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渋川春海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渋川春海
渋川春海。『天文大意録』(鳳晴堂光正著、1826年頃)より。
渋川春海[1]
人物情報
別名 六蔵(幼名)、順正、安井助左衛門、新蘆、保井春海
生誕 寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)
京都四条室町
死没 正徳5年10月6日(1715年11月1日)
居住 江戸麻布
国籍 日本の旗 日本
学問
時代 江戸時代
研究分野 天文・暦・囲碁
特筆すべき概念 貞享暦
主要な作品 日本長暦、三暦考、貞享暦書、天文瓊統、地球儀
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貞享暦。1729(享保14)年版。(国立科学博物館の展示)

渋川 春海(しぶかわ はるみ / しぶかわ しゅんかい、旧字体: 澁川 春海󠄀、寛永16年閏11月3日〈1639年12月27日〉- 正徳5年10月6日〈1715年11月1日〉)は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。別名は安井 算哲(やすい さんてつ)。姓は安井から保井、さらに渋川に改姓した。

生涯

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天文分野之圖。保井春海(渋川春海)著。延寶5年(1677年)。
(上)渋川春海作の地球儀。1695年製。(下)渋川春海作の天球儀。1697年製。ともにレプリカ(国立科学博物館の展示)。

江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)、父の死により、二世安井算哲になったが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井(後に改字)姓を名乗った。秋冬は江戸に、春夏は京に住んだ。

そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。この後、算知、弟の知哲、算知の弟ともいわれる春知などとともに御城碁に出仕する。延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。

数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。21歳(1659年)の時に天体観測に基づいて中国四国地方の各地の緯度・経度を計測した[注 1]。

当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていた。宣明暦はかなりの誤差が生じていた。とくに、月食・日食の予報が天の運行に2日も遅れていた。春海は、1670年(寛文10年)32歳の時から天体を日夜観測[2]、その結果をもとにして元の授時暦への改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。

春海は失敗の原因を研究していくうちに、太陽の運行の遅速にかかわる基点(今日の天文学の用語でいえば近日点)が授時暦では冬至と一致すると仮定されていた(13世紀にはよい近似であった)がすでに移動していたことと、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり今日でいう時差が発生してしまうことに気づいた[3]。そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データをもとにして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代・稲葉正往の家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの明の大統暦を採用する詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は里差の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった[4]。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[5]が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。

この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。

囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(