竹下佳江
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2007年 | ||||||||||||||||||||||||
| 基本情報 | ||||||||||||||||||||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1978年3月18日(48歳) | |||||||||||||||||||||||
| 出身地 |
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| 身長 | 159cm | |||||||||||||||||||||||
| 体重 | 52kg | |||||||||||||||||||||||
| 血液型 | A型 | |||||||||||||||||||||||
| 選手情報 | ||||||||||||||||||||||||
| 所属 | ヴィクトリーナ姫路 | |||||||||||||||||||||||
| 愛称 | テン | |||||||||||||||||||||||
| 役職 | エグゼクティブアドバイザー | |||||||||||||||||||||||
| ポジション | S | |||||||||||||||||||||||
| 指高 | 205cm | |||||||||||||||||||||||
| 利き手 | 右 | |||||||||||||||||||||||
| スパイク | 280cm | |||||||||||||||||||||||
| ブロック | 270cm | |||||||||||||||||||||||
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竹下 佳江(たけした よしえ、現姓:江草、1978年3月18日 - )は、日本の元女子プロバレーボール選手。プレミアリーグ・JTマーヴェラスに所属していた。夫は元プロ野球選手の江草仁貴。マネジメント契約先はアミューズ。
来歴
福岡県北九州市門司区出身。3歳年の離れた姉の影響で小学校3年生よりバレーを始める。高校時代はチームでの全国大会の経験はないが、1995年、世界ユース選手権に出場し優勝を経験した。1996年、NECレッドロケッツに入団。1997年、全日本代表初選出。同年開催のワールドグランドチャンピオンズカップでは、正セッターの大貫美奈子の控えとして出場した。
その後しばらく全日本代表から遠ざかったが、1999/2000Vリーグでは正セッターとしてNECの全勝優勝に貢献し、2000年の全日本代表に招集される。当時は大貫のセッター転向が頓挫し、1999年ワールドカップで正セッターを務めた板橋恵も不調だった為、葛和伸元監督は竹下を正セッターに抜擢してシドニーオリンピック世界最終予選に臨んだ。しかし日本は3勝4敗の6位で敗退し、日本女子バレー初となる五輪出場権を逃がす結果に終わったことから、敗因として「セッターが159cmの身長では世界を相手に通用しない」と竹下の低身長が槍玉にあげられ、激しいバッシングにさらされた。
2001年、ワールドグランドチャンピオンズカップに出場し銅メダルを獲得したものの、シドニーオリンピックの出場権を逃した責任を感じ続けていた竹下は、2002年4月、所属していたNECを退社し、一時期バレーボールから離れた。
退社後は地元の北九州に帰郷し、体力を活かして介護の仕事をしようと考え、ハローワークに通っていた[1]。しかし、当時のJT監督一柳昇から、「一緒にVリーグ昇格、そして制覇という夢に挑戦してほしい。楽しいバレーをしよう」と再三の誘いを受けて、同年8月、当時V1リーグのJTマーヴェラスで復帰。その熱意に応えた竹下はチームをVリーグ昇格に導いた。
2003年に全日本に復帰し、2003年ワールドカップで最優秀敢闘賞受賞。翌2004年アテネオリンピックに出場し、5位入賞を果たす。
2004年5月20日、JTと現役日本人女子選手唯一(当時)のプロ選手契約を結んだ。マネジメントはスポーツビズが行っている。
2005年、全日本代表キャプテンに指名される。同年のワールドグランプリ2005から主将としてチームを牽引する。
2006年世界選手権では大会MVPを受賞した。ただし、6位の日本チームからMVPは疑惑のMVPとされ、産経新聞などから批判された。[2]