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楼蘭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Loulan 樓蘭
Krorän
楼蘭故城(中国語版)。中華人民共和国全国重点文物保護単位(No.3-211)に指定されている。
楼蘭の位置(新疆ウイグル自治区内)
楼蘭
新疆ウイグル自治区における位置
所在地 新疆ウイグル自治区, 中国
座標 北緯40度31分39秒 東経89度50分26秒 / 北緯40.527633333333度 東経89.840644444444度 / 40.527633333333; 89.840644444444座標: 北緯40度31分39秒 東経89度50分26秒 / 北緯40.527633333333度 東経89.840644444444度 / 40.527633333333; 89.840644444444
種類 都市
追加情報
状態 廃墟となっている

楼蘭(ろうらん、樓蘭、英語:Loulan、推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)に、かつて存在した都市、及びその都市を中心とした国家。「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えた。

紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善(日本語名:ぜんぜん、中国語名拼音:shàn shàn)と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、1900年3月28日にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見された[1]。

位置

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楼蘭の名は史料や時代によって異なる用いられ方をした。楼蘭はオアシス都市の名であったが、その国名が漢によって鄯善と改められた後も、楼蘭の名はその「地方」を現す語として、あるいは西域の象徴的な地名として使用された用例が存在する[2]。また、鄯善国内で作られた漢文文書の中には楼蘭の名を継続使用しているものもある。

楼蘭時代の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された漢文文書の分析によってスタインがL.Aと名づけた都市遺跡が楼蘭の王城であるという説が唱えられた[3]。この説は現在でも重要であり、書籍などで便宜上L.A遺跡を指して「楼蘭」、「楼蘭遺跡」、「楼蘭故城」などと呼ぶことにするという扱いをする研究者もいる[3]。しかし、L.A遺跡は3世紀頃に形成された都市であり、少なくとも前漢代の記録に登場する「楼蘭」とは同一でないともいわれている[3]。楼蘭王国の王都としての楼蘭の位置は未だ諸説入り乱れる分野である。

名称

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Kroraina , Krorän
中国語
中国語 楼蘭
簡体字 楼兰
発音記号
標準中国語
漢語拼音Lóulán
紀元前77年から
中国語 善善
簡体字 鄯善
発音記号
標準中国語
漢語拼音shàn shà
唐代
中国語 納縛溥
簡体字 納縛波
発音記号
標準中国語
漢語拼音Nafupo
日本語
ひらがな ろうらん
ウイグル語
ウイグル語
كروران

楼蘭という漢字表記は、現地名であるクロライナ(クロラインナ、Kroraina、Kroraimna)、クロレン(Krorän)の音訳である[4][5][6] 。漢代の復元発音ではglu-glânと表記される[7]。

3世紀のカローシュティー文字文書では、王都を意味する語として用いられており、元来都市の名であったものが国全体を指す語として用いられるようになった後も、王都を指す語として継続使用されていたことが知られる。一説にはその原名はインドの地名に由来するとも言われる[8]。

一方漢によって命名された鄯善という名前は、一説には漢にとって「善い国」という意味で「善善」とし、同じ字が続くのを避けるために新字を作って「鄯善」としたといわれる[9]。または楼蘭の南部を流れたチェルチェン河(チェルチェン・ダリヤ)の名をとったものであるともいわれる[9]。

664年に唐の玄奘仏僧は、楼蘭を「納縛波(Nafupo)」と表記しているが、松田壽男博士によれば、これはソグド語の「Navapa」の音訳で「新しい水」を意味している[10] 。

復此東行千餘里,至納縛波故國,即樓蘭地也。[11]
ここ(且末)から北東に行くこと数千里、納縛波の故国に達する。即ち樓蘭の地である。

王城の名称

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この楼蘭(クロライナ)とは別には、王都を指す言葉として扜泥という言葉があった。『漢書』などでは鄯善国の首都としてこの名を用いている[4]。これはカローシュティー文字文書に登場するクヴァニ(クハニ Kuvani, Kuhani)の音訳であると考えられ、城砦を意味する語が王都の意味に転用されて用いられたものである[4]。また、カローシュティ文字文書の中にはマハームタ・ナガラ(Mahamta Nagara)という言葉で王都を呼んでいるものもある。これは「大きな都市」を意味する語であり、やはり後に王城を意味する語として転用された[4]。

歴史

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楼蘭発掘のミイラ

楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている[12]。

紀元前2世紀頃の中央アジアの地図

文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である[13][14]。その手紙は匈奴の君主である冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している[15][14]。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと、そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる[14]。『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉犁の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した[14]。

紀元前141年に漢で武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた[14]。この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことがうかがわれる[16]。

漢は前127年と前121年に衛青と霍去病の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした[16][17]。彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえる[16]。こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになった[16]。しかし、大挙増大した漢の人々(中には新興の交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれている)と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大した[16]。特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た[16]。

これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃侯の趙破奴と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行った[18]。騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた[18]。

こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。武帝は大宛の汗血馬を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪った。これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した(紀元前104年 - 紀元前101年)[18]。この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。楼蘭王はそれに答えて「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという[18][19]。武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された[20]。以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していく