断髪式
断髪式(だんぱつしき)とは、大相撲の引退した力士がそのシンボルともいえる大銀杏を切り落とす式典のことを言う。切り落とされた大銀杏は、一般にはガラスケース等に入れて引退力士当人の手元に保管される場合が大半であるが、相撲博物館等で展示されることもある[1][2]。転じて、芸能人など力士以外の人物が公の場で髪を切り落とす行為(主に、長髪を短髪にしたり、頭髪を丸刈りなどの極端に短い状態にする際)の比喩としても用いられる場合もある[注釈 1]。
本項では、力士が式典を伴わずに自主的に髷を切り落とす自主断髪についても記述する。
断髪式の起源
[編集]断髪式を最初に開催したのは1914年に引退した第19代横綱・常陸山で、4日間に渡る興業として引退相撲を開催した後、部屋にて断髪式を施行したとされる[3]。引退力士の断髪式が行われるようになった当初約20年間は、土俵の上ではなく広間や居室で執り行われることが一般的とされたが、1935年に引退した太郎山が大相撲力士として初めて土俵上(故郷の長野県上田市にあった相撲場)で断髪式を実施して以降、徐々に土俵上での断髪式が確立したとされる。
引退相撲での断髪式
[編集]通常、引退に際し年寄名跡を襲名した力士の場合、引退相撲(「○○(力士名)引退 ○○(年寄名)襲名披露大相撲」と銘打たれて開催されることが通例)において、引退した力士の家族、後援者、恩人、友人らが次々と土俵に上がって、紋付羽織袴姿で座っている引退力士の髷に少しずつ鋏を入れ(特別な縁のない一般参加者は鋏を入れない)、最後に引退時の師匠に当たる親方が髷を切り落として終了となる。師匠が最後に切り落とす行為を止め鋏(とめばさみ)という。引退力士の横に行司が介添役として三方を持って立ち、鋏を入れる場所を指示する。切り取られた髷は三方に置かれる。現在では引退力士は椅子の上に座るが、昭和20年代中頃までは土俵の上に正座していた[注釈 2]。また土俵の上はロールシートがT字型もしくは十字型に敷かれるが、2000年代以降はレッドカーペットをイメージした赤いシートが使われることが多い。
力士によっては300人以上が鋏を入れることもあるが、2003年5月場所後に引退相撲を行った貴乃花の場合は、本人の希望もあって、相撲協会関係者、息子の花田優一、実兄で横綱だった花田勝ら親戚、同期生である魁皇ら50人に留まった。
土俵上は女人禁制ゆえに、男性のみが鋏を入れる為に土俵に上がることができる。しかし2010年9月場所後に引退相撲及び断髪式を行った千代大海が自身の希望に基づき実母に鋏を入れて貰うべく断髪式の途中で土俵を降り、土俵下で鋏を入れて貰う演出[4]がなされて以降、同様に断髪式の途中で土俵を降りたり、土俵の隣に設けたステージに移動したりして、女性に鋏を入れて貰う演出が多く見られるようになった。近年は引退力士が土俵の端(向正面側)に移動して女性が踏み台の上で鋏を入れるという、より自然な演出が増えている。
断髪式は引退力士にとって、長年頭の上にあった髷がなくなるため、「本当に大相撲から引退してしまうのだな」という気持ちや、今迄の相撲人生において沢山の想い出が甦るという理由からか、引退時記者会見ではさっぱりとした表情で話をしていた力士であっても、ほとんどの場合感極まって目から大粒の涙を流してしまう場合が多い。
整髪及び着替え後は、一種の「お約束」として身内の女性(夫人・母親・娘など)にネクタイを整えて貰うパフォーマンスを求められることが多いが、独身の場合は現役時代から親交があった身内以外の女性がその役を担うこともある。断髪式開催時に独身だった玉乃島は同部屋同期生の玉飛鳥が、稀勢の里は現役時代から仲のよかった元幕内・北太樹(年寄・小野川)がそれぞれ夫人役を買って出て笑いを取っていた。
引退相撲は原則として毎年1・5・9月の本場所終了後の1週間後の土日に両国国技館で開催される。また横綱・大関など人気力士の断髪式、披露パーティーの模様ともなれば、当日にテレビ中継されることもあり、主な例には大鵬(NHK)・北の湖及び千代の富士(TBS)・輪島(テレビ朝日で後日放送)・貴乃花(フジテレビ)・稀勢の里(BS日テレ)・白鵬(テレビ東京で開催翌日に放送)・照ノ富士(ABEMA)などがある。
引退時の師匠以外が止め鋏を入れた例
[編集]本来、断髪式では引退時の師匠が年寄名義で止め鋏を入れるケースが一般的とされるが、何らかの理由により不可能となる場合がある。その場合は別の年寄(もしくは元年寄)が代理を務める。引退から断髪式の間に師匠が退職したことにより師弟関係が消滅した場合、元師匠が個人名義で止め鋏を入れることもある。以下にその実例を引退相撲が開催されたケースに限定の上、理由別に挙げる。
なお、引退時の師匠が止め鋏を入れることが通例となっていることから、北勝海信芳(止め鋏:千代の富士貢)[注釈 3]や貴ノ浪貞博(止め鋏:貴乃花光司)[注釈 4]のように、引退力士の現役時代に師匠を長期間務めていた年寄が断髪式開催の時点で健在かつ協会在職中にもかかわらず、当該力士の現役末期の僅かな期間しか師弟関係を持っていなかった年寄(主に兄弟弟子が師匠となった場合が多い)が止め鋏を入れるケースも存在すれば、後述のように引退時に師弟関係が消滅していた元師匠が当代師匠に代わり止め鋏を入れるケースも存在する。
断髪当時に襲名していた年寄名跡を四股名後ろの括弧書きに記し、引退力士以外の年寄(元年寄)も現役時の四股名で記す。
師匠の死去
[編集]- 鏡岩善四郎(粂川) - 止め鋏不明:現役中に師匠鬼竜山雷八が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
- 玉ノ海梅吉(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に師匠玉錦三右エ門が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。
- 羽黒山政司(立浪) - 止め鋏不明:現役中に師匠緑嶌友之助が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していた。尚、日本相撲協会監修のもとNHKソフトウェアが2004年に制作・発売した「大相撲大全集・昭和の名力士 第2巻」(JANコード:4988066133527)には、羽黒山の断髪式で立浪部屋の兄弟子に当たる双葉山定次が鋏を入れる映像が掲載されたが、止め鋏ではないことが明確に確認されている。
- 栃錦清隆(春日野) - 止め鋏常ノ花寛市(出羽海):現役中に師匠栃木山守也が亡くなり、二枚鑑札で部屋を継承していたため、一門代表として常ノ花が止め鋏を入れた。
- 松登晟郎(大山) - 止め鋏前田山英五郎(高砂):引退当初は年寄・振分を借株で襲名したが、師匠高登渉が松登の引退相撲直前に亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として前田山が止め鋏を入れた。
- 琴櫻傑將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏佐賀ノ花勝巳(二所ノ関):引退当初は年寄・白玉を襲名したが、直後に師匠琴錦登が亡くなり、部屋を継承したため、一門代表として佐賀ノ花が止め鋏を入れた。
- 輪島大士(花籠) - 止め鋏若乃花幹士(二子山):師匠大ノ海久光が輪島に花籠部屋を譲った後、輪島の引退相撲の直前に亡くなったため、花籠部屋の兄弟子に当たる初代若乃花が止め鋏を入れた。
師匠の退職・廃業
[編集]- 前田山英五郎(高砂) - 止め鋏朝潮太郎:入門時の師匠。前田山が大関の時に廃業し、二枚鑑札で継承させていたため、本名の薦田長吉。引退相撲が行われた当時健在のため、師匠として止め鋏を入れた。
- 佐賀ノ花勝巳(二所ノ関) - 止め鋏不明:現役中に先代師匠玉ノ海梅吉の廃業により、二枚鑑札で部屋を継承していた。
- 星岩涛祐二(陸奥) - 止め鋏豊山勝男(時津風):師匠星甲良夫の停年退職と共に引退し、部屋を継承していた。師匠は健在だったが、一門代表として豊山が止め鋏を入れた。
- 琴ノ若晴將(佐渡ヶ嶽) - 止め鋏琴櫻傑將:相撲協会を停年退職していたため、本名の鎌谷紀雄。師匠琴櫻の停年退職と共に引退し、部屋を継承していた。
- 潮丸元康(東関) - 止め鋏高見山大五郎:相撲協会を停年退職していたため、本名の渡辺大五郎。師匠高見山の停年直前に引退、小野川を一時襲名後、停年退職と共に部屋を継承していた。
- 土佐ノ海敏生(立川) - 止め鋏藤ノ川武雄:入門時の師匠で11代伊勢ノ海親方。相撲協会を停年退職していたため、本名の森田武雄。当初は藤ノ川が協会在職中の2011年5月場所後に開催される予定だったが、大相撲八百長問題の影響で2012年1月場所後に延期されていた(藤ノ川の停年は2011年9月場所後)。12代伊勢ノ海の師匠北勝鬨準人も鋏を入れたが、後述する高見盛のように新旧師匠2人掛かりの止め鋏ではなく、別々に鋏を入れる形式であった。
- 高見盛精彦(振分) - 止め鋏高見山大五郎:入門時の師匠で12代東関親方。高見山の退職からは約4年経過していた。止め鋏の際は先に当代師匠潮丸元康が半分ほど鋏を入れ、高見山が残りを切り落とすという流れで行われた。また断髪終了直後には高見山と潮丸が同時に土俵に上がり、高見盛と3人で四方に礼をする演出がなされた。
- 蒼国来栄吉(荒汐) - 止め鋏大豊昌央:相撲協会を退職していたため、本名の鈴木栄二。師匠大豊の停年2日前に引退し、部屋を継承していた。
師匠の疾病に伴う欠席
[編集]二枚鑑札・引退直後の部屋継承などに伴う師弟関係の消滅
[編集]- 双葉山定次(時津風) - 止め鋏 双川喜文:本来は双川喜一(喜文の父)が止め鋏を入れる予定だったが、体調を崩していた為子息の喜文が止め鋏を入れた[5]。双川喜一は大分県警察部で部長を務め、双葉山を立浪部屋に入門させた人物であり、四股名の由来ともなった。入門時の師匠緑嶌友之助も鋏を入れたが、喜文が止め鋏を入れるに至った経緯は不明とされる。一方で喜一が止め鋏を入れたとする報道もある[6]。
- 佐田の山晋松(出羽海) - 止め鋏 出羽ノ花國市(武蔵川):佐田の山現役時代は師匠だったが、引退と共に部屋を継承させ、出羽海から武蔵川になった。
- 金剛正裕(二所ノ関) - 止め鋏 十勝岩豊(湊川):金剛の現役中に師匠佐賀ノ花勝巳が亡くなり直後に後継者が決まらず、十勝岩が暫定的に二所ノ関を襲名して、部屋を継承していた。後継者に正式決定した金剛の引退と同時に、十勝岩は名跡を譲り湊川に戻った。
- 白鵬翔(宮城野) - 止め鋏 竹葉山真邦(間垣):白鵬現役時代は師匠だったが、白鵬引退後、自身の停年・再雇用と共に部屋を継承させ、宮城野から間垣になった。
- 照ノ富士春雄(伊勢ヶ濱) - 止め鋏 旭富士正也(宮城野):照ノ富士現役時代は師匠だったが、自身の停年・再雇用と共に部屋を継承させ、伊勢ヶ濱から宮城野になった。
引退力士本人の希望
[編集]- 名寄岩静男(春日山) - 止め鋏双葉山定次(時津風):双葉山は名寄岩の元兄弟子。引退時所属していた立浪部屋は羽黒山政司が継承していたが、止め鋏は双葉山が入れた。
- 孝乃富士忠雄(年寄襲名なし) - 止め鋏北の富士勝昭(陣幕):孝乃富士の現役晩年に、北の富士は千代の富士貢に九重部屋を譲って、九重から陣幕となった。断髪式当時に、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、当代師匠以外の年寄が止め鋏を入れることは当時極めて異例だったが、孝乃富士自ら「止め鋏は前師匠の陣幕親方に入れて欲しい」と希望し、九重・陣幕が共に了承したことから実現した。
- 光法賢一(安治川) - 止め鋏竹葉山真邦(熊ヶ谷):光法の前師匠(入門時の師匠は廣川泰三)。光法の現役晩年に、金親和憲に部屋を譲って、宮城野から熊ヶ谷となった。前述の孝乃富士同様に断髪式当時、師匠が健在かつ協会在職中でありながら、当代師匠以外の年寄が止め鋏を入れることとなった(その後2010年12月に名跡を再交換して竹葉山が師匠に復帰)。
- 魁聖一郎(友綱) - 止め鋏魁皇博之(浅香山):魁聖の元兄弟子。引退後、現役時代に所属していた大島部屋(引退直前に友綱部屋から改称)から浅香山部屋に転籍しており、止め鋏は同部屋師匠である魁皇が入れた。現役引退時の師匠が断髪式施行時点で協会在職中でありながら、現役時に師弟関係を持ったことがない年寄が止め鋏を入れる珍しいケースとなった(上述の孝乃富士及び光法はいずれも現役時代に師弟関係を持ったことがある年寄が止め鋏を入れた)。なお、引退時の師匠である旭天鵬勝(大島)は止め鋏直前に鋏を入れたが、入門当初の師匠である魁輝薫秀は欠席したと見られる。
- 松鳳山裕也(年寄襲名なし) - 止め鋏若嶋津六夫(荒磯):松鳳山の入門時の師匠。松鳳山が引退する直前の2021年12月に二所ノ関部屋を玉乃島新に継承させ、名称も放駒部屋に変更していた。
- 宝富士大輔(桐山) - 止め鋏旭富士正也(宮城野):宝富士の入門時の師匠であり、かつ同じ青森県出身。宝富士が引退する直前の2025年7月に部屋を継承していた当代師匠照ノ富士春雄が「先代が止め鋏を入れた方がいい」と提案し、宝富士自身も賛同したとされる。
師匠の不祥事
[編集]- 時津海正博(時津風) - 止め鋏豊山勝男:入門時の師匠。相撲協会を停年退職していたため、本名の内田勝男。時津風部屋力士暴行死事件により当時の師匠双津竜順一に解雇処分が下り、関係者などの協議の結果、時津海が後継者に推されたことから急遽引退し部屋を継承していた。断髪式当時、双津竜は愛知県警に傷害致死容疑で逮捕されていたため、物理的にも倫理的にも出席不可能となっていた。尚、当時時津風部屋には部屋付きの年寄が蔵玉錦敏正(錦島)・蒼樹山秀樹(枝川)の2名が在職していたが、当時既に協会を退職していた豊山が止め鋏を入れるに至った経緯は公にされていない。
- 豊ノ島大樹(井筒) - 止め鋏土佐豊祐哉(時津風):豊ノ島の元弟弟子。引退時の師匠は時津海正博だったが、引退から断髪式開催までの2年の間に、時津海が2回に亘り新型コロナウイルス対応ガイドライン違反を犯したことで退職、土佐豊が部屋を継承していた。
- 石浦鹿介(間垣) - 止め鋏旭富士正也(伊勢ヶ濱):引退後、弟弟子である北青鵬の暴行問題により、引退時の師匠である白鵬翔(宮城野)が監督責任を問われ、事実上の師匠剥奪処分により宮城野部屋は伊勢ヶ濱一門預かりとなり、所属力士と共に伊勢ヶ濱部屋に転籍していた。止め鋏は移籍先の伊勢ヶ濱部屋の師匠である旭富士が入れた。なお、断髪式には旧宮城野部屋関係者も出席し、白鵬及び入門時の師匠である竹葉山真邦も鋏を入れていた[7]。
引退相撲を伴わない断髪式
[編集]部屋主催の断髪式
[編集]関取に30場所以上在位した力士は、両国国技館にて引退相撲を行うことができるが、この条件を満たさずに引退した力士は、国技館の大広間等を借りたり、部屋の千秋楽後の打ち上げパーティーのプログラムに組み込んだりして、引退相撲を伴わない断髪式を行うケースが一般的とされる(後者は主に関取在位歴がない力士の場合)。この条件を満たした上で引退し年寄を襲名した力士の中にも、経費の問題などから、断髪式のみを行うケースも多く見られる。幕下以下の力士は原則、大銀杏を結えないが、断髪式では大銀杏が結える。
このような形式で土俵以外で断髪式を行う場合は、女性も出席して鋏を入れることができる。
2000年代以降、引退相撲を伴わない断髪式においても、国技館の土俵を使用するケースも多々見られる。
その他、特殊な形式で行われた断髪式に、次のような例も存在する。
- 元大関・把瑠都は、引退相撲にすると観覧チケットが高価になってしまうという考えから「公開形式の断髪式」(引退相撲から関取衆の取組を省略)という方法を実施した。
- 元小結・宮錦(のちの年寄・芝田山)は引退直後、翌年の職務分掌で勝負検査役(現・勝負審判)に抜擢されることが決まったため、引退相撲を行わず、急きょ高砂部屋で断髪式を行った。
- 元幕内・常の山は「ここが私の原点である」との理由から出羽海部屋の稽古土俵で断髪式を行った。
- 元幕内・鏡桜は2020年7月場所以降休場を続け、2021年9月場所では番付外に陥落(幕内在位経験者としては昭和以降初のケースとされた)し、前相撲に復帰することなく2023年3月26日付で引退したが、その間の2021年7月21日付で所属していた鏡山部屋が閉鎖され、伊勢ノ海部屋へ転属した。断髪式は2023年6月10日に両国国技館の大広間で行われたが、止め鋏は当代師匠北勝鬨準人(年寄伊勢ノ海)ではなく、入門当時の師匠多賀竜昇司(年寄鏡山)が入れた。
- 元十両・華王錦は2021年3月場所をもって引退したが、その直後に所属していた東関部屋が八角部屋への吸収合併のため閉鎖された。その約2か月後の同年5月に旧東関部屋(2018年1月まで使用していた建物)の大部屋で断髪式を行い、当代師匠高見盛精彦も出席したが、止め鋏は入門当時の師匠高見山大五郎が入れた[注釈 5]。
- 元十両・梅の里は2001年1月場所限りで引退したが、断髪式には当時の師匠富士錦猛光が病気により出席できず、当時部屋付きの錦戸親方で梅の里の実兄でもある水戸泉政人が止め鋏を入れた。当時、水戸泉も現役を引退して4ヶ月しか経っておらず、自身の引退相撲も終えていなかったため、髷が残った年寄が止め鋏を入れるという一見不思議な写真が相撲誌に掲載された。
- 元十両・琴岩国は2004年9月場所10日目の取り組みを最後に引退したが、断髪式は部屋の稽古土俵で行われ、上述梅の里と同様の理由で止め鋏は当代師匠琴櫻傑將ではなく、当時現役だった兄弟子・琴ノ若晴將が入れた[注釈 6]。
- 元・幕下で弓取り力士だった千代の花は、2011年1月場所千秋楽を最後に引退したが、当日まで国技館・打ち上げパーティー会場で弓取りを行い、直後に師匠千代の富士貢の止め鋏による断髪式を行った。
- 2016年10月に春日山部屋の名跡継承騒動に伴う師匠辞任勧告が生じ、2016年10月19日に当代師匠濵錦竜郎がそれを受諾して春日山部屋の閉鎖が決定した際は、これを受けて所属力士23人中12人が日本相撲協会へ引退届を提出し、保留期間を経て同年11月場所終了後の11月30日に12人全員の引退届が正式に受理された。同年12月23日には川崎市内のホテルにて、上述12人とは別に引退の意向を表明した2人を加えた力士14人の合同断髪式が行われた[8]。当該14人は春日山部屋閉鎖に伴い、登録上追手風部屋(濵錦の出身部屋)の預り弟子となっていたものの、止め鋏は当代師匠大翔山直樹ではなく春日山部屋の前師匠濵錦で、しかも14人もの多人数の断髪式を同時に行うという、異例尽くしの断髪式としてスポーツ紙各社に報道された。
有志による断髪式
[編集]師匠(もしくは角界関係者)と喧嘩別れをしたり、不祥事を起こした(もしくは巻き込まれた)りしたことを理由に引退した場合、師匠に断髪式の開催及び出席を拒まれ、師匠以外の有志に断髪式を開催してもらい、止め鋏を入れてもらうケースもある。以下に過去の実例を示す。
- 1954年9月場所14日目に引退し、年寄・錦戸を襲名した第40代横綱・東富士は、錦戸の年寄株を双見山又五郎が所有していたことを知らずに襲名してしまったために立浪から苦情がつくなど、一門間での争いに巻き込まれたことを理由に、1954年12月に廃業した。人柄を惜しんだ双葉山定次(当時の年寄時津風)が角界に残れるよう便宜を図るが、一門同士の隔たりが大きかった時代もあって、双葉山をもってしても叶わず引退相撲も行われなかった。1955年7月7日、プロレスに転向して間もない時期にサンケイホールで行われ、止め鋏は同様に力士を廃業してプロレスラーとなっていた力道山光浩が入れたとされる[9]。
- 1975年に勃発した二所ノ関部屋の後継者問題がこじれ、押尾川部屋への移籍を認められなかったことを不服として、1976年9月場所後に引退してプロレスに転向した元幕内・天龍は、それから間もなく入門した全日本プロレスの興行で断髪式を行った。止め鋏は全日本プロレスの社長だったジャイアント馬場が入れた。奇しくもその会場は、旧両国国技館の日大講堂であった。この断髪式はプロレスファンに今一つ理解が得られなかったようであり、2階席の後方から野次が飛んだという。
- 1987年11月場所後の12月31日、当時の師匠安念山治らと衝突、部屋を飛び出したまま廃業した第60代横綱・双羽黒の断髪式は「北尾光司君を励ます会」という名目で、1988年の3月上旬に東京都内のホテルで行われた。3月場所の直前ということもあり、師匠を初め大相撲関係者は誰一人出席せず、止め鋏は双羽黒の実父が入れた。
- 1997年9月場所後、同じく師匠隆の里俊英(13代鳴戸)と衝突し、失踪したまま引退届を提出した元幕内・力櫻の場合、断髪式は「力櫻断髪の会」という名目で、親しい関係者有志がそれぞれ集まり、止め鋏は小錦八十吉(当時の年寄佐ノ山)が入れた。
- 2006年9月場所中に対戦相手(勢翔太)に暴行を加え当時の師匠琴ノ若晴將に引退を勧告された元十両・琴冠佑の断髪式は同年10月7日に中央区の銀座東武ホテルで行われたが、止め鋏は引退後の勤務先の社長が入れた[10]。角界関係者は寺尾常史(年寄錣山)及び他1名が出席したとされる。
- 2008年8月に大麻取締法違反の疑いで逮捕(起訴猶予)され解雇となった元幕内・若ノ鵬の断髪式は2009年2月1日に行われたが、こちらにも師匠二代目若乃花幹士を初め大相撲関係者は誰一人も出席せず、止め鋏を入れた人物も不明とされる。
- 2021年5月場所後に引退した元十両・高立は、当初は「右肩の負傷で2020年7月場所後に手術を受けたが、軟骨が消失したため一般人と肩がぶつかるだけでしびれる程の状態となり、手術後も残った右肩の痛みが限界に達していた」ことを引退の理由としていた[11]。しかし「週刊新潮2023年6月15日号」は、2021年に当時の髙立の妻が、木瀬部屋の幕下力士(高立の弟弟子)と不貞行為に及んだトラブルを報じた上で、負傷に加えて、当該被害により木瀬部屋に留まる気力を失くしたことを、高立の引退理由とした。不貞行為発覚後の師匠肥後ノ海直哉及び加害力士の対応に、高立が不信感を顕にしたことで師弟関係が悪化したとされ、2021年12月4日に金沢市の石川県立武道館屋内相撲場で開催された断髪式には所属していた木瀬部屋関係者の出席は無く、止め鋏は同武道館の館長が入れた旨が、翌2021年12月5日付の北國新聞で報じられた。
- 2021年7月場所中に大麻を使用したとして解雇となった(後に書類送検・不起訴)元幕内・貴源治の断髪式は同年10月31日に行われたが、止め鋏は貴闘力忠茂が入れた。これは同年9月10日にアップロードされた貴闘力のYouTubeチャンネルに貴源治が出演した際、貴源治の断髪式を貴闘力が手配する意向を示し[12]、それが実現する形となった。当日の様子は二子山部屋の元幕下・悟道力浩司のTwitterアカウントに公開されたが、元大関・小錦八十吉(タレント・KONISHIKI)も出席したとされる。
- 2023年5月場所前に引退した元関脇・逸ノ城は、現役末期に師匠である湊富士孝行(年寄湊)と師弟関係が修復不可能になるまで悪化したとされ、翌2024年2月11日に開催された断髪式には鶴竜力三郎(年寄音羽山)や大関・霧島鐵力など角界関係者も出席したものの、所属していた湊部屋関係者の出席は無く、止め鋏は母校・鳥取城北高校相撲部総監督で同校長の石浦外喜義が入れた[13]。
その他、角界とのトラブルや不祥事がなかった(公に確認されなかった)にもかかわらず、日本相撲協会の協会員以外の人物が止め鋏も入れたケースもある。以下にその実例及び止め鋏を入れた人物を示す。
- 元幕内・大日ノ出(止め鋏田中英壽:当時大日ノ出の母校日本大学の相撲部で監督を務めていた)
- 元十両・魁道(止め鋏実父)
- 元十両・德真鵬(止め鋏宮田淳:德真鵬の母校朝日大学理事長)※稀勢の里寛(年寄荒磯)・大道健二(年寄阿武松)など角界関係者も出席。
- 元小結・臥牙丸(止め鋏飯田稔:後援会長)※白鵬翔(年寄宮城野)など角界関係者も出席したが、所属していた木瀬部屋は力士の新型コロナウイルス感染のため部屋ごと欠席を余儀なくされた。
- 元幕内・磋牙司(止め鋏栗原大介:磋牙司の母校飛龍高等学校相撲部監督)※角界関係者は夏巡業中のため欠席。
- 元小結・千代大龍(止め挟松浪健四郎:千代大龍の母校日本体育大学理事長)※鶴竜力三郎(年寄鶴竜)など角界関係者も出席したが、所属していた九重部屋は合宿中のため部屋ごと欠席。
尚、不祥事を起こして引退した場合でも、力士時代の功績を考慮し、師匠に通常の断髪式を開催して貰い、止め鋏も入れて貰えるケースもある。以下にその実例及び引退理由(不祥事の内容)を示す。
断髪式を行わずに髷を切った例
[編集]力士のシンボルでもある髷を切るということは力士でなくなることを意味するが、日本相撲協会と袂を分かったり現役生活の続行を断念したりする決意を明示すべく、断髪式を経由せず力士本人が自主的に髷を切るケースも見られる。しかし、自主的に髷を切る行為により直ちに引退・廃業が成立することはなく、髷を切っても引退届が提出されていない場合は、現役力士を続行する権利は残り、実際に自主的に髷を切ったものの、引退届が提出されず本場所に帰参して、後に関取に昇進した例も多々存在する。
引退と同時期の自主断髪
[編集]- 1923年1月、26代横綱・大錦は三河島事件が自らの手で解決できなかったことに責任を取る意味で、その手打ち式の最中に別室で髷を切った。同時に大錦は相撲界を去ることを表明した。
- 1932年1月、関脇・天竜及び大関・大ノ里らは春秋園事件で相撲協会に対し改革を訴えたが、協会が拒否したため、天竜の主導で事件に参加した関取48人及び取的24人のうち、関脇・出羽ヶ嶽を除く全員が髷を切った。大半の力士がそのまま正式に脱退(廃業)したが、後述の通り、22名は事件から1年後の1933年1月場所に帰参した。
- 1950年9月場所前に突然廃業した関脇・力道山も断髪式は行わず、自ら髷を切った。師匠玉ノ海梅吉との金銭トラブルもあったとされている