メインコンテンツへスキップ
見出し画像

リアル回帰ノススメ

     私たちが今、直視しなければならないのは、知性という名の「頭の中の遊び」が、いかにして私たちの「身体的なリアリティ」を奪い去ってきたかという、少しばかり残酷な事実だ。

     現代において教養を消費するとは、究極的には「画面越しの体験」に他ならない。

     指先一つで歴史のすべてを俯瞰した気になり、数分間の動画やまとめサイトで哲学を咀嚼した気になる。
     でも、その便利さと引き換えに、私たちは自分自身の肉体が感じる、名付けようのない不快感や、理屈では説明できない違和感といった、人間にとって最も貴重な、体験が培うセンサーを鈍らせてきてしまったんだ。

     考えてもみてほしい。
     スマホの画面の中でどれほど素晴らしい知識に触れたとしても、それは誰かが整理し、味付けし、食べやすく加工した「情報のレトルト食品」にすぎない。

     そんなものばかりを食べていて、本当の知性が育つだろうか。

     記号としての知性を超えるとは、洗練された理論を効率よく学ぶことではない。むしろ、言葉になる前の、生々しくて、ときには不機嫌な「現実」の感触を、自分の手で取り戻すことであるはずだ。

     情報の洪水に身を浸しながら「私は世界のすべてを知っている」と錯覚するのは、もはや滑稽を通り越して哀れささえ感じる。
     アルゴリズムがあなたの好みに合わせて最適化した知識は、あなたの脳を心地よく刺激してくれるかもしれない。
     けれど、それはあなたの生を根本から揺さぶり、魂を揺さぶるような衝撃は決して与えてくれないのだ。

     真の教養が起動するのは、いつだって「情報が途絶えた場所」においてだ。

     検索しても答えが出ず、インフルエンサーの言葉も役に立たず、ただ自分の肉体と感覚だけを頼りに、目の前の理不尽な出来事と取っ組み合う……。 
     そのとき、脳みそからではなく、臓腑の奥底から絞り出される何かこそが、本物の知性となっていく。

     今、私たちに必要なのは、ある種の知的な「断食」デジタルデトックスではないだろうか。

     一旦、SNSのタイムラインから、賢しらな評論家の言説から、そして、不遜なこの私の言葉からさえも、自分を切り離してみる。
     そして、自分の身体が直接触れる世界を、既存のカテゴリーで分類せずに見つめ直してみることだ。

     それは、道端に転がっている石ころの冷たさかもしれない。

     あるいは、誰にも理解されない孤独な怒りや、説明のつかない不安かもしれない。

     知性とは、他人が用意した眼鏡で世界を借り物のように見る技術のことではない。自分の曇った眼で、それでも泥臭く世界を直視し続けようとする、ある種の「執着」のようなものだ。

     知性は、あなたを現実から逃避させて、どこか遠い理想郷へ連れて行ってくれる翼ではない。

     記号に彩られた華やかな「空中戦」から降り、剥き出しの身体で、不機嫌なリアリティを引き受ける。その覚悟を持った者だけが、情報という名の画一的な極彩色の幻覚を突き抜け、この令和という虚構の時代を、確かな足取りで歩んでいけるはずだ。

     さて、この画面を閉じた後、あなたはまず、何から自分の身体リアリティを取り戻そうとするだろうか。

     冷たい水を一杯飲むことかもしれないし、ただ、窓の外の風の音に耳を澄ませることかもしれない。

     どんなに小さなことでもいい。
     リアルを感じる。
     そこからしか、あなたの「本当の人生」は始まらないのだから。

    #令和の教養考シリーズ


    この記事が参加している募集

     
     
    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

    あなたへのおすすめ