
「天体観測会においでいただきありがとうございます。」
天文台の職員が説明を始めた。
「ですが、今日は"月のない月夜"です。"新月"と言います」
「月が見えないんですか?」
私の近くにいた子どもが訊いた。
「月はあります。でも、太陽の光が当たっていないから、見えないんです」 その子は不思議そうに夜空を見上げた。 私も傍らの息子とともに星空を見上げた。確かに、月はどこにもない。
十五年前、彼女と過ごした夜もこんな星空だった。
「今日は月がないのね」 空を仰いで彼女が言った。
「新月だから」
「でも、月はあるんでしょ?」
「うん。見えないだけで」
彼女は少し考えてから、いたずらっぽく微笑んだ。
「私たちみたいだね」
「どういうこと?」
「人には見えないけど、確かにある関係」
当時の彼女は、人妻だった。私たちの関係は、誰にも言えなかった。
多くの星の瞬きの中で、二人は闇の中に濃密に存在していた。
輝いてはいなかったが、何ものにも代えがたいと互いに思っていた。
その半年後、彼女は離婚した。私たちは、昼夜を問わずデートするようになった。
やがてありふれた日常が、背徳の緊張感にとって代わった。
そして二人の気持ちは少しづつすれ違って行った。
一年もしないうちに、私たちは別れた。
「お父さん、どうしたの?」 息子の声で、我に返った。
「月を探してたんだ」
「新月だから見えないって、さっき説明を聞いたじゃん」
「そうだね」
息子は他の子どもたちと代わる代わる望遠鏡を覗き込んでいる。
木星が見えるらしい。
私は独り、空を見上げた。
月はある。今日も確かにそこにある。見えなくても。
彼女との日々も、確かにあった。人には見えなくても。
二人にとっては、あのままでいた方が幸せだったのかもしれない。
新月の夜。星だけが輝く空。月のない月夜の、甘美な美しさ。
「お父さん、そろそろ終わりみたいだよ」 息子が言った。
天文台の職員が閉会を告げている。
「そうだね」
息子の後ろに続きながら、私はもう一度空を仰いだ。
彼女はあの夜を思い出すことがあるのだろうか。
私は見えない月に向かって、小さく手を振った。
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