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四、あなたの声に心はひらく③

    「やあ、先生」
     毒気を洗い流してしまったような妙に爽やかな表情で万堂はそんな挨拶をした。
     昨日さよならを言ったばかりなのに、戸惑いはないようだった。

    「急に呼び出してごめんなさい。どうしても、どうしても訊きたいことがあったもので」
    「しかるべく」

     裁判を意識しているのか、お道化た調子でそんなことを言うので失笑してしまった。私は切り出す前にそっと再生ボタンに手を掛ける。

    「今日は録音はしていないの。内緒だけど、これ、あなたに聴かせようと思って」
    「それで人払いしたわけ」
    「音質は保障しないわよ」
     再生ボタンに指をかけ、ごく小さな音で鳴らした曲に、万堂の目がキラリと輝いた。

    「嘘、カンパネッラだ……」
     それもペトロフの、とは言わなくても分かったようで、万堂はその音に耳を澄ませた。物音ひとつ立てずに、天国の鐘に耳を傾ける。

     既決した死刑囚にどの程度の自由が認められるか分からなかったから、もし最後になるなら聴かせたいと思ってしまったのだ。

     彼の愛したペトロフのラ・カンパネッラ。めくるめく音符がきらめきながら白い部屋を満たす。
     色彩のメロディー、光差す技巧。圧巻の指技が誇らしげに鳴り渡る。小さなとても小さな音で。

     最後の一音の余韻が消えてから、万堂は落ち着いた静かな声で「ありがとう」と言った。
    「これで思い残すことはない、と言いたいところだけど。やっぱり僕は死ぬんだろうか」
     真白い天井を見上げて万堂が訊く。

    「その可能性は高いと思うわ」
    「心神喪失って書いてよ」
     茶化すように、そんなことを言う。

    「その所見はないわね。あなたはとても正常。プロとしてとてもじゃないけど、あなたを精神疾患とは書けません」
    「だよねえ」

     ようやく私の知っている万堂らしい歪め方で、彼は表情を崩した。そうしてくれた方がずっといい。私はちらりとガラス窓のついた扉を見やる。融通の効く法務センター職員のさっぱりと刈り上げた後頭部が見えた。
     時間はあまり、残っていない。

    「本当のことを言うわ。私、人を殺したの」
    「ふうん?」
     目だけで笑って万堂は動じない。

    「どうしても憎かったから。煮えたぎるような憎悪で、精神的に追い詰めて殺したの」
    「教育ママのお母さんでしょ」
    「……そうよ」
     話が早い。やはり私たちは、どこかで繋がっているのか。同じ気質を持っているのか。

    「だと思ったよ」
     と彼は鼻で笑った。
    「ちっとも疑われなかったのよ。私、仕事をしながら在宅で介護までこなす孝行娘で通っているから」
     万堂のあの目をじっと見つめた。

    「一人なら、私にも分かる。どうして、四人も殺したの。それだけが分からない。どうして彼女たちを殺したの。関係ないじゃない。こんなの万堂哲人らしくないわ」

     そう。理屈が通らないのだ。
     ひょっとして、もしかしたらこれは……最初から彼の言っている通りの。もしそうなのだとしたら。

     今までどんな犯罪者と向かい合っても、心底憎いと思うことなんかなかった。犯罪者よりもっと憎むべき人間を一人知っているのは、ある意味では幸運と言えた。

     白昼の通り魔の鑑定もしたことがある。自宅で爆弾を作った少年事件の鑑定も私がやった。強盗もいた、計画殺人者もいた、女毒殺犯とも会ったことがある。

     死刑囚にも、もう何人も会った。確定死刑囚の拘禁反応について勉強もしたし、アメリカでは処刑の瞬間をこの目で見た。
     是非はともかく、法にしたがって適切に決められて、正しく刑が科せられるのなら、極刑にも自分の仕事にも疑問を持ったことはなかった。

     今までは、一度も。

     それが今は、どうして殺したんだと叫びたい気持ちで溢れかえりそうになっている。

     堀くんはこれを逆転移だと言ったのだ。
     逆転移。そうなのだろうか。私はこの男に、何か特別な感情を抱いているのだろうか。

     万堂哲人。
     あなたは、本当は。
     息を詰めた私に、真顔になった彼が口を開いた。

    「先生がそこまで言うんなら、僕も本当のことを言うよ」

     本当のこと。私がいちばん知りたいこと。
     本当の理由。
     どうして殺したの。それとも本当に、殺してないの。
     納得のいく理由が。

    「僕は、やってない……だけど、僕はもうひとり、いるんだ」
    「?」
     自分の眉間に縦皺が立ち並んでいるのが、見なくてもはっきりと分かった。

    「まあそうだよね、信じないよな。プロの精神科医だって信じてくれないと思ってたよ」
     穏やかな口調で続ける。

    「どうしてこの国の医療ではいまだに、ないことにされているんだろうね。僕は二重人格だ」
     冗談を言っているようには見えなかった。
    「……解離性同一性障害、と言うのよ」

    「そんな長ったらしい名前もついているのに、どうして認められないんだろう? 僕はそのときの記憶が、ない。やってないものはやってないとしか言えないし、さらに言えば小さい頃からちょくちょく記憶が欠落している」

    「どうしてそれを最初から言わないのよ!」
     いきなりそんなことを言われても、今からでは診断も間に合わない。第一、本当に解離性同一性障害かどうか、私には判断がつかない。
     データが、足りない。時間がない。

    「言ったら信じた? 信じないでしょう。死刑逃れの詐病と思われるのがオチだ」
    「でも、試験はすることができただろうし、そういう目で見れば何か気づいたかもしれない……それじゃ、あなたは主人格なの?」

    「一応そうだと思ってる。ま、もうひとりの僕も同じことを言うかもしれないけれどね」
     私は真っ白い天井を仰いだ。

    「ちょっと待ってよ、なんで今まで一言も……」
    「だから。訊かれたら答えたと思うよ。気づかなかったのは、先生の方なんだよね」
    「ということは私、会ってるのね? もう一人の、あなたに」
    「テッド」
     と彼は言った。

    「彼はテッドだ。僕は万堂哲人。あいつは自分がテッドだと、思っている」
    「どうやって見分けるのよ」

    「あいつはなかなか出て来ない。日常のほとんどのことは僕にやらせる。たまに出て来たかと思うとしょうもない悪さをするんだ。まさか殺人までするとは思わなかったけどさ。見た目やなんかで違いがあるのかどうかは、残念ながら僕には分からない。とりあえず利き手が違うとかそういう分かりやすい目印みたいなものには少なくとも僕は思い当たらないな」

     半信半疑で私はメモを取る。この再生機には録音機能はついていなかった。
    「いちばん最初にそれに気づいたのは?」
    「小さい頃からあやしいと思うことはあったけど、確信したのはあれかなあ」

     少し目をすがめて、万堂はぺろりと舌をちらつかせた。
    「母さんの彼氏と寝たんだよ、あいつ。僕はゲイじゃないのに」
    「…………」
     恵利から聞いた話とも整合した。

    「そのときの記憶は僕にはない。でもどうせ、あいつが誘ったんだと思ってるよ。あいつは女が嫌いなんだ。憎んでると言ってもいいかもしれない」
    「ほんとなの、それ?」
    「今さら嘘つく意味、あるかな?」
     真顔でそう返されると、納得してしまいそうになる。

    「じゃあ、殺したのも……」
    「テッドだと思うよ。あいつは生まれつき、頭がおかしい。普通の人がしないようなことをする。破滅衝動があるんだ。僕の身体を使ってやられるんだから、たまったもんじゃない」

    「弁護士を解任したのは」
    「あいつ。だけど、僕もあの弁護士は好きじゃなかったから別にいい」
     好き嫌いの問題だろうか、それは。
     黙り込んだ私の指先を捕まえて、万堂は真剣な顔で囁いた。

    「ねぇ、律子さん」
     息が詰まる。万堂は私の名前を覚えていたのだ。たった一度、初対面で名乗ったきりのファーストネームを。

    「僕を助けてくれる?」
    「そうしたいけど……ねえでも、どうして今になって言うの、そんな大事なこと」
    「だってそれは」
     口ごもって万堂は長いまつ毛を伏せた。つないだままの指先が小刻みに震えている。

    「今日はあいつがいないから、言えた。あいついつも僕を刺すような目で見て来るんだ。殺してやるぞこの殺人鬼、って目でさ。今日もあいつがいたら、黙っていたと思うよ」

    「堀くんのこと?」
     こくん、と小さく頷いた。

    「あの人も心理職なんでしょう? あの人は先生とは違う。あの人は絶対に信じてなんかくれない。嘘だと頭から決めてかかるよ。先生も、そう思うでしょう?」
    「それは……」

     確かにそうだと私は思った。堀くんには、万堂に対して敵意がある。頭から有罪と決めてかかっている。それで言えなかったというのか。こんな大事なこと、今まで、ずっと?

     死刑になるかもしれないのに。

    「待って。ひとつだけ、確認させて。ちょっとこの紙に樹を描いてもらっていい? ペンは、ああじゃあ、これでいいわ」
    「樹? 絵で描けばいいの? っていうかなんで、今……」
    「いいから。時間がないわ。思った通りに描いてみて」

     万堂は一瞬怪訝な目をしたが、それでも黙って私のペンでさらさらと樹の絵を描いた。特に考えるそぶりはなかった。
    「はい、これでいい?」
     ひとめ見て釘付けになった。

     万堂は同じ大きさの樹を二本、まるで手をつなぐように枝を重ねて隣り合うように描いてみせた。

     これはバウムテストという心理試験の一種で、ただ樹を描けと指示されて二本の樹を描く人はほとんどいない。
     解離性同一性障害の患者を除いては。

    「うかつだったわ」
     どうして最初にこの試験をしてやらなかったんだろう。テストバッテリーを組んだのは、私。違和感を見逃したのも、私。万堂の心理を鑑定しきれなかったのは私の責任だ。
     彼を殺すのは……私の鑑定書かもしれない。

    「どうしろって言うのよ」
     申し訳なさで頭を抱えた私に、繊細な指先を触れさせて彼が囁いた。
    「もうどうしようもないよ、先生。それが僕の運命だって言うなら受け入れる。どちらにせよ、この身体は有罪なんだよ。それは僕も知ってる」

     白い部屋、明るい夏のひかりの中で万堂が微笑む。
     目がくらんだように私の気が遠くなる。
    「僕、どうせ殺されるなら律子さんの鑑定書で殺されたいな」

     ぞっと鳥肌が腕を駆け抜けて、私はよろけながら彼の足元にひざまずいた。
    「殺させないわ。出してあげる。あなたはやってないんだもの。私があなたを、出してあげます」

    「ありがとう」
     見上げた万堂は天使のように清らかに微笑んでいた。
     ペトロフの鐘の音より澄んだ一対の瞳に赦しの色がほのかに揺れる。
     ああ、この人は人を赦すことを覚えたのだ。万堂恵利を赦すことで、そのほかのすべての人をも。

    「律子さんが信じてくれただけで僕、報われた気がします」
     すっと白い指先が私の顎を持ち上げた。
     やわらかい弾力を唇に感じて、私は静かに目を閉じた。

     甘やかな若い香りが私の心を打ちのめす。
     ペトロフのカンパネッラよりもっと荘厳な悦びが、私の心臓をまっすぐに撃ち抜いた。

     とろける蜜のしたたる淡い夢のように。

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