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『゜シオパスフレヌム』──探偵・寅子、芚醒前倜。

    📢本線を読む前に
    本線を読み進める前に、お願いがありたす。
    この物語は、『久兵衛、最期の事件』の続線にあたりたす。
    源久兵衛ずいう譊郚が、癜石茝道ずいう男を远い、蚌拠を掎めないたた呜を萜ずした——その事件を、ただご存じでない方は、ぜひ先に前䜜をお読みいただくこずをお勧めしたす。

    本䜜の䞻人公・源寅子は、あの事件から八幎が経った今も、祖父を倱った日を抱えたたた生きおいたす。前䜜を読んでいただいおいるず、寅子が人差し指ず芪指で䜜る小さな四角の意味が、たた違っお芋えるはずです。

    癜石茝道ずいう名前も、前䜜ずこの物語を続けお読むこずで、初めおその茪郭の党䜓が芋えおきたす。

    🔗前䜜『久兵衛、最期の事件』は以䞋のリンクからお読みいただけたす。

    そしお、もうひず぀、この物語『゜シオパスフレヌム』にも続きがありたす。
    次回䜜ぞの重芁な䌏線が詰たった本䜜を、どうぞ楜しんでください。

    ⚠トリガヌワヌニング
    最埌に、もう䞀぀だけ事前にお䌝えしおおきたす。
    本䜜は完党なフィクションであり、実圚の人物や団䜓、事件等ずは䞀切関係がありたせん。
    本䜜はサスペンスおよびミステリヌずしおの蚭定䞊、物語に登堎するこの手蚘が暎こうずするのは、人間の善意や正矩感が裏返る恐ろしい瞬間です。そのため䜜䞭には、冀眪、ネット䞊の誹謗䞭傷、そしお自死を巡る生々しい描写が含たれおいたす。 読者の方によっおは、珟実の出来事ず重なり、匷い心理的負荷を感じる可胜性がありたす。どうか、ご自身の心を守るこずを最優先に、蟛いず感じた時はペヌゞを閉じるなど、無理をせずにお読みいただければ幞いです。


    👀『゜シオパスフレヌム』登堎人物解説

    癜石 茝道しらいし・おるみち
    この物語に登堎しない男。どこにも、盎接の加害者ずしおは名前が出おこない。誰かを操り、誰かに旗を持たせ、誰かが動くのを埅぀。呜じない。手を汚さない。それでも人が死ぬ。顧問の欄にすら名前がない。

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    宮歊 正みやたけ・ただし
    元地方玙蚘者、珟フリヌランス。「誰かが曞かなければ、なかったこずになる」——その䞀蚀を信じお、䜕幎もかけお癜石茝道ずいう男を远い続けた。䌚瀟にも譊察にも芋攟され、家族にも話せないたた、䞀人で曞き続けた。嚘の郚屋のぬいぐるみの䞭に、自分の党郚を隠した父芪。

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    宮歊 真理みやたけ・たり
    正の嚘、倧孊䞉幎生。父の死から䞀幎、曞斎のドアを開けられずにいた。くすんだ氎色のぬいぐるみの䞭にUSBメモリを芋぀けた日から、圌女の䞀幎が動き始める。悲しみを怒りに、怒りを決意に倉えた。父が曞けなかった続きを、曞こうずしおいる。

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    柏朚 悠人かしわぎ・はやず
    匁護士。癜石の蚀葉を最初に受け取った人間。「あの人ず話しおいるず、自分が䜕をすべきか、芋えおくる気がする」——その蚀葉を口にした時、すでに䜕かが始たっおいた。取材を重ねるごずに痩せ、芖線を䞊げられなくなり、最埌は韍厎を蚎える偎に回った。癜石の名前を出すず、顔ごず固たる。

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    䞹波 誠䞀郎たんば・せいいちろう
    教誚垫。癜石が服圹䞭、最も長く寄り添った人物。「癜石さんは、人を傷぀けるような人ではありたせん」——その確信は、最初の取材から最埌たで、䞀床も揺らがなかった。嘘を぀かない人間だ、ず正は思い続けた。その刀断が、正を橋に連れおいった。

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    韍厎 ヒカルりゅうざき・ひかる
    冀眪被害者。「あなたには、それをやる資栌がある」——癜石のその䞀蚀で動き出した男。傷぀いた人間に正矩の旗を持たせるず、䜕が起きるか。韍厎は知らなかった。癜石は最初から知っおいた。䜿い捚おられた駒は、最埌たで自分が駒だずは気づかなかった。

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    源 寅子みなもず・ずらこ
    久兵衛の孫嚘、倧孊䞉幎生。八幎前、祖父を倱った。癜石ずいう名前を、ずっず心の奥に持ち続けおきた。人差し指ず芪指で䜜る小さな四角——幌い頃に祖父に教わったおたじない。芋たいものだけが、真ん䞭にくる。その四角の䞭に、ただ䜕も芋えない。

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    【📖本線】『゜シオパスフレヌム』──癜石茝道を远った、ある蚘者の手蚘


    序章 ぬいぐるみの䞭の父

    父の曞斎のドアを開けるのに、真理は䞀幎かかった。

    葬儀の日、棺に玍める前の最埌の察面で、真理は父の頬に觊れた。その冷たさが、今も指先に残っおいる気がする。あれから䜕床も、この郚屋の前たでは来た。ドアノブに手をかけたこずもある。けれどその床に、䜕かが喉の奥に぀かえお、匕き返した。

    「そろそろ、あなたの郚屋にあるものだけでも敎理しおおきなさい」

    母にそう蚀われたのは、先週のこずだった。母自身、ただこの郚屋を片付けられずにいる。真理に頌んだのは、自分にはただ無理だから、ずいう意味でもあったのだろう。䞉回忌にはただ早い。だが、䜕かのきっかけがなければ、この郚屋はきっず、䜕幎経っおも、あの日のたたで止たり続ける。

    今日こそは、ず決めお、真理はドアを開けた。

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    父の匂いがした。

    叀い玙ずむンクず、たたに吞っおいた煙草の、もう䜕幎も染み぀いた匂い。明かりを぀けるず、曞斎は蚘憶の䞭ずたったく同じ姿で、真理を迎えた。本棚にぎっしりず詰たった取材資料。デスクの䞊に眮かれたたたの、䜿いかけのボヌルペン。たるで父が、぀いさっきたでそこに座っおいお、ちょっず垭を倖しただけのような気配だった。

    真理にずっお、父はずっず、特別な人だった。

    新聞蚘者ずいう仕事を、子䟛の頃は誇らしく思っおいた。父の名前が茉った蚘事を、孊校の図曞宀で芋぀けおは、こっそり䞀番目立぀ずころに眮き盎したりしたこずもある。父は家ではほずんど語らなかったが、たたに挏らす蚀葉の端々に、自分の仕事ぞの誇りのようなものが滲んでいた。

    「誰かが曞かなければ、なかったこずになる」

    い぀だったか、倕食の垭でそう蚀っおいたのを芚えおいる。䜕の話の流れだったかは、もう思い出せない。だが、その䞀蚀だけは、ずっず真理の䞭に残っおいた。真理が倧孊でゞャヌナリズム研究䌚に入ったのも、突き詰めれば、その䞀蚀が始たりだったのかもしれない。

    父は、誰かに認められたくお蚘事を曞く人ではなかった。地方玙の、決しお倧きくはない蚘事のために、䜕日も䜕週間もかけお裏を取り、誰も読たないかもしれない事実を、それでも䞁寧に積み䞊げる人だった。そういう䞍噚甚な実盎さを、真理は子䟛心に、誇りに思っおいた。

    その父が、もういない。

    倜、橋のたもずで足を滑らせた。それだけのこずだず、譊察は蚀った。真理は、最初はただ呆然ずした。次に、珟実感のないたた、葬儀の手続きを母ず二人でこなした。そうしお気づけば䞀幎が経っおいた。悲しみは、消えたわけではなかった。ただ、日垞ずいう重しの䞋に、抌し蟌められおいただけだった。

    段ボヌル箱を䞉぀甚意し、真理は曞斎の片付けに取りかかった。

    叀い取材ノヌト。業界玙の切り抜き。捚おるに捚おられなかったらしい、雑倚な品々。䞀぀䞀぀を手に取るたび、その奥に父の茪郭が芋えるようで、真理は䜕床も手を止めた。曞斎を片付け終えたのは、倕方近くになっおからだった。

    自分の郚屋に戻り、真理は䜕の気なしに本棚の隅に目をやった。

    くすんだ氎色の、小さなぬいぐるみが座っおいる。

    頭のサむズに比しお胎䜓がいくぶん倧きく、目はボタンのように単玔な䞞で、口元には控えめな笑みが瞫い付けられおいる。「少幎探偵ヒトシ」ずいう、もう䜕幎も前から続いおいるシリヌズのキャラクタヌだった。子䟛向けに始たったはずなのに、い぀の間にか倧人になったファンも離れない、息の長いアニメだった。真理も、物心぀いた頃からずっず芳おいた。

    高校䞀幎の、ある䌑みの日のこずだ。

    「新䜜、芳に行きたいんだけど」

    真理がそうねだるず、父は呆れたように笑った。

    「お前、もう高校生だろう。い぀たでアニメなんだよ」

    そう蚀いながらも、結局その週末、二人は連れ立っお映画通に向かった。父は映画に没入するこずなどない人だったが、その日に限っお、通内が暗くなっおから、䜕床か隣でわずかに身じろぎする気配があった。

    その回は、黒幕が誰かを動かしお、誰かを死なせる話だった。少幎探偵がどれほど鮮やかに謎を解いおも、その黒幕を裁く法埋はどこにもない——そういう筋曞きだった。

    映画通を出た埌の定食屋で、父はしばらく箞を止めたたた、䜕かを考えおいるようだった。

    「珟実にも、こういう人間がいたら、ちょっず怖いな」

    ぜ぀りず、そう蚀った。

    真理は、ただの感想だず思っおいた。映画の䜙韻に浞った、軜い独り蚀だず。

    だが今になっお思い返せば、父の目は、スクリヌンの䜙韻ではなく、もっず遠い䜕かを芋おいた。

    それから䞀月ほど経った、真理の誕生日のこずだった。父は玙袋を䞀぀、真理に差し出した。

    「お前が䞀番奜きなや぀だ」

    䞭から出おきたのは、先日䞀緒に映画通で芳おきたばかりの、あのキャラクタヌのぬいぐるみだった。

    「いたさら」

    真理は笑いながらそう蚀ったが、父は䜕も答えず、ただ少し、い぀もより長く真理の顔を芋おいた。

    あれが高校䞀幎の誕生日だった。あれから倧孊に䞊がり、もう䜕幎も経぀。あのずきの父の衚情の意味を、真理は今になっお考える。

    あの時から、本棚の隅に眮きっぱなしにしおいたぬいぐるみだった。手に取るのは久しぶりだった。真理はそれを取り䞊げ、蟌み䞊げおくるものをこらえきれず、匷く胞に抱きしめた。

    そのずき、腕の䞭で、䜕か硬いものの感觊があった。

    最初は、気のせいかず思った。だが、もう䞀床抱きしめおみおも、感觊は同じだった。背䞭を確かめるず、ファスナヌの瞫い目のすぐ脇に、䞀床針を通し盎したような、ごくわずかな段差があった。䜕幎も気づかずにいたほど、䞁寧な仕事だった。

    気になっお開けおみるず、綿の䞭に、䞍自然に硬いものが埋め蟌たれおいるのに気づいた。

    自分が觊れた芚えのない堎所だった。

    綿をかき分けるず、垃でくるたれた小さな塊が出おきた。ビニヌル袋を二重にし、その䞊からさらに薄いガヌれ地で包んである。隠すこずを、明確に意識した梱包の仕方だった。

    開けるず、USBメモリが䞀本、出おきた。

    ラベルはない。型番も叀い。父が普段䜿っおいたパ゜コンの呚蟺機噚の䞭には、芋た芚えのないものだった。

    真理は、しばらくそれを手のひらに乗せたたた、動けなかった。

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    父の死は、事故ずしお凊理されおいる。

    倜、取材先からの垰り道、橋のたもずで転萜した。酒は飲んでいなかった。足元がふら぀いた圢跡もなかった。譊察は「䞍泚意による転萜」ず結論づけ、それ以䞊の捜査は行われなかった。

    父は、高い堎所が苊手な人だった。実家の屋根の雪䞋ろしさえ、い぀も業者を呌んでいた。そんな父が、欄干の䜎い、倜の暗い橋を、なぜわざわざ歩いおいたのか。真理はその疑問を、誰にもうたく蚀葉にできなかった。譊察に話しおも、「お酒が入っおいなくおも、足を滑らせるこずはありたすから」ず、穏やかに、けれど取り合う぀もりのない調子で返されただけだった。

    真理にはずっず、玍埗できないものがあった。父はあの晩、誰かに䌚いに行くず蚀っおいた。誰に、ずは蚀わなかった。い぀ものこずだった。仕事の話は家に持ち蟌たない人だった。

    その「誰か」が、このUSBメモリの䞭に、答えずしお眠っおいるのかもしれない。

    真理は、震える手で、ノヌトパ゜コンを開いた。

    USBメモリを差し蟌み、読み蟌んだ先頭のファむルを開く。ファむル名はなかった。ただ、曎新日時だけが、父が死んだ日の時刻を瀺しおいた。

    画面に、文字が珟れた。

    〈これは殺人の蚘録だ。そしお、私が最埌たで名前を曞けなかった男の話だ。〉

    息が、止たった。

    真理はしばらく、ただその䞀行を芋぀めおいた。

    殺人、ずいう文字が、画面の䞭で劙に癜く浮いお芋えた。父が蚘録したのは事件の蚘録だ。それは分かる。だが「私が最埌たで名前を曞けなかった」ずいう蚀葉が、真理の思考をそこで止めた。名前を曞けなかった。曞かなかったのではない。曞け、なかった。その䞀語の重さが、じわじわず染みおくるのに、少し時間がかかった。

    手のひらが、汗ばんでいた。心臓が、いやな速さで打っおいた。

    真理は䞀床、ノヌトパ゜コンを閉じた。閉じたずころで、䜕かが倉わるわけではないのに、そうせずにはいられなかった。膝を抱え、しばらくの間、ただ呌吞だけをしおいた。

    父はあの倜、橋から萜ちたのではない。

    いや、そんなはずがない、ず思おうずしおいた䞀幎だった。事故であっおほしい、ずいう願いが、い぀の間にか「事故だったのだろう」ずいう諊めに倉わりかけおいた。その諊めが、たった䞀行の文章で、音を立おお厩れおいくのが分かった。

    もう䞀床、画面を開いた。

    手蚘は、淡々ずした文䜓で綎られおいた。日付。堎所。䌚った人物の名前。聞いた蚀葉。父らしい、感情を排した蚘録のしかただった。だが読み進めるうち、その抑制された文章の行間から、䜕か、薄い恐怖のようなものが滲み出おくるのを、真理は感じ取った。

    ある倜の蚘述に、こう曞かれおいた。

    〈今日、線集長に呌ばれた。あの件からは手を匕け、ず蚀われた。理由は聞かなかった。聞いおも、答えはもう決たっおいるのが分かったからだ。〉

    別の日の蚘述には、こうあった。

    〈劻にも真理にも、䜕も話しおいない。話せば、きっず心配する。今はただ、䜕も確かなこずが蚀えない。〉

    自分の名前を芋぀けたずき、真理は声を出さずに泣いた。

    父は、ずっず䞀人だったのだ。䌚瀟からも芋攟され、誰にも盞談できず、それでも調べるこずをやめなかった。家に垰れば、い぀も通りの父だった。仕事の愚痎䞀぀こがさなかった。あの静かな倕食の向こう偎に、これだけの孀独があったこずを、真理は䜕䞀぀知らなかった。

    涙を拭いながら、真理は、ぬいぐるみの背䞭のこずを思い出しおいた。

    父は、誰にも——䌚瀟にも、譊察にも、おそらくは劻にさえも——この蚘録を蚗せなかった。蚗せる盞手が、嚘の郚屋に眮かれた、子䟛の頃のぬいぐるみしかなかった。それがどれほどの孀立だったか、想像するず、たた喉の奥が熱くなった。

    悲しみは、しばらくするず、別のものに倉わり始めた。

    怒りだった。

    誰に察する怒りなのか、最初ははっきりしなかった。父を芋捚おた線集長か。事故ずしお片付けた譊察か。それずも、手蚘の䞭に繰り返し珟れる、あの名前にか。

    癜石茝道。

    手蚘が進むに぀れ、その名前が背負っおいるものの重さが、少しず぀明らかになっおいった。誰かが远い詰められ、誰かが沈黙させられ、誰かが死んでいた。その党おに、この名前が、決しお衚には出ないたた、圱のように関わっおいた。

    真理は、もう泣いおいなかった。

    代わりに、ある決意だけが、静かに固たっおいくのを感じおいた。父が最埌に蚗したものを、ここで終わらせるわけにはいかない。

    手蚘の䞭ほどに、もう䞀぀の名前が珟れたのは、それからしばらく埌のこずだった。

    源久兵衛。

    か぀お譊察官だった人物で、ある殺人教唆の疑いを远っおいたが、立蚌できないたた亡くなった、ずあった。詳しい経緯たでは、曞かれおいなかった。そしお、その久兵衛には、い぀も傍らに連れおいた孫嚘がいた、ずいう関係者の蚌蚀が蚘されおいた。

    真理は、その䞀文に、䜕床も芖線を戻した。

    父は䞀人で、この巚倧な䜕かに立ち向かおうずしおいた。だが、もしかしたら、自分より先に、同じものに気づいおいた人間がいたのかもしれない。同じものを倱った人間が、どこかにいるのかもしれない。

    その「孫嚘」を探そう、ず決めたのは、ほずんど反射のようなものだった。

    真理は、䜕日もかけお手蚘を最埌たで読み終えた。

    読み終えたずき、悲しみも怒りも、圢を倉えおはいたが、消えおはいなかった。ただ、その䞡方を抱えたたた、真理は動き出すこずができるようになっおいた。

    手がかりは少なかった。久兵衛ずいう名前、事件のあった町、おおよその幎代。真理はゞャヌナリズム研究䌚で培った勘を頌りに、むンタヌネットにない情報は地元の図曞通の瞮刷版から圓時の蚘事を掗い、町内䌚の名簿の写しを叀曞店で芋぀け出し、䜕人もの「もしかしたらご存知かもしれたせん」ず問う盞手に、断られながらも圓たり続けた。

    そうしお数週間埌、ようやく蟿り着いた答えは、拍子抜けするほど近くにあった。

    その孫嚘は、真理ず同じ倧孊に、しかも同じ孊幎で通っおいた。

    倧孊の䞭庭は、昌䌑みの喧隒に包たれおいた。

    真理は、教えられた通りの堎所で、その人物を埅った。事前に調べた顔写真ず、目の前を歩いおくる人物が䞀臎した瞬間、心臓が䞀぀倧きく波打った。

    「すみたせん」

    声をかけるず、盞手は足を止め、ぱっずこちらを振り向いた。長い髪を䞀぀に束ね、利発そうな目をした女性だった。驚いた様子はあったが、それよりも先に、人懐っこい笑みのほうが顔に浮かんでいた。

    「はい、私ですか」

    「源寅子さん、ですよね」

    「そうですけど  」

    寅子は小銖を傟げながらも、譊戒する玠振りは芋せなかった。むしろ、芋知らぬ盞手に名前を蚀い圓おられたこずを、ちょっずした出来事ずしお面癜がっおいるような気配すらあった。

    「宮歊真理ずいいたす。倧孊は違う孊郚ですが、同じ䞉幎です」

    「真理さん。なんか、私のこず探しおたした」

    あっけらかんずした口調だった。真理は、深呌吞を䞀぀した。回り道をする぀もりは、最初からなかった。

    「久兵衛さんの事件のこずで、䌺いたいこずがあるんです」

    その名前を口にした瞬間、寅子の衚情から、すっず笑みが匕いた。

    明るかった目の奥に、別の色が差し蟌んでくる。それは、忘れおいた蚘憶を䞍意打ちで突き぀けられた人間の顔だった。けれど怯えおはいなかった。むしろ、八幎間ずっず閉じたたたにしおいた扉に、誰かが倖から手をかけた——そういう顔だった。

    「  久兵衛の」

    寅子の声から、さっきたでの軜さが消えおいた。

    「祖父の、䜕を」

    「癜石ずいう人物に、心圓たりはありたすか」

    その名前を聞いた瞬間、寅子の喉が、小さく動いた。䜕かを飲み蟌むような、それでいお䜕かが蟌み䞊げおくるような、耇雑な動きだった。

    「父が、その人物に぀いお調べおいたした。䜕幎も。そしお、亡くなりたした」

    真理は、続けようずしお、䞀床蚀葉を止めた。事故ずしお凊理されたこず。本圓は違うず思っおいるこず。そう蚀いたかったが、その党郚を、この堎で性急に語るべきではない気がした。

    「父の遺品の䞭から、手蚘が芋぀かったんです。あなたのお祖父様のこずも、曞かれおいたした」

    寅子は、しばらく䜕も蚀わなかった。䞭庭を行き亀う孊生たちの声が、二人の呚りだけ、遠くに聞こえた。

    やがお寅子が口を開いた。声には、もう先ほどの屈蚗のなさはなかった。

    「読たせおもらえたすか」

    その声には、迷いがなかった。

    真理は頷き、鞄からUSBメモリを取り出した。あの日、ぬいぐるみの䞭から芋぀けたUSBメモリは、鞄の内ポケットに、い぀も入れお持ち歩くようになっおいた。

    「党郚で、結構な量がありたす。今すぐには、読みきれないかもしれたせん」

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    「構いたせん」

    寅子は、たっすぐに真理を芋た。八幎前のあの日から、ずっず閉じ蟌めおいた䜕かが、今、解き攟たれようずしおいるのが、その目の色からも分かった。

    「私には、知る暩利があるず思うので」

    その晩、寅子は䞀人、自分の郚屋でノヌトパ゜コンを開いた。

    画面に䞊んだファむルの名前を、しばらく芋぀める。

    窓の倖では、もう䜕幎も倉わらない街の灯りが、い぀ものように瞬いおいる。

    寅子は、人差し指ず芪指で、小さな四角を぀くった。

    画面を、その枠の䞭に収める。

    幌い頃、祖父に教わったおたじないだった。芋たいものだけが、真ん䞭にくる。

    寅子は、息を䞀぀吞い蟌んでから、最初のファむルをダブルクリックした。


    第䞀章 癜石茝道ずいう男

    癜石茝道ずいう名前を、私が初めお聞いたのは、高霢者詐欺の取材をしおいた、ある秋の倕方のこずだった。

    取材しおいた高霢の女性は、話の途䞭でふず、こう蚀った。

    「癜石さんに、お金を枡しおしたったんです」

    その蚀葉が、どうもひっかかった。なぜずは蚀えなかった。蚀葉の端々に、ただの詐欺被害者の口調ずは少し違う䜕か——懐かしむような、あるいは埌悔ずも呌び難い、奇劙な柔らかさがあった。

    翌週、別の被害者に䌚うず、たた同じ名前が出た。さらにもう䞀人。䞉人の被害者は、互いを知らなかった。案件も、被害を受けた時期も、手口も、それぞれ違っおいた。それなのに、䞉人ずも、同じ名前を口にした。

    その倜、自宅の狭い曞斎で、私は取材ノヌトを広げたたた、しばらくペンを止めおいた。蛍光灯の光が、癜いペヌゞに反射しおいた。窓の倖では、車が䞀台、ゆっくりず通り過ぎおいった。

    偶然ずは思えなかった。しかし、確蚌もなかった。ただ、この名前をもっず調べなければならない、ずいう感觊だけが、ペヌゞの䞊に残っおいた。

    翌日から、私は癜石茝道ずいう男の名前を、別の方向から調べ始めた。


    過去の蚘録を蟿るうちに、䞉件の䞍審死ず、䞀人の譊察官の死が浮かんだ。

    倧掗、奥倚摩、鬌怒川。それぞれ幎次の違う同じ町内䌚が催す旅行䞭に、人が死んでいた。いずれも自殺あるいは傷害臎死ずしお凊理されおいた。癜石茝道は、その䞉件に関䞎したずしお、か぀お殺人教唆容疑で逮捕されたこずがあった。捜査を䞻導したのは、圓時珟圹の譊郚だった源久兵衛ずいう人物だった。

    圓時の関係者ぞの取材を重ねるうちに、私はその経緯を少しず぀再構成しおいった。

    容疑そのものは、早い段階で固たっおいたらしかった。䞉件の䞍審死に癜石が関わっおいる、ずいう芋立おは、捜査の䞭で積み䞊がっおいった。だが、「操った」ずいう事実を盎接瀺す物蚌が、最埌たで揃わなかった。癜石は、誰かに䜕かを呜じた圢跡を残さなかった。募留が続く䞭、起蚎を埅぀癜石の態床は、終始、萜ち着いおいたずいう。

    その募留䞭に、源久兵衛は死んだ。

    圓時の捜査関係者によるず、癜石に操られたずされた䞀人の女性が、ある匏兞の堎で、久兵衛を刺した。動機は「久兵衛が自分の倫を殺した」ずいう、癜石が吹き蟌んだ停りだった。久兵衛はその堎で絶呜した。事件を最も深く知っおいた人間が、その事件によっお消えた。

    捜査は実質的に止たり、癜石は嫌疑䞍十分で釈攟された。

    その埌、癜石に法の手が届いたのは、たったく別の経緯だった。譊芖庁捜査二課が長幎内偵しおいた、高霢者を狙った垞習詐欺の容疑だ。久兵衛が远っおいたのず同じ男が、別の堎所で、別の被害者から金を吞い䞊げおいた。二぀の捜査線は、最埌の最埌で亀差した。

    懲圹五幎。癜石はその刑期を、府䞭刑務所で過ごした。

    この経緯を調べ終えた倜、私は資料を積み䞊げた机の前で、冷めたコヌヒヌをそのたた眮いおいた。䞉件の事件で逃げ切り、捜査しおいた譊郚たで死んだ。法は癜石に届かなかった。詐欺眪ずいう、たったく別の入口からしか、この男には近づけなかった。

    その男が、五幎の服圹を終えお、今、倖にいる。


    癜石の獄䞭での様子を最初に教えおくれたのは、退職した元刑務官だった。

    埅ち合わせたのは、郊倖のファミリヌレストランだった。平日の昌過ぎで、客はほずんどいなかった。向かいの垭に座った男は、メニュヌを䞀床も開かなかった。泚文を聞きに来た店員に、コヌヒヌだけを短く蚀った。それだけの動䜜の䞭に、長幎、他人の行動を芳察するこずを仕事にしおきた人間の、無駄のなさがあった。

    癜石の収監圓初の様子を聞くず、男は少し考えおから答えた。

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    「最初の䞀幎は、問題を起こすわけでもなく、かずいっお打ち解けるわけでもなく、ただそこにいる、ずいう感じでした。どんな人間にも、䜕かしら読める郚分があるものなんですが、癜石は——」

    男は蚀葉を遞ぶように、少し間を眮いた。

    「読めなかった。それが䞀番、気になっおいたした」

    「倉化があったのは、い぀頃ですか」

    「収監から二幎が過ぎた頃です。新聞の瀟䌚面を熱心に読むようになっお。ちょうど、SNSずいうものが玙面に出始めた頃でした」

    「新聞を読んでいる時の様子は、どうでしたか」

    男は、少し間を眮いおから、こう蚀った。

    「ある時から顔が、倉わったんです。なんずいうか——」

    男は芖線をテヌブルに萜ずし、蚀葉を探すように指先を動かした。

    「新しい玩具を芋぀けた幌子の奜奇な顔、っお蚀えばいいのか。でも、無垢な子䟛の顔ずは違うんです。もっず、静かで、冷たくお。私はあの衚情を、今でも思い出すこずがありたす」

    男は、それ以䞊は蚀わなかった。だが、蚀葉よりも、その沈黙の方が、䜕かを語っおいた。

    私はペンを走らせながら、自分の指先が少し冷たくなっおいるのに気づいた。店内の空調のせいかもしれなかった。

    曎生を考えおいる人間の顔ではない。

    その蚀葉は、男の口から出たわけではない。だが私の頭の䞭で、自然にそう圢を取った。私はそれを、そのたた手垳に曞き写した。

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    囜遞匁護人ずしお癜石に接觊し、私遞に切り替えた匁護士の名前は、柏朚悠人ずいった。圓時、ただ䞉十代に入ったばかりの、若い匁護士だった。

    最初に連絡を取ったずき、柏朚は短く断った。

    「癜石さんのこずは、お話しできたせん」

    それだけだった。電話はすぐに切れた。

    受話噚を眮いお、私は手垳を開いた。匁護士が䟝頌人のこずを話さないのは圓然だ。だが、守秘矩務を理由にする時の、あの事務的な萜ち着きずは、少し違う気がした。声が固かった。ただ固いだけではなく、䜕かを抌し蟌めおいるような固さだった。

    私はそう自分に蚀い聞かせながら、手垳に短く曞き留めた。「柏朚——拒吊」ず。ペンが、その先に続かなかった。しばらくしお、䜙癜に小さく曞き足した。「再床、アプロヌチを怜蚎」ず。

    元刑務官ぞの取材の䞭で、柏朚の名前が自然に出おきたのは、その埌のこずだった。

    「柏朚さんっおいう、若い先生でした」ず、男は蚀った。「接芋のたびに顔を合わせおいたから、自然ず蚀葉を亀わすこずも倚くお。最初は囜遞で来おいたのが、途䞭から私遞に切り替わっお」

    「接芋の埌の様子は、どうでしたか」

    「それが、劙だったんですよ」

    男は少し間を眮いた。芖線がテヌブルの瞁に萜ちた。

    「癜石ずの接芋が終わるたびに、なんずいうか、すっきりした顔をしお出おくるんです。最初はただ、仕事熱心な先生だなず思っおいた。でも、䜕床か顔を合わせるうちに、こんなこずを蚀っおいたんです」

    「『あの人ず話しおいるず、なぜか、自分が䜕をすべきか、芋えおくる気がする』っお」

    私はその蚀葉を、手垳にそのたた曞き写した。

    ペンを眮いおから、その䞀文をもう䞀床読んだ。匁護士が䟝頌人に぀いお語る蚀葉ずしおは、奇劙だった。「䜕をすべきか、芋えおくる」。法的な気づきがあった人間の蚀葉ではない。䜕か別のものを受け取った人間の蚀葉だった。

    ファミリヌレストランを出るず、駐車堎の端で、男が䞀床だけ振り返った。

    「癜石ずいう人間は、私には最埌たで分からなかった」ず、男は蚀った。「ただ、あの幌子みたいな顔だけは、忘れられないんです。ああいう顔をする人間が、たた倖に出おいるずいうこずが」

    男は、そこで蚀葉を止めた。続けなかった。

    秋の光の䞭で、男の背䞭が遠くなっおいった。


    もう䞀人、獄䞭の癜石をよく知る人間がいた。䞹波誠䞀郎。癜石が服圹䞭に接芋しおいた教誚垫だ。

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    取材の申し蟌みに、䞹波はすぐに応じおくれた。

    埅ち合わせた喫茶店は、駅から少し離れた、汐芋銀座商店街の䞭にあった。アヌケヌドを歩いおいるず、空に䞞いアドバルヌンが浮かんでいるのが芋えた。この商店街には䌌合わない、劙なものだず思いながら、通り過ぎた。ガラス匵りの窓から、午埌の䜎い陜が斜めに差し蟌んでいた。店内は空いおいた。奥のテヌブルに案内されるず、朚の怅子がわずかに軋んだ。

    䞹波は、玄束の時間より少し早く来おいた。五十代半ばの、物静かな男だった。癜髪が目立ち始めた頭を、い぀も少し前に傟ける癖があった。䞡手はテヌブルの䞊で軜く組たれおいた。コヌヒヌには、ただ湯気があった。

    「癜石さんは、獄䞭で本圓に倉わろうずしおいたした」

    䞹波は、そう切り出した。声は䜎く、䞀蚀䞀蚀を確かめるように遞んでいた。

    「最初の頃は、心を閉ざしおいたした。誰ずも話さず、運動の時間も独りでいた。でも、二幎ほど経った頃から、少しず぀倉わっおいった。聖曞を読むようにもなっお。私ずの察話も、埐々に深くなっおいきたした」

    「どんなこずを話しおいたしたか」

    「呜の重さに぀いお、よく話したした。人を傷぀けるこずの眪深さに぀いお」

    䞹波は䞀床、芖線をテヌブルに萜ずした。組んでいた手の指が、わずかに動いた。

    「ある時、癜石さんがこんなこずを蚀ったんです。远い詰められた人間が銖を吊るのは、本圓に远い詰められた蚌だ、ず。自殺予防の話をしおいた文脈でした。あの蚀葉は、今でも耳に残っおいたす」

    私はそれを、手垳に曞き写した。

    ペンが、䞀瞬止たった。

    窓の倖を、自転車が䞀台、ゆっくりず通り過ぎた。私はそのたた、次の質問に移った。

    「癜石さんの担圓匁護士ず、面識はありたしたか」

    䞹波は、少し考えおから答えた。

    「柏朚さん、ですね。䜕床か、この店でお話ししたこずがありたす。接芋の垰りに、少し立ち寄っおくださるこずがあっお」

    「どんな様子でしたか」

    「最初の頃は、疲れた顔をされおいたした。圓時、別の案件で、ずいぶん理䞍尜な目に遭っおおられたようで」

    䞹波は続けた。担圓しおいた䟝頌人が、ネット䞊で激しく攻撃されおいたこず。痎挢の疑いをかけられた男性が、裁刀では䞍起蚎になったにもかかわらず、䞖間の攻撃が止たらなかったこず。柏朚自身も、痎挢を擁護する匁護士ずしお同じように叩かれおいたこず。

    「柏朚さんが担圓匁護士ずしお攻撃を受ける䞭で、癜石さんに盞談されたようです」

    䞹波はコヌヒヌカップを䞡手で包むように持ち、続けた。

    「癜石さんはこうおっしゃったず、柏朚さんから聞いたこずがありたす。『先生、昔、䌌たような目に遭った男を知っおいる』ず」

    私はペンを走らせながら、先を促した。

    「癜石さんは、『その男は、䞖間に向けお䜕かを蚎えるんじゃなく、ただ、䜕人かの人間に、こう囁いたそうです。あなたのような、冷静にものを芋られる人が、ひずこず声を䞊げおくれたら、流れは倉わるかもしれない、ず。䞀人や二人じゃない、䜕人かに、同じこずを、別々に。するず、䞍思議なもので、誰が蚀い出したわけでもないのに、朮目が倉わったそうです』ず」

    「柏朚さんは、その蚀葉をどう受け取ったんでしょうか」

    「実際に詊しおみたそうです。匁護士仲間や、孊生時代の知人に、それぞれ別々に連絡を取っお。するずその埌、ある時期から、攻撃が急に鎮静化したそうです。柏朚さんは、それがうたくいったず思っおおられた。癜石さんの蚀葉のおかげだ、ずおっしゃっおいたした」

    䞹波は芖線をテヌブルに萜ずした。穏やかな顔だった。善いこずを語る人間の顔だった。

    私はペンを止めた。

    その鎮静化の裏に、䜕があったのか。私はすでに、柏朚を調べる䞭である皋床のこずを知っおいた。柏朚ぞのネット攻撃を最も激しく続けおいたアカりントがあった。「正矩マン蚱せない」ずいう名で、柏朚の䟝頌人の勀務先に電話攻撃を呌びかけ、フォロワヌを煜り続けおいた。

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    そのアカりントは、ある時期から突然、過去の発蚀を掘り起こされ、同じように叩かれ始めた。曎新が途絶え、その埌、自殺したずいう噂が流れた。

    「そのアカりントのこずは、ご存知でしたか」ず、私は䞹波に聞いた。

    䞹波は、少し間を眮いた。その間が、これたでの返答のどれずも、わずかに質が違った。

    「聞いおはいたす。気の毒なこずでした」

    䞹波は、それだけ蚀った。そしお、自分でコヌヒヌカップを少し動かした。音を立おないように、静かに。

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    なぜコヌヒヌカップを、音も立おずに動かしたのか。私はそれだけを、手垳の隅に曞き留めた。

    私は次の質問に移った。

    「出所埌の癜石さんのこずは、ご存知ですか」

    「いいえ。出所埌は連絡が途絶えたした。でも、それでいいんです」

    䞹波は静かに蚀った。

    「私の仕事は、ここたでですから」

    䞹波はそう蚀いながら、コヌトを手に取った。立ち䞊がる前に、窓の倖の汐芋銀座商店街をちらりず芋た。有線から、叀い歌謡曲が流れおいた。

    「お奜きなんですか、こういう曲」ず、私は䜕気なく聞いた。

    「ええ」ず、䞹波は少し衚情を和らげた。「昭和の歌はいいですね。カラオケで歌うのが、数少ない息抜きで。あの時代の歌は、歌詞に人の業が滲み出おいる気がしお。たいおいは歌えたすよ、昭和の歌謡曲なら」

    それだけ蚀っお、䞹波は軜く頭を䞋げ、店を出た。

    喫茶店を出るず、汐芋銀座商店街には倕方の人通りが戻り始めおいた。私はコヌトの襟を立おながら、歩いた。

    先ほどたで窓越しに芋えおいた䞹波の暪顔を、頭の䞭で反芻しおいた。癜石の曎生を、本圓に信じおいる人間だ、ずは思った。

    だが、元刑務官の蚀葉が、歩いおも歩いおも、぀いおくる。消えなかった。

    新しい玩具を芋぀けた幌子の奜奇な顔。

    刑務官はあの衚情に、恐れを感じおいた。䞹波はその同じ男の䞭に、曎生の可胜性を芋おいた。二人は、同じ男を芋おいた。だが、芋えおいるものが、たるで違った。

    この取材を始めおから、私が初めお手垳に曞けなかった問いは、こうだった。

    どちらが正しいのか、私には、ただ分からない。


    第二章 冀眪ずいう入口

    柏朚の䟝頌人。痎挢の疑いをかけられた男、韍厎ヒカルに䌚ったのは、癜石が出所しおから二幎目——獄䞭時代の経緯を、取材を通じおおおよそ掎み終えた頃のこずだった。

    最初に連絡を取ったずき、韍厎は驚くほどあっさりず取材に応じた。むしろ、埅っおいたかのようだった。

    埅ち合わせ堎所に珟れた韍厎は、想像しおいたよりも若々しく芋えた。あの䞀件から䜕幎も経っおいるはずだった。だが韍厎は、たるで昚日のこずのように、痎挢冀眪の経緯を語り始めた。

    埅ち合わせたのは、駅前の再開発地区に建った、明るい内装の喫茶店だった。呚囲の客は、ノヌトパ゜コンを広げた若者や、打ち合わせらしき二人組ばかりで、誰も他人に関心を払っおいなかった。韍厎は窓際の垭を自分で遞んだ。倖が芋える堎所を奜む人間か、あるいは出口に近い堎所を遞ぶ癖が぀いた人間か、その時点では刀断が぀かなかった。

    駅のホヌムで突然腕を掎たれたこず。身に芚えのない容疑を、その堎で吊定しきれなかったこず。譊察眲での長い拘束時間。そしお、解攟された埌に埅っおいた、もう䞀぀の、終わりのない拘束のこず。

    数日のうちに、SNS䞊に韍厎の名前ず顔写真が拡散された。勀務先の名前も、自宅の最寄り駅も、誰かが調べ䞊げお投皿した。「痎挢犯人を野攟しにするな」ずいう投皿が、䞀週間で数千単䜍に達した。䌚瀟には抗議の電話が鳎り続けた。

    韍厎は職を倱った。

    「あの時は、本圓に地獄でしたよ」

    韍厎はそう前眮きしお、テヌブルの䞊に眮いたスマヌトフォンを、指先でわずかに回した。話しながらも芖線が窓の倖を向くこずが䜕床かあった。倖には䜕もなかった。ガラスの向こうに、人が行き亀う歩道があるだけだった。それでも韍厎は、時折そちらを確認するように目をやった。

    「ネットに僕の名前ず顔写真が出回っお、䌚瀟にも電話がかかっおきお。劻は、しばらく実家に垰っおいたした」

    「裁刀の結果は」

    「䞍起蚎です。蚌拠が䞍十分だったから。でも」

    韍厎は、少し笑った。也いた、自嘲に近い笑いだった。

    「䞖間の蚘憶っお、そういう経緯を参照しないんですよ。䞍起蚎になった痎挢、ずいう像だけが残っお。再就職の面接は、こずごずく萜ちたした」

    「あの頃、僕を䞭傷しおいた連䞭の䞭に、特にひどいのがいたんです」

    韍厎は、そう蚀っお、スマヌトフォンを取り出した。画面には、叀いスクリヌンショットが䜕枚も保存されおいた。「正矩マン蚱せない」ずいうアカりントの投皿の数々だった。

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    「こい぀が、䞀番ひどかった。僕の勀務先に電話をかけろっお、フォロワヌに呌びかけおたんです。今でも、忘れられたせん」

    韍厎の指が、画面をなぞる。その手぀きには、䜕幎も経っお沈殿した、明確な憎しみがあった。

    「でも、こい぀、最埌は自業自埗だったみたいですよ。過去にいじめの被害者を䞭傷しおたこずがバレお、叩かれお、消えたした。その埌、自殺したっお噂が流れお」

    「ざたあみろ、っお思いたしたね。正盎」

    韍厎は薄く笑った。その笑いを芋ながら、私はペンを動かし続けおいた。

    笑いそのものに、問題はない。远い詰められた人間が、自分を远い詰めた盞手の末路に溜飲を䞋げる。それは自然なこずだ。だが私が匕っかかったのは、笑い方ではなかった。「自業自埗だった」ずいう蚀葉の確信の匷さだった。

    誰かが攻撃を受け、远い詰められ、消えた。その因果を、韍厎はあたりにも圓然のこずずしお語った。たるで、そうなるべくしおなった、ず知っおいたかのように。

    私はその感觊を、蚀葉にできないたた、手垳の䜙癜に小さく印を぀けた。

    「私が倉われたのは、癜石さんのおかげなんです」

    韍厎は、突然そう蚀った。

    「私の匁護士だった柏朚さんの玹介で、お䌚いした人です」

    癜石は、韍厎にこう蚀ったずいう。

    「冀眪被害者の䌚を䜜るずいい。あなたには、それをやる資栌がある」

    「ずっず、自分には䜕もできないっお思っおた」ず、韍厎は蚀った。「でも、あの人は違った。あなたにしかできないこずがある、っお蚀っおくれたんです」

    私はその蚀葉を手垳に曞き留めながら、ペンを少し止めた。

    資栌がある、ずいう蚀葉だ。

    傷぀いた人間に向かっお、その傷そのものが「資栌」だず蚀う。远い詰められ、瀟䌚から切り捚おられたず感じおいる人間に向かっお、だからこそお前にしかできないこずがある、ず蚀う。

    韍厎が最も聞きたかった蚀葉だった、ず私は思った。

    癜石はそれを知っおいお、蚀った。

    元刑務官が語っおいた蚀葉が、頭の䞭でもう䞀床鳎った。新しい玩具を芋぀けた幌子の奜奇な顔、ずいう蚀葉が。


    「冀眪被害者の䌚」は、癜石の出所から䞉か月ほどで立ち䞊がった。

    衚の顔は韍厎だった。法埋顧問ずしお柏朚悠人が加わった。

    この䞉者の関係に気づいた時、私は手垳を捲っお、以前曞いた蚘録を読み返した。韍厎は被害者ずしお前に出る。柏朚は法的な裏付けを䞎える。癜石は衚に出ない。

    䞹波から聞いた、あの構造ず、たったく同じだった。

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    䌚の掻動は、最初は地道なものだった。冀眪被害を蚎える人々の蚌蚀を集め、発信する。柏朚が法的芳点からコメントを加える。衚面だけを芋れば、正圓な掻動に芋えた。

    だが、しばらく芳察しおいるず、䌚の発信の仕方に䞀぀の特城があるこずに気づいた。

    批刀者ぞの察応が、攻撃的すぎた。䌚の䞻匵に疑問を呈した発信者に察しお、耇数のアカりントが䞀斉に反論を開始する。その反論は論点を倖れお人栌攻撃に向かうこずが倚く、盞手が発信をやめるたで続いた。

    埌に、この動きを調べた。耇数のアカりントの投皿時刻を照合するず、ある䞍自然なパタヌンが浮かんだ。深倜の同じ時間垯に、䌌た文䜓の投皿が、耇数のアカりントから同時に出おいる。

    誰かが、意図を持っお動かしおいる。


    柏朚ぞのアプロヌチは、䞉床断られた。四床目に、ようやく事務所の近くの喫茶店で䌚えた。

    柏朚は入口近くのテヌブルを遞んだ。出口に近い垭だった。昌過ぎの店内は明るく、窓から車道が芋えた。コヌヒヌを泚文したが、䞀口も飲たなかった。

    四十代半ばだった。スヌツの䞊着はきちんずしおいたが、襟元が少し緩んでいた。テヌブルの䞊に眮いた䞡手は、䌚話の間ずっず静止したたただった。指が動かないこずが、かえっお目に぀いた。人間は䜕かを抑えおいるずき、動く堎合ず、動かなくなる堎合がある。柏朚は埌者だった。

    冀眪被害者の䌚の話を向けるず、柏朚の声にわずかに力が入った。

    「みんな、喜んでいたす。やりがいを感じおいたす」

    善いこずをしおいるずいう確信が、その蚀葉の裏にあるのが分かった。だが、私が次の問いを出すず、その確信が少し揺れた。

    「批刀者ぞの察応が、行き過ぎおいるように芋えたす。耇数のアカりントが䞀斉に攻撃する、ずいう動きに぀いおは、どうお考えですか」

    柏朚は、テヌブルの朚目に芖線を萜ずした。

    数秒の沈黙があった。

    「行き過ぎはよくない、ずは思っおいたす」

    柏朚はゆっくりず蚀葉を遞んだ。

    「ただ、冀眪を正すためには、ある皋床の力が必芁な堎面もある。必芁悪、ず蚀えるかもしれたせん」

    そこで䞀床、蚀葉が止たった。芖線は、朚目から動かなかった。

    「癜石さんずの関係は、もう調べおおられるでしょうから、話したす。以前、癜石さんから、こういう時の察凊法を教わったこずがありたす。知人に頌んで、発信を手䌝っおもらうこずも、ありたした」

    それ以䞊は、語らなかった。コヌヒヌカップの暪に、砂糖の小袋が䞀぀、手を぀けられないたた眮かれおいた。

    喫茶店を出た埌、私は手垳の䜙癜に曞き留めた。

    「蚌拠はない。だが、構造は芋えおいる」ず。


    その埌も、私は韍厎の動向を远い続けた。

    䌚の掻動が軌道に乗り始めた頃、韍厎が運営するアカりントに、定期的にこんな投皿が䞊ぶようになっおいた。

    「たたひずり、冀眪の被害者が出たした。今床の加害者は、こちらです」

    そう曞かれた投皿には、ある人物の名前ず、勀務先らしき情報が添えられおいた。

    最初、私はその投皿を、単玔に「冀眪事件の告発」ずしお読んでいた。だが、リンク先の蚘事を蟿り、「加害者」ずされた人物たちを䞀人ず぀調べおいくうちに、あるこずに気づいた。

    「加害者」ずしお名指された人物たちの倚くは、誰かを誹謗䞭傷したずされる人間たちだった。しかし、その根拠はあたりにも薄かった。客ずのトラブルをSNSに曞き蟌んだだけの飲食店䞻。地域の集たりで誰かぞの䞍満を口にしただけの䞻婊。そしお、韍厎の掻動そのものに疑問を呈した者たちも、同じように暙的になっおいた。「冀眪被害者の䌚は少し行き過ぎではないか」ず口にしただけの者。「もう少し慎重に刀断すべきでは」ず返信しただけの者。いずれも、「冀眪を䜜り出す偎の人間」ずしお名指しされ、フォロワヌによる攻撃の暙的になっおいた。

    か぀お韍厎自身も、その暙的だったはずだ。

    身に芚えのない容疑をかけられ、蚌拠もないたた犯人扱いされ、䌚瀟ぞの電話攻撃で職を倱った。その韍厎が今、自分を批刀する者たちに察しお、たったく同じ手口を䜿っおいた。名指し。拡散。攻撃。

    私は、ある皮の眩暈に䌌たものを感じた。

    別の機䌚に、私は韍厎に盎接この点を問うた。韍厎は、迷いなく答えた。

    「僕の堎合は、本圓に䜕もしおいなかった。完党な濡れ衣だった。でも、僕たちが取り䞊げるのは、ちゃんず根拠のある話ですよ」

    「批刀しただけの人を、加害者ずしお名指しするのは行き過ぎではないですか」

    「批刀ずいう名目で、冀眪被害者をさらに傷぀けおいる人間がいる。それは、立掟な加害じゃないですか」

    その口調には、迷いがなかった。

    韍厎は、嘘を぀いおいるわけではない。圌は本気で、自分の行動ず、か぀お自分が受けた仕打ちずが、たったく別のものだず信じおいる。

    自分が受けたこずは、理䞍尜な暎力だった。 自分がしおいるこずは、正矩の行䜿だった。

    だが、その正矩の旗の䞋で、確実に誰かの生掻が壊れおいた。そしお、それを止める仕組みは、どこにもなかった。

    癜石は、このこずを最初から芋越しおいたのだろうか。

    傷぀いた人間に「資栌がある」ず蚀葉をかけ、正矩の旗を持たせ、その旗を批刀者に向けさせる。自分は䜕もしおいない。呜じおもいない。ただ、人が傷぀く仕組みだけが、静かに再生産されながら動き続ける。

    韍厎に最初に䌚った日の垰り道を、私はよく思い出す。

    駅前の雑螏を抜けながら、「自業自埗だった」ずいう蚀葉の確信の匷さが、頭から離れなかった。韍厎は知っおいたわけではない。だが、あの確信はどこから来たのか。

    答えは、ただ出なかった。ただ、手垳の䜙癜に぀けた小さな印だけが、翌日も、その翌日も、気になり続けた。


    第䞉章 関口矩男の死

    「冀眪被害者の䌚」が蚭立されおから䞀幎半ほどが経った頃、䞀人の人物が、私の調査に入っおきた。

    関口矩男。地方郜垂で小さな飲食店を営む、五十代の店長だった。

    関口は、韍厎の掻動に暙的にされた人物の䞀人だった。ある客ずのトラブルを自分のSNSに曞き蟌んだこずで、韍厎のアカりントに「冀眪を䜜り出す偎の人間」ずしお取り䞊げられた。店には心無いレビュヌが倧量に投皿され、客足は目に芋えお枛った。関口は結局、店を畳たざるを埗なかった。

    廃業から数か月埌、関口が地域のコミュニティの䞭で、こんな話を始めたこずを、取材掻動のなかで聞いた。

    「冀眪被害者の䌚の韍厎ずいう男は、本圓は痎挢をしおたんですよ」

    韍厎の冀眪に぀いお、SNS䞊ではなく、顔の芋える堎所で、盎接、そう語り始めたのだ。

    店を朰された恚みが、そうさせおいるのか。それずも、本圓に蚌拠があるのか。私はその䞡方の可胜性を頭に眮きながら、関口に連絡を取った。

    電話口でしばらく間があっおから、関口はこう蚀った。

    「蚌拠があるんです。ちゃんずした蚌拠が。でも、今は話せないが」

    その声には、恚みの色よりも、怯えの色の方が、濃かった。

    「い぀なら話せたすか」

    「もう少し埅っおほしい」

    それだけだった。具䜓的な日付は出なかった。私は埅った。䞀週間埌にたた連絡した。「もう少し埅っおほしい」ずいう答えが返っおきた。そのやり取りを、二床繰り返した。

    䞉床目に電話をかけた日、繋がらなかった。翌日も、翌々日も。

    その䞉日埌の朝、別のルヌトから入った情報で、関口矩男が亡くなったこずを知った。

    自宅での銖吊り。譊察は自殺ず刀断した。

    私はペンを眮いた。

    頭の䞭が、うたく働かなかった。関口は「蚌拠がある」ず蚀っおいた。「今は話せない」ず蚀っおいた。あの声にあった怯えは、䜕に察するものだったのか。私は埅っおいた。その間に、関口は死んだ。

    もし私が、もう少し匷匕に話を聞こうずしおいたら。「今は話せない」ずいう蚀葉の裏に䜕があるのかを、もっず早く察しおいたなら。

    そういう問いが、頭の䞭を回り始めた。

    しばらくしお、私は取材ノヌトを開き盎した。今は、感情より先に、事実を敎理しなければならない。関口は「蚌拠を持っおいる」ず話しおいた。韍厎が本圓は痎挢をしおいたずいう、蚌拠を。その関口が、私が取材を申し蟌んだ盎埌に死んだ。

    店を朰され、恚みを持ち、それでも蚌拠を手に声を䞊げようずしおいた人間が、消えた。

    自殺。譊察はそう結論づけた。だが、私の䞭で、その二文字が、どうしおも萜ち着く堎所を芋぀けられなかった。

    私は関口矩男ずいう名前の䞋に、䞀行曞き加えた。

    「この死を、調べる」


    関口の劻に䌚えたのは、死から䞀週間埌だった。

    劻は、倫の実家の近くに借りた、小さなアパヌトで暮らしおいた。玄関で靎を脱ぐ間、廊䞋の先に段ボヌル箱がいく぀か積たれおいるのが芋えた。荷解きの途䞭で止たったたた、時間だけが過ぎおいるような気配だった。

    通された六畳間には、仏壇が䞀぀眮かれおいた。線銙の煙が、窓のない郚屋にゆるやかに溶けおいた。劻は正座したたた、䞡手を膝の䞊に重ねおいた。目蚱が腫れおいたが、声には劙な静けさがあった。泣き尜くした人間の、あの也いた萜ち着きだった。

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    「䞻人は、怖がっおいたんです」

    劻は、息を䞀぀敎えおから、そう蚀った。

    「誰かに脅されおいる、っお蚀っおいたした。䞀か月ほど前から」

    「誰に、ず蚀っおいたしたか」

    「それは、はっきりずは蚀わなかった。ただ、名前を出すず危ない、ず」

    劻の芖線が、仏壇の写真ぞず滑った。関口が笑っおいる写真だった。生前の顔が、線銙の煙の向こうにがんやりず霞んで芋えた。

    「遺曞は、残っおいたしたか」

    「ありたした。遺䜓のそばに、䞀枚だけ。でも——」

    劻はそこで蚀葉を切り、わずかに顔を䌏せた。

    「あれは、䞻人の文章じゃないんです」

    「どういう意味ですか」

    「䞻人は、手玙を曞く時、必ず時候の挚拶から始める人でした。盞手ぞの気遣いの蚀葉を䞁寧に添えおから、それから本題に入る。長幎、そういう曞き方をしおきた人でした。ずころが遺曞には、そういった蚀葉が䞀切なくお。いきなり、謝眪だけが、短く蚘しおあったんです。たるで、別の人間の手が曞いたようで」

    劻の声が、そこで幜かに揺れた。

    「譊察にそう申し䞊げたんです。でも、筆跡は䞻人のもので間違いないず蚀われお」

    劻は、そこで䞀床、口を閉じた。

    膝の䞊に重ねおいた手が、わずかに動いた。右手が巊手の甲をおおうように、静かに重なった。それだけだった。声は出なかった。泣かなかった。ただ、その手の動きだけが、これたでの也いた萜ち着きずは、少し違った。

    しばらくしお、劻は顔を䞊げた。

    「䞻人が、自分で曞いたはずがないず、私には分かるんです。でも、それを蚌明する方法が、私には䜕もなくお」

    私は手垳にペンを走らせながら、劻の蚀葉を䞀字䞀句拟い䞊げた。

    遺曞は遺䜓のそばに䞀枚だけ。筆跡は本人のもの。しかし、文䜓が、生前の関口ずかけ離れおいる。

    筆跡が本人のものであっおも、文章が本人らしくないこずは、あり埗る。極床の恐怖や混乱の䞭で曞かれたずすれば、文䜓が倉わるこずもある。だが、劻が「別の人間の手が曞いたようで」ず感じるほどの剥離があるずすれば、それは別の可胜性を瀺唆しおいた。

    関口の死の䞉日前に、韍厎から連絡があったこずを、私は劻から聞いた。

    「韍厎、ずいう人からですか」

    「ええ。䞻人、電話を受けた埌、急に様子が倉わっお。黙ったたた、倕食もほずんど喉を通らなかったようで」

    死の䞉日前、韍厎から連絡。その倜を境に、食も進たぬほどの倉調。

    私はその事実を、手垳に刻んだ。

    その倜、自宅に戻っおから、私は関口が銖を吊った状況を、譊察の発衚資料ず照合した。

    自宅の济宀のドアノブにロヌプをかけた状態で発芋された。ロヌプは、垂販の汎甚品だった。

    私はそこで、ペンを止めた。

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    济宀のドアノブ。私はその䞀点を、しばらく考えた。

    銖を吊るための支点ずしお、ドアノブは頌りなさすぎる。高さが膝ほどしかない。䜓重をかければ、ドアごず開く恐れもある。死を芚悟した人間が、その堎所をわざわざ遞ぶだろうか。梁があれば梁を䜿う。鎚居があれば鎚居を䜿う。それが自然な遞択のはずだ。

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    私はその疑問を、手垳の䜙癜に曞き付けた。「発芋状況の詳现を確認する」ず。

    だが、確認する術が、私にはなかった。譊察はすでに事件性なしず刀断しおいる。遺族が異議を唱えなければ、捜査が再び動くこずはない。

    この時点で、私の手元に積み䞊がった疑念は、䞉぀だった。

    䞀぀。遺曞の文䜓が、生前の関口の曞き方ず乖離しおいる。

    二぀。死の䞉日前に韍厎から連絡があり、その倜から様子が䞀倉した。

    䞉぀。銖吊りの支点が、济宀のドアノブだった。

    だが、䞉぀が同時に重なるずき、その偶然の積み重なりに、私は玠盎に頷くこずができなかった。

    私は考えを手垳に曞き、现い暪線で消した。

    「この死を、調べる」ず曞いた䞀行の䞋に、今倜の蚘録を曞き足した。「疑念は䞉぀。動機は芋える。だが、霧は晎れおいない」ず。


    䞹波誠䞀郎に二床目の取材を申し蟌んだのは、関口の死から二週間埌のこずだった。

    い぀もの喫茶店、い぀もの垭。䞹波は今日も、玄束の時間より少し早く来おいた。テヌブルの䞊に、組んだ䞡手が眮かれおいた。

    関口矩男の名前を出すず、䞹波は小さく目を䌏せた。

    「存じおいたす。韍厎さんの掻動を、以前から気にかけおいたしたので。気の毒なこずでした」

    声は穏やかだった。哀悌の蚀葉ずしお、䞍自然なずころは䜕もなかった。

    ただ、「以前から気にかけおいた」ずいう蚀葉が、少し、頭の片隅に匕っかかった。

    「韍厎さんずの関係で、远い詰められおいた可胜性があるず思っおいたす」ず、私は蚀った。「人が誰かを远い詰めおいく、ずいう構造に぀いお、どうお考えですか」

    䞹波は、しばらく考えおから答えた。

    「远い詰めた偎に、悪意がないこずの方が、倚いず思いたす」

    「どういう意味ですか」

    「正矩だず信じおいるからこそ、人は盞手が苊しんでいおも、手を止められない。自分が正しいずいう確信が匷ければ匷いほど、远い詰めるこずぞの抑制が、倱われおいく。これは、人間の本質的な匱さだず、私は思っおいたす」

    䞹波は、テヌブルの䞊の組んだ手を、わずかにほどいた。

    「関口さんのこずで蚀えば、あの方を远い詰めた人たちも、おそらく自分たちが正矩だず信じおいたでしょう。その確信が、あの方の生掻を奪い、最埌には呜たで奪った。远い詰めるこずの眪深さは、その確信の䞭に隠れおいるから、本人には芋えない。芋えないから、止たれない」

    私はその蚀葉を、手垳に曞き写した。

    曞きながら、胞の䞭で䜕かが静止した。

    䞹波の蚀葉は、衚向き、関口を远い詰めた韍厎に向けられおいた。だがこの蚀葉は、別の向きにも攟おる蚀葉だった。癜石を远い続けおいる私自身に向けお。あなたは正矩だず信じおいるから、远い詰めるこずぞの抑制を倱っおいたせんか——そう読めば、この蚀葉はたったく違う意味を持぀。

    ペンが止たった。

    違う、ず思った。私は取材をしおいる。事実を積み䞊げおいる。関口が死に、麻子が死にかけおいる。それを远うこずず、誰かを远い詰めるこずは、たったく別のこずだ。

    そう蚀い聞かせようずした。

    だが、蚀い聞かせようずすればするほど、䞹波の蚀葉が、少し違う角床から返っおきた。

    「远い詰めるこずの眪深さは、その確信の䞭に隠れおいるから、本人には芋えない」

    本人には、芋えない。

    違う、ずたた思った。私には芋えおいる。だから調べおいる。芋えおいるから、曞こうずしおいる。それが取材ずいうものだ。

    だが、その「芋えおいる」ずいう確信こそが、䞹波の蚀う「確信」ず、どこが違うのか。

    その問いが頭に入っおきた瞬間、私はペンを眮いた。その読み方を、退けた。取材者の悪い癖だ、ず自分に蚀った。

    だが、退けた埌も、その静止したものは、しばらく胞の䞭にあった。

    「癜石さんが、誰かを远い詰めおいる可胜性に぀いおは、どうお考えですか」

    䞹波は、静かに銖を暪に振った。

    「癜石さんは、人を傷぀けるような人ではありたせん。私はあの方ず長い時間を過ごしたした。その確信は、倉わりたせん」

    揺るぎがなかった。これたでの取材で、䜕床聞いおも、この答えだけは倉わらなかった。

    喫茶店を出た。倕方の光が、现い路地の向こうに傟いおいた。

    関口の死ず、今日の䞹波の蚀葉が、頭の䞭で䞊んでいた。繋がるものが、どこにもなかった。䞹波は善意から動いおいる。その感觊も、倉わらなかった。

    それでも、あの「远い詰めるこずの眪深さ」ずいう蚀葉だけが、垰り道の間ずっず、私の埌ろを぀いおきた。

    歩きながら、ふず、別のこずを思い出した。

    最初に䞹波ず䌚った喫茶店で、䞹波が「正矩マン」ずいうアカりントの話を聞いた埌、コヌヒヌカップを音もなく少しだけずらした。あの指の動き。話の内容ずは関係のない、ごく小さな動䜜だった。その時は気にもしなかった。

    なぜ今、それを思い出したのか、自分でも分からなかった。


    倜の曞斎で、私は取材ノヌトを開いた。

    韍厎が関口を消したずすれば、その動機は明快だった。関口が握っおいた蚌拠が露芋したこず、そしおその蚌拠を金に換えようずしおいた可胜性。韍厎には、関口を黙らせる理由が、十分すぎるほどあった。

    だが、私の頭にはもう䞀぀の可胜性が匕っかかっおいた。

    韍厎は癜石にずっお、ただ䜿い道のある駒だった。その韍厎が、関口の蚌拠によっお窮地に立たされる。癜石がその状況を黙っお芋おいたずは、考えにくかった。

    癜石は関口の動きを、どこかで把握しおいたのではないか。把握した䞊で、韍厎を守るために䜕かを動かした。䞹波を䜿っお、関口を远い詰めた——。

    私はその掚論を手垳に曞き始め、途䞭で止めた。

    ただ、䞀点だけ、どうしおも頭から離れないこずがあった。

    銖吊り、ずいう死に方だ。

    以前の取材で、䞹波がある蚀葉を語っおいた。「远い詰められた人間が銖を吊るのは、本圓に远い詰められた蚌だ」ずいう蚀葉を。癜石が接芋宀で話した蚀葉だず、䞹波は蚀っおいた。

    その蚀葉ず、関口の死に方が、頭の䞭で重なった。

    私は手垳に「銖吊り——癜石の蚀葉——関口の死」ず曞き、その䞉぀の間に矢印を匕こうずしお、止たった。

    匕けなかった。繋がっおいるかもしれない。繋がっおいないかもしれない。この䞀行を曞き留めるこずが、今の私にできる粟䞀杯だった。

    机の䞊で、ペンだけが転がった。拟う気になれなかった。

    時蚈を芋るず、深倜を過ぎおいた。


    第四章 ひかりの庭

    関口の死から、二か月が経っおいた。

    その間、冀眪被害者の䌚ぞの倖郚からの批刀が、じわじわず高たり始めおいた。䌚の掻動に疑問を呈する声が、各地のコミュニティや掲瀺板に散発的に珟れ始めた。どれも小さな声だったが、積み重なるず、無芖できない量になっおいた。

    韍厎は、その倉化に敏感に反応した。

    䌚の投皿頻床が、ある時期を境に萜ちおいった。か぀おは毎日のように曎新されおいたアカりントが、週に䞀床、二床ぞず間匕かれおいった。告発の投皿が枛り、代わりに「私たちは、傷぀いた人間の声に寄り添いたい」ずいう、柔らかい蚀葉が増えおいった。

    私はその倉化を、手垳に曞き留めた。

    韍厎の蚀葉が、倉わっおいる。

    倖に向けお正矩を振りかざす蚀葉から、内に向けお安らぎを語る蚀葉ぞ。それはたるで、嵐の前に垆を畳む船のような動きに芋えた。

    新しいアカりントが立ち䞊がったのは、それからたもなくのこずだった。

    「ひかりの庭」。

    最初の投皿には、こう曞かれおいた。

    「ここは、誰も吊定されない堎所です。傷぀いたたた、どこにも行けなくなった人のための、小さな庭です」

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    私はその文章を、䜕床か読み返した。

    冀眪被害者の䌚の蚀葉ずは、明らかに文䜓が違った。倖に向けた告発ではなく、内に向けた招埅だった。韍厎が曞いたずは思えないほど、蚀葉が柔らかく、慎重に遞ばれおいた。

    誰かが、この蚀葉を曞かせたのだろうか。

    その考えが頭をよぎった瞬間、私は手垳を閉じた。


    私はそのアカりントを、しばらく倖から眺め続けた。

    参加者が増えおいった。最初の䞀か月で癟人を超え、䞉か月が経぀頃には、五癟人に迫ろうずしおいた。コミュニティの内偎では、誰かが匱音を吐けば、すぐに励たしの蚀葉が䞊んだ。誰かが小さな䞀歩を報告すれば、祝犏の声が返っおきた。傷぀いた人間が、傷぀いた人間同士で寄り添っおいる。倖から眺める限り、それは確かに、枩かい堎所に芋えた。

    元䌚員ぞの取材を始めたのは、ひかりの庭が立ち䞊がっおから半幎ほどが経った頃だった。

    コミュニティを離れた人間を探すのは、容易ではなかった。離れた理由を語っおくれる人間は、さらに少なかった。連絡を取った䜕人かは、最初から口を閉ざした。䞀床だけ䌚っおくれた人間も、肝心なずころで蚀葉を濁した。

    それ自䜓が、すでに䜕かを瀺唆しおいた。

    蟞めた理由を語れない人間が、これほど倚い集たりずは、䜕なのか。

    それでも根気よく圓たり続けるうちに、少しず぀、内偎の空気が芋えおきた。

    ある元䌚員は、駅前の小さな喫茶店で䌚った。四十代の女性だった。昌過ぎの店内は混んでいたが、圌女は奥の壁際の垭を指定した。呚囲の声から距離を眮きたがっおいる、ずいうこずは分かった。泚文したランチには、ほずんど手を぀けなかった。

    「倖からは、みんなやさしそうに芋えるじゃないですか」

    女性は、テヌブルの朚目を芋ながら蚀った。

    「でも、䞭にいるず分かるんです。誰かが少しでも、韍厎さんず違うこずを蚀うず、空気が倉わる。やさしさっお蚀葉の裏に、同調しないず居堎所がなくなる、ずいう圧力があっお」

    「それは、誰かに匷制されるんですか」

    「そういうわけじゃないんです。誰も、盎接䜕も蚀わない。ただ、空気が倉わる。それだけで、十分なんです」

    私はその蚀葉を、手垳に曞き留めた。

    誰も呜什しない。誰も匷制しない。ただ、空気が倉わる。それだけで、人間は動く。

    癜石がか぀お、柏朚に語った蚀葉が頭の䞭で圢を結び始めた。だが、私はその考えを、すぐに手垳の䜙癜に远いやった。


    取材を続けるうちに、䞀人の名前が繰り返し出おくるようになった。

    皆川麻子。䞉十代の女性だった。

    耇数の元䌚員が、瀺し合わせたわけでもないのに、同じ名前を口にした。最初の頃の麻子さんは、明るかった。誰より積極的に発蚀しおいた。それが倉わった。そういう話が、別々の人間から、同じように語られた。

    私は麻子の知人を探し、話を聞いお回った。

    麻子がひかりの庭に入ったのは、コミュニティが立ち䞊がっおたもなくの頃だった。それ以前、麻子は長い孀独の䞭にいた。職堎での人間関係に疲れ、友人ずも疎遠になり、誰かに必芁ずされたいずいう枇望だけが、日々積み䞊がっおいた。

    経理の仕事をしおいた麻子にずっお、数字の裏に隠れた人間の動きを読む目は、職業䞊の習慣だった。その目が、やがおコミュニティの資金の流れに向いた。

    ひかりの庭は、枩かい蚀葉を入口にしながら、参加者から䌚費を集めおいた。感謝の堎を䜜るための運営費、ずいう名目だった。だが、経理の仕事をしおいる麻子には、その䜿途の説明が、どうも腑に萜ちなかった。

    埌に、麻子が倖郚に発信しおいた投皿のアヌカむブを、私は別のルヌトから入手した。

    削陀される前の投皿の䞭に、䞀枚のスクリヌンショットがあった。コミュニティの月次収支報告ずしお共有されたものだった。麻子はそこに、赀いペンで二か所に䞞を぀けおいた。

    䞀぀は、「斜蚭利甚費」ずいう項目だった。毎月䞀定額が蚈䞊されおいるが、どの斜蚭かの蚘茉がない。もう䞀぀は、「倖郚講垫謝瀌」ずいう項目だった。講垫の名前がない。金額だけがある。

    その䞋に、麻子の手曞きのメモが残っおいた。

    〈誰に払っおいるのか。聞いおも答えが来ない。これは、おかしい。〉

    たった䞉行だった。だが、この䞉行を曞いた人間が、その埌どうなったかを私は知っおいた。

    麻子の職堎の同僚だった女性が、昌䌑みの短い時間を割いお䌚っおくれた。近くの喫茶店の窓際の垭で、女性は最初から声を䜎くしお話した。呚囲を気にしおいる様子ではなく、むしろ、声のトヌンをあらかじめ決めおきたような、そういう䜎さだった。

    「最初は、気のせいだず思っおいたず思いたす。でも、半幎くらい経った頃から、コミュニティの雰囲気がおかしいっお蚀い始めお。同時に、お金の䜿われ方が䞍透明だ、っお」

    「具䜓的に、どんなこずを蚀っおいたしたか」

    「䌚員から集めた費甚がどこぞいくのか、明现を出すべきだ、ず。麻子さん、スクリヌンショットを撮っお、曞類を集めおいたみたいで。黙っおいられない性栌だから、ず蚀っおたした」

    女性は、テヌブルの䞊で指を組んだ。

    「倖から芋おいるず、穏やかで枩かい堎所に芋えるっお、麻子さんも最初はそう思っおいたみたいで。でも、あるずころから急に怖くなった、っお蚀っおたした。みんなの顔は笑っおいるのに、䜕かがおかしい、っお。蚀葉にできないけど、息が詰たる感じがする、っお」

    麻子はその違和感を、倖郚に向けお発信し始めた。

    最初は穏やかな文章だった。「コミュニティの雰囲気が、少し違う気がする」「資金の䜿途に぀いお、透明性が必芁ではないか」ずいう皋床の、感想に近い蚀葉だった。

    だが、それで十分だった。

    翌日から、耇数のアカりントが麻子の投皿に反論を始めた。麻子の過去の発蚀を掘り起こし、矛盟を指摘するアカりントが珟れた。実名こそ出なかったが、特定できるような特城を䞊べた投皿が、じわじわず広がっおいった。

    「眠れないっお、蚀っおたした」ず、同僚の女性は続けた。「毎晩、スマヌトフォンを芋おしたうっお。自分ぞの投皿が増えおいくのが分かるから、確認せずにいられないっお」

    「病院には行っおいたしたか」

    「行っお、睡眠薬をもらうようになったのは、その頃からです。飲たないず眠れないっお、私にも話しおた」

    女性は、組んでいた指を静かにほどいた。

    「私、もっず早く、䜕かできたんじゃないかっお、今でも思うんです」


    その頃、䞹波誠䞀郎がひかりの庭に参加しおいるこずを、私は元䌚員の䞀人から聞いた。

    驚いた。

    癜石の教誚垫だった人物が、癜石ず繋がりのある韍厎が運営するコミュニティにいる。その笊合が、頭の䞭で鳎った。

    䞉床目の取材を申し蟌むず、䞹波はすぐに応じた。

    汐芋銀座商店街を歩いおいるず、たた空にアドバルヌンが浮かんでいた。前に来た時も、たしかあれがあった。それだけのこずだ、ず思いながら通り過ぎた。

    い぀もの垭。店に入るず、今日も汐芋銀座商店街の有線が窓越しに届いおいた。この喫茶店に来るたびに、同じ曲が流れおいる気がした。

    「寄せ集めの ぬくもりが咲く箱庭で  貎女はなぜ 愛の目方を量るのか  傷跡をかばい合う 毛垃を剥ぎ取り  正しさずいう名の 刃を振りかざす  損埗ばかりの 冷たい瞳で  守り抜いた窓を こじ開けるなら  癜き朝の底で 氞遠に凍えなさい」

    私はその音を、ずくに気に留めなかった。䞹波は今日も少し早く来おいた。テヌブルの前で、背筋をたっすぐにしお座っおいた。

    「ひかりの庭に参加されおいるず聞きたした」

    「はい」ず、䞹波は蚀った。防衛するような色が、どこにもなかった。「誰も吊定しない、ずいう考え方は、私たちの仕事にも通じるものがあっお。傷぀いた人間が安心できる堎所ずいうのは、倧切だず思っおいたす」

    「麻子さんずいう䌚員のこずを、ご存知ですか」

    䞹波は、少し間を眮いた。

    「存じおいたす。最近、少しお話しする機䌚がありたした」

    「どんなきっかけで」

    「麻子さんが、コミュニティぞの疑問を倖郚に向けお発信し始めた頃です。攻撃を受けお、眠れない倜が続いおいるず聞いお。傷぀いおいる人間がいれば、そばにいたい。それだけのこずです」

    䞹波の声は、穏やかだった。善意の蚀葉だった。

    だが、私の手垳を持぀手が、わずかに止たった。

    麻子はコミュニティぞの疑問を倖郚に発信しおいた。その麻子に、癜石を信じおいる教誚垫が近づいた。その時期に麻子は睡眠薬を凊方されるようになっおいた。

    䞉぀の事実が、頭の䞭で䞊んだ。

    私はその䞊びを、手垳に曞かなかった。

    「麻子さんの今の様子は、どうですか」ず、私は聞いた。

    「少し、心配しおいたす」ず、䞹波は蚀った。「攻撃が続いおいたすから。でも、あの方は芯の匷い人だず思っおいたす」

    喫茶店を出るず、倕暮れが近かった。ビルの谷間に、现長い空が芋えた。

    䞹波の「心配しおいたす」ずいう蚀葉が、消えなかった。その蚀葉が善意から出たものなのか、それずも別の䜕かから出たものなのか、私には刀断が぀かなかった。


    麻子が死んだのは、それから䞀か月埌のこずだった。

    倜道で、耇数の人間に暎行を受けた。

    駅から自宅たでの、ごく短い道のりだった。人通りの少ない路地に差しかかったずころで、耇数の人圱に囲たれた。

    埌に、珟堎近くの䜏民ぞの聞き蟌みで、䞀぀の蚌蚀が埗られた。事件の数十分前、路地の入口付近に、壁にもたれかかるようにしお座り蟌んでいる女性がいたずいう。声をかけようずしたが、女性はふら぀きながら立ち䞊がり、路地の奥ぞず歩いおいった。酔っおいるのか、䜓調が悪いのか、刀断が぀かなかった、ず蚌蚀者は蚀った。

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    悲鳎を聞いた近隣の䜏民が通報し、救急車が到着した時には、麻子は路䞊に倒れたたた、意識を倱っおいた。

    病院に搬送されたが、翌朝、意識が戻らないたた亡くなった。

    死因は、暎行による倖傷性ショックず刀断された。加害者たちは、たもなく逮捕された。いずれも、ひかりの庭の熱心な䌚員だった。

    譊察の調べによれば、加害者たちは「麻子がコミュニティを傷぀けおいる」ずいう匷い憎しみを持っおいたずいう。

    䟛述の䞭に、繰り返し珟れる蚀葉があった。

    「蚱せなかった」

    「あの人がいる限り、みんなが安心できる堎所が守れないず思った」

    「誰かが動かなければ、ずいう気持ちが、ずっずあった」

    誰かが動かなければ。

    私はその蚀葉を、手垳に曞き留めたたた、しばらく動けなかった。

    盎接呜什する必芁はない。ある方向に向けお、怒りず䜿呜感を積み䞊げおいけばいい。やがお、誰かが動く。動かされた誰かは、自分の意志で動いたず信じおいる。

    癜石が、か぀お柏朚に䌝えた手口ず、構造が重なった。

    だが、私が手を止めたのは、そのこずだけではなかった。

    暎行を受ける前から、すでにふら぀いおいた女性。その蚌蚀が、頭から離れなかった。

    私は麻子のかかり぀け医ぞの取材を詊みた。患者情報ずいう壁がある。難航した。だが耇数のルヌトから、圓時の担圓医ずは別の、院内関係者ぞの接觊に成功した。その人物は、匿名を条件に、䞀぀の事実を教えおくれた。

    搬送時の血液怜査で、麻子の䜓内から、凊方量をはるかに超える睡眠薬が怜出されおいた。

    だが、その事実は、捜査蚘録の衚には出なかった。死因はあくたで暎行による倖傷性ショックであり、睡眠薬に぀いおは凊方薬の自己摂取ずしお凊理された。捜査の焊点は、逮捕された加害者たちに向いおいた。

    私はこの事実を手垳に曞いた。そしお、その䞋に問いを曞いた。「臎死量の薬は、どこから来たのか」

    倖出もたたならなくなっおいた麻子が、耇数の医療機関を回っお薬をかき集めるこずができたずは、考えにくかった。

    誰かが、麻子の手の届く堎所に、薬を眮いた可胜性がある。

    暎行だけで死に至らなかった堎合の保険ずしお。あるいは——暎行よりも先に、薬で決着を぀ける぀もりだったのかもしれない。

    私はその掚論を手垳に曞き、すぐに现い暪線を匕いた。

    だが、この死には、二぀の意図が重なっおいた。

    倖からの暎力ず、内偎に忍ばせた毒ず。どちらか䞀方が倱敗しおも、もう䞀方が残る。そういう蚭蚈に芋えた。

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    私は手垳を閉じ、窓の倖を芋た。雚が、窓ガラスを静かに䌝っおいた。

    関口の死の時は、朝だった。雀が電線から飛び立぀のが芋えた。

    今倜は雚だった。音がなかった。


    麻子ぞの「内偎に忍ばせた毒」が誰の手によるものか、その問いを抱えながら、私はもう䞀床、䞹波ぞの取材を申し蟌んだ。

    い぀もの喫茶店。だが今回は、䞹波が来る前に私の方が先に着いた。窓際の垭から、汐芋銀座商店街を行き亀う人を眺めながら埅った。

    䞹波は、傘を閉じながら入っおきた。倖は、ただ雚が続いおいた。垭に着くず、コヌトの雫を静かに払った。い぀もず倉わらない、穏やかな所䜜だった。

    「麻子さんが亡くなりたした」ず、私は蚀った。

    「はい」ず、䞹波は蚀った。「存じおいたす」

    「ご存知だったんですか」

    「連絡をいただきたした。悲しいこずでした」

    誰から連絡をもらったのか、私は聞かなかった。聞くべきだったかもしれない。だが、䞹波の顔に浮かんでいた哀悌の衚情が、その質問を䞀瞬遅らせた。

    「麻子さんに、睡眠薬を枡したこずはありたすか」

    䞹波は、静かに私を芋た。

    「ありたせん」

    声に、揺れがなかった。

    「眠れない倜が続いおいるず聞いおいたので、医療機関に行くよう、お勧めはしたした。でも、薬を枡すようなこずは、しおいたせん」

    私はその蚀葉を、手垳に曞いた。曞きながら、指先が少し冷たいこずに気づいた。

    䞹波は嘘を぀いおいない、ずいう感觊があった。だが、その感觊を信じおいいのかどうかが、この倜、初めお、少しだけ揺らいだ。

    「医療機関に行くよう勧めた。それだけですか」

    「はい。それだけです」

    雚が、窓ガラスを䌝っおいた。汐芋銀座商店街の灯りが、濡れた路面に滲んでいた。

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    私は手垳を閉じた。

    倖に出るず、雚はただ降っおいた。傘を開きながら、䞹波の「それだけです」ずいう蚀葉を、もう䞀床頭の䞭で聞いた。

    その蚀葉は嘘ではないかもしれない。だが、「それだけ」ずいう蚀葉が、䜕かを瞁取っおいるような気がした。


    第五章 信者の沈黙

    蚘事を曞こうずしたのは、䞀床だけだった。

    麻子が死んでから半幎が過ぎた頃、私は手元の蚘録を敎理しお、䞀぀の文章にたずめようずした。癜石茝道ずいう男が、韍厎ヒカルのコミュニティを通じお、批刀者たちを次々ず远い詰めおいる——そういう内容だった。

    曞いおいお、壁にぶ぀かった。

    事実の積み重ねはあった。矛盟点もあった。だが、癜石ず二件の死を盎接結ぶ線が、どこにもなかった。韍厎には動機があるが、関口の件以倖で韍厎が動いたずいう蚌拠もない。麻子の䜓内の睡眠薬が誰の手によるものかも、蚌明できない。私は曞きかけの文章を、保存せずに閉じた。

    その䞉日埌、芋知らぬアカりントからメッセヌゞが届いた。

    「あなたが準備しおいる蚘事のこずを、聞きたした。やさしさを吊定する人間に、䜕ができるんですか」

    私は蚘事を、ただ誰にも芋せおいなかった。保存すらしおいなかった。それなのに、「準備しおいる蚘事」ずいう蚀葉が䜿われおいた。

    私はその䞀文を、しばらく芋おいた。それから画面から目を離し、郚屋の䞭を芋回した。い぀もの曞斎だった。机の䞊に、取材ノヌトが積み䞊がったたたになっおいた。だが、背䞭の皮膚が薄く緊匵しおいるのを感じた。

    誰かが、私の動きを远っおいる。

    考えられる人間は、限られおいた。私がこの調査に぀いお、継続的に話しおきた人間。柏朚は、䌚うたびに口が重くなっおいる。韍厎には接觊できおいない。他の情報源たちは、すでに返信が遅くなり始めおいた。

    残るのは、䞹波誠䞀郎だった。

    䞹波は最初の取材から今たで、私が連絡するたびに応じおくれた。私が䜕を調べおいるか、話の流れで十分に把握できる立堎にいた。だが、䞹波が癜石に情報を流しおいるずすれば——その考えが頭の䞭に入っおきた瞬間、私はペンを止めた。

    䞹波は癜石の曎生を信じおいる。だがそれは、癜石に協力するこずずは違う。信じるこずず、情報を枡すこずずの間には、䞹波自身も気づかないような距離がある可胜性もある。誰かに䜕かを話すずき、人は必ずしも意図を持っお挏らすわけではない。

    だが、他に誰がいるのか。

    私はその問いを、手垳の䜙癜に曞いた。「誰が、私の動きを知っおいるのか」ず。そしお、すぐ䞋に曞いた。「䞹波——可胜性ずしお陀倖できない」ず。

    曞いおから、しばらくその二行を芋おいた。

    䞹波を疑う気持ちず、それを疑いたくない気持ちが、同じ重さで䞊んでいた。どちらかに決められないたた、私は手垳を閉じた。

    翌日、同じような文面のメッセヌゞが、別のアカりントから届いた。文䜓が䌌おいた。句読点の打ち方が、䞀぀目のメッセヌゞず同じだった。䞉日目には、䞉件になった。いずれも私の名前は出おいなかったが、私の経歎に近い特城——地方玙出身、フリヌランス、特定の地域での取材——が、䞊べお曞かれおいた。

    誰かが、私の動きを知っおいた。

    怅子の座面が、急に硬く感じられた。


    その頃から、情報源が倉わり始めた。

    振り返れば、その予兆は、もう少し前からあった。麻子の死の埌、取材に応じおくれおいた元䌚員の䜕人かが、急に返信を遅らせるようになっおいた。関口を調べおいた時期にも、䞀人が「もう少し時間をほしい」ず蚀ったたた、連絡が途絶えた。あの時は偶然だず思っおいた。だが今になっお䞊べるず、それは偶然ではなかったのかもしれない。

    最初に沈黙したのは、ひかりの庭の元䌚員で、耇数回話を聞かせおくれおいた䞉十代の䌚瀟員だった。ある日を境に、メッセヌゞぞの返信が止たった。電話をかけるず、着信拒吊になっおいた。

    次に、冀眪被害者の䌚の元スタッフで、柏朚ずの接点を持っおいた女性が、䌚う玄束をした圓日に珟れなかった。翌日、「やはりお話しするのは難しい」ずいう短いメッセヌゞが届いた。

    䞀週間で、五人が沈黙した。

    私は手垳に、沈黙した情報源の名前を曞き䞊べた。名前を䞀぀数えるたびに、次の名前を探す手が、少し遅くなった。


    䞹波誠䞀郎ぞの取材を、改めお申し蟌んだ。

    い぀もの喫茶店、い぀もの垭。店に入るず、たた同じ曲が流れおいた。䜕床目だろうず思いながら、垭に着いた。

    「街の灯を 己の倪陜ず信じ蟌み  空を舞う倢を芋る 糞の切れた凧よ  雚露をしのいだ この屋根を蹎り飛ばし  自分は特別な 鳥なのだず歌うけれど  颚を読むこずもできぬ その頌りない翌で  嵐の空ぞ 飛び立おるはずもない  優しい土ぞ還りなさい 幻ずずもに」

    䞹波が、窓の倖に䞀瞬だけ顔を向けた。それだけだった。䞹波は倉わらず、玄束の時間より少し早く来おいた。窓の倖から差し蟌む光が、テヌブルの半分だけを明るく照らしおいた。䞹波は、その明るい偎に座っおいた。

    「ひかりの庭ぞの参加に぀いお、改めお䌺いたいこずがありたす」ず、私は蚀った。「癜石さんずの繋がりを知っおいながら、なぜ参加されおいるんですか」

    「癜石さんずの繋がり、ずいうのは、私が参加した理由ではありたせん」ず、䞹波は答えた。「傷぀いた人間が安心できる堎所ずいうのは、倧切だず思っおいるから、参加しおいたす」

    「麻子さんが亡くなった埌も、参加を続けおいるんですか」

    「はい、続けおいたす」䞹波は、芖線を少しだけ萜ずした。「傷぀いた堎所に、傷぀いたたた留たっおいる人間がいる。その人たちのそばにいるこずが、今の私にできるこずだから、です」

    その答えも、䞹波の蚀葉ずしお筋が通っおいた。だが、私の疑問は解消されなかった。

    「䞀぀、盎接聞いおいいですか」

    䞹波が顔を䞊げた。

    「私が調べおいるこずの内容を、癜石さんに話したこずはありたすか」

    しばらく、静かだった。窓の倖で、自転車が䞀台止たった。鍵をかける音が、ガラス越しに聞こえた。

    「ありたせん」

    䞹波の声は、穏やかだった。揺れがなかった。

    「ただ」ず、䞹波は続けた。「あなたが私に䌚いに来おいるこずは、話したこずがありたす。蚘者の方ず話しおいる、ず。それ以䞊の内容は、話しおいたせん」

    私はペンを止めた。

    蚘者が自分に䌚いに来おいる、ずいう事実が、癜石に届いおいた。その事実だけで、癜石には十分だったかもしれない。誰が調べおいるか。どこたで来おいるか。䞹波がそこたで䌝えなくおも、癜石には自分で確かめる方法があるだろう。

    「それを話したのは、い぀ですか」

    「最初に、宮歊さんに䌚った埌です。もう、ずいぶん前のこずになりたす」

    私は手垳に曞いた。「䞹波は、私が調べおいるこずそのものは話しおいない——ず蚀っおいる。ただ、私の存圚は癜石に届いおいた」ず。

    喫茶店を出た。駅前の人波に玛れながら、歩いた。

    䞹波は嘘を぀いおいない、ずいう感觊は、今回も倉わらなかった。だが、その感觊を信じおいいのかどうかが、分からなくなっおいた。

    誠実であるこずず、癜石の偎にいないこずずは、別の話だ。

    その䞀文が、頭の䞭で䜕床も繰り返された。繰り返されるたびに、少しず぀、重くなった。


    柏朚ぞの二床目の取材を申し蟌んだのは、その頃だった。前回ず同じ喫茶店を指定した。柏朚は、今床は䞀床で了承した。

    䌚っおみるず、柏朚は以前より痩せおいた。頬の肉が萜ちおいた。スヌツは同じような色だったが、少し倧きく芋えた。テヌブルに着くなり、コヌヒヌではなく氎を頌んだ。

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    私は癜石の名前を出した。

    柏朚の顔から、衚情が匕いた。前回は指先が小さく動いおいた。今回は、顔ごず固たった。動かなくなった、ずいうより、䜕かが抜けた、ずいう感じだった。

    「癜石さんのこずは、もう、あたり」

    柏朚は、そこで蚀葉を止めた。続きが出おこなかった。芖線がテヌブルの朚目に萜ちたたた、䞊がっおこなかった。

    氎のグラスが、テヌブルの䞊に眮かれたたた、手を぀けられおいなかった。私は癜石の名前を匕っ蟌め、ひかりの庭の話に切り替えた。柏朚の肩から、わずかに力が抜けるのが芋えた。

    「ひかりの庭の運営に぀いお、お聞きしたいこずがありたす」

    柏朚は、ゆっくりず頷いた。だが、䌚話の端々に、䜕かを蚈算しおいるような慎重な間があった。蚀葉を遞んでいる、ずいうより、蚀えない蚀葉を回避しおいる、ずいう感じだった。

    話しおいるうちに、䞀぀だけ、柏朚が䞍甚意に口にした蚀葉があった。

    「運営䞊の刀断は、私䞀人でできるこずではないので」

    私はその蚀葉を聞き流しかけ、止たった。

    「他に関䞎されおいる方がいるんですか」

    柏朚は、すぐに顔を䞊げた。蚀っおしたった、ずいう色が、䞀瞬だけ目に出た。

    「いえ、組織ずしお、ずいう意味です」

    それ以䞊は語らなかった。話題を倉えようずする動きが、柏朚の䜓党䜓から出おいた。

    喫茶店を出た埌、私は手垳を開いた。

    「柏朚——癜石の名前で、顔から衚情が匕いた。前回は指先が動いおいた。今回は顔ごず固たった。蚀えない蚀葉の量が増えおいる。そしお——運営䞊の刀断を䞀人でできない、ず蚀いかけた。他に誰かがいる」ず曞いた。

    顧問ずしお名前が出おいるのは癜石だ。だが柏朚が「私䞀人ではできない」ず蚀うずき、その「誰か」は顧問ずいう肩曞きの人間ではない可胜性がある。衚に出おいない人間が、柏朚の刀断に関わっおいる。

    その茪郭が、霧の䞭で少しだけ圢を持ち始めた。


    倜、私は曞斎の怅子に座ったたた、しばらく動けなかった。

    机の䞊に、取材ノヌトが開いたたたになっおいた。ここ数日で沈黙した情報源の名前が、ペヌゞに䞊んでいた。䞃人になっおいた。

    䞃人。

    その数字を、改めお数えた。䞀人目が沈黙した時、私は偶然だず思った。二人目の時も、そう思おうずした。だが䞃人が䞊んだ今、その蚀い蚳はもう成立しなかった。

    誰かが、私の呚蟺を静かに閉じおいっおいる。

    そう認識した瞬間、曞斎の空気が、少し倉わった気がした。䜕かが倉わったわけではない。蛍光灯の光は同じだった。窓の倖の街灯も同じだった。だが、その倉わらなさが、少し違う意味を持っお芋えた。

    次は私かもしれない。

    その考えが、頭の䞭に入っおきた。

    入っおきた瞬間、背䞭に冷たいものが走った。以前感じた背䞭の皮膚の緊匵ずは、違った。あの時は「誰かが自分の動きを知っおいる」ずいう感芚だった。今は、もっず盎接的だった。もっず近い堎所から来おいた。

    これを曞いおいる今、自分が怖いず思っおいるこずを、ここに曞き留めおおく。

    感情を曞く぀もりはなかった。手蚘ずいうものは、事実を積み䞊げるものだず思っおきた。だが今倜は、そうできない。

    䞃人が沈黙した。癜石の名前は、どこにも出おこない。柏朚は口を閉ざしおいる。䞹波は誠実に芋える。それなのに、私の呚りだけが、少しず぀、静かになっおいく。

    誰かが曞かなければ、なかったこずになる。

    地方玙に入った頃から、そう思っおきた。今倜もそう思う。だが今倜初めお、その蚀葉が、自分自身に向かっお跳ね返っおくるのを感じおいる。

    私が曞けなくなった時、この蚘録はどこぞ行くのか。

    蛍光灯を消した。郚屋が暗くなった。窓の倖の街灯の光だけが、薄く差し蟌んでいた。

    暗い郚屋の䞭で、私はしばらく、ただ座っおいた。

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    曞斎の怅子に座ったたた死ぬこずが、どういうこずか、初めお、具䜓的に想像した。


     第六章 信頌の倀段

    韍厎が倉わったこずに気づいたのは、ひかりの庭の投皿を眺めおいた時だった。

    それたでの韍厎の蚀葉には、䞀皮の前眮きがあった。「みんなず䞀緒に考えたい」「皆さんの意芋を聞かせおほしい」ずいう蚀葉が、䜕かを発信するたびに添えられおいた。だが、ある時期を境に、その前眮きが消えた。

    「基金の運甚方針を倉曎したす」ずいう投皿があった。「詳现は远っおお知らせしたす」ず。

    合議の圢が、消えおいた。

    私はその投皿を、しばらく眺めた。小さな倉化だった。だが、蚀葉の遞び方が倉わった時、人間の䜕かが倉わっおいる。私は韍厎の呚蟺ぞの取材を、改めお始めた。

    「ここたできたのは、自分の実力だ」

    韍厎がそう蚀っおいたずいう蚌蚀を、元スタッフの䞀人から聞いたのは、その頃だった。

    元スタッフは、駅近くのファストフヌド店で䌚った。平日の倕方で、孊生が倚かった。向かいの垭に座った男は、䞉十代前半だった。トレむの䞊に眮いたコヌヒヌに手を぀けず、最初から声を萜ずしお話し始めた。

    「最初の頃の韍厎さんは、違ったんです」ず、男は蚀った。「自分の力を過信するような人じゃなかった。むしろ、誰かの助けがないず䜕もできない、っお分かっおる人で」

    「それが倉わった時期は」

    「ひかりの未来基金が倧きくなっおからです。出資者が増えお、メディアにも取り䞊げられるようになっお。その頃から、アドバむスを聞かなくなっおいった」

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    男は少し間を眮いた。

    「癜石さんずの関係も、倉わりたした。以前は、癜石さんが来るず、韍厎さんは必ず時間を䜜っおいた。でも最近は、䌚議を入れお、䌚えない日を䜜るようになっお」

    私は手を止めた。

    癜石ずの関係が倉わった。癜石が来おも、時間を䜜らない。それは単なる倚忙ではない。意図的な距離の取り方だ。

    「癜石さんは、それに察しお、どんな反応でしたか」

    男は少し考えおから、銖を暪に振った。

    「䜕も蚀わなかったです。それが、䞀番怖かった」

    ファストフヌド店の倖で、倕方の人波が流れおいた。私はその動きを芋ながら、手垳に曞き足した。「癜石は䜕も蚀わない。怒らない。ただ、埅っおいる」ず。

    それから䞀行空けお、こう曞いた。「韍厎が負ける」ず。

    根拠のある予感だった。韍厎は癜石を切ろうずしおいる。だが、癜石を切るための盞談盞手を、韍厎は誀っおいる。柏朚は最初から癜石ず繋がっおいる。韍厎が柏朚に頌めば頌むほど、癜石はその動きを知る。埅っおいる人間に、自分の手の内を教えながら近づいおいく——そういう構図だ。


    「ひかりの未来基金」ずいう名前を、私が最初に目にしたのは、ある投資家向けの情報サむトだった。

    ひかりの庭を母䜓ずした、新しい事業が動き出しおいた。衚向きは、地域の小芏暡事業者ぞの融資ず、若手起業家の支揎を謳う投資ファンドだった。韍厎ヒカルの名前が、代衚ずしお掲茉されおいた。

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    私はその蚘事を印刷しお、取材ノヌトに挟んだ。そしお、蚘事の䞭の䞀行に、赀いペンで線を匕いた。

    顧問の欄に、䞀぀の名前があった。

    柏朚悠人。

    私はその名前を、しばらく芋おいた。ペンを持ったたた、次の動䜜ができなかった。これたで調べおきた構造が、ここで䞀぀の圢を取った。韍厎の法埋顧問だった人間が、ひかりの未来基金の顧問ずしお名前を連ねおいる。

    癜石の名前はない。だが、柏朚がここにいる。それだけで十分だった。

    癜石は最埌たで、どこにも出おこない。それがこの男の、䞀貫したやり方だった。

    私は赀いペンで、柏朚の名前に線を匕いた。

    韍厎の倉化を、私は出資説明䌚で盎接確認した。

    䞀般の参加者ずしお申し蟌み、䌚堎の埌ろの垭に座った。地方郜垂の貞し䌚議宀だった。䞉十人ほどが集たっおいた。私はノヌトを開き、埌ろの垭に溶け蟌んだたたペンを走らせた。

    壇䞊の韍厎は、私の蚘憶にある韍厎ずは別の人間のように芋えた。

    最初に䌚った時の韍厎には、窓の倖を確認する癖があった。出口を気にする目の動きがあった。今、壇䞊に立った韍厎の芖線は、聎衆の䞊を静かに泳いでいた。誰かの芖線を避けるのではなく、自分の芖線を配っおいる人間の目だった。

    質疑応答で鋭い質問が飛んでも、衚情が動かなかった。淀みなく、数字を答えた。

    私はその姿を芋ながら、手元のノヌトに䞀行曞いた。「恐れが消えおいる」ず。

    最初に䌚った日の韍厎には、䜕かに怯えた人間の緊匵があった。それが今はない。傷぀いた人間が、傷を忘れた時、䜕が残るか。誇りか、それずも空掞か。壇䞊の韍厎がどちらなのか、この堎では刀断できなかった。


    韍厎倱脚の報を、私は経枈ニュヌスのサむトで芋た。

    朝の早い時間だった。コヌヒヌを飲もうずしお、カップを持ったたた、画面を芋続けた。

    「ひかりの未来基金、暪流し疑惑で第䞉者委員䌚蚭眮」

    蚘事を読んだ。韍厎が基金の資金を、自身が関係する別の䌚瀟に䞍正に流したずいう疑惑だった。内郚告発があったずいう。第䞉者委員䌚が蚭眮され、調査が始たっおいるずあった。

    私はカップを眮いた。コヌヒヌが少し、テヌブルにこがれた。

    その倜、私は曞斎の机の䞊に、蚎状の曞類の写しを䞀枚ず぀広げた。知人の匁護士を通じお入手したものだった。郚屋は静かだった。

    資金の流れを瀺す曞類。韍厎の関䞎を瀺す眲名のある曞類。タむムスタンプが蚘録されたデヌタの印刷物。

    䞀枚ず぀、順番に芋おいった。

    取材をしおきた経隓から蚀えば、本圓に䞍正をした人間の曞類は、こんなに敎然ずはしおいない。抜け穎がある。蚀い蚳の痕跡がある。人間が実際にやった䞍正には、人間の雑さが必ず残る。

    だが目の前の曞類は、違った。

    必芁な曞類が、過䞍足なく揃っおいる。流れが分かりやすく敎理されおいる。韍厎の関䞎を瀺す蚌拠が、疑いを持぀人間に向けお、芪切に配眮されおいるように芋えた。

    私はある䞀枚の曞類を手に取り、電球の光に近づけた。眲名の筆跡を芋た。眲名そのものは本物に芋えた。だがその曞類が䜜成されたずされる日付ず、別の曞類に蚘録されおいる䌚議の蚘録の日付が、わずかにずれおいた。

    私は曞類を机に戻した。

    誰かが蚌拠を䜜った、ずいう感觊があった。確信ず呌ぶには、ただ薄い。だが、この敎然さは䞍自然だった。本物の䞍正がこれほど読みやすい圢を持぀こずは、たずない。

    私は手垳に曞いた。「でっち䞊げの可胜性がある」ず。


    その数日埌、ひかりの庭の元䌚員を通じお繋がっおいた関係者から、短いメッセヌゞが届いた。「韍厎さんのこずで、倧事な話がある」ずあった。

    䌚ったのは、郊倖の叀いファミリヌレストランだった。倕方の時間で、客はたばらだった。窓際の垭を遞んだ。窓の倖には、駐車堎ず、その先に䜎い山が芋えた。

    関係者は四十代の女性だった。ひかりの庭の初期からの䌚員で、内郚の資金の動きを把握しおいる立堎にいたずいう。テヌブルに着くず、すぐにメニュヌを閉じた。䜕も泚文しなかった。

    「韍厎さん、远い詰められおるんです」ず、女性は蚀った。「暪流し疑惑だけじゃなくお、もっずひどい話が出おきそうで」

    「どんな話ですか」

    女性は少し間を眮いた。窓の倖に芖線が行った。駐車堎の向こうの、䜎い山の茪郭を芋おいるようだった。

    画像

    「関口ずいう人、芚えおいたすか。飲食店の店長だった。銖吊りで死んだ」

    私の手垳を持぀手が、止たった。

    関口さんずいう名前が、この女性の口から出た。

    「韍厎さんが、その人を殺したっお話が出おいたす。関口さんは、韍厎さんが本圓は痎挢をしおいたずいう蚌拠を持っおいお、お金を芁求したらしい。それで韍厎さんが」

    女性は、最埌たで蚀わなかった。蚀わなくおも、分かった。

    「その話は、どこから出おきたんですか」

    「幹郚筋から、だず聞いおいたす」

    私はその䞀蚀を、手垳に曞き留めた。

    女性は氎を䞀口飲んでから、立ち䞊がった。「これ以䞊は話せたせん」ず蚀い、店を出おいった。

    私はしばらく、窓の倖を芋おいた。山の茪郭が、倕暮れの䞭で少し暗くなっおいた。

    癜石はこの事実を、ずっず手攟さなかった。䜿う機䌚を埅ちながら。
    ただし、この考えにも、迷いが残った。財務曞類があれほど敎然ず「でっち䞊げ」られおいたのだずすれば、この噂もたた、同じ手で䜜られたものかもしれない。関口を殺したのは、本圓に韍厎なのか。それすらも、癜石が甚意した物語である可胜性を、私は捚おきれずにいた。


    その倜、曞斎で、私は取材ノヌトのあるペヌゞを開いた。

    関口さんに最初に電話した日のペヌゞだった。「蚌拠がある。でも今は話せない」ずいう蚀葉を曞いた、あのペヌゞ。「この死を、調べる」ずいう䞀行が、そのペヌゞの最埌にあった。

    私はずっず、関口を消したのは癜石だず思っおいた。癜石が柏朚に䜕かを吹き蟌んだ。柏朚が韍厎に䌝えた。その先に関口の死がある、ず。だが柏朚には動機がない、ずいう壁に䜕床もぶ぀かっおいた。

    今、その可胜性が、別の人間の口から圢を持っお出おきた。

    関口は、韍厎の秘密を持っおいた。韍厎に金を芁求した。
    韍厎が自分で刀断しお、関口を銖吊りに芋せかけお殺した——そう考えれば、蟻耄は合う。
    癜石は、その筋曞きを知っおいた。あるいは、その筋曞きそのものを䜜り䞊げたのかもしれない。
    最初から知っおいお、あるいは甚意しお、切り札ずしお持ち続けおいた。
    韍厎が癜石に反逆した時、その切り札を䜿った。
    でっち䞊げの曞類ず、韍厎が人を殺したずいう話。
    真停のいずれであっおも、この二぀で、韍厎を完党に远い詰めるには十分だった。

    私は手垳を閉じた。

    癜石は関口を殺しおいない。だが、もし韍厎が本圓に関口を手にかけたのだずすれば、その死の遠因には癜石がいる。銖吊りのやり方を接芋宀で語った。
    それが柏朚に届き、韍厎に届き、その手法が䜿われたのだずすれば——誰も呜じおいない。誰の手も汚れおいない。

    この認識に至るたでに、私は䜕幎もかかった。手垳を閉じた手のひらが、少し冷たかった。

    もう䞀぀、頭から離れないこずがあった。

    銖吊り、ずいう死に方だ。

    䞹波が語っおいた蚀葉が、頭の䞭でもう䞀床鳎った。「远い詰められた人間が銖を吊るのは、本圓に远い詰められた蚌だ」ずいう蚀葉が。癜石が接芋宀で話した蚀葉だず、䞹波は蚀っおいた。

    その蚀葉が、柏朚を経由しお韍厎に届いた。その蚀葉通りだずすれば、韍厎は関口を銖吊りで殺したこずになる。

    これは癜石の蚭蚈だったのか。それずも——韍厎が偶然、同じ方法を遞んだのか。


    株䞻代衚蚎蚟が起こされたのは、それから間もなくのこずだった。

    原告偎の匁護士ずしお、柏朚悠人の名前があった。ひかりの未来基金の顧問契玄は、蚎蚟の䞀か月前に、柏朚の偎から静かに解消されおいた。そのこずに気づいたのは、登蚘簿の倉曎履歎を確認した埌のこずだった。

    私はその名前を、取材ノヌトに曞き写した。ゆっくりず、䞀文字ず぀。

    柏朚が、原告偎にいる。韍厎の顧問だった人間が、韍厎を蚎える偎に回っおいる。

    最初から、これが目的だったのかもしれない。私はそう思いながら、しかし断蚀するこずも、ただできなかった。


    韍厎の死の報を知ったのは、蚎蚟の報道から䞉週間埌だった。

    自宅での銖吊り。自殺ず刀断された。

    私は蚘事を読んで、画面から目を離せなかった。

    銖吊り。関口ず同じ死に方だ。
    韍厎が関口を殺したのだずすれば、その韍厎が、同じ方法で死んだこずになる。

    私は取材ノヌトを開き、以前曞いたペヌゞを確認した。䞹波が語っおいた蚀葉が、そのペヌゞに曞いおあった。「远い詰められた人間が銖を吊るのは、本圓に远い詰められた蚌だ」ずいう蚀葉が。

    癜石がこの蚀葉を話した。䞹波を経由しお、柏朚に届いた。柏朚から韍厎に届いた。その蚀葉通りに韍厎が関口を殺したのだずすれば、韍厎は自分も同じ方法で死んだこずになる。

    この連鎖に、偶然はあるか。

    韍厎の死が自殺ではない可胜性を、私は疑っおいた。蚎蚟で远い詰められた男が、远い詰められたたた死ぬ。それは自然に芋える。だが、その死に方が、癜石の蚀葉ず重なっおいる。䞹波がひかりの庭に今も参加しおいる。

    実行したのは誰か。

    翌日、柏朚が次期代衚ずしお就任するずいう蚘事を芋た。

    ひかりの未来基金の代衚ずしお、柏朚悠人の名前が発衚されおいた。

    私は取材ノヌトを開き、最初のペヌゞから順に目を通した。癜石茝道ずいう名前を初めお曞いたペヌゞ。柏朚が取材を拒吊した日のペヌゞ。韍厎が珟れたペヌゞ。関口が死んだペヌゞ。麻子が死んだペヌゞ。韍厎が死んだペヌゞ。

    そしお今日、柏朚が代衚になったペヌゞ。

    癜石の名前は、どのペヌゞにも、盎接の加害者ずしおは出おこなかった。

    柏朚は、最初からこの堎所に向かっおいたのかもしれない。癜石はそれを知っおいお、柏朚を動かした。あるいは柏朚が自分で刀断しお動いた。

    どちらにしおも、蚌明できない。

    この「蚌明できない」ずいう蚀葉を、私は䜕床曞いおきただろう。だが今回のこの蚀葉には、それたでず違う重さがあった。柏朚が代衚になった。組織は動き続けおいる。私の調査は、䜕も止めるこずができなかった。

    窓の倖で、雚が降り始めおいた。

    私はしばらく、雚の音を聞いおいた。

    久兵衛も、远っおいた。関口も、気づいおいた。麻子も、声を䞊げた。韍厎も、反旗を翻した。

    みんな、消えた。

    癜石の名前を残しお。


    第䞃章 私の呚りで人が死ぬ

    柏朚が代衚に就任した翌日から、私はしばらく、䜕も動けなかった。調査を始めおからの党おが、脳裏を行き来しおいた。

    韍厎の死を、自殺ず断定するこずに、どうしおも玍埗できなかった。

    譊察の発衚は、簡朔だった。自宅での銖吊り。遺曞あり。蚎蚟や批刀によるストレスが原因ずみられる。それだけだった。

    だが韍厎が最埌に残した投皿が、頭から離れなかった。

    蚎蚟が報じられおから䞀週間埌のものだった。

    「皆さんに、心配ず迷惑をおかけしお、本圓に申し蚳ありたせん。僕は、皆さんから預かった信頌を、裏切る぀もりなんお、䞀床もありたせんでした」

    私はその文章を、䜕床か読み返した。

    远い詰められた人間の蚀葉だ、ず思った。しかし同時に、誰かに䜕かを残そうずしおいる人間の蚀葉でもあった。自分が消えた埌に、自分が信じおいたものだけは守ろうずしおいる。

    投皿の末尟に、こうあった。

    「皆さんが、僕の蚀葉で、少しでも救われたこずがあったなら、それだけは、本圓だったず、信じおいおほしいです」

    自殺を決意した人間が、こういう蚀葉を曞くだろうか。

    あるいは——自殺に芋せかけられるこずを、うっすらず予感しおいた人間が曞く蚀葉だろうか。

    私にはただ、刀断できなかった。


    線集長から電話があったのは、韍厎の死から二か月埌だった。

    地方玙時代の線集長だった。今は別の組織にいる。長い付き合いだった。

    「お前、ただ、あの件、調べおるのか」

    電話越しの声に、軜さがなかった。

    「調べおいたす」

    「やめおおけ」

    「理由を教えおもらえたすか」

    少し間があった。

    「ある筋から、お前の名前を聞いた。深入りしない方がいい、ずいう話だった。俺には、それ以䞊のこずは分からない」

    電話は切れた。

    私は受話噚を眮いお、しばらく壁を芋おいた。

    ある筋から、ずいう蚀葉が残った。誰が、䜕の目的で、この線集長に私の名前を届けたのか。善意の譊告なのか、それずも譊告ずいう圢を借りた圧力なのか。

    刀断が぀かなかった。刀断が぀かないこず自䜓が、癜石の手口ず同じだ、ず思った。


    その頃から、取材協力者ぞの連絡が、ほずんど機胜しなくなった。

    これたで話を聞かせおくれおいた人間が、返信をよこさなくなった。玄束した日に珟れない人間が出た。「もう話せたせん」ずいう短い蚀葉だけが届くこずもあった。

    ある倜、私は手垳を開き、ただ連絡が取れる人間の名前を確認した。

    窓の倖の街灯の光だけが、机の䞊に薄く差し蟌んでいた。倩井の蛍光灯は、い぀消したのか芚えおいなかった。名前を䞀぀数えるたびに、次の名前を探す手が、少し遅くなった。

    少なかった。

    癜石の名前を盎接出せる蚌蚀者は、もうほずんどいなかった。柏朚は沈黙しおいる。䞹波は癜石を庇い続けおいる。韍厎は死んだ。

    私には、取材ノヌトだけが残っおいた。

    これを曞いおいる今、正盎に蚀う。

    怖い。

    この調査を始めおから、䜕人の人間が死んだか、もう䞀床数えた。

    関口。麻子。韍厎。

    䞉人だ。䞉人ずも、癜石ず、あるいは癜石が動かした人間たちず、䜕らかの圢で繋がっおいた。䞉人ずも、癜石の名前は、どこにも出おこないたた、死んでいった。

    自分もそうなるかもしれない、ずいう考えが、ある日を境に頭の䞭に入っおきた。入っおきたたた、出おいかない。出おいかないのに、どう察凊すればいいのか分からなかった。

    四日間、取材ノヌトを開けなかった。

    食事の時間に台所ぞ行き、食べお、たた曞斎に戻った。真理が話しかけおくる声に、短く返事をした。普通に振る舞えおいたかどうか、分からない。

    四日目の朝、私は取材ノヌトを開いた。

    曞けないなら、曞けないでいい。だが、曞かないこずに慣れおしたうのは、もっず危険だ、ず思った。ペンを取った。䜕かを曞いた。曞いおいるうちに、少し、動けるようになった。


    䞹波誠䞀郎ぞの取材を、もう䞀床申し蟌んだ。

    今回は、い぀もの喫茶店ではなく、䞹波の勀務する斜蚭の近くで䌚った。小さな公園のベンチだった。倕方で、颚が冷たかった。䞹波は、コヌトの前を合わせながら、ベンチに座った。

    「最近、取材が続いおいたすね」ず、䞹波は蚀った。「䜓は倧䞈倫ですか」

    その蚀葉が、善意から出おいるこずは、分かった。だが私は、その善意を玠盎に受け取るこずが、以前よりも少し難しくなっおいた。

    「韍厎さんの死に぀いお、どう思われたすか」ず、私は聞いた。

    「悲しいこずだず思いたす」

    「自殺だず思いたすか」

    䞹波は、少し考えおから答えた。

    「人の心の内偎は、倖からは芋えたせん。あの方がどれほど远い詰められおいたか、私には分かりたせん」

    颚が吹いお、公園の朚の葉が揺れた。

    「癜石さんは、韍厎さんのこずを知っおいたず思いたすか」

    「それは分かりたせん。出所埌の癜石さんのこずは、私は䜕も」

    「䞹波さんはひかりの庭に参加しおいた。癜石さんず韍厎さんは、同じコミュニティに関わっおいた。それでも、繋がりはないず」

    䞹波は、私の顔を芋た。これたでの取材で、䞹波が私の顔を正面から芋たのは、数えるほどしかなかった。

    「宮歊さん、あなた、疲れおいたすね」

    私は答えなかった。

    「癜石さんは、人を傷぀けるような人ではありたせん。私はあの方ず長い時間を過ごしたした。その確信は、倉わりたせん」

    颚が、もう䞀床吹いた。朚の葉が揺れた。䞹波の癜髪が、わずかに乱れた。

    䞹波は、それを盎さなかった。

    芖線も、手も、声も、䜕も倉わらなかった。その蚀葉を蚀い終えた埌の䞹波は、蚀い終える前の䞹波ず、たったく同じ姿勢でそこにいた。

    私はその静止を、しばらく芋おいた。

    公園を出た埌、私はしばらく歩いた。

    䞹波は嘘を぀いおいない。この感觊は、最初の取材から今たで、倉わっおいない。

    だが今倜初めお、私はこう思った。

    もう、問うのをやめようか、ず。

    答えの出ない問いを抱えたたた、誰かが私の動きを把握したたた、取材ノヌトを開けない四日間がたた来るかもしれない。そうなる前に、䞹波ぞの問いは、いったん閉じた方がいいのかもしれない。

    その考えが浮かんだ瞬間、私は足を止めた。

    この思考自䜓が、癜石の手口ず同じだ、ず気づいた。問うこずを諊めさせる。それだけで十分だ、ず。

    私は歩き始めた。足が少し、重かった。


    倜、私はUSBメモリを䞀本、甚意した。

    取材ノヌトをすべおデゞタルで入力し盎した。手垳の蚘録、蚌蚀の芁玄、曞類の写真。これたで調べおきたこずを、䞀぀のファむルにたずめた。

    自分の郚屋に眮いおおくのは、危険だず思った。職堎も、同じだ。私の動きを誰かが把握しおいるなら、どちらも安党ではない。

    どこに隠すか。私はしばらく考えた。

    真理の郚屋が、頭に浮かんだ。

    嚘の郚屋の棚に眮いおある、くすんだ氎色のぬいぐるみ。高校䞀幎の誕生日に、私が莈ったものだ。

    誰も疑わない堎所だ、ず思った。

    だが、もう䞀぀考えた。

    嚘の郚屋に、これを隠す。それは、この蚘録をい぀か真理に芋぀けおほしい、ずいう意味でもある。

    私は、その意味をしばらく抱えおいた。

    真理には、䜕も話しおいない。癜石のこずも、死んだ人間のこずも、自分が怖いず思っおいるこずも。話せなかった。話せば心配させる。今はただ、䜕も確かなこずが蚀えない。そう思っおきた。

    だが、ぬいぐるみを遞ぶずいうこずは、もし自分に䜕かあった時、真理に芋぀けおほしい、ずいうこずだ。

    私は蚘者だ。曞いたものが誰かに届かなければ、曞いた意味がない。だが今、その「誰か」ずしお、私が思い浮かべおいるのは、読者でも線集者でもなかった。

    隣の郚屋で眠っおいる嚘だった。

    深倜、真理の寝息が聞こえるこずを確認しおから、私は嚘の郚屋に入った。棚のぬいぐるみを手に取った。

    軜かった。

    こんなに軜いものの䞭に、党郚を入れるのか、ず思った。䜕幎もかけお積み䞊げおきた蚘録が、この重さのものに収たっおしたうのか、ず。

    私は台所に移り、䜜業をした。瞫い目を䞁寧にほどいた。綿の䞭にUSBメモリを抌し蟌み、ビニヌル袋で二重に包んでから、タオル地でさらに包んだ。瞫い盎した。元の圢に戻るよう、䞁寧に。気づかれないように。

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    朝になっお、䜕事もなかったように、棚に戻した。

    嚘に、蚀えなかった。


    机の前に戻っおから、私はしばらく、そのたた座っおいた。

    曞斎の窓の倖で、倜がゆっくりず癜み始めおいた。

    真理は今、倧孊でゞャヌナリズム研究䌚に入っおいるず聞いた。理由を聞いたこずがある。「誰かが曞かなければ、なかったこずになるっお、お父さんが蚀っおたから」ず、真理は答えた。

    その蚀葉を、私はうたく受け取れなかった。照れ臭かった、ずは違う。自分がその蚀葉通りに生きおきたかどうか、その倜のこずを正盎に蚀えなかった。

    だが今は、蚀いたい。

    お前が匕き継いだその蚀葉を、私はここたで、なんずか守っおきた。

    関口が死んだ時も。麻子が死んだ時も。韍厎が死んだ時も。誰かが曞かなければ、なかったこずになる。その䞀点だけを信じお、ここたで来た。

    蚘者ずしお始めたこずが、父芪ずしお終わろうずしおいる。

    そのこずを、この倜、初めおはっきりず、自分に認めた。

    窓の倖が、少し明るくなっおいた。

    真理の郚屋の棚に、ぬいぐるみが戻っおいる。

    あの䞭に、私の党郚が入っおいる。党郚、ず蚀っおも、䜕幎も費やしお積み䞊げおきたものが、あの小さな塊の䞭に収たっおいるだけだ。それだけのこずだ。

    それだけのこずが、今倜の私には、䜕かを支えおいるように感じられた。


    第八章 手蚘の最埌

    癜石ず柏朚を盎接結ぶ蚌拠を、私はただ持っおいなかった。

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    柏朚が癜石に篭絡された経緯は、状況蚌拠ずしお積み䞊がっおいる。韍厎ぞの助蚀、耇数の匿名アカりントによる工䜜、顧問ぞの就任、韍厎倱脚ぞの関䞎——これらは繋がった線ずしお芋える。だが、癜石が柏朚に「䜕かを呜じた」ずいう盎接の蚌拠が、䞀぀もない。

    この手蚘を、誰かが読んでくれるずすれば。その人間が、癜石ず柏朚の繋がりを蚌明しようずするなら、䜕が必芁か。

    私はその問いを手垳に曞き、答えを探し続けおいた。

    取材ノヌトを最初のペヌゞから読み返したのは、韍厎の死から䞉か月が経った頃だった。

    最初の䞀冊の衚玙は、角が擊り切れおいた。䜕幎も、鞄の䞭で揺られおきた痕跡だった。䞀冊ず぀、順番に読み返した。癜石茝道ずいう名前を初めお曞いたペヌゞ。柏朚に最初に断られた日のペヌゞ。䞹波に初めお䌚った日のペヌゞ。関口が死んだペヌゞ。麻子が死んだペヌゞ。

    読み返しながら、私はある問いを立おおいた。

    この調査の党䜓を、最初から最埌たで知っおいる人間は、誰か。

    柏朚ではない。柏朚は癜石の名前が出るたびに口を閉ざし、私が䜕を調べおいるかを把握できる立堎にない。韍厎はもう死んだ。情報源たちは、それぞれ断片しか知らない。

    䞀人だけいた。

    䞹波誠䞀郎だった。

    最初の取材から今たで、䞹波は私が連絡するたびに応じおくれた。私がこれたで積み䞊げおきた調査の内容を、話の流れの䞭で、少しず぀、確実に把握できる立堎にいた唯䞀の人間だった。

    韍厎の死から䞉か月が経぀頃には、真理の郚屋のぬいぐるみは、もう䜕床目か分からないほど、私の手で糞をほどかれ、たた瞫い盎されおいた。新しく分かったこず、新しく浮かんだ疑念を、その郜床USBメモリに曞き足しおは、元の堎所に戻す。真理が気づいた様子はなかった。

    その䞹波から、メッセヌゞが届いたのは、ノヌトを読み返した翌日のこずだった。

    「䞀床、盎接お話ししたいこずがありたす」

    私はしばらく、その䞀文を芋おいた。


    䞹波を信頌する理由が、本圓にあるのか。自分に問い盎しおみた。

    䞹波は癜石の曎生を信じおいる。ひかりの庭に参加しおいた。私の存圚を癜石に䌝えおいた。これらの事実だけを䞊べれば、䞹波は癜石の偎にいる人間だ。

    だが、この調査の䞭で、䞹波が私を劚害したこずは、䞀床もなかった。

    他の蚌蚀者たちは、癜石の名前が出た瞬間に口を閉じた。柏朚は䌚うたびに痩せ、最埌には芖線を䞊げられなくなった。情報源たちは次々ず沈黙した。それなのに䞹波は、私が連絡するたびに䌚っおくれた。「分からない」ず蚀い続けながら、それでも来おくれた。

    もし最初から癜石の偎にいたなら、私の調査を止める機䌚は䜕床もあった。もっず早い段階で、もっず静かな方法で。それをしなかった。

    「宮歊さん、あなた、疲れおいたすね」

    公園のベンチで、䞹波が蚀った蚀葉を思い出した。あの時、䞹波は私の顔を正面から芋た。その芖線の䞭に、䜕かがあった。蚀葉にできない䜕かが。

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    そこから先、蚘憶が勝手に動いた。

    最初に䌚った喫茶店で、䞹波がコヌヒヌカップを音もなくずらした時の、あの指の動き。関口の名前を出した時に、䞀瞬だけ目を䌏せお、すぐに戻した、あの瞬間。「それだけです」ず蚀いながら、䜕かをその蚀葉の瞁の内偎に収めおいたような、あの静けさ。麻子が死んだ倜の雚の䞭で、傘を閉じながら入っおきた時の、い぀もず倉わらない穏やかな所䜜。

    䞀぀䞀぀は、善意の人間の動きだった。

    だが今、それを䞊べるず、䜕かが芋える気がした。䜕かが、ずは蚀えなかった。蚀えないたた、その感觊だけが、手のひらの䞭で重さを持っおいた。

    それだけで、十分だず思った。

    私は、返信した。「い぀でも構いたせん」ず。


    返信しおから、私はしばらく、送ったメッセヌゞを芋おいた。

    翌日、䞹波から電話があった。

    電話口の向こうから、かすかに音楜が聞こえた。汐芋銀座商店街の有線らしかった。どこかで聞いたこずのある曲だった。

    「生たれ倉わるず 祈った堎所を  泥靎のたたで 螏み躙る人よ  綺麗な仮面で 聖者を気取り  暎いおみせるず 圱ばかり远う  眪を正すず 嘯きながら  卑しい芗き芋を 愛だず呌ぶか  正しすぎる 猛毒を飲み  癜き深淵ぞ 萜ちおゆきなさい」

    だが、䞹波の次の蚀葉が、その音を消した。

    「実は、癜石さんず柏朚さんを盎接繋いでいた人物を、私は知っおいたす」

    私は手垳を手元に匕き寄せた。

    「その方は、宮歊さんに話を聞かせおくれるず蚀っおいたす。ただ、䌚う堎所ず時間の指定があっお」

    「構いたせん」

    「橋のたもずで、二十䞉時に、ず蚀っおいたす。人目を避けたいそうで」

    私は、少し考えた。

    倜の橋。人目を避ける。

    汐芋橋——取材を始めた頃に䜕床か前を通ったこずのある橋だった。欄干が䜎く、倜は人通りがほずんどない。

    倜の橋。

    その蚀葉が、頭の䞭で䞀床、鈍く鳎った。

    だが、䞹波からの連絡だった。

    私はこの調査の䞭で、䞹波を疑ったこずがある。「可胜性ずしお陀倖できない」ず手垳に曞いたこずもある。それでも䞹波は、疑うたびに、来おくれた。

    電話を切った埌、私は手垳を開いた。

    今倜、䞹波さんから連絡があった、ず曞いた。そしお、䌚いに行く堎所ず時間を曞いた。

    それから、もう䞀行曞いた。

    「䞹波さんを、私は信じおいる。あの人だけは、最初から誠実だった」ず。

    この䞀行を曞きながら、自分がそう曞きたいのか、そう曞かなければならないのか、区別が぀かなかった。だが、曞いた。曞いたこずは、事実だ。

    手垳を閉じた。

    倖は暗かった。時蚈を芋るず、出発たで二時間あった。

    昌間、汐芋銀座商店街の䞊にアドバルヌンが浮かんでいるのを芋た。今日も、あれが出おいた。汐芋銀座商店街に来るたびに、あれがある。気にも留めおいなかった。

    私はコヌトを着た。

    取材ノヌトを、机の䞊に䞊べたたたにした。ペンが䞀本、キャップを倖したたた転がっおいた。

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    これだけのものが、嚘の郚屋のぬいぐるみの䞭に入っおいる。

    真理、芋぀けおくれ。

    〈今倜、䞹波さんから連絡があった。癜石ず柏朚を繋ぐ決定的な蚌拠を持぀人物に匕き合わせおくれるずいう。橋のたもずで、二十䞉時に——〉

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    終章 手蚘を閉じお

    最埌のファむルを読み終えた時、郚屋の倖がすでに明るくなっおいた。

    寅子は画面から目を離し、窓の倖を芋た。薄い光が、カヌテンの端から差し蟌んでいた。䜕時間、読み続けおいたのか、時蚈を確認する気になれなかった。䜓が重かった。怅子に座ったたた、背䞭が䞞たっおいた。

    ノヌトパ゜コンの画面には、最埌の䞀文が衚瀺されおいた。

    〈今倜、䞹波さんから連絡があった。癜石ず柏朚を繋ぐ決定的な蚌拠を持぀人物に匕き合わせおくれるずいう。橋のたもずで、二十䞉時に——〉

    寅子は、その䞀文を、もう䞀床読んだ。

    橋のたもずで。

    真理から最初に話を聞いた日のこずを思い出した。「父はあの晩、誰かに䌚いに行く途䞭だず蚀っおいた」ず、真理は蚀っおいた。汐芋橋のたもずで転萜した。事故ずしお凊理された。

    この手蚘の䞭で、䞹波ずいう名前は䜕床も出おきた。癜石の曎生を信じる教誚垫。善意の人物ずしお、正の取材に応じ続けた人間。正が最埌たで信頌した人間。

    その䞹波が、橋のたもずに正を呌び出した。

    寅子はしばらく、その事実を、頭の䞭で静かに転がした。

    断定するには、ただ早いかもしれない。だが、手蚘を読み通しおきた時間の䞭で積み䞊がったものが、今、䞀぀の圢を取ろうずしおいた。

    䞹波ぞの違和感は、最初から消えなかった。

    ひかりの庭ぞの参加。韍厎の死を悲しみながら、その死の真盞を問わない態床。「癜石さんは、人を傷぀けるような人ではありたせん」ずいう蚀葉の、揺るぎない確信。

    そしおもう䞀぀。

    正がどれだけ远い詰められ、情報源が次々ず沈黙しおいく䞭でも、䞹波だけは毎回来おくれた。正はその事実を、信頌の根拠ずしお受け取った。だが寅子には、別の読み方ができた。

    近くにいれば、芋える。

    調査がどこたで来おいるか。正がどこたで気づいおいるか。

    毎回来おくれた理由が、信頌ではなく、芳察だったずすれば。

    その問いに、今は答えが出ない。それでも、この問いを手攟すこずはできなかった。

    寅子は手のひらを膝の䞊に眮いた。手のひらが、少し冷たかった。


    祖父が死んだのは、十二歳の春だった。

    匏兞の堎で、䞀人の女性が久兵衛を刺した。その女性を動かしたのが癜石だずいうこずを、寅子はその埌、少しず぀知っおいった。だが蚌拠は䜕もなかった。癜石の名前は、どこにも残らなかった。

    八幎経っお、同じ男の話を、別の人間の蚘録の䞭で読んだ。

    手蚘の䞭で、癜石茝道ずいう名前が出るたびに、寅子は気づかないうちに息を止めおいた。

    八幎間、その名前は寅子の䞭でずっず、音のない堎所に眮かれおいた。蚌拠がないから口にできない。誰かに話しおも、䌝わらない。だから、したっおおいた。したっおおくうちに、その名前は、重さだけが残っお、圢が芋えなくなっおいた。

    それが、正の手蚘の䞭で、䜕床も、䜕床も、出おきた。

    別の人間が、別の堎所で、同じ名前に行き圓たっおいた。それだけのこずだった。だが、画面の䞭でその名前を芋るたびに、八幎間したっおおいたものが、少しず぀、瞁の方からほどけおくるような感芚があった。

    宮歊正ずいう蚘者は、祖父が远っおいたのず同じ男を、別の時代に远いかけおいた。そしお同じように、汐芋橋の䞊で死んだ。

    この繰り返しが、寅子の胞の䞭で、静かに重なった。

    泣きたい、ずいう感芚ずは違った。もっず奥の方で、䜕かが固たっおいくような感芚だった。

    久兵衛が死んだ日のこずを、寅子は今でも现郚たで芚えおいる。

    匏兞の䌚堎は、春の光が入りすぎるほど明るかった。倧人たちが走り、誰かが叫んだ。寅子は䜕が起きたのか分からないたた、人の間をすり抜けお祖父のそばに行こうずした。止められた。「来おはいけない」ず誰かに蚀われた。その声が誰のものだったか、今でも思い出せない。

    祖父の名前を呌んだかどうかも、芚えおいない。

    芚えおいるのは、䌚堎の倖に連れ出された埌の空の色だった。四月の、薄い青だった。䜕も起きおいないような、静かすぎる空だった。

    あの空の色ず、今、画面に映っおいる最埌の䞀文が、どこかで繋がった。

    橋のたもずで、二十䞉時に——。

    正もあの倜、どこかで空を芋たかもしれない。久兵衛も、あの日、空を芋ようずしたかもしれない。同じ男が、二人を同じ方向に向かわせた。

    手蚘の䞭で、寅子が最も長く留たった堎面が、二぀あった。

    䞀぀は、正が出発前に取材ノヌトを机の䞊に䞊べたたたにした、ずいう堎面だった。

    久兵衛も、同じような手垳を持っおいた。叀くなるたで䜿い続けた手垳を。寅子は幌い頃、その手垳の衚玙が擊り切れおいるのを、䜕床か芋た芚えがあった。

    その蚘憶が浮かんだ時、寅子は画面を芋たたた、少し動けなかった。胞の奥で、䜕かが詰たるような感芚があった。涙ではなかった。それよりもっず静かな、奥にある䜕かだった。

    たったく知らない蚘者ず、自分の祖父が、同じものを持ちながら、同じ男を远い、同じ男によっお呜を奪われた。

    もう䞀぀は、USBを仕蟌む堎面だった。

    「隣の郚屋で眠っおいる嚘だった」ずいう䞀文が、そこにあった。

    正は、蚘録を届けたい盞手ずしお、読者や線集者ではなく、真理を思い浮かべた。嚘の寝息を確認しおから、嚘のぬいぐるみを手に取り、その䞭に自分の党郚を隠した。

    その䞀文を読んだ時、寅子は真理のこずを考えた。この手蚘が真理の手に届くたでの時間を考えた。父が死んで䞀幎、真理が曞斎を片付けお、ぬいぐるみを抱きしめお、硬いものの感觊に気づくたでの、あの䞀幎を。

    正は、その䞀幎を知っおいた。だからこそ、あの堎所に隠した。


    真理に連絡したのは、その朝だった。

    「読み終わった。䌚えたすか」ずだけ送った。

    すぐに返信が来た。「今日、どこでも」ず。

    埅ち合わせた堎所は、倧孊の䞭庭だった。真理ず最初に䌚った、あの堎所だ。

    真理は、寅子が近づくのを芋お、立ち䞊がった。顔色が悪かった。おそらく寅子ず同じように、ほずんど眠れおいないのだろう。

    二人は、しばらく䜕も蚀わずに、ベンチに䞊んで座った。

    午前の光が、朚々の間から差し蟌んでいた。孊生たちが、い぀ものように䞭庭を行き亀っおいた。その動きが、今の寅子には、少し遠いものずしお芋えた。

    どちらも、䜕も蚀い出せなかった。

    手蚘を読み終えた埌の重さが、ただ䜓の䞭にあった。その重さを蚀葉にするこずが、どちらにもできないでいた。

    先に口を開いたのは、真理だった。

    「最埌の䞀文、読んだ」

    「うん」

    たた、沈黙があった。

    「お父さん、最埌たで、䞹波さんを信じおたんです」ず、真理は蚀った。声が、少し揺れおいた。「手蚘の䞭で、䜕床も䌚っお、䜕床も話しお。それでも、疑わなかった」

    「正さんには、理由があった」ず、寅子は蚀った。「他の蚌蚀者が党員黙っおいく䞭で、䞹波さんだけは䌚い続けおくれた。それは本圓のこずだったはずだから」

    「だから、死んだ」

    真理の声が、现くなった。

    寅子は䜕も蚀わなかった。蚀える蚀葉が、なかった。

    しばらくしお、真理が顔を䞊げた。泣いおいた。声は出さずに、ただ涙が䌝っおいた。

    「ごめん」ず、真理は蚀った。「泣く぀もりじゃなかったんだけど」

    「泣いおいい」ず、寅子は蚀った。

    真理は、少しの間、泣いた。寅子は隣に座ったたた、䞭庭の光を芋おいた。

    やがお真理が、目を拭いた。

    「お父さんは、ちゃんず残しおくれた」ず、寅子は蚀った。「党郚を曞いお、真理ちゃんが芋぀けられる堎所に隠した。癜石ずいう男が䜕をしたか、柏朚が䜕者か。党郚」

    「でも、蚌明できおいない」

    「そう。だから、私たちがやる」

    真理が、寅子の方を向いた。

    「䞀人でやる぀もり」

    「寅子さんがいれば、䞀人じゃない」


    䞭庭を出た埌、寅子は少し立ち止たった。

    空が晎れおいた。午前の光が、建物の間から斜めに差しおいた。

    寅子は、人差し指ず芪指で、小さな四角を぀くった。

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    幌い頃、久兵衛に教わったおたじないだった。芋たいものだけが、真ん䞭にくる。

    四角を䜜った指先に、朝の光が圓たった。冷たい空気の䞭で、指先だけが、少し枩かかった。

    䜕を切り取るべきか、ただ分からなかった。

    癜石茝道ずいう男の茪郭か。宮歊正が曞ききれなかった続きか。

    それずも——䞹波誠䞀郎ずいう名前か。

    手蚘を通じお正が最埌たで信じた人間。その信頌が、正を橋に連れおいった。その人間が、今もどこかにいる。

    四角の䞭に、䜕も芋えなかった。

    ただ、芋えない。

    ただ、䞀぀だけ分かっおいるこずがあった。

    祖父は䞀人で远い、死んだ。正も䞀人で远い、死んだ。

    その事実が、指先の枩かさずずもに、確かにそこにあった。

    寅子は、ゆっくりず手を䞋ろした。

    真理の背䞭が、少し先に芋えた。

    癜石ず柏朚が率いる組織は、今日も動いおいる。

    自分は䞀人ではない。

    寅子は歩き始めた。

    「誰かが曞かなければ、なかったこずになる」

    正の⟔葉が、今、寅⌊の䞭にも根を䞋ろしおいた。祖父から⟃分ぞ。
    正から真理ぞ。⟔葉は、⌈から⌈ぞ、静かに匕き継がれおいく。

    寅⌊は、もう⌀床、四⟓の䞭を芗いた。

    ただ䜕も⟒えない。だが、⟒ようずする⌈間が、⌆⌈になっおいた。

    続く。


    【近日公開予定】続線『むンビゞブルフレヌムThe Frame Is Set』 予告線

    ――「誰も呜じおいない。誰の手も汚れおいない」

    姿なき゜シオパス・癜石茝道。 法の網をすり抜けた男の悪意は、個人から組織ぞ、そしお぀いに「郜垂」そのものぞず増殖しおいく。 垂民の「普通」を静かに曞き換えおいく、芋えない支配。

    父の遺した手蚘を手に、癜石の圱を远う真理ず寅子。 しかし、隠された真実ぞず迫る圌女たちを埅っおいたのは、信じおいた䞖界が根底から芆るほどの「絶望」だった。

    ――聞こえおいたはずのあの歌が。 ――芋えおいたはずのあの空が。 日垞の颚景に溶け蟌んでいたすべおが、冷酷な【暗号】だったず気づく時。

    「お父さんが曞いおいた通りだ」

    蚌拠すらも握り぀ぶす巚倧な暩力の闇。 正矩が届かない堎所で、远い詰められた真理が螏み蟌もうずする「䞀線」ずは――。

    迫り来る芋えない枠組みむンビゞブルフレヌム。 冷たい倜颚が吹く汐芋橋の䞊で、寅子の叫びが響く。

    「泣いおいる暇なんおないっお、教わったでしょ」

    敵はあなたに銃を向けない。 ただ、あなたが䜕を「普通」ず感じるかを倉えるだけだ。

    ――自分の「普通」を疑え。以前は、違っおいなかったか

    続線『むンビゞブルフレヌムThe Frame Is Set』予告動画はこちらから


    🐯寅子から、最埌たで読んでくださったあなたぞ

    最埌たで読んでくださっお、ありがずうございたす

      読み終わっお、どうでしたか

    私ね、この手蚘を最初に読んだ倜、朝たで眠れたせんでした。

    癜石茝道。

    この名前、芚えおおいおください。
    誰にも呜じおいない。手も汚れおいない。
    なのに、人が死んでいく。

    祖父も、宮歊正さんも、同じものを远いかけお死にたした。
    それを知った時、悲しいより先に、怒りが来たした。

    蚱せない、っお。

    法埋で裁けないなら、裁けるようにする。
    蚌拠がないなら、蚌拠をみ぀ける。
    それが私にできるこずだず思っおいたす。

    ただ二十歳の倧孊生が䜕を蚀っおるの、っお思うかもしれたせん。
    でも、祖父も正さんも、最初はただ「おかしい」ず思っただけだったはずです。

    私も、そこから始めたす。

    人差し指ず芪指で、小さな四角を䜜っおみおください。
    その䞭に、ただ䜕も芋えなくおいいんです。

    芋えかけおいるものを、䞀緒に远いかけおください。
    真理ちゃんず私は、もう歩き始めおいたす。

    癜石茝道の名前を、法廷の堎に出すたで、この四角を䞋ろしたせん。

    たた絶察読みに来おくださいね埅っおたすよ

    🔍 源 寅子🐯✌


    🔔Bell

     
     
    サッチャヌ政暩末期のロンドン、冷戊終結盎埌の欧州に居たした。特別な立堎でなく、ただその珟堎呚蟺にいた䞀人ずしお。そこで出䌚った人々から教わったこずは、今も自分の䞭に根付いおいたす。忘れない぀もりで蚘録を始めたはずが、気づけば゚ッセむになり、小説になり、映像になっおいたした。

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