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栄養学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

栄養学(えいようがく、英語: nutrition science)とは、食事や食品、その成分である栄養素がどのように生物の中で利用されたり影響しているかを研究する、栄養に関する学問である。

概要

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日本における栄養学の草創期である1910年代には、食品に含まれる栄養成分の分析や、どんな食品を、いつ、どのくらい食べればいいのか研究されていた。その結果、白米の栄養素は乏しいと判明し、玄米を食すべきか、これを部分的に精米した分搗き米や胚芽米を食すべきかといった主食論争が交わされた。1980年頃から食事と生活習慣病の関連性が明らかになり、食生活指針が作成され疫学研究が盛んになった。また1980年代以降、食品成分の健康に対する作用が解明され、健康食品が広く認識されていった。

炭水化物・たんぱく質・脂質が三大栄養素と呼ばれる。これにビタミン・ミネラルを加えると五大栄養素と呼ばれる。炭水化物が減少し、脂質が増えるという比率の変化は、食の西洋化(欧米化)と呼ばれ、健康への影響が調査されてきた[1][2](厳密には脂肪の種類が重要[3])。これにより、1980年代には日本型食生活が提唱された。かつて、沖縄県は世界に名だたる長寿地域であり、食事との関連なども調査されてきた。しかし、全国に先駆けた食事の西欧化により長寿は危機に瀕しており[4]、このような傾向を日本の他地域も後追いするといわれている[4]。

古くは米の精白が奨励されていたが、21世紀近くには問題があるとされた。また、動物性食品の摂取も古くは奨励されていたが、後に大きな問題の源となった。過去に食物繊維は栄養素の利用効率を下げると考えられ、穀物の精白が推奨されたが[5]、白米などの精白による栄養損失が問題となった。日本における栄養学の創始者である佐伯矩は七分搗き米を、女子栄養大学創設者の香川綾は胚芽米を推奨し21世紀でも重視されている[6][7]。1970年代には食物繊維の重要性が知られ、1990年代に目標摂取量が策定されているが、穀物からの摂取量減少が目標の達成を阻んでいる[5]。欧米の食生活指針は全粒穀物を推奨した。砂糖をエネルギー比10%未満にするという2003年の世界保健機関(WHO)の勧告は[8]、2014年に5%未満とする草案となった[9]。1957年、国際連合食糧農業機関(FAO)によって提示された国際的なタンパク質の品質評価基準であるプロテインスコアでは、鶏卵の100点を頂点とし、木綿豆腐は67点だった[10]。1973年にアミノ酸スコアとして改訂され、1985年の改定、1990年の確認を経て大豆も100点となり[11]、穀物と豆の組み合わせによって良質なタンパク質となることが確認された[12]。脂肪は必須でないと考えられていたが、1980年前後には必須脂肪酸が特定された[13]。特にω-3脂肪酸は亜麻仁や魚に多く、大豆や菜種油に比較的多く含まれる[14]。1977年のアメリカの食事目標でも動物性脂肪削減は主な焦点となり[15]、2003年には、WHOがトランス脂肪酸による心血管系リスク増加の防止を勧告した[8]。

日本における栄養学の歴史

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1871年(明治4年)、ドイツの軍医であるテオドール・ホフマンによって栄養についての知識が日本に伝えられた。しかし、当時は医学のなかの一分野にすぎず、一つの学問として体系化されたものではなかった。

栄養学の創設

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佐伯矩は、栄養学を学問として独立させたため「栄養学の創始者」といわれる。佐伯は京都帝国大学で医学を学んでいた頃から「米と塩を以って生活できるか否かについての研究」を著すなど、栄養に関心を持っていた[16]。その後、内務省伝染病研究所に入り、北里柴三郎の下で細菌学を研究した。ここでの研究により1904年(明治37年)、大根に含まれる消化酵素を発見したことが成果の一つとなっている[17]。1905年(明治38年)には、北里らの推薦で特別研究員としてアメリカのイェール大学に招聘される[18]。1911年(明治44年)ごろにはヨーロッパを遊学した[19]。

1914年(大正3年)、佐伯によって営養(栄養)研究所が創設され、医師10名、高等師範学校の学生1名に栄養に関する講義が行われた。佐伯は1918年(大正7年)、当時の教科書や政府の刊行物で「営養」と表記していたものを「栄養」に統一するよう文部省に建言した[20]。栄えるという字には健康を増進するという意味がある[21]。また、佐伯は「完全食」や「偏食」といった言葉も作り出している。1920年(大正9年)には内務省に栄養研究所(現在の国立健康・栄養研究所)が設立され、佐伯は初代所長となる。1924年(大正13年)、佐伯は私費を投じて栄養学校を設立。翌年入学した第1期生は1年間の学業を修め、佐伯によって付けられた「栄養士」という呼称で世に出た。1934年(昭和9年)日本医学会の分科会として、栄養学会が正式に独立を認められた。

佐伯は海外でも精力的に講義を行い、その業績によって1937年(昭和12年)には、国際連盟主催の国際衛生会議において、参加各国が国家事業として栄養研究所を設立し、栄養士の育成を行い、分搗きの米を用いることの決議がなされた[22]。ビタミンの国際単位も佐伯による国連への提案である[21]。

栄養士と養成施設

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1924年(大正13年)、佐伯は栄養学校(現在の佐伯栄養専門学校)を設立した。1933年(昭和8年)、香川綾が家庭食養研究会を設立し、1939年(昭和14年)には女子栄養学園となる。1939年(昭和14年)、陸軍の糧友会が食糧学校(現在の東京栄養食糧専門学校)を設立した[23]。1947年(昭和22年)に栄養士法が成立し、上記の栄養学校、食糧学校、女子栄養学園で栄養学を学んだものに与えられていた栄養士という称号が公的なものとなった[23]。1962年、管理栄養士が制度となる。

主食論争

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明治時代から食養会の関係者は玄米を奨めていた。当時の栄養学では、玄米に多く含まれる食物繊維は未消化で排泄されるので栄養吸収の効率が悪いと考えられていたが、真っ白に精白した米は栄養素が少なすぎるという問題があり、当時多発したビタミンB1不足による脚気を予防するためにも、その中間を提唱していた。

1918年(大正7年)、佐伯は新聞社を16社呼び、胚芽米をすすめ、米のとぎ洗いも問題だと発表した[24]。しかし、精米技術が追い付かず、胚芽米の推奨はやめ、どちらかというと胚芽米を嫌っているようであった[25]。1921年(大正10年)、医師の二木謙三が玄米をすすめる内容の著書を発行した[26]。1922年(大正11年)、佐伯は七分搗き米をすすめる[27]。1927年から陸軍の糧友会は胚芽米の普及に努めた[28]これは、白米はビタミンBが少ないという栄養上の問題があり、体力を奪い大和民族の発展を阻止するが、胚芽米は栄養があり味もよく消化が良いという理由による。[28]。1928年、香川綾も胚芽米をすすめた[29]。同1928年(昭和3年)ごろ、胚芽米にできる精米機が登場したため、陸軍は脚気予防のために胚芽米を採用した[30]。正確に七分搗き米にできる精米機はまだなかった[30]。佐伯は、七分搗き米を普及するべく「標準米」として提唱している[31]。東京市は胚芽米の普及をすすめ、栄養研究所や栄養士と対立する[25]。

1938年(昭和13年)、農林大臣の「胚芽米でなく七分搗き米を奨励すべきだ」という発言が報道されたのに対し、糧友会は『胚芽米普及の真意義に就て』を書き、栄養がある七分搗き米を食べている人にまで勧めるわけではないと弁明している[28]。 1939年、農務省から米穀搗精等制限令[32]が出て、胚芽を含んだ七分搗き米が奨励された。1941年(昭和16年)、玄米の普及の請願も出ていたが、厚生省、文部省、農林省の各大臣が答弁し、米は七分搗きが適当であり玄米は最適ではないとした[33]。1942年(昭和17年)以降、大政翼賛会では国民を玄米に復帰させるとして議題となり、時の首相であった東條英機が玄米を常食していることも伝わり、世論は玄米に傾いた[33]。伝染病研究所の研究者らは玄米食について研究し、「医界週報」での報告では、炊飯に要する燃料は増加したが、玄米食によって小食になったうえ、下痢も減り仕事の耐久力が上がり、医療費は1/17に減ったと伝えたので、栄養学者も認めざるを得なくなった[34]。1943年(昭和18年)、当初は反対していた厚生大臣も首相に従い、玄米をすすめた[35]。

戦後

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終戦直後の食糧難は深刻を極め、大量の餓死者が発生する事態となっていた。そのような状況下で、1946年(昭和21年)からララ物資として、小麦粉(メリケン粉)や砂糖、脱脂粉乳や缶詰めといった救援物資が送られ、1947年(昭和22年)からはガリオア資金・エロア資金の援助で小麦粉などの食糧が大量に輸入された。1954年(昭和29年)には学校給食法が成立する。同年、余剰農産物処理法によってアメリカの農産物による食糧援助が始まる。そして、1952年(昭和27年)に施行されていた栄養改善法により厚生省が栄養改善運動をはじめ、米偏重の是正が叫ばれ、欧米風の食事スタイルが普及。米の消費量は年々減少していく