

    浦島の口元が、動いた。何かを、言いかけて止まる。それを何度か、繰り返した。

    そして、やがて。

    力なく、笑った。笑みというより、表情がそう動いてしまっただけのような。

    「……どこにいる、と、聞かれてもね」

    掠れた声だった。

    浦島の視線が、ゆっくりと、横たわる乙姫へ、注がれた。

    「目の前に…いるよ」

    部屋が、静止した。

    「……は?」イヌの声が、掠れた。「何を、言ってる」

    「言葉の…通りだ」

    浦島は、乙姫を見つめたまま、静かに言った。

    イヌが、サルを見た。サルも、意味を掴みかねていた。

    ただ、キジだけが——その言葉の意味を、理解する。ずっと手前で。

    なぜか、背筋を凍らせていた。

    「順番に話そう」

    浦島が、視線を落とした。

    「あいつは……モモ君は、ある日ここへ来て、この箱を見つけてしまった。そして、私を問い詰めた。『何をしているんだ』と。『やめてくれ』と」

    イヌの拳が、強く握られた。

    「だが、私は止まれなかった。私は、乙姫を優先した。——最終的に、私たちは決別した」

    「決別、だと」イヌが、低く言った。「お前は!」

    「イヌ」サルが、静かに制した。「続けてくれ」

    しばらくの沈黙。そして、また口を開いた。

    「——そしてあの夜が、来た。決別して、しばらく経った頃だ。あいつは、また私を訪ねてきた。本土の私の家に、覚悟を決めた顔で」

    浦島の目が遠くなった、記憶をたどるように。

    「あの夜のあいつは、いつもと少し違った。やけに、よく喋った。言葉を尽くして、何度も同じことを、違う言い方で。私を、必死に説得しようとしていた。『島の者たちを、助けてくれ』『一緒に、別の方法を探そう』と」

    サルは黙って聞いていた。だが、その頭の中で、何かが静かに組み上がり始めていた。——やけに喋った、言葉を尽くした。それではまるで…。

    「そしてあいつは、妙に時間を気にしていた」

    その瞬間。

    キジの、肩がこわばった。

    サルの目がそれを捉えた。だが、何も言わなかった。

    「話しながら何度も、時計を見ていた。見ないようにしているようで、それでも、つい目がいく。何かを待っているのか。それとも、何かが起きる前に終わらせたかったのか。私には…わからなかった」

    浦島が続けた。

    「結局あいつは、一時間ほどで話を切り上げようとした。最後に、こう言ったよ」

    浦島の声が、その夜をなぞった。

    「『…もう、時間がない』と」

    その瞬間。

    キジの息が止まった。

    『一時間』

    その言葉が、部屋の中に落ちた。

    キジの膝の上で握られた手が、白くなっていた。視線が床の一点に、縫い留められていた。聞きたくない。だが、耳を塞げない。

    浦島の言葉の一つひとつが。あの夜、扉の外で立ち尽くしていた、自分の記憶を…一つずつ、なぞっていく。

    「キジ」

    サルの声がした。

    静かだった。問い詰める声では、なかった。だが、その静けさが、かえって逃げ場を奪った。

    キジは、すぐには答えなかった。

    それからゆっくりと、顔を上げて。いつものように、微笑もうとした。

    「……なんでも、ない。続けて」

    だが、その微笑みは、ほんの少しだけ遅れた。いつものキジなら、ありえないほど。口角が最後まで、上がりきらなかった。

    サルはそれ以上、問わなかった。

    ただその目だけが、細く、鋭く、キジを捉えて離さなかった。何かを確かめるように。あるいは、確かめてしまったことを抑え込むように。

    イヌは二人の間に流れた、その何かに気づかなかった。ただ浦島の次の言葉を待っていた。

    浦島が口を開いた。

    「そして、あいつは…」

    一度、言葉を切った。

    「『僕の時間を、使ってくれ』と、言った」

    イヌの息が止まった。

    「……は?」

    「あいつの、考えはこうだった。島の者たちから、少しずつ集めても足りない。なら…自分の命を、まとめて差し出す。それで乙姫が救えるなら」

    浦島の声が、震えた。

    「『乙姫さえ救えれば。もう島のみんなから、集める必要はなくなるだろ』と。『そのかわり島の者たちからは、もう奪わないでくれ』と。そう、言った。あいつは……笑っていたよ。最後まで」

    「……断れよ」イヌの声が、掠れた。「そんなもん、断れよ! なんで」

    「断ったさ!何度も…」浦島が叫んだ。「『救える保証は、ない』と。正直に言った!一人分の命で足りるのかもわからない、と。…だが、あいつは引かなかった。『可能性があるなら賭ける』と。『うまくいけば乙姫さんも、島のみんなも誰も、傷つかずに済む』と」

    浦島の手が、震えていた。

    「私は……受け入れて、しまった。島から集める時間だけで、大丈夫なのか不安だった。そこへあいつが…親友が自分の命を、差し出した。私は…その命に縋ってしまったんだ。」

    「そして…あの夜。あいつの時間を、この箱に移した。…あいつは、モモ君は、煙のように消えた。何も残さず。約束を果たして」

    部屋は、静まり返っていた。

    「そして私は、その命を。箱を逆さまにして……乙姫に、注いだ」

    イヌも、サルも、動けなかった。

    「これで、終わるはずだった。乙姫が、目を覚ませば。あいつの、願った通りに…だが」

    浦島が、顔を覆った。

    「目を、覚まさなかった」

    長い、沈黙。

    「きっと…足りなかったんだ。あいつの命だけでは。だから……私はまた島から、集め始めた。あいつとの約束を、破って。あと少し、あと少しだけと。——気づけば、島は…。あいつが命をかけて、止めようとしたことを。私は、すべてを踏みにじってしまった」

    イヌが、ようやく声を絞り出した。

    「……じゃあ、モモは。もう、どこにも……」

    浦島は顔を覆ったまま、ゆっくりと首を振った。

    それから、乙姫を見て囁いた。

    「だから、言っただろう……目の前にいる、と」

    三人の視線が、乙姫に注がれた。

    眠ったまま目を覚まさない、綺麗な女性。その体に注がれた…モモタロウの命、時間。

    「あいつは、ここに…いる」浦島の頬を涙が伝った。「ずっとこの人の、中に。あいつが私にくれた…最後のものだ」

    涙を流す浦島を前に、三人は言葉を失っていた。

    その時だった。

    「…私…あたし、あのよる…」

    震える小さな声がした。

    浦島の言葉に、答えたのではなかった。誰に言ったのでもなかった。ただ、こぼれ落ちたという声だった。

    イヌが振り返った。キジが俯いたまま、立っていた。唇だけが震えて、動いていた。

    「…一時間で戻るって。戻らなかったら、イヌを呼べって。…そう、言われ…ただけだった…」

    「キジ……?」イヌの声が、掠れた。「何の話だ」

    キジは答えなかった。聞こえていないようだった。その目はここではない、どこか――三年前の暗い、扉の前を見ていた。

    浦島がその様子に気づいた。供述の言葉が止まった。

    「……君は」

    浦島の声が、掠れた。

    「あの夜。——いたのか?」

    部屋の空気が、変わった。

    サルの中ですべてが繋がった。

    万年筆。時計を気にするモモタロウ。一時間。「もう、時間がない」。冒頭からキジが、この万年筆を即座に自分のものだと、言い当てたこと。

    浦島が室内で、見ていた一時間。キジが室外で、数えていた一時間。同じ一つの一時間を。二人は扉を隔てて、別々に過ごしていた。

    「いた、の」キジがようやく言った。「ずっと…外で、待ってた。時計を見ながら」

    「キジ」サルが静かに言った。「お前は、あの夜の…あの場所に……いたのか」

    キジの声が、震えた。

    「モモちゃんはあたしを連れて居酒屋を出る時、こう言ったの。『一時間で、戻る』って。」

    部屋が、静まり返った。

    「あたしは、たぶん…モモちゃんに何かあった時の……戻れない時のための…イヌとサルへ知らせる役だったと思う。あの人が、最後に、自分のことを、託せる、相手として……私を、選んだ」

    キジの肩が、震えた。

    「モモちゃんは、生きて帰るつもりもあったと思う。……でも、ダメだった時は。自分の命を」

    その先は、言葉に、ならなかった。

    浦島が、目を、伏せた。

    「……そうか」

    掠れた声だった。

    「そうだったのか。私は……何も、わかっていなかったんだな。あいつがどんな覚悟で来ていたのか…外で誰かが待っていたなんて」

    浦島の手が、乙姫の傍で、固く握られた。

    「もし、あの夜。君たちがきてくれていたら…もっと違う未来も…。」

    浦島の声が、震えた。

    「もしかしたら…こんな風になっていなかった。誰かが知っていてくれたら…また違う誰かが、止めてくれていたら——だが、私は、思ってしまったんだ。誰も見ていない、誰も知らない。誰も止めない。だから……きっと際限なく…」

    それは、懺悔の形をした、他責だった。

    自分を、止められなかった責任を。止めてくれなかった、誰かに。——あるいは、扉の外にいたキジに。すがるような、押し付けるような声だった。

    キジが、その言葉を…まともに受けた。

    「あたしが……」キジの声が、掠れた。「あたしがあの時、扉を叩いていれば。あなたは止まったの……? あたしがボタンを押していれば——こんな風になっていなかったの…」

    「やめろ!」

    イヌが言った。

    低い声だった。今度は止まらなかった。

    イヌが台を飛び越え、浦島の胸ぐらを掴む。そのまま、壁に叩きつけた。機器が、揺れ、計器の針が跳ねた。

    イヌの顔は、ぐしゃぐしゃだった。

    「こいつに、押し付けんな!てめぇが、やったことだろうが!…なんで、こいつに背負わせるんだ。扉の外で、たった一人で、待っていただけだろ!」

    浦島は、抵抗しなかった。壁に押し付けられたまま、ただ、イヌを見ていた。

    イヌの手から、力が抜けていった。

    「……なんで」イヌが浦島を、ゆっくりと放した。「なんで、こんなことに、なるんだよ。誰も……誰も、こんな未来を望んでいたわけじゃなかっただろうが。モモも、お前も、こいつも……」

    イヌはその場に、膝をついた。大きな背中が、丸くなっていた。

    殴っても。突き飛ばしても。叩きつけても。——何も、戻らなかった。手応えなど、どこにもなかった。あの夜は、戻らない。モモタロウは、帰らない。三年は、消えない。

    イヌは、それを自分の手で、思い知った。

    部屋が、静まり返った。

    横たわる乙姫の胸が、ゆっくりと上下していた。その中に、モモタロウがいる。そう、言われた女性が。

    キジは、立ち尽くしていた。

    涙は…まだ、出て、いなかった。三年間、ずっと、出なかった涙が。この期に及んでも、まだ。

    それが、キジのいちばん深いところで、固まっているものの、深さだった。

    長い、沈黙が、流れた。

    やがて、浦島が、ぽつりと言った。

    「……そうだな」

    誰に、答えたのでもなかった。イヌの言葉に、応えたようでもあった。あるいは、自分自身の中の何かに。

    「もう……そういう、次元の話じゃないんだ。誰かが、止めていればとか。あの夜、どうしていればとか…そんなことを言っても」

    浦島の視線が、乙姫へ、流れた。さっきまで、すがるように握られていた手から、力が抜けていた。

    「乙姫は、きっと、もう。——何をしても…」

    その先を、言わなかった。言えなかった、のかもしれない。

    だが、言わなくても、わかった。

    「……ずっと前からわかっていたんだ…本当は。きっと、足りないんじゃない。最初からこれは…そういう話じゃなかったんだ。私はそれを認めたくなくて……ずっとあと少しだと、思い込んでいたかっただけだ」

    浦島が、薄く笑った。笑みの形をした、何かだった。

    「もう、いい。——これで終わりだ。とっくに、終わっていたんだ。私が、認めたく、なかっただけで」

    その声に、もう、狂気はなかった。すがるものも、言い訳も、なかった。ただ、空っぽだった。何もかも、使い果たした後の、空白だけが、そこに、あった。

    サルが、玉手箱を見た。それから、乙姫を見た。眠ったまま目を覚まさない、女性。

    「……行こう」

    サルが、言った。

    イヌが、顔を上げた。「行くって……こいつは。それに、あの箱は。このままで、いいのかよ」

    サルは、すぐには答えなかった。

    「壊しても」やがて、静かに言った。「モモさんは、戻らない。乙姫さんも、目を覚まさない。この箱をどうにかしても、同じだ。…私たちが、ここで何をしても。もう、何も取り戻せない」

    イヌは、膝をついたまま、拳を握った。それから、ゆっくりと、ほどいた。

    その通りだった。さっき自分の手で、思い知ったばかりだった。殴っても、壊しても、奪い返しても。あの夜は…戻らない。

    キジが、ゆっくりと立ち上がった。乙姫を、一度だけ見た。その中にいるという、モモタロウを。

    「……モモちゃん」

    声にならない声で、呟いた。

    「……ごめんなさい」

    それから、目を伏せた。

    三人は、扉へ向かった。

    浦島は、止めなかった。乙姫の傍に座ったまま、三人を見ようともしなかった。

    「……」

    ただ、ぽつりと何か言ったが、三人はうまく聞き取れなかった。礼だったのか、詫びだったのか。あるいは、言葉になっていなかったのか。確かめる術は、なかった。

    扉が閉まる、その間際。

    サルが、一度だけ振り返った。

    薄暗い部屋の中。浦島が乙姫の手を、両手で包んでいた。子どもが宝物を、抱くように。その背中は、小さく、丸く、もう何も見ていなかった。

    そして台のかたわらには、サルが置いた万年筆と便箋がまだ残っていた。

    サルはそれを、取りに戻らなかった。

    扉が、閉まった。

    ——

    三人が去った後の、研究所は静かだった。

    浦島は、しばらく乙姫の手を握っていた。何度握っても、握り返してはこない手だった。

    やがて立ち上がり、黒漆の箱に歩み寄った。

    蓋に、手をかける。

    逆さには、しなかった。溜めたものを、与えるための向きではなかった。もう注ぐものも、注ぐ相手も彼の中にはなかった。ただ箱を自分の方へ、引き寄せる。

    乙姫を振り返った。眠ったまま、若く、美しいままの、彼女を。

    「……モモ君…乙姫」

    薄く笑い、蓋が開いた。

    それきり、研究所からは何の音もしなくなった。

    ——

    【6】

    外は、まだ明るかった。

    あれだけのことがあったのに、空は何事もなかったように晴れていた。それが、かえって現実離れして感じられた。

    しばらく、誰も口を開かなかった。

    舗装された一本道を、来た時とは逆に村へ向かって歩く。雑草ひとつない道が途切れ、また崩れかけた島の風景が戻ってくる。

    「……終わった、のか」

    イヌが、ぽつりと言った。誰にともなく。

    答えは、なかった。

    「モモは、もう……いねぇ。あの箱の中に、いや、あの女の……」

    イヌが、言葉を探した。が、うまく掴めないようだった。「なんつーか。探してたものは、見つかった。けど、こんなの……」

    その先を、言わなかった。言えなかった。

    三年間、探し続けた答え。それが、これだった。生きていて、ほしかった。どこかで、笑っていてほしかった。だが…モモタロウは、もうどこにも、いない。眠ったままの、見知らぬ女性の中にしか。

    イヌはそれでも、無理やり息を吐いた。気持ちを、切り替えようとするように。

    「……腹、減ったな」

    サルが、イヌを見た。

    「なんだよ」イヌが立ち上がる時のように、背を伸ばした。「後味が悪いのは、俺だってわかってる。けど……とりあえず、何か食おうぜ。動くにしても、腹が減ってちゃ、話にならねぇ」

    それはイヌなりの、区切りのつけ方だった。重すぎる現実を、一旦脇に置こうとする。前に、進もうとする。

    「……そうだな」と、サルが言った。

    キジは何も言わず、ただ少し遅れて頷いた。

    朝靄は、とうに晴れていた。

    三人は村の方へ、歩いていった。

    村の外れに、まだ開いている小さな店があった。あの5000円のランチを、出すような店ではない。老婆が一人でやっている、粗末な定食屋だった。客は、三人のほかにいなかった。

    出てきたのは、簡素な食事だった。それでも、温かかった。

    イヌは、黙々と食べた。さっきまでの重さを、噛んで、飲み込んで、紛らわせるように。

    ふと、顔を上げた。

    キジが、箸を持ったまま、皿に、手をつけていなかった。視線が、どこにも、定まっていない。研究所を出てから、ずっと、そうだった。あの場で、外で待っていたことを、吐き出して。それきり、何かをまだ飲み込んだまま。

    「……キジ」イヌが、言った。

    ぶっきらぼうな声だった。だが、その奥に何かを気遣う響きが、隠しきれずに混じっていた。

    「色々、あるのは……わかる。わかるけどよ。まずは、食えよ」

    研究所で浦島を壁に叩きつけたその同じ手で、イヌは自分の箸をキジの皿の方へ、少しだけ押しやった。

    「腹が減ってちゃ、どうにもならねぇ。……それくらいしか、俺には、言えねぇけどよ」

    キジは、顔を上げた。

    イヌを見て、何か言おうとして言えずに…また俯いた。

    「……うん」

    小さく、頷いた。が、箸は動かなかった。

    イヌはそれ以上、何も言わなかった。ただ自分の飯を、また黙って食べ始めた。言葉が下手な男なりの…それが精一杯だった。

    サルは、食事に手をつけていなかった。

    手帳を、開いていた。膝の上で。ページを、ゆっくりとめくっていた。前へ、前へ。最初の方まで、遡るように。

    「サル?」イヌが顔を上げた。「お前も食わねぇのか。研究所でも、手帳ばっか見て……」

    サルは、答えなかった。

    ページを、繰る指が、ある場所で、止まった。

    「……合わないんだ」

    「合わない?」

    「ずっと、引っかかっていた」サルは、手帳を見たまま言った。「研究所で、浦島の話を聞いている間も。——いや、もっと前から」

    イヌが、箸を止めた。「なんだよ。事件は、終わっただろ。モモのことも、浦島のことも、わかった。まだ、何かあんのか」

    「…モモさんの、おじいさんとおばあさんだ」

    イヌの顔が、わずかに変わった。

    サルは、手帳のページを指で示した。三人で老夫婦の家を訪ねた、あの日の記録だった。

    「あの家には、おかしいことがいくつもあった。覚えているか。廊下の手すりが、外されていた。介護用の手すりを、わざわざ外す老人がいるか? それに、あの高級な茶器。年金暮らしの家に、あんなものが並ぶか?」

    「……言ってたな、そんなこと」

    「おばあさんの足取りも、先導して廊下を歩く足が妙に軽かった。あの歳の人間とは、思えないほど」

    サルは、ページを一枚めくった。

    「あの時は、わからなかった。なぜ、あの二人があんなに若々しく、裕福なのか。だが、今ならわかる」

    イヌが、息を呑んだ。「……まさか」

    「たぶん…玉手箱だ」サルが、静かに言った。「浦島は、言っていた。あの箱は、溜めた時間を、誰かに与えることもできる、と。弱った者は力を取り戻し、老いた者は…若返る、と」

    サルの声が、低くなった。

    「たぶん…あの二人は、若返らされていた。オニたちから、奪った寿命で」

    店の奥で、老婆が洗い物をしていた。水の音が、遠くでしていた。

    「待てよ」イヌが、テーブルに身を乗り出した。「なんで、じいさんとばあさんにそんなこと……浦島は、なんであの二人に」

    「そこまでは、わからない」

    サルは、正直に認めた。

    「だが、一つ、思い出したことがある」

    サルが、手帳の別のページを開いた。

    「あの家の、和室。茶を出された机の隣に、封筒が数通、重ねて置いてあった。一番上の消印は…鬼ヶ島だった」

    イヌの目が、見開かれた。

    「あの家には、鬼ヶ島から繰り返し何かが届いていた。一度や二度じゃない、何通も。つまりあの二人は、ずっと鬼ヶ島の誰かとやり取りを続けていた」

    「鬼ヶ島の……浦島か」

    「おそらく。…そして、思い出してほしい。おばあさんは、読めないはずのあの便箋を見てなんと言った」

    イヌは、声を思い出した。

    「……『やっぱり生きてた』」

    「そうだ。『やっぱり』だ」サルが、頷いた。「以前から、信じる根拠があったんだ。誰かがあの二人に、繰り返し言い続けていた。——モモタロウは生きている。と」

    サルは、手帳を閉じた。

    「弱り切って、孫を失って、藁にもすがりたかった二人に。『モモタロウは生きている。いつか帰る』と、囁いた者がいる。その言葉と引き換えに、若さを与えて、何かを…手伝わせていたのかもしれない。研究を。あるいは、口をつぐむことを」

    イヌが、拳を握った。「……汚ねぇ」

    「ああ」

    「弱ってる二人の、一番すがりたいもんにつけ込みやがって。『孫は生きてる』なんて、一番言っちゃいけねぇ嘘を……!」

    サルは、静かに続けた。

    「だが、責められるか。あの二人を」

    イヌが、口をつぐんだ。

    「孫がある日、消えた。生きているか、死んでいるかもわからない。何年も、地獄のような不安の中にいた。そこへ『生きている』と囁かれる。…信じるな、というほうが酷だ」

    サルは手帳を閉じた。

    「あの二人は悪くない、騙されたんだ。一番弱っているところを、一番欲しい言葉で…責められる人間がいるとすれば、それは嘘をついた側だ。あの二人じゃない」

    サルの声は静かだった。

    「あんな状況に置かれて、あんなふうにつけ込まれて。…あの二人を責められる者なんて、どこにもいない」

    その言葉がテーブルの上に落ちた。

    しばらく誰も何も言わなかった。

    ──そして、サルは気づいた。

    自分の言った言葉が、目の前のもう一人に当たっていることに。

    キジが俯いていた。箸を握ったまま、肩がわずかに震え始めていた。

    あんな状況に置かれて、誰が責められる。

    …でも、あたしは。

    キジの、いちばん深いところで。三年間、固まっていたものが。たった今、サルの言葉にひびを入れられていた。

    あたしは責められて当然なのに、誰も責めないなら…あたしが、あたしを責めるしかないのに。

    サルはそれ以上、老夫婦の話を続けなかった。

    ただ静かにキジを見た。

    「キジ」

    責める声では、なかった。

    キジの箸が皿の上に、小さな音を立てて置かれた。

    「……ごめん、なさい」

    掠れた、声だった。

    「研究所で言ったよね。あの夜、外で待ってたって。ボタンを、押せなかったって。…あれは全部、本当のこと」

    キジは俯いたまま続けた。

    「でも……まだ…言えて、ないことがあるの」

    イヌが箸を止めた。サルは何も言わず、ただ聞いていた。

    「『怖かったから、押せなかった』。そう、言った。本当に、怖かった。でも、それだけじゃないの。あたし、本当は」

    キジの指が膝の上で、固く握られた。

    「わかってたの、一時間が過ぎたって。約束の時間が、とっくに過ぎたって。時計を見てた。だから、押さなきゃって、頭ではわかってた。でも、心のどこかで思ってたの。『きっと、大丈夫』って」

    キジの声が震えた。

    「『何も、起きてない』『話し合いが、長引いてるだけ』『モモちゃんは、あと少ししたら、いつもみたいに出てくる』…そう、思いたかった。だって…あの夜はいつもと、同じだったから。さっきまで四人で笑ってた。そんな夜に、取り返しのつかないことが起きるなんて……思いたく、なかった」

    「だから、押せなかった。『大丈夫だ』って、自分に言い聞かせて…本当は時間が過ぎてるって、わかってたのに」

    部屋が、静かだった。

    サルがようやく口を開いた。

    「……それは、お前だけじゃない。人は誰でも、そう思う。目の前で、何かがおかしくなっていても。『きっと、大丈夫だ』と、思い込もうとする。そうやって、自分を守ろうとする」

    「ううん」

    キジが首を振った。

    その目が、上がった。

    「まだ、あるの…一番、言えなかったこと」

    イヌが息を呑んだ。

    「……もし、あの時…あたしがボタンを押して。イヌを呼んで、それで踏み込んで。でも、もし…中でただ、二人が話し合ってるだけ…だったら」

    キジの声が掠れていった。

    「あたし、モモちゃんを、裏切ったことになる」

    「……裏切る?」イヌが掠れた声で聞き返した。

    「あの夜、居酒屋を出る時。モモちゃん、言ったの」

    キジの目が、遠くなった。あの夜の、賑やかな店の戸口。イヌが、サルにちょっかいを出して、皆が笑っていた。あの喧騒の隅で。

    「『キジ。すまないが、少し付き合ってくれないか』『イヌとサルには、言わないでくれ』って。私とモモちゃんだけの、秘密だった」

    キジの指が、固く握られた。

    「だから…もし、あたしが勝手にイヌを呼んだら。モモちゃんが、二人に隠したかったことを、あたしが暴くことになる。約束を…破って。モモちゃんの邪魔を、することになる」

    「もし、中で何も起きてなかったら。あたしは、ただ騒ぎ立てて、モモちゃんを追い込んだことになる。『なんで勝手に、呼んだんだ』『お前のせいで、台無しだ』って。モモちゃんにも、イヌにも、サルにも、責められる…それが、一番怖かった。」

    「だから、押せなかった。怖かったのは、モモちゃんに、何かあることだけじゃない…あたしが約束を破って、間違ったことをして。あたしが悪者になることが、怖かったの」

    キジが両手で、顔を覆った。

    「あの時、あたしが守ろうとしたのは…モモちゃんじゃなくて。叱られたくない自分…だった」

    声が、途切れた。

    「そんな自分が、いたから。だから、押せなかった。そしてモモちゃんは……」

    その先は言葉にならなかった。

    長い沈黙が…流れた。

    イヌが口を開いた。

    「……なんで」

    掠れた声だった。

    「なんでそれを、三年も…もっと早く言ってく」

    その瞬間。

    「言えるわけ、ないでしょう……!」

    イヌの言葉を遮り、キジが叫んだ。

    顔を覆っていた手が、外れた。その目がまっすぐ、イヌを見ていた。

    「『私、あの夜、いました』『でも、怖くて、何も、できませんでした』『だから、モモちゃんはいなくなりました』——っ」

    一語ずつ、叩きつけるようだった。

    「どの面、下げて言えるの……必死でモモちゃんを探してた、あんたたちに」

    キジの声が、震えた。

    「色んなところを何度も、何度も、足を運んで。手がかり一つなくても、諦めないで。その隣で、あたしだけが…あの夜のことを…」

    「言えなかった。言ったら…あんたたちが、必死で探してたその時間が。その気持ちが全部……あたしのせいでこうなったって、突きつけることになる。そんなこと、できなかった。怖くてできなかった」

    キジが、また顔を覆った。

    「だから、笑ってた。何も知らないふりして。三年間、ずっと。…それがどれだけ苦しくても」

    声が途切れた。

    店の老婆は奥に引っ込んで、こちらを見ていなかった。窓の外を誰かが、ゆっくりと通り過ぎていく。日常の音が、遠くでしていた。

    やがて、イヌが口を開いた。

    「……三年間」

    キジが顔を覆ったまま、動きを止めた。

    「久しぶりに会った時も。この島に来てからも。子どもたちの前でも。いつも、笑ってた。俺は何も気づかなかった。お前が、その裏でこんなもん抱えてたなんて」

    イヌの声が、掠れた。

    「なあ、キジ。お前は自分のこと、卑怯だと思ってんだろ。黙ってた、ごまかしてた。って。——でもな。俺にはそうは、見えねぇ」

    キジがわずかに、顔を上げた。

    「お前がしてたのは、ごまかしじゃねぇ。…罰だ」

    「……罰?」

    「ああ。誰にも言わず、誰にもわかってもらえず。たった一人で笑いながら、自分を責め続けてた。それは、ごまかしてたんじゃねぇ。三年間ずっと…一人で罰を、受けてたんだよ。誰に命じられたわけでも、ねぇのに」

    イヌの拳が、膝の上で握られていた。

    「言えなかったことなんざ、責めるかよ。言わずに一人で、それを背負い続けたほうが。よっぽど…よっぽど、苦しかったろうが」

    キジの肩が、震えた。

    「俺たちは、必死でモモを探してた。お前はそれを見てた。確かに、お前は黙ってた。…でもな、黙って、笑って、その裏でお前は誰よりも長く、あの夜と向き合い続けてたんだ。俺たちが探すのをやめた後も。ずっと」

    イヌが箸を置いた。

    「だから、もういい。…言えなかったことは、もういいんだ。お前は、十分すぎるくらい、罰を受けた」

    キジは、答えられなかった。ただ肩を、震わせていた。

    「それに…そもそも、だ」

    イヌの声が変わった。

    「お前さ。家の中の様子、見えなかったんだろ。声も、聞こえなかったんだろ」

    「……うん」

    「で、『一時間経ったら呼べ』って、それだけ言われて。たった一人で、外に立たされてた」

    「……うん」

    「じゃあ、聞くけどよ」

    イヌがキジの顔を見る。

    「オレを呼んで踏み込んで、何もなかったら、お前がモモを裏切ったことになる。約束を破ったことになる。…呼ばないで何かあったら、取り返しがつかねぇ。どっちに転んでも、お前が傷つく。そんな選択を、たった一人でしなきゃいけなかったんだろ。中がどうなってるかも、わからねぇまま」

    キジの肩が震えた。

    「そんなもん」イヌの声が掠れた。「…誰だって、迷うわ」

    キジが、顔を上げた。

    「俺がその場にいても。サルがいても。きっと…同じだ。『もう少し待てば』『きっと大丈夫だ』って、ボタンの上で指を止めてた。…お前が、特別に弱かったんじゃねぇ。あの状況なら誰だって、そこで固まる」

    「でも……っ」

    「『でも』じゃ、ねぇ」

    イヌが、遮った。

    「さっきサルが言ってたろ。じいさんと、ばあさんのこと。…あんな目に遭わされて、誰が責められる。って、あれと同じだ」

    キジが、息を呑んだ。

    「お前を、責められる奴なんて。どこにもいねぇんだよ。少なくとも俺は責めねぇ。責める資格が、俺には、ねぇ」

    キジが、イヌを見た。その意味がわからない、という顔だった。

    そこで、サルが口を開いた。

    「……あの夜。私は…」

    キジが、サルを見た。

    「酔いつぶれて…寝ていた」

    サルの声は静かだった。だが、その下に三年分の何かが、沈んでいた。

    「私は、めったにあんなに飲まない。なのに、あの夜に限って潰れていた。…もし、シラフだったら。モモさんの様子のおかしさに、気づけたかもしれない。お前が連れ出されたことにも、気づけたかもしれない。お前を一人で行かせることも、なかったかもしれない」

    サルが、眼鏡を外した。めずらしく、その目が剥き出しになっていた。

    「あの夜、何もできなかったのは、お前だけじゃない。私は寝ていて、何も見ていなかった。お前は…少なくとも、起きていた。一人であの場所に、立っていた。私よりもずっと長く、あの夜と向き合っていたんだ」

    イヌが、ぽつりと言った。

    「…俺は店で、馬鹿みたいに騒いでた」

    その声は、苦かった。

    「サルで遊んで…げらげら笑ってた。モモが店を出たことにも、お前がいなくなったことにも、気づかなかった。…何が、仲間だ」

    三人とも、黙った。

    それぞれがあの夜、自分がどこにいたかを思っていた。サルは、寝ていた。イヌは、騒いでいた。キジはたった一人で、扉の外に立っていた。

    誰もキジだけを、責められなかった。責めるには…全員が同じ夜に、何かを取りこぼしていた。

    キジの目からようやく一筋、涙がこぼれた。

    三年間、ずっと出なかった涙が、頬を伝った。

    「……モモちゃんは」

    キジが、震える声で…言った。

    「…なんで、あたしに…頼んだんだろう」

    誰も、答えなかった。

    「ボタンを押せない…かもしれない。モモちゃんなら、わかったと思うのに。なのに、なんでよりによって、あたしに……」

    その問いに、答えられる者はいなかった。

    モモタロウは、もういない。なぜキジを選んだのか。自分の覚悟を託しておきたかったのか。

    わからない。もう永遠に、わからない。

    だが…一つだけ確かなことがあった。

    モモタロウは最後の夜に、三人の中でキジを選んだ。それは責めるためではなかったはずだ。

    キジは、泣いた。

    声を、上げずに。ただ、肩を…震わせて。

    三年間、たった一人で抱えてきたものを。ようやく三人で、抱えられるようになったから。

    イヌが立ち上がって、キジの隣に来た。何も言わずにその肩に、大きな手を置いた。それから、ぽんぽん、と不器用に二度叩いた。

    それだけだった、何も言わなかった。

    サルが眼鏡をかけ直した。冷めた茶を一口、飲んだ。

    「……食おう」

    ぽつりと、言った。

    「冷めちまった。けど、食わなきゃ、動けない」

    それはいつかこの島の別の店で、サルが言った言葉だった。味のしない肉を、燃料だと思って飲み込んだ、あの時の。

    キジが顔を、上げた。涙の跡が、残っていた。化粧は、とうに崩れていた。

    それでも——少しだけ、笑った。

    今度は仮面では、なかった。

    「……うん」

    三人は冷めた食事を、黙って食べた。

    不思議と、まずくなかった。

    「第四幕」

    【1】

    本土へ戻って、しばらく何も手につかなかった。

    島で過ごした、最後の数日。世話になった青年たちへの礼。子どもたちとの別れ。スズと小指を絡めて「また来る」と約束したこと。それらは温かい記憶のはずだった。なのに本土の日常に戻ると、すべてが遠い夢のように感じられた。

    そして三人には、まだ終わっていない宿題があった。

    モモタロウの祖父母。

    行かなければ。と、ずっと思っていた。だが、足が向かなかった。何を言えばいいのか。三年間、探し続けた孫がどうなったのか。…その真実をあの二人に、告げられるはずがなかった。

    それでも、行った。せめて顔を見るために。何も言えなくても。

    インターフォンを押すと、おばあさんが出てきた。

    三人は息を呑んだ。

    若々しかった。前に会った時と同じように。いや…前より、若いだろうか。背筋が伸び、肌に張りがある。年金暮らしの老人とは、とても思えない。

    だが、それが前に会った時からさらに進んだのか。それとも、ただ久しぶりに見て、改めてそう感じるだけなのか…三人には、わからなかった。

    サルの頭をふと、嫌な考えがよぎった。

    もし若返りが、まだ進んでいるのなら。玉手箱を使っている者が…今もどこかにいることになる。

    だが、その糸はすぐに途切れた。確かめる術がなかった。おばあさんに「あなたは、前より若いか」と、問えるはずもない。問うたところで、この人は答えないだろう。

    サルはその考えを、頭の隅に押しやった。今はそれを、追う時ではない。

    「あらあら。よく来てくれたねぇ」

    おばあさんは何も知らない穏やかな笑顔で、三人を招き入れた。

    廊下を歩き、あの子供部屋の前を通った。扉は開いていた。

    中は、以前より整っていた。新しい絵本が増えており、小さなベッドには皺ひとつない真新しいシーツ。枕元には手縫いの小さな名札。「モモタロウ」と。

    「準備をね、しているんだよ」

    おばあさんが、嬉しそうに言った。

    「あの子が帰ってきたら、また小さい頃みたいに一緒に暮らせるように。昔はね、あの子はよくこの部屋で絵本を読んでとせがんで……ねぇ」

    三人は、何も言えなかった。

    サルの視線が、その部屋をなぞっていた。小さすぎるベッド。幼い子ども向けの絵本。新しく増えたよちよち歩きの子が着るような、真新しい小さな服。それらは、帰りを待つ孫のための準備にしては、あまりにも幼すぎた。

    その時。

    サルの背筋を、冷たいものが走った。

    ——まさか。

    この二人は、モモさんが元の大人の姿で帰ってくるとは。思っていないのではないか。

    若返りの力。老いた者を若返らせるあの箱の力を。もし、この二人が知っていたら…いや、知らされていたら。

    モモタロウが、幼い子どもの姿になって帰ってくる。そう、信じ込まされているのだとしたら。この幼子のための部屋は、その日のための、準備なのだとしたら。

    サルは、その考えを打ち消そうとした。打ち消したかった、考えすぎだと。ただの、老いた祖父母のささやかな願いだと。

    だが、枕元の幼子用の服が。真新しいその小ささが。サルのその考えを、どうしても離してくれなかった。

    おばあさんは若返った体で、戻らない過去をもう一度始めようとしていた。孫がまた小さな子供になって、帰ってくる日を。——そんな日は、来ないのに。あるいは、誰かが、来ると信じ込ませたのか。

    サルはそれ以上、考えるのをやめた。

    確かめる術もなく、何も知らずに、ただ幸せそうに待っている。その幸せを、壊す言葉をサルは持っていなかった。持っていても、言えなかった。

    茶の間に通された。おじいさんがいた。やはり、若返っているようにも見える。

    「よく来たな。…鬼ヶ島に、行ってきたんだってなぁ」

    おじいさんが、穏やかに言った。

    サルの息が止まった。

    なぜそれを…だが、すぐにわかった。鬼ヶ島の消印の封筒。あの家には、ずっと島から何かが届いていた。誰かがこの二人に、三人の動きを伝えている。

    「どうだった」おじいさんが、続けた。「浦島さんは……元気にしていたかい」

    三人の時間が止まった。

    浦島は…つい、先日。あの薄暗い研究所で。乙姫の手を両手で包み、丸まった背中で…。

    あの背中が最後の姿だった。三人は、それを知っていた。

    その浦島の安否を、よりによってこの二人から問われている。

    「元気にしていたか」…どう、答えろというのか。

    イヌが口を開きかけて、何も言えずに閉じた。

    サルも言葉を探して、見つけられなかった。

    沈黙が流れた。

    それをおばあさんが、別の意味に取った。

    「あらあら。久しぶりに会って、積もる話でもあったのかい。浦島さんも、喜んだろうねぇ。あの人はモモタロウの、一番の理解者だったから」

    おばあさんがにこにこと、笑った。

    「ずっと二人で島のために、頑張ってくれて…きっと今もあの島を、豊かにしようと…ねぇ。」

    その穏やかな言葉が、三人の胸を深く抉った。

    「……ええ」

    ようやく、サルが言った。それだけ言うのが、精一杯だった。

    「……お変わり、なく。良かったです」

    嘘ではなかった。だが、真実でもなかった。どちらでもない、ぎりぎりの言葉をサルは選んだ。それ以上は何も…言えなかった。

    おじいさんが満足そうに頷いた。

    「そうかい、そうかい。あの子の友達が、こうして訪ねてくれる。モモタロウも果報者だ」

    おじいさんの目が、ふと、遠くなった。

    「あの子は、いい子だったよ」

    過去形だった。

    おばあさんだけが、今も現在形で生きていた。

    帰り際。庭の隅でキジが、足を止めた。

    桃の苗木があった。

    以前、この家を訪ねた日。おばあさんが、植えたばかりだと言っていた、あの苗木。あの時より、少しだけ背が伸びていた。まだ細い。だが、確かに、育っていた。

    「あと、何年か、したらね」おばあさんが隣に来て言った。「立派な実をつけるんだよ。そうしたら……あの子が、帰ってきたら。一緒に食べようと、思ってね」

    それは以前と、同じ言葉だった。一字一句、同じ。

    ただその言葉の意味が、あの頃とはまるで違って響いた。

    キジはその苗木を見ていた。

    何年か後。この木は実をつけるだろう。桃がなるだろう。

    でも、その時。モモタロウは…いない。この木の実をおばあさんは、誰と食べるのだろう。

    「……はい」

    キジはそれだけ言った。声が震えないように、必死だった。

    「きっと……立派な、実が」

    おばあさんが、満足そうに頷いた。

    門が閉まった。

    三人は、しばらくその家を見ていた。誰も口を開かなかった。

    「……あれで、いいのか」

    イヌがぽつりと、言った。掠れた声だった。「黙ってて。あの二人…ずっとありもしねぇもんを、待ち続けるんだぞ」

    サルが静かに答えた。

    「……わからない。だが、私たちにあの希望を奪う権利は、ない」

    「希望、ねぇ」イヌが空を見た。「嘘で、できた希望だろ」

    「嘘でも」キジが、言った。

    二人がキジを見た。

    「嘘でも……あの二人が、それで笑っていられるなら。あたしは…壊せない」

    キジの声は、静かだった。あの夜の真実を三年間、抱え続けた者の言葉だった。何が真実で、何を告げ、何を飲み込むべきか。キジは誰よりも、その重さを知っていた。

    三人はもう何も言わずに、歩き出した。

    戻らない過去を、待ち続ける二人を残して。

    その背を三人は、振り返らなかった。振り返れば、足が止まりそうだったから。

    前へ…。進むしか、なかった。

    【2】

    それから三人は、島へ通い始めた。

    本土には、それぞれの生活がある。仕事も、住む場所も。何もかもを、捨てられるわけでは、なかった。だが、あの島をあのまま見捨てることもできなかった。

    休みのたびに、船に乗った。崩れた家の梁を運び、塞がれた井戸をさらい、子どもたちに食料を運んだ。

    だが、すぐに壁にぶつかった。

    何をするにも、物資が足りない。金が回らない。島の経済の根っこを、何者かが握っていた。

    …管理局。

    島がばらばらになった隙に、入り込んできた本土の連中だった。復興資金も、物資も、流通もすべて奴らが押さえている。島民は奴らに逆らえない。逆らえば、わずかな配給すら止められる。

    島を立て直すにはまず、こいつらをどうにかしなければ、ならなかった。

    島民は口を、閉ざしていた。

    サルが管理局の不正を、調べようとしても。誰も話さない。証言がない。「何も知らない」「関わりたくない」。以前、島へ来た時のあの無気力な大人たちのままだった。

    動いたのは、キジだった。

    キジは、子どもたちと築いた信頼を足がかりにした。スズや他の子供たち。隠れ家の青年たち。食料を分けた、家の親たち。一人ずつ根気よく、話を聞いた。怯える島民の隣に座り、ただ耳を傾けた。

    「あなたたちが、声を上げなければ」キジは、静かに言った。「この子たちは、ずっとこのままです。怯えたまま大人になる。…それで、いいんですか」

    最初は誰も、頷かなかった。

    だが、キジは引かなかった。一度断られても、また訪ねた。笑顔で。根気よく。あの三年間、仮面の笑顔ですべてを隠し通してきた彼女が。今度はその笑顔を、人の心を開くために使っていた。

    少しずつ島民が、口を開き始めた。

    「……配給を…半分、抜かれた」「逆らった者が、殴られた」「物資の、横流しを見た」

    怯えながら、声を潜めて。それでも、語り始めた。

    サルはそれを一つずつ、手帳に書き留めていった。点が少しずつ、集まっていく。

    【3】

    その日、事件は起きた。

    キジが、信頼を築きかけていた島民の一人。井戸の修理を手伝ってくれた、大人のオニだった。

    配給の列で、管理局の局員に食ってかかったのだ。「配給が、足りない。頼む、もう少しだけ増やしてくれ」と。当然の抗議だった。

    局員は面倒くさそうに、そのオニを突き飛ばした。オニが、地面に倒れる。

    「うるせぇな。文句があるなら、配給を止めるぞ」

    局員が、倒れたオニを蹴った。一度、二度。

    周りの島民は、誰も動かなかった。目を伏せた、見て見ぬふりをした。逆らえば、自分もこうなる。それを知っていたから。

    イヌはそれを、少し離れた場所から見ていた。

    以前、島へきたときに見た光景が重なった。倒れた子どもを、素通りした大人たち。助け合わない、無気力な島民。…あの無気力の正体が、今わかった。

    こいつらは、冷たいんじゃない。こうやって…少しずつ、心を折られてきたんだ。

    イヌの足が、動いていた。

    局員がもう一度、足を振り上げた…その時。

    イヌの手が、その肩を掴んだ。

    「……あ?」局員が、振り返った。「なんだ、てめぇ」

    「もう、やめろ」イヌは、低く言った。「それ以上は」

    「よそ者は、引っ込んでろ!」

    イヌの言葉が終わる前に、局員が手を振り払い、殴りかかってきた。

    イヌは避けなかった、避ける必要がなかった。

    局員の拳が届く前に…イヌの右腕が唸りを上げて、横薙ぎにその首元へ叩き込まれた。

    鈍い音。局員の顔と体が、くの字に折れ、足が地面から浮いてそのまま背中から倒れこむ。

    「て、てめぇ……!」

    別の二人の局員が、血相を変えて駆けてくる。

    イヌは、退かなかった。むしろ、前へ踏み込んだ。

    一人目が殴りかかる。イヌはその拳をかわし、相手の背後へ回り込むと…相手の胴に腕を回し、そのまま力任せに宙へ持ち上げた。局員が暴れ、足がバタつく。だがイヌはかまわず、その局員を後方の地面へ叩き落とした。

    土煙が、上がった。

    二人目が怯んだが、既に遅かった。イヌが地を蹴り、跳んでいた。両足が二人目の胸板を、まともに捉える。局員が藁人形のように吹き飛んで、壁際まで転がっていった。

    数秒だった。

    最初の局員が、這って逃げようとしていた。

    イヌの手がその襟首を掴み、ずるりと引き戻す。そのまま、地面へうつ伏せに組み伏せた。逃げる背中に、片膝を乗せ体重をかける。掴んだ腕を、後ろへねじり上げた。

    「ぐ、ぁ……!」

    局員が、地面に頬を押しつけられたまま、呻いた。もがくが、びくともしない。イヌの膝が、その背を完全に押さえ込んでいた。

    「……なあ」

    イヌの声は低く、怒鳴っていなかった。だがそれが、かえって恐ろしかった。

    「お前ら今まで…この島の連中に、こういうことしてきたんだよな。逆らえねぇのを、いいことに。腹空かせた、子どもの前で…なあ、まだやるか?」

    腕をねじり上げる手に、力がこもる。

    「い、痛ぇ……! も、もう、しない……っ」局員の声が、掠れた。「し、しないから……たすけ……たすけて、くれ……!」

    イヌは、しばらくそのままでいた。

    それから、ふっと、手を離し膝をどける。局員が解放されるなり、這うようにして逃げていった。他の二人も、よろめきながら後を追う。

    静寂が、落ちた。

    倒れていた大人のオニが、呆然とイヌを見上げていた。目を伏せていた島民たちがおそるおそる顔を上げた。

    よそ者が…自分たちのために。管理局に手を上げた。

    そんなことが、起こり得るのだと。彼らは初めて、目にした。

    イヌは荒い息を、一つ吐いた。そして、自分の拳を見た。

    …あの研究所で。浦島には、振るえなかった拳だった。振るっても、何も戻らないと思い知った。

    だが、今は…違った。

    過去は、変えられない。だが…今、目の前で踏みにじられているものは、この拳で止められる。

    イヌの拳に、確かな手応えがあった。

    イヌは、倒れていたオニに手を差し出した。オニは呆然と、その手を見上げていた。まだ何が起きたのか、飲み込めていない顔だった。

    「もう」イヌが、ぶっきらぼうに言った。「こいつらに怯えなくていい」

    その言葉が、落ちた瞬間。

    オニの目から、堰を切ったように涙があふれた。震える手で、イヌの手を掴む。

    「……あんた……あんた……!」

    言葉に、ならなかった。

    それが引き金だった。

    目を伏せていた島民たちが…次々と顔を上げ、イヌの周りに集まってきた。誰かが声を上げる。それに、別の声が重なる。三年、いやそれ以上。ずっと喉の奥に押し込めてきたものが、堰を切ってあふれ出した。

    「あいつらが、うちの畑を!」「配給を半分も、抜きやがって!」「逆らったやつが、どこに連れて行かれたか……!」

    怒りだった。恐怖だった。長く、声にできなかったすべてだった。島民たちが、口々にそれを吐き出す。その顔は泣いているのか、怒っているのか、わからなかった。ただ必死だった。

    …ずっと、言えなかった。言えば、報復される。だから、飲み込んできた。その蓋が今…外れた。

    イヌは、その熱にたじろいだ。

    「お、おい。落ち着け。俺に言われても……」

    だが、止まらなかった。次から次へと、島民がイヌにすがるように訴えてくる。

    イヌは困り果てて、頭を掻いた。それから、大きな声で言った。

    「わかった、わかった! その話、全部、俺の仲間にしてくれ。難しいことに、詳しいやつがいる。そいつが、あいつらを島から追い出す方法を考える。だから…」

    イヌは集まった島民を見回した。

    「もう…黙ってなくていい。言いたいこと、全部そいつにぶちまけろ」

    島民たちの、目の色が変わった。

    長く忘れていた光が…そこに灯っていた。

    【4】

    イヌが風穴を開けてから、島は変わり始めた。

    「よそ者が、管理局に、手を上げて。無事だった」その事実が、島中に広まっていった。一人がそれを語れば、聞いた別の一人がまた誰かに伝える。長く島を覆っていた、恐怖の澱みに、ひびが、入った。

    そしてサルの元へ、島民が訪ねてくるようになった。

    最初から、一人ではなかった。堰を切ったように、何人もが連れ立ってやってきた。イヌに助けられた、あの日の島民が近所の者を。その者が、また別の家の者を。次々と声が繋がっていく。

    「あんたなら、聞いてくれるって、聞いた」「うちの話も、書いてくれ」

    その顔に、もうあの怯えた表情はなかった。…いや、完全に消えたわけではなかったのかもしれない。長年の恐怖は、そう簡単には抜けない。声を潜める癖も、周りをうかがう仕草もまだ残っていた。

    だが、それ以上に。彼らの目には、抑えきれない別のものがあった。

    もう、黙っていたくない。

    三年、いや、それ以上。飲み込んできたものを、今なら吐き出せる。その確信にも似た衝動が、恐怖の癖を上回っていた。

    サルはその一人ひとりの前に座り、手帳を開いた。

    「…大丈夫だ。全部聞く、順番に話してくれ」

    その言葉に、島民たちが次々と口を開いていった。堰を切った、水のように。

    キジも動いた。子どもたちと築いた信頼で、口が重かった人の話を引き出す。イヌが開けた風穴から、キジがさらに人々を繋いでいく。

    そうして集まった証言を、サルは束ねた。

    サルは、それを本土へ持ち込んだ。行政へ。メディアへ。

    最初は誰も相手にしなかった。遠い島の話だった。だが、サルは引かなかった。数字を、記録を、証言を、写真を。一つずつ突きつけていった。

    やがて潮目が変わった。

    鬼ヶ島の不正が、本土で少しずつ、表沙汰になり始めた。あと、ひと押し。証拠は、揃いつつあった。命令系統を遡れば、不正の中枢に手が届く。そう、思っていた。

    その矢先だった。

    ──管理局が消えた。

    慌てて逃げ出したのでは、なかった。証拠を隠滅して、雲隠れしたのでもなかった…ただ、なくなったのだ。

    ある朝、島の出張所はもぬけの殻になっていた。受付も、事務員もいない。本土の本部を、訪ねても同じだった。「管理局」という組織そのものが、ある日を境に解体されていた。

    サルは、上の人間を追った。責任者。決裁者。命令を出していたはずの者たち。

    だが……遡れば遡るほど、相手は輪郭を失っていった。書類の上に、名前はある。だが、その名に顔がない。役職の上にまた役職があり、その上は空白だった。霧を、掴もうとするように。追えば、そこにあるはずの手応えがすっと、消えていく。そして、ある地点から上は…初めから誰もいなかったかのように、何もなかった。

    島は、解放された。それは確かだった。横領は止まり、物資が島へ届き始めた。止まっていた復興が、もう一度動き出した。島民は怯えなくて、よくなった。

    ——だが。

    三人は、勝ったのだろうか。

    倒したはずの相手が消えていた、糾弾すべき顔がなかった。島をこれほど苦しめた者たちが、誰一人、裁かれることも、罰を受けることもなく。ただ、煙のように。

    「……なんなんだ」イヌが誰にともなく、言った。「あいつら。本当に、いたのかよ」

    答えは、なかった。

    そしてサルにはもう一つ、追いかけて、行き止まったものがあった。

    あの、封筒だ。

    管理局の記録を洗う中で、サルはそれを見つけていた。鬼ヶ島から、本土のある住所へ繰り返し送られた、郵便の痕跡。宛先は…モモタロウの、祖父母の家だった。

    サルは、その差出人を辿った。祖父母に「モモタロウは生きている」と信じ込ませ、若さと引き換えに何かをさせていた、何者か。

    だが、辿れば、辿るほど相手はわからなかった。差出人欄は、空白。記された住所を訪ねれば、そんな場所は実在しない。調べたその先にあるはずの答えが、いつもほんの少しだけ届かないところへ、逃げていく。まるで追われることを、最初から見越していたかのように。

    サルは、ペンを置いた。

    三つの行き止まりがあった。

    乙姫が、何者だったのか。それは、確かめる術がなかった。管理局の上にいた者たちは、霧のように消えた。祖父母に手紙を送り続けた者は、追うほどに遠ざかった。断ち切られ方は、それぞれ違った。

    だが、行き着く先は同じだった。

    何もない、誰もいない…最初から、そこには何もなかったかのような。

    サルは、手帳を見つめた。書き溜めてきたすべての点をもう一度、見返す。玉手箱。乙姫。煙のように消えた人々。顔のない上層部。差出人のいない手紙。

    一つ一つは、繋がっているようで。どこにも、繋がらない。

    まるで誰かが最初から、そういう絵を描いていたかのように。あるいは…誰も描いてなど、いなかったかのように。

    サルはペンを握ったまま、長いこと動かなかった。

    最初は、ただの失踪事件の進展だと思っていた。消えた親友が見つかるかもしれない。それだけの話だと。

    だが、辿るほどにその輪郭は…ぼやけていった。

    自分たちはいったい、何を相手にしていたのだろう。

    管理局か。浦島か。あの、箱か。──それとも、もっと名前のつけようのない、何かだったのか。問えば問うほど、相手は遠ざかる。掴もうとした手が、空を切る。

    そもそも──あの島で見たものは、本当にあったのだろうか。時間を操る箱。眠ったまま目を覚まさない女性。煙のように消えていった者たち。——どれもこれも、まるで子どもの頃に聞かされた…おとぎ話のようだった。

    確かなことは、一つだけだった。

    ──もうこれ以上は、わからない。

    追う先がない。敵がいるのかいないのかすら、わからない。サルの論理が届く場所は、とうに過ぎていた。

    サルは、最後の一行を書いた。

    何と書いたのか。それは、サル自身にもうまく言葉にならなかった。問いの形をした何か、答えを求めているのか。それとも、ただ書き留めずにはいられなかっただけなのか──自分でも、わからなかった。

    ペンを置き、手帳を閉じる。

    事件は、終わった。島は救われた。それは本当だ。

    だが、何かが──確かめようのない何かが。この世界のどこかに。まだ静かに、在り続けている。そんな、気配だけが残った。

    サルは、窓の外へ目をやった。

    掴めなかったものは、宙に残ったまま。それでも──確かに進んでいるものがあった。

    あの島だ。

    【5】

    三人は、相変わらず本土と島を行き来していた。

    そしてイヌは、崩れた家の梁を運んでいた。

    復興が動き出してから、島民も少しずつ手を動かすようになっていた。怯えて目を伏せていた者たちが、今はイヌの隣で汗を流している。

    重い梁を下ろし、イヌは襟元を緩めた。汗を拭おうとした、その時だった。

    「……おい」

    低い声がした。振り返ると、中年ほどのオニが立っていた。その目が、イヌの首元に注がれていた。

    「それを、どこで」

    イヌの手が、止まった。襟元から勾玉が、のぞいていた。

    「……親友から、預かったんだ。三年前に」

    「親友?」

    「ああ。モモタロウって、男だ」

    その名を聞いた瞬間、オニの顔から血の気が引いた。集まってきた島民たちもざわめいた。

    「……あの、モモタロウ殿か」オニの声が、掠れた。「それを……あの方が、お前に」

    「おい、どういうことだ」イヌが戸惑った。「これ、そんな大層なもんなのか」

    「大事なもの、どころではない」オニが、首を振った。「それは…長の証だ」

    イヌが息を呑んだ。

    「モモタロウ殿は、島の外から来た方だった。それでも、誰よりこの島のために尽くしてくださった。だから、先代はあの方を次の長にと見込み…きっと、それを託したのだ」

    イヌは、勾玉を見た。三年間、ただの預かりものだと思っていた、緑の石を。

    ──あの夜。モモは、これを差し出して言った。「俺には、似合わないよ」と。「また島に行く時まで、預かっててくれ」と。

    あれは。そういう、意味だったのか。

    「……あいつは」イヌが、ぽつりと言った。「これを、島に返すつもりだったと思う」

    オニが目を見開いた。「返す……?」

    「ああ。長になんざ、なる気はなかったんだと思う。この島の長は、島のやつが継ぐべきだ…だから、いつか返そうとしてたんじゃないか」

    イヌは、そこで言葉を切った。返せなかった。モモタロウは、島に戻れなかった。その先は、言わなかった。

    イヌは、ただ勾玉を握った。手のひらの中の緑の石が、急に重く感じられた。

    預かっただけだった。いつか、あいつが自分で返す。それまでの、ほんの預かりもの。そのはずだった。なのに…あいつは来なかった。気づけば、この石だけが自分の手に残っていた。

    「……情けねぇな」

    ぽつりと、こぼれた。それだけだった。その先をイヌは、語らなかった。語れるほど、器用な男ではなかった。

    オニは、しばらくその横顔を見ていた。

    「……情けない、とは、思わんよ」

    イヌが、顔を上げた。

    「俺はお前さんが、今まで何を抱えてきたかは知らん。だが、この島で、お前さんが何をしたかは見ていた」

    オニの声は、低かった。

    「崩れた家を運び、井戸をさらい、子どもに飯を分けた。管理局の連中に殴りかかった時も、お前さんは自分がどうなるかわからなかったはずだ。それでも、手を出した…倒れた者のために」

    島民たちが、黙って頷いていた。

    「情けない男が、そんなことできるか。その石を託すに足る男だ。それは、過去じゃない。俺たちが、この目で見たことだ」

    オニが、深く頭を下げた。集まった島民たちも、続いた。

    「だから…その石を今は、お前が持っていてくれ。この島が、また自分たちの足で立てるようになるまで。──あの方が、そうしてくれていたように」

    イヌは勾玉の紐に手をかけ、外そうとしていたが…指が止まった。

    頭を下げる島民を、イヌは見ていた。返す相手はここにいる。なのに、その相手が頭を下げて、持っていてくれと言う。

    イヌは、勾玉から手を離した。外さなかった。もう少しだけ、預かることにした。──モモタロウが、そうしていたように。

    「……ったく」

    イヌが、ぼそりと言った。それ以上は何も言わなかった。

    ただ、勾玉を握る手に、ほんの少し力がこもった。緑の石が、汗ばんだ手のひらの中で少しだけ温かかった。

    その温かさが、預かりものの重さなのか。託された者の心強さなのか…イヌには、わからなかった。

    ただ、悪い気分ではなかった。

    【6】

    ある日の、夕方。

    その日の作業を終えて、三人は、海の見える丘に腰を下ろしていた。

    夕日が、また動き始めた採掘機を赤く染めていた。

    「……なあ」イヌが、煙草に火をつけながら言った。「俺たち、いつまで、こうやって続けるんだ?」

    誰も、すぐには答えなかった。

    波の音が、聞こえていた。

    「本土と島を、行ったり来たり。正直、きつくなってきただろ。仕事も、あるしよ」

    「……だな」とサルが、海を見たまま言った。

    短い沈黙。

    「あたしは」

    キジが、口を開いた。

    「ここに、残ろうと思う」

    イヌとサルが、キジを見た。

    「通うんじゃなくて。…住む。しばらくここで、復興に全力を注ぐ!」

    その声は、もう震えていなかった。仮面でもなかった。ただ静かに、決めた声だった。

    イヌが、鼻を鳴らした。何か言おうとして、言わなかった。怒っているような、呆れているような、それでいて…どこか、安心したような。なんとも言えない顔で煙を吐いた。

    サルは、何も言わなかった。だがその口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。

    しばらくして、イヌが煙草を消して立ち上がった。

    「……ったく。お前一人に、いい顔させるかよ」

    それだけ言って、丘を下りていった。

    「イヌ?」キジが、呼んだ。「どこ行くの?」

    イヌもサルも答えなかった。ただイヌが向かっていく方をみた。

    丘の下で、子どもたちが手を振っていた。スズが何かを抱えて、イヌを呼んでいる。

    イヌが面倒くさそうに、しかし、確かな足取りでその方へ歩いていく。スズが駆け寄って、イヌの手を引いた。

    イヌの首元で勾玉が、夕日に光った。

    キジがそれを見て、小さく笑った。

    サルも、立ち上がった。

    「……結局、みんな同じ考えじゃないか」

    呆れたように言って、その足は丘を下り始めていた。子どもたちの声のする方へ。

    夕日が、島を赤く染めていた。

    止まっていた時間がもう一度…動き始めていた。


    【終章;あの夜】

    安い居酒屋。店内は賑わっており、時間はちょうどラストオーダーが済んだところだった。

    ひと通り注文も済んだ頃。モモタロウが、席を立った。

    「先に、払ってくるよ」

    そう言って、レジへ向かった。

    カードで支払い店員が伝票を差し出してきた。「サインを」。だが、店のペンがインク切れで出なかった。

    モモタロウは、席の方を振り返った。

    「サル、ペン持ってないか」

    返事はなかった。サルはテーブルに突っ伏して、眠っている。

    「サルー。ペン、借りるぞー」

    もう一度、声をかけた。やはり反応はなく、寝息だけが聞こえた。

    モモタロウは、苦笑して戻った。サルの胸ポケットから万年筆をそっと、抜いた。

    「……借りるよ」

    サルは起きなかった。「ん……」と、寝言のように呟いただけだった。

    モモタロウは、その万年筆でサインをした。それから、自分のポケットへしまった。返さなかった。

    サルのインクの染み付いた、万年筆。これを見れば、サルはすぐに自分のものだと気づくだろう。

    ──これなら、いい。

    手紙や便せんは濡れたり、汚れたりすれば読めなくなるかもしれない。だが、この万年筆であれば、サルは必ず気づく。これは、ただの落とし物ではないと。

    モモタロウは、店の隅へ向かった。そこに、もう一人の客がいた。

    鬼ヶ島から来た、年配のオニ。復興事業で、誰よりモモタロウと心を通わせた男だった。本島へ物資の買い出しに来たついでに、モモタロウが声をかけたのだ。三人は大勢の客の一人として、気にも留めていなかった。

    モモタロウは、懐から一枚の便箋を取り出した。すでに短い文章で何か書いてあった。「鬼ヶ島とオニたちのことを頼む」と。

    その便箋とサルの万年筆を、オニへ渡した。

    「……もし、島がどうにもならなくなったら。これを本土へ。私の仲間の…サルへ、送ってください」

    オニがその意味を測りかねるように、モモタロウを見た。

    「モモタロウ殿。それは、どういう……」

    「お守りのようなものです」モモタロウは、笑った。「何も、起きなければ、それでいい。…ただ、念のための」

    オニはしばらく、モモタロウを見ていた。それから何かを察したのか、深く頷いた。便箋と万年筆を、大切に懐へしまった。

    「……お預かりします」

    「ありがとう。気をつけて、島へ」

    オニはもう一度頷くと、静かに店を出ていった。

    …その様子をキジだけが、ぼんやり眺めていた。

    モモタロウが、寝ているサルから万年筆を抜いたこと。それを隅の誰かに渡したこと。何をしているのだろう。と、朧げに思った。

    だが、その時。

    カウンターの方で、イヌがげらげら笑っていた。見ると、眠りこけたサルの鼻の上に、枝豆の殻やつまみの串などを一つずつ、慎重に積み上げている。すでに、危なっかしい塔になっていた。

    「見ろよキジ! こいつ、これでも起きねぇんだぜ!」

    「もう、なにやってんの…あたしにも、やらせなさい」

    キジは笑って、そちらへ行った。

    それきり…忘れた。大したことではない、と思った。…その小さな引っかかりが三年後、自分を苛むことになるとは…知らずに。

    やがて、閉店間近の時間。

    モモタロウが、キジのそばに来た。そっと、耳元で言った。

    「キジ。すまないが…少し付き合ってくれないか。先に出よう」

    「え? 二人で?」キジは妙に恥ずかしくなり、赤面し始めた。

    「ああ。イヌとサルには、言わないでくれ」

    その声がいつもと少しだけ違い、キジは浮かれた自分を戒め頷いた。

    イヌはまだサルで遊んでいた。今度は空いたグラスを、その頭の上に載せようとしている。サルは眠ったまま、周りが盛り上がる。その活気に押され、二人が席を立ったことにも気づかなかった。

    モモタロウが、先に店を出た。

    戸口で一度、立ち止まった。

    振り返った。

    騒ぐイヌ。眠るサル。さっきまで四人で、囲んでいたその席を。

    しばらく…見ていた。

    それから、小さく呟いた。

    「……楽しかったな」

    過去形だった。

    モモタロウだけが、もう知っていた。覚悟もしていた。

    戸が開いて、キジが出てきた。

    「お待たせ。…どうしたの、改まって」

    モモタロウが、振り返った。

    その顔は、もうさっきまでの笑顔ではなかった。

    「この後、浦島さんのところへ行く」

    静かな…声だった。

    「すまないが…ついてきてくれないか」

    キジの笑みが、固まった。

    …その夜のことを、キジは三年間…誰にも言えずにいる。

    ── 完 ──


     
     
    極貧時代を経験したことがあり 今では何故か豪雪地帯の山奥で豆腐を作っています。 趣味と仕事でAIを活用し『ゆったり人生』を攻略中です。 過去の経験やAI活用の話など、気ままに書いています。 INFP-A

    あなたへのおすすめ