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日本史の始まりの地・明日香村に遺されたもの①

    先日、この酷暑の中、奈良の明日香村へ行ってきました。
    ここにはかなり時代は遡りますが「古代メキシコ」と同じような高度な文明も存在していたのです。

    小学生のころ以来、久しぶりに訪れてみると、長閑な風景は残しつつ数々の歴史名所を解りやすく伝える施設もあり、観光地としての努力が見られました。

    ただ、それらの位置は散在しているため歩ける範囲に集結しておらず、レンタサイクルでまわるというテもありますが、坂道がほとんどなのでキツイことは目に見えています。
    現に自転車で回っている外国人観光客のグループを見かけましたが、顔を真っ赤にして、かなり苦しそうでした。

    赤かめ(周遊バス)を利用するのもアリかもしれませんが、時間的なロスは大きいでしょうし、各名所には駐車場もあるので、やはり車で回るのが一番効率が良いように思います。

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    画像クリックで「飛鳥観光協会」へ

    大阪人にとっては、小学校の遠足圏内なので、誰しも一度は訪れてはいるものの、子供の目には「地味で何もない●●●●所」という印象しかなく、同じように遠足で行った息子たちも、大きな石組み(石舞台)があっただけで何も憶えていないらしい。

    今回、大人になった自分の目にこの明日香村がどう映るのか?

    自分自身もある意味楽しみにしながら、古墳3か所、寺院3か所をめぐり、思いつきで訪ねた割には中身は濃いものとなり、今年の「法隆寺を堪能する」シリーズと並行して、飛鳥時代をとことん探求するには相応しい訪問となりました。

    ただし、夫と出かけましたので、「万葉文化館」には行っていません。
    私は興味大なのですが、夫は古代文明には興味はあっても万葉集などの和歌には1ミリも興味はないので仕方なく断念しています💦

    一気にシリーズをアップするにはかなり長くなるので、これらのレポートは連続ではなく、ランダムに”読み切り形式”の記事にしていきたいと思います。


    保全と創造のバランス

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    律令国家の誕生地

    この地で聖徳太子の「一七条憲法」は制定され、中大兄皇子なかのおおえのおうじ(天智天皇)と中臣鎌足なかとみのかまたり(藤原氏の祖)による「大化の改新」が成されました。
    そして天皇を中心とした中央集権国家を目指した法律が定められると、日本は律令国家として生まれ変わることになります。

    いわば日本史はこの地で始まったと言えるのです。

    今ではカケラも感じることはできませんが、実際に明日香村には6~7世紀の約100年の間、「飛鳥京」として都が置かれ、この奈良盆地・南東部の片田舎が首都として立派に機能していたのだと思うと、なんとも感慨深いものを感じます。

    歴史と自然と人々の生活

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    明日香村は様々な歴史的遺産はもちろん、同じように1,400年も護り続けられた豊かな自然を持つ里山でもあります。

    貴重な歴史遺構と豊かな自然をどう保全するかがこの地の大きな課題であるとし、昭和55年(1980)に明日香法が制定され、過度な開発を抑制しつつ、古都としての良好な景観も大切に護ってきました。

    その反面、人口の減少とともに過疎化が進み、風土や歴史を維持しながら、この地に住む人々の生活をいかに向上させるかも、同時に考えなければならない大きな課題となっています。

    明日香村の貴重な遺構や風土を未来へと継承していくために、「歴史保全」と「今後の創造性」とのバランスがこの地にとって最も必要でした。


    今回久しぶり訪れてみて、古墳発掘や壁画の保存などに関してはもちろん、当時の人々の信仰や崇拝対象やその意味などが解りやすく学べる施設がある事には驚きました。
    これだと小学生が訪れても決して「何もない●●●●所」とはならないでしょう(笑)

    以前を知る私から見れば立派に観光地として発展しているように感じました。


    飛鳥あすかと明日香あすかはどう違う?

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    現在、「あすか」の漢字表記は一般的に「飛鳥」と「明日香」です。
    なぜ2つのパターンがあって、それらの違いはどこにあるのでしょう。

    はっきりしているのは、時代・駅・地方などの場合は「飛鳥」で、村としては「明日香」と表記されている事です。

    「飛鳥時代」「飛鳥駅」「飛鳥地方」「明日香村」など。

    多くの説があり、外来語説や地形説など様々ですが、今回は日本古来の歴史書から見える由来にポイントを絞りました。

    「あすか」の漢字表記は様々

    古事記・日本書紀・万葉集には他にも実に様々な表記が見られます。
    「安宿」「阿須賀」「安須可」など、どれも「あすか」と読み、いずれもこの地方を指します。
    これは特に苗字や地名に多い日本人お得意の当て字なのでしょう。

    さらには古事記と日本書紀では「飛鳥」が多く、万葉集では「明日香」が多いのですが、枕詞まくらことば(一定の修飾語)として「とぶとり」と読む「飛鳥」が付きます。

    「飛鳥」の由来

    🍃枕詞まくらことば説
    「明日香」はともかく、飛ぶ鳥と書いた「飛鳥」は素直に「あすか」とは読めません。
    これをどうして「あすか」と読むようになったのか?

    「明日香」の枕詞として「飛ぶ鳥」が付いたのは、
    単に小鳥が多く生息していたからか? 
    ここに住み着いた渡来人が渡り鳥のように転々としてやってきたという例えなのか? 
    色々な説があってはっきりしません。

    万葉集には「飛ぶ鳥」を枕詞にした有名な歌があります。

    飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去いなば 
    君があたりは 見えずかもあらむ 

    元明天皇巻一(七八番歌)
    訳:飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去ってしまったら、あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか。

    県民だより「はじめての万葉集」

    このように枕詞をつけた「飛鳥とぶとり 明日香あすか」が多用され、いつしか「とぶとり」も「あすか」と読まれるようになった可能性もあるようです。

    🍃「好字二字令こうじにじれい」
    これは元明天皇の時代(奈良時代)に、地名を良い意味を持つ漢字(好字こうじ)2字を当てるようにと発令されたものです。

    そういえば、鹿児島は「薩摩」、和歌山は「紀伊」、さらに北海道は「石狩」「十勝」「釧路」などの9つに分かれていました。
    それがこの「好字二字令こうじにじれい」の名残なのです。

    その時に奈良は「大和」となり「あすか」には「飛鳥」が採用されるようになりました。

    「明日香」の由来

    🍃阿邪訶あざかから転じた
    白崎 勝氏の文書にひとつの説を見つけました。

    猿田彦が漁をしていて比良夫貝に手を食われて、溺れた場所として 古事記が記す、阿邪訶(あざか)に良字を、あてて名づけた地名

    飛鳥と明日香と阿邪訶(あざか) 明日香は阿邪訶にあてた良字

    猿田彦とは天孫降臨の時に道案内をしたとされる神で、古事記が記す阿邪訶あざかの字では縁起が悪いので、天照大御神あまてらすおおみかみを表す「日」を使い「明日香」としたという説もあります。
    当時の日本人にとってこれほどの良字はなかったでしょうね。

    🍃三村合併の時に名付けられた
    明日香村は昭和31年(1956)に当時の高市村・飛鳥村・阪合さかあい村が合併したもので、その時に単に「飛鳥」とすると他の2村から不平等という意見があり、3村のどれでもない「明日香村」に決まったそうです。

    それでも「あすか」という読みなので、「たかいち」や「さかあい」はカスりもしていないのに良かったのか?という疑問もありますが💦

    私が思う「飛鳥」と「明日香」

    今となっては神話の信憑性もどこまであるのかわからず、真実はわかりませんが、私は以下の経緯を想像します。

    ・飛鳥
    「好字二字令こうじにじれい」の時に、たまたま枕詞として多用されていた「飛鳥」を採用した際、読みも訂正された。
    (日本人は当て字好きなので)

    ・明日香
    はっきりしているのは「三村合併」の時ではないですか?
    古事記にある阿邪訶あざかはどこなのかマップで検索すると、福島県郡山市の阿邪訶根神社あさかねじんじゃを指し、今の明日香がかつて阿邪訶だったのかは確定できませんでした。
    (三重県松阪市には阿射加あざか神社も存在する)

    ※あくまでも私個人の妄想による結論です。


    半世紀ぶりに「石舞台」を見て

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    夫は大学生の時に来たらしいのですが、私は冒頭の通り小学校の遠足以来、半世紀以上も経って「石舞台」を訪れました。

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    玄室(内部)長さ7.7m、幅3.5m、高さ4.7m。

    「えーこんなんやったっけ??」
    というのが私の第一感想で、それもそのはず、当時の私は小学校の低学年。
    面白くも何ともない場所に連れて来られて、石を組まれた薄暗い不気味な内部がとてつもなく大きく感じ、入り口で覗いただけで中に入る勇気もありませんでした。

    お転婆なのにオバケは怖かった💧

    確か、周りは何もないだだっ広いところにポツンと置かれていたという印象で、植え込みで囲まれていなかったように記憶しています。

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    夫の話によると周りの堀はあったらしい。

    有料なので無料区域との境目としては、この植え込みはもっとも自然な外塀なのかもしれません。

    チケット裏の説明文によると、
    古墳の玄室なのになぜ「石舞台」と呼ばれるかに所説あるようです。

    ①組まれた石の形状の見た目から
    ②昔、女性に化けた狐がこの上で舞ったから
    ③旅芸人が舞台の代わりに利用したから

    う~ん。古墳の玄室だとわかっているなら②と③はありえないのでは?
    私は無難に①の見た目で例えた名前ではないかと推測しますがどうでしょう。

    「石舞台」に関しても後日また記事にするつもりです。



    【参考・引用】
    ・明日香村
    ・明日香村地域おこし協力隊
    ・県民だより奈良
    ・飛鳥と明日香と阿邪訶(あざか)


    >>>つづき「高松塚壁画館・明日香村に遺されたもの②」


    =明日香村に遺されたものシリーズ=
    ②高松塚壁画館
    ③キトラ古墳~「四神の館」
    ④石舞台古墳
    ⑤聖徳太子誕生の地「橘寺」
    ⑥日本初の本格寺院「飛鳥寺」
    ⑦ご本尊は最古最大の塑像「岡寺」




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    エッセイスト (主に読書、歴史に関して書いています。 1961年生まれ大阪府出身。読書好き。歴史好き。ハンドメイド好き。妄想好き。 著書「レキジョークル奥の枝道」シリーズ7冊目をただいま執筆中。<https://amzn.to/3vgIGz9>

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