枝吉城
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(兵庫県) | |
|---|---|
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枝吉城址碑 | |
| 別名 | 新城、明石城、吉田砦 |
| 城郭構造 | 平山城、丘城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 明石氏 |
| 築城年 | 1429年(永享元年)前後 |
| 主な改修者 | 不明 |
| 主な城主 | 明石氏、高山右近か |
| 廃城年 | 1585年(天正13年) |
| 遺構 | 本丸の一部 |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | なし |
| 位置 | 北緯34度40分6.379秒 東経134度58分28.037秒 / 北緯34.66843861度 東経134.97445472度 |
概要
[編集]
印南台地が東西に張り出している低い丘陵地に枝吉城が建っていた。枝吉城の南には山陽道が走り、明石と三木を結ぶ三木街道が通る要衝の地で、戦略的にも重要であった。また明石氏は、赤松氏の被官で明石郡を中心とした勢力を持っており、明石氏が枝吉城を築いたと言われて、古くは吉田砦とも言われていた。このような重要な城であったが、史料には殆ど登場せず江戸時代に作成された地誌で推察できる程度である。その中で『岩屋殿雨請記録』(太山寺文書)によると、天正3年(1575年)6月災天が続いており、その時に、枝吉城の明石氏が太山寺で雨乞いを実施した断片的な記録は残っている。現在遺構として本丸の一部が残っているだけで、1965年(昭和40年)から始まった土地区画整理事業で城郭のほとんどがなくなってしまった。
沿革
[編集]明石氏については、近年様々な研究がなされているが、史料がほとんどなく明確なことは解っていない。明石氏は古い時代から明石郡で力をもっており、荘園を管理する地頭で、赤松氏の台頭とともに、年寄りに列せられたとしている[1]。また、建長7年(1255年)には明石尾張守という名前がみえ、長禄2年(1458年)には明石修理亮なる人物が応仁の乱でも戦っている[2]。明石氏の変遷は、菅野城(神戸市西区櫨谷町)から下津橋城(神戸市西区玉津町)そして枝吉城へ勢力を拡大していったようで、山間部から平野部に本拠地を替えていった。枝吉城の築城時期は明確ではないが、枝吉城の正面にある報恩寺が永享元年(1429年)に建てられたことから、その前後ではないかとされている[2]。
| 第一次枝吉城の戦い | |
|---|---|
| 戦争:攻城戦 | |
| 年月日:天文8年( |
