徳田球一
| 徳田 球一 とくだ きゅういち | |
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1952年撮影 | |
| 生年月日 | 1894年9月12日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1953年10月14日(59歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 日本大学専門部法律科 |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 |
(日本共産党→) (労働農民党→) 日本共産党 |
| 配偶者 | 徳田たつ |
| 子女 | 長男・尚[注釈 1] |
| 親族 | 矢野酉雄(参議院議員、妹克子の夫)[2] |
| 在任期間 | 1945年12月3日 - 1953年10月14日 |
| 選挙区 |
(旧東京都第2区→) 東京都第3区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1946年4月11日 - 1950年6月27日[3] |
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日[4])は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]沖縄県国頭方名護間切(現在の沖縄県名護市)で、鹿児島の豪商[注釈 2]の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる[1][5]。家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。母方の祖母は高利貸しと泥藍売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった[1][6]。
旧制沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)[注釈 3]卒後、医師を目指して旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)に入学するも差別的な扱いに反抗し、経済的な事情もあって退学。1917年(大正6年)2月に上京し、逓信省東京貯金局で働きながら日本大学専門部法律学科の夜間部に通った。1918年米騒動に参加し、山川均のもとへ出入りするようになる[1][5][6][7]。1920年(大正9年)3月に日大を卒業した後、判事検事登用試験に合格し[6]、翌年に弁護士として開業している[6]。
ソ連との関わり・党再建活動・入獄
[編集]1920年に日本社会主義同盟に参加[5][6]。1921年(大正10年)同年ソビエト連邦を訪問、イルクーツクで開かれた極東諸民族大会に出席した[6][5][7]。1922年(大正11年)に帰国後、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加し、執行委員に選出される[6][5][7]。翌1923年(大正12年)に一斉検挙で逮捕され、第一次共産党は解党を強いられるが、コミンテルンによって党再建の責任者に任命される[6]。1926年(大正15年)2月にモスクワで開かれたコミンテルン会議に出席。1927年(昭和2年)に豊多摩刑務所で受刑した後、再びソ連に渡り、27年テーゼを策定した[6]。
1928年(昭和3年)の第1回普通選挙に労働農民党から出馬(福岡第4区)したが落選(定数4で11人中9位)[8]、直後の2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる[5][6]。懲役10年の刑を受け、一時は1941年(昭和16年)秋頃に出所できる見込みがあったが、同年5月、治安維持法改正による予防拘禁制度が発足。転向しない者は刑期終了後も刑務所内に設けられた拘禁所で拘禁をすることが可能となり