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強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。

特に日本の平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷・幕府に対して行った訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す[1]。

寺社勢力による強訴

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養老律令以降は僧尼令により僧侶が直接訴訟することは禁じられており、然るべき手順を踏む必要があったが、律令制が終焉を迎える8世紀ごろからは僧尼令の規定も形骸化し、寺社勢力は朝廷や幕府に自らの要求を飲ませるため、武装した衆徒(僧兵など)や神人を集団で向かわせるようになった。

自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た[2]。

強訴は「神威」として神木や神輿を担いで向かうことから、止めることは憚られた。礫による実力行使も行われたが、天狗礫(神意)として正当化するなどしていた。

特に「南都北嶺」と並び称された奈良の興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる[4]。

『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話(天下三不如意)があり、延暦寺の山法師(僧兵)による強訴は、氾濫を繰り返す鴨川(自然)やサイコロの目(確率)と同じく、天皇ですら制御できないものとして嘆いたものである。

興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった[5]。

また、伊勢神宮でも禰宜以下の神人が祭主などを無視して直接京都に訴え出ることが10世紀以降しばしば行われ、鎌倉時代には「神宮大訴」と呼ばれていたが、これも強訴・越訴の一種である[6]。

強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。これ以降の日本では朝廷、武家、寺社勢力が権力を三分することになる。

寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。一方で武士にも仏教が浸透し、複雑な関係となった。

年表

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和暦 西暦 月日
(旧暦)
寺社 内容 出典
安和元 968年 7月15日 興福寺 寺田を巡る東大寺との抗争 大宮文書
天元4 981年 12月15日 延暦寺 円仁派による法性寺座主・余慶(円珍派)の罷免要求 扶桑略記
寛和2 986年 2月26日 興福寺 備前国鹿田荘における備前守・藤原理兼の濫行を訴える 日本紀略
7月13日 興福寺 大和守・源頼親の罪科を問う 一代要記
寛弘元 1004年 2月26日 摂津住吉社 神人を負傷させた摂津守・藤原説孝を訴える 御堂関白記
3月24日 宇佐八幡宮 大宰権帥・平惟仲の非法を訴える。6月8日、惟仲の執務停止 日本紀略
寛弘3 1006年 7月13日 興福寺 藤原道長に国内の田畑損亡を愁訴 日本紀略
寛仁元 1017年 6月22日 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明) 大宮文書
万寿4 1027年 4月26日 延暦寺 法成寺の尼戒壇設立に抗議 小右記
長元元 1028年 10月13日 金峰山 大和守・藤原保昌の苛政を訴える 左経記
長暦3 1039年 2月18日 延暦寺 藤原頼通に明尊(寺門派)の天台座主補任を抗議。3月16日、僧徒が頼通の高陽院邸に放火 扶桑略記
治暦2 1066年 1月7日 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明) 大宮文書
承暦3 1079年 6月2日 延暦寺 祇園別当職の譲補を要求 為房卿記
永保元 1081年 3月25日 多武峰 興福寺の濫行を訴える 帥記
永保2 1082年 3月25日 熊野 尾張国館人の熊野神人殺害に抗議 扶桑略記
応徳2 1085年 7月20日 興福寺 寺家荘園の押領を訴える 為房卿記
寛治2 1088年 2月1日 宇佐八幡宮 宇佐神輿を射たとして、前大宰大弐・藤原実政を訴える。11月30日、実政を伊豆に配流 中右記
寛治6 1092年 9月18日 日吉社 藤原為房・仲実の下人による神人暴行を訴える。為房を阿波権守に左遷、仲実を安芸に配流 中右記
寛治7 1093年 8月26日 興福寺 近江守・高階為家による春日神人暴行を訴える。為家を土佐に配流 後二条師通記
嘉保2 1095年 10月24日 延暦寺 美濃守・源義綱の流罪を要求(初の日吉神輿入洛)。中務丞・源頼治が防ぎ、僧徒を射殺(頼治は4年後に佐渡へ配流) 中右記
康和4 1102年 5月8日 延暦寺 藤原忠実に仁源の法成寺長吏補任を要求 中右記
8月5日 興福寺 衆徒が蜂起して権別当・範俊の房舎を破壊。8月12日、朝廷は宇治橋を壊して衆徒入京を阻止 中右記
9月28日 東大寺 同寺八幡の神輿を奉じて入洛。興福寺の濫行を訴える 中右記
康和5 1103年 3月25日 興福寺 藤原忠実に維摩会竪者の改補を要求 中右記
7月22日 延暦寺 大衆が法皇御所に参集(理由不明) 殿暦
長治元 1104年 2月15日 石清水八幡宮 高信の修理別当補任に反対。2月22日、朝廷が高信の補任を撤回 中右記
6月19日 越前気比社 国守・高階為家の非法を訴える 中右記
長治2 1105年 1月1日 延暦寺 祇園神輿を奉じて入洛。円僧寺探題・証観の罷免を要求。1月2日、朝廷認可により神輿帰座 殿暦
6月23日 日吉社・祇園社 検非違使・中原範政の兵が祇園社神人と闘争したことに抗議 中右記
8月29日 延暦寺・日吉社 筑前大山寺竈門宮で日吉社神人を殺害した大宰権帥・藤原季仲の罷免を要求。10月28日、季仲罷免 中右記
10月30日 延暦寺 藤原季仲の断罪を要求。12月29日、季仲を周防に配流 中右記
天仁元 1108年 3月23日 延暦寺・園城寺 東寺の僧が尊勝寺灌頂阿闍梨となった事を咎める 中右記
4月1日 延暦寺 大衆数千人が神輿を奉じて入洛。朝廷、源平二氏の兵を派遣して防御 中右記
天永3 1112年 3月13日 延暦寺 尊勝寺灌頂阿闍梨の事を訴える 中右記
10月18日 下総香取社 藤原忠実に国司の非法を訴える 殿暦
永久元 1113年 閏3月20日 興福寺 清水寺別当・円勢(延暦寺系)の罷免を要求。閏3月22日、円勢に代えて永縁(興福寺系)を補任 殿暦
閏3月29日 延暦寺 大衆数千人が清水寺の房舎を破壊して、法皇御所に参集。興福寺衆徒による祇園社神人暴行を訴える。白河法皇、権少僧都・実覚を流罪として延暦寺を慰撫 殿暦
4月5日 興福寺 裁定の撤回を求め、京中で延暦寺大衆と対峙。4月10日、朝廷が両寺に勅命。僧徒が兵仗を帯びて上京する事を禁止 中右記
4月29日 興福寺 延暦寺攻撃を企図。朝廷、平正盛・平忠盛・源重時を宇治に派遣。4月30日、合戦となり衆徒追却(永久の強訴) 中右記
永久2 1114年 3月30日 興福寺 金峰山別当の不法を訴える 中右記
永久4 1116年 8月13日 興福寺 讃岐守・藤原顕能を訴える 殿暦
10月16日 園城寺 法勝寺を訴える 殿暦
永久5 1117年 6月1日 興福寺 春日神人を暴行した丹波雅康を訴える 殿暦
保安元 1120年 8月22日 興福寺 和泉守・藤原雅隆による春日神人暴行を訴える。雅隆、罷免 中右記
保安4 1123年 7月18日 延暦寺 越前守・平忠盛が逮捕した悪僧の釈放を要求。忠盛と源為義に撃退され、神輿を棄てて逃走。9月12日、白河法皇、神輿を修造して日吉社に返還 百錬抄
保延3 1137年 2月9日 興福寺 権僧正・定海が権僧正・玄覚を超えて僧正に任じられたことに抗議。2月16日、定海に代わり、玄覚を僧正に任命 中右記
保延4 1138年 4月29日 延暦寺 加茂社領下司の日吉祭参加停止を要求。朝廷認可により帰山の途中、加茂神人の家宅を破壊 百錬抄
天養元 1144年 11月6日 興福寺 藤原頼長に荘園検注を実施した大和守・源忠清を流罪にするよう要求 台記
久安3 1147年 4月7日 延暦寺 加賀白山社を末社にする事を要求。5月4日、鳥羽法皇、認可。 台記
6月28日 延暦寺 祇園社頭の闘乱で宝殿が破損した事につき、平忠盛・清盛父子の処罰を訴える(祇園闘乱事件)。7月24日、清盛、贖銅三十斤 本朝世紀
久安4 1148年 8月26日 興福寺 入京を図る(理由不明)。27日、藤原忠実が慰撫 台記
久安6 1150年 8月5日 興福寺・春日社 同寺別当の長期空席を訴える。16日、隆覚を別当に補任 台記
久寿元 1154年 9月7日 延暦寺 加賀国住人・林大夫光家が赦免された事に抗議。光家、再び禁固 兵範記
永暦元 1160年 10月12日 延暦寺 筑前竈門宮・安楽寺の焼亡、および菅原貞衡の事を訴える 百錬抄
応保元 1161年 10月12日 延暦寺 日吉神輿を奉じて入洛、菅原資成と菅原貞衡の処分を訴える。17日、資成配流、貞衡解官 百錬抄
応保2 1162年 閏2月1日 延暦寺 覚忠の天台座主補任を拒絶 百錬抄
長寛元 1163年 3月3日 延暦寺 園城寺の僧を比叡山で受戒させる事を要求。5月22日、園城寺に延暦寺での受戒を命令 山門日吉活套記
5月29日 興福寺 延暦寺を興福寺の末寺とし、園城寺の僧を興福寺で受戒させる事を要求。6月9日、延暦寺大衆が園城寺を攻撃し、堂塔房舎を焼く 百錬抄
永万元 1165年 8月9日 延暦寺・興福寺 8月7日の二条天皇葬儀において墓所に掛ける寺額の順序を巡る争論により、延暦寺大衆が清水寺を焼き討ち。興福寺衆徒も入京するが、朝廷が制止 顕広王記
10月27日 興福寺 天台座主・俊円の流罪を要求、28日、俊円配流 百錬抄
仁安2 1167年 5月13日 興福寺 前別当・恵信の流罪を訴える。25日、恵信を伊豆へ配流 古今最要抄
嘉応元 1169年 12月23日 延暦寺 尾張国目代が美濃国平野荘住人を暴行した事件につき、尾張知行国主・藤原成親の処罰を訴えて内裏に乱入(嘉応の強訴)。24日、成親を備中に配流。目代・政友は禁獄。28日、事件を処理した平時忠・平信範に奏事不実があったとして両名を配流。成親召還 玉葉
嘉応2 1170年 1月7日 延暦寺 裁定逆転に抗議。朝廷、武士を鴨河原に派遣して防御。2月6日、時忠・信範召還、成親解官。4月28日、成親還任 玉葉
承安元 1171年 9月21日 興福寺 前下野守・信遠の処罰および末寺荘園50余箇所の立券を求める。松殿基房が慰撫 玉葉
承安2 1172年 12月21日 興福寺 平重盛の家人による春日神人殺害を訴える。朝廷、武士を派遣して制止 玉葉
承安3 1173年 7月12日 延暦寺 6月25日の興福寺による多武峰攻撃に対して報復を企図。朝廷、延暦寺を慰撫。10月9日、多武峰襲撃の首謀者・覚輿を播磨に配流 玉葉
11月3日 興福寺 覚輿の宥免および天台座主の流罪を訴える。後白河法皇、武士を宇治に派遣して制止。11日、東大寺・興福寺以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の没官を命じる 玉葉
治承元 1177年 3月27日 加賀白山社 白山神輿を奉じ、加賀国目代・藤原師経の不法を訴える(白山事件)。30日、師経を備前に配流 玉葉
4月13日 延暦寺 日吉社・白山社の神輿を奉じて入洛、加賀守・藤原師高の流罪を訴える(兵の放った矢が神輿に当たる)。20日、師高を尾張に配流。5月6日、後白河法皇、