コンテンツにスキップ

峰山藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(峰山県から転送)
峰山藩
峰山の城趾、2026年
立藩年 元和8年(1622年)
初代藩主 京極高通
廃藩年 明治4年(1871年)
最終藩主 京極高陳
国 丹後国
居城 峰山陣屋[1]

峰山京極家
石高 13000石→11600石→11100石
種類 外様大名[注釈 1][3]
格式 無城(陣屋)
江戸城控間 菊間(文化年間)[4][2]
極位極官 従五位下
テンプレートを表示

峰山藩(みねやまはん)[注釈 2]は、丹後国に1622年(元和8年)から1871年(明治4年)まで存在した藩。宮津藩主・京極高知の婿養子京極高通を藩祖とし、以降も峰山京極家が代々藩主を務めた。藩庁は峰山陣屋(現在の京丹後市峰山町)に置いた。幕末の石高は11100石余である。

峰山藩の歴史は、丹後国主であった京極高知の死後、その養子であった京極高通に峰山1万石が分知されたことに始まる。立藩時には1万3000石であった峰山藩領は、新藩主相続時の分知が続き、1万1100石に落ち着いた。外様大名ではあったが、譜代大名並の待遇を受けており、歴代藩主のなかには大坂加番や若年寄などの幕府職をつとめるものもいた。藩内では丹後ちりめんの制作が奨励され、目立った百姓一揆が起こらず[5]、藩政時代を通じて比較的安定していた。廃藩置県によって峰山藩は廃藩となり、藩領の大半は峰山県、ついで豊岡県、京都府に統合された。

藩史

[編集]

成立と藩領固定まで

[編集]

京極高次の弟である京極高知は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに東軍として参戦し、翌6年(1601年)3月に丹後一国を授けられ、宮津藩12万3千石が成立した[6]。京極高知の長子が死んだ後、跡継ぎが不在であったため、朽木宣綱と高知の妹の間の子である京極高通が婿養子となっていた[7]。高通は元和2年(1616年)に、独自で武蔵国・下総国・近江国内3000石を与えられている[8]。

元和8年(1622年)に高知が病没すると、遺言により、実子の京極高三(側室の子)に田辺藩3万5千石、京極高広(正室の子)に宮津藩7万8千2百石、高通に峰山藩1万石が与えられた[7][9]。これによって、元々拝領していた3000石と合わせて1万3000石の大名となり、峰山藩が立藩した[9]。高通の峰山入封に先立ち、家老らが入国し、峰山城下町の整備が始まった[10]。藩主高通が峰山に入国を果たしたのは、元和10年(1624年)のことであった[10]。

寛永14年(1637年)より、峰山陣屋の普請が始まり、寛永16年(1639年)に完成した[11]。

寛文5年(1665年)に高通は水口城の城番を任されるも、同年に同地にて死去した[12]。高通の死後、父の病を聞き水口へ赴いていた嫡子の京極高供が、水口城の城番を引き継いだ[9]。翌6年(1666年)になり家督を京極高供が引き継いだが、遺領のうち1000石を弟京極高昌に、500石を弟京極高成に与えたため、1万1600石となった[9][13]。同年に本藩にあたる宮津藩は、藩主京極高国の親不孝のために改易となった[14]。

延宝2年(1674年)に高供が死去し、嫡子である京極高明が藩主となった[9]。高明は元禄12年(1699年)に隠居し、嫡子の京極高之が峰山藩主を継ぎ、遺領のうち500石を弟京極高重に与えたため、1万1100石となった[9][15]。

中間期

[編集]

元禄16年(1703年)、峰山藩領下総国猿島郡3村が常陸国真壁郡3村に置き換えられた(実質140石程度の加増)[16][15]。

享保5年(1720年)、絹屋佐平治が京都の西陣より帰国し、「ちりめん織」の技術をもたらしたという[17]。西陣のちりめんを参考にして、峰山独自の「丹後ちりめん」が作り出された[18]。

高之は多趣味な藩主で、『峯山旧記』には「博学多才、書に巧みにして画に神技あり」と記され、花鳥画や彫刻などの作品を残している[19]。享保8年(1723年)、京極高之が死去し、婿養子の京極高長が藩主となった[16][20]。高長は大坂の雁木坂と青屋口の在番を二度務めている[21]。延享・宝暦の頃には米価の下落によって藩財政が窮乏し、江戸への仕送り金を京阪方面で調達できなくなった[21]。そこで藩は、領内の富商・豪農に融資を頼み、翌年の納米を抵当として二千両、三千両の融資を受けた[21]。


明和2年(1765年)、京極高長が隠居し、婿養子の京極高久が藩主となった[16]。高久は、天明7年(1787年)に大番頭、天明8年(1788年)から寛政3年(1791年)まで若年寄を務めるなど、幕府の要職に就いた[16][22]。高久は幕閣から退くと、領内の政治に力を注ぎ、文化4年(1807年)には新町(のちの白銀町)を開いた[23]。

天明年間は凶作が続き、米価が暴騰した[24]。峰山藩では天明3年(1783年)に「非人札」を発行し食料を配布することで、救民にあたった[24]。天明4年(1784年)に久美浜代官所管轄の幕府領で起こった強訴では、加勢として160人を出兵している[25]。

文化5年(1808年)、京極高久が死去し、嫡子の京極高備が藩主となった[16][26]。高備は、高久の在世中から峯山にとどまって領内を巡見するなど、実質的に藩政を担っていたといわれる[26]。高備は、文化6年(1809年)に大番頭を務め、文化9年(1812年)から文政11年(1828年)まで若年寄を務めるなど、幕府の要職に就いた[27][28]。

文化7年(1810年)には讃岐国の金毘羅権現を峯山に勧請することを命じ、文化8年(1811年)に金刀比羅神社が完成した[29]。文政4年(1821年)には「御領分永続積金御仕法」という積立金の制度を設けたが、結局不成功に終わった[30][31]。

天保3年(1832年)に京極高備が隠居し、その子・京極高倍が家督を相続した[27]。しかし、京極高倍は翌4年(1833年)に死去し、弟の京極高鎮が藩主となった[27]。京極高鎮もまた、天保5年(1834年)に死去し、松平忠馮の子である京極高景が藩主となった[27]。この年、2月の江戸大火(丙午大火)では、峯山藩の江戸藩邸が全焼している[32]。

嘉永2年(1849年)、京極高景が隠居し、その子京極高富が藩主となった[33][34]。 高富は安政4年(1857年)に大番頭、文久元年(1861年)に大坂玉造口の定番となった[34]。文久3年(1863年)の天誅組の変と生野の変に際しては、久美浜代官所の依頼を受けて、それぞれ二度にわたり70人から80人の藩兵を警備に派遣したが、いずれも衝突には至らなかった[34]。慶応2年(1866年)より、京極高富は若年寄に任命された[35][36]。

明治維新と廃藩

[編集]

鳥羽伏見の戦い後、藩主の高富は新政府よりたびたび上洛の要請を受けていたが、病気を理由に家臣の派遣にとどめていた[35]。家老の辻八兵衛は江戸に下り、藩中の意志を代表して高富に恭順を説いた[37]。慶応4年(1868年)1月、西園寺公望率いる山陰道鎮撫使が来訪すると、先に到来していた宮津藩同様に、峰山城下町でも謹慎体制がとられた[35][38]。峯山藩は恭順の誓紙を差し出し、翌27日には藩士85人が一行の久美浜行きに随行した[39]。

翌2月に高富は若年寄を辞し、養子の京極高陳を上洛させて、勤皇の意を伝えたが効果はなかった[40][36][41]。ついに高富は上洛することとしたが、京都につくや謹慎処分が申し付けられた[40][41]。同年には赦免と謹慎解除がなされるも、高富は病気を理由に隠居し、高陳が藩主を継いだ[40][42][43]。

明治2年(1869年)には、版籍奉還を願い出て、6月23日に藩知事に任命された[33][44]。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により、峰山藩は廃止され、峰山県が設置された[33][45][46]。峰山県は、同年には豊岡県に編入された[45][47]。

歴代藩主

[編集]

京極家

[編集]

外様大名、石高:1万3000石 → 1万1600石 → 1万1100石

京極家墓所(常立寺:京都府京丹後市峰山町)
代 氏名 肖像 受領名[48][49] 在職期間[49] 出自[49]
1 京極高通
きょうごく たかみち
主膳正 元和8年8月12日 - 寛文5年12月24日
(1622年8月12日 - 1666年12月24日)
宮津藩主・京極高知の婿養子
朽木宣綱の次男
2 京極高供
きょうごく たかとも
主膳正 寛文6年6月14日 - 延宝2年2月28日
(1667年6月14日 - 1674年2月28日)
先代の子
3 京極高明
きょうごく たかあき
備後守・主膳正 延宝2年4月29日 - 元禄12年4月29日
(1674年4月29日 - 1700年4月29日)
先代の子
4 京極高之
きょうごく たかゆき
主膳正 元禄12年4月29日 - 享保8年2月2日
(1700年6月15日 - 1723年3月8日)
先代の子
5 京極高長
きょうごく たかなが
備後守・主膳正 享保8年4月2日 - 明和2年8月8日
(1723年5月6日 - 1765年9月23日)
先代の婿養子
村上藩主・内藤弌信の子
6 京極高久
きょうごく たかひさ
備前守・備後守 明和2年8月8日 - 文化5年4月20日
(1765年9月23日 - 1808年5月15日)
先代の婿養子
旗本・京極高庭の子
7 京極高備
きょうごく たかまさ
周防守・上総介 文化5年6月14日 - 天保3年11月20日
(1808年7月7日 - 1832年12月11日)
先代の子
8 京極高倍
きょうごく たかます
備前守 天保3年11月20日 - 天保4年12月5日
(1832年12月11日 - 1834年1月14日)
先代の子
9 京極高鎮
きょうごく たかつね
天保5年1月 - 6月23日
(1834年2月 - 1834年7月27日)
先代の弟
10 京極高景
きょうごく たかかげ
右近将監 天保5年8月16日[注釈 3] - 嘉永2年3月7日
(1834年9月17日 - 1849年3月30日)
島原藩主・松平忠馮の子
11 京極高富
きょうごく たかとみ
備中守・周防守・主膳正 嘉永2年3月7日 - 慶応4年5月28日
(1849年3月30日 - 1868年7月17日)
先代の子
12 京極高陳
きょうごく たかのぶ
備中守 慶応4年5月28日 - 明治4年7月14日
(1868年7月17日 - 1871年8月29日)
旗本・京極高紀の子

所領

[編集]

石高と領地

[編集]

峰山藩の石高変遷は以下の通り。

旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、幕末京極家時代の所領は以下のとおりである[50]。

明治初年の表高は1万1144石、実高は1万1540石であった[4][42]。明治2年の版籍奉還時の郷村帳によれば、拝領高1万1144石余に対し、拝領後の高入と新田を加えた総高は1万1652石余で、丹後国中郡20村、近江国蒲生郡2村、下総国猿島郡1村、常陸国真壁郡3村からなっていた[51]。藩領には2354軒の家があり、人口は10199人であった[51]。

藩政機構

[編集]

藩政の最高機関は年寄衆(家老団)で、峯山藩では三上・今井・辻・高木・柴崎・佐藤の六家が家老を務めた[52][53]。その下に、60石以上の藩士から選ばれる御用方(御用人)、監察・軍務を担う目付、民政を担う町奉行・郡奉行・寺社奉行などが置かれた[52][53]。

町方は町名主のもとに各町の町年寄と組頭が置かれ、村方は領内を三つに分けてそれぞれに大庄屋を置き、その下に各村の庄屋・年寄が置かれた[54]。大庄屋には苗字帯刀などが許されていた[54]。

陣屋

[編集]

戦国時代、当時丹後守護であった一色氏による奥丹後三郡の支配拠点となった吉原山城は後に入国した細川氏に受け継がれ、 峰山藩主京極氏は吉原山城のあった権現山の麓に陣屋を築き支配の拠点とした[55]。 本丸、二の丸が並ぶ山頂付近は360度の展望ができ、中郡の平野から竹野郡の海岸線までを見渡すことができる[56]。 峰山藩は明治初年の廃藩置県まで京極氏が藩主であったため引き続き明治初期まで城下町として存続した[55]。

城下町

[編集]

宝暦3年(1753年)には、不断町、横町、上町、中町、下町、藪町、出町、田町、鉄砲町、寺坂町、古殿町の11町があり、陣屋周辺から上町まで武家屋敷が並ぶ[57][55]。桜尾公園の山の麓に陣屋防御のため、鉤型に道を曲げるなどの工夫が見られる[58]。同年の『峯山明細記』によれば、峯山町の家数は298軒、人数は1547人であった[59]。

文化4年(1807年)には、京極高久によって新町が開かれ、のちに白銀町と改められた[23]。明治2年(1869年)には王政復古を記念して町名が改められ、泉町・御旅町・堺町・富貴屋町・不断町・上町・織元町・室町・呉服町・浪花町・白銀町の11町となった[60]。

江戸藩邸

[編集]
永田町の内閣総理大臣官邸。敷地の北部には、かつて峰山藩の江戸上屋敷が位置していた。

江戸藩邸は年代によって多少の変遷がある。安政2年(1855年)の記録によれば、中屋敷が西久保土取場、下屋敷が本所横川に位置していた[61]。また上屋敷は、現在の永田町、内閣総理大臣官邸敷地内北部に相当した[61]。この敷地は明治維新後、一橋徳川家、清の公使館、佐賀の旧鍋島侯爵家の所有を経ている[62]。

経済・財政・文化

[編集]

丹後ちりめん

[編集]

享保5年(1720年)、峯山の絹屋佐平治が西陣の技術をもとにちりめんの製織に成功し、不作続きの郷土の人々に織り方を教えた[18]。佐平治は西陣の問屋を通じて製品を売りさばき、これが丹後ちりめん問屋の起源となった[18]。

宝暦11年(1761年)、藩は主だった機屋10人を年行事に任じ、藩の意向を町・在の機屋に伝達させた[63]。翌宝暦12年(1762年)には機株と鑑札による営業許可制を定めて株銀を徴収し、機屋の数を統制した[64]。寛政元年(1789年)には京都の平野屋太助が峯山領のちりめんの一手引受けと為替の御用達を申し出て藩もこれを承諾し、一反ごとに藩の改印を押して銀を徴収した[65]。

幕末には粗製濫造が問題となり、藩は嘉永5年(1852年)に詳細な口達書を出して業者の自戒を促し、安政7年(1860年)には糸仲(糸問屋)を抑えて闇機の取締りを図った[66][67]。また安政4年(1857年)には、宮津藩主本荘宗秀の主導で峯山・宮津・久美浜の三領が「丹後国産会所」を京都に置き、文久元年(1861年)には「物産改良方御定法」を定めて検印制度を設けた[68]。

藩校

[編集]

文化年間(1804年 - 1818年)以前から、読書手跡稽古場と呼ばれる、藩士を教育する施設が存在していた[69]。文政末年、京極高備の治世において、藩校として整備され、「敬義堂」と呼ばれるようになった[69]。明治維新前より、男子は敬義堂への入学が義務化されている[69]。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 無城の譜代大名が詰める菊間に詰められていたことから、譜代格とみなされていたともされている[2]。
  2. ↑ 「峯山藩」ともかく。
  3. ↑ 6月や7月とする資料もある[48]。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 樋爪 1989, p456
  2. 1 2 京丹後市 2012, p81
  3. ↑ 樋爪 1989, p457
  4. 1 2 樋爪 1989, p460
  5. ↑ 京丹後市史編さん委員会 編『京丹後市の歴史〜日本の「ものづくりのふるさと」京丹後市』京丹後市役所、2012年10月31日、84頁。
  6. ↑ 峰山町 1963, p154
  7. 1 2 峰山町 1963, p160
  8. ↑ 峰山町 1963, p162
  9. 1 2 3 4 5 6 中嶋 1987, p341
  10. 1 2 峰山町 1963, p163
  11. ↑ 峰山町 1963, p166
  12. ↑ 峰山町 1963, p168
  13. ↑ 峰山町 1963, p170
  14. ↑ 峰山町 1963, p173
  15. 1 2 峰山町 1963, p190
  16. 1 2 3 4 5 中嶋 1987, p342
  17. ↑ 峰山町 1963, p192
  18. 1 2 3 峰山町 1963, p194
  19. ↑ 峰山町 1963, p195,196
  20. ↑ 峰山町 1963, p208
  21. 1 2 3 峰山町 1963, p209
  22. ↑ 峰山町 1963, p284-287
  23. 1 2 峰山町 1963, p287
  24. 1 2 峰山町 1963, p284
  25. ↑ 峰山町 1963, p294
  26. 1 2 峰山町 1963, p307
  27. 1 2 3 4 中嶋 1987, p343
  28. ↑ 峰山町 1963, p307,310,315
  29. ↑ 峰山町 1963, p307-309
  30. ↑ 峰山町 1963, p313
  31. ↑ 峰山町 1963, p314
  32. ↑ 峰山町 1963, p384
  33. 1 2 3 中嶋 1987, p344
  34. 1 2 3 峰山町 1963, p385
  35. 1 2 3 伊東 2000 ,p85
  36. 1 2 峰山町 1963, p386
  37. ↑ 峰山町 1963, p395
  38. ↑ 峰山町 1963, p400
  39. ↑ 峰山町 1963, p402
  40. 1 2 3 伊東 2000, p86
  41. 1 2 峰山町 1963, p407
  42. 1 2 峰山町 1963, p408
  43. ↑ 峰山町 1963, p409
  44. ↑ 峰山町 1963, p410
  45. 1 2 京丹後市 2012, p109
  46. ↑ 峰山町 1963, p503
  47. ↑ 峰山町 1963, p504
  48. 1 2 中嶋 1987, p341-344
  49. 1 2 3 樋爪 1989, p457-459
  50. ↑ “database(kyud) 旧高旧領取調帳データベース”. 国立歴史民俗博物館 (1990年4月). 2025年6月29日閲覧。
  51. 1 2 峰山町 1963, p411
  52. 1 2 峰山町 1963, p295
  53. 1 2 峰山町 1963, p296
  54. 1 2 峰山町 1963, p297
  55. 1 2 3 『絵図から見る峯山城下町』京丹後市丹後古代の里資料館、2006年8月、2頁。
  56. ↑ 『戦国またのぞき』cryptmeria-book、2006年8月、50頁。
  57. ↑ 『峯山藩関係資料集』京丹後市長 中山泰、2010年3月、101頁。
  58. ↑ 『絵図から見る峯山城下町』京丹後市丹後古代の里資料館、2006年8月、4頁。
  59. ↑ 峰山町 1963, p232
  60. ↑ 峰山町 1963, p412
  61. 1 2 京丹後市 2012, p84
  62. ↑ “丹後PR 永田町から”. 朝日新聞. 2003年10月4日.
  63. ↑ 峰山町 1963, p222
  64. ↑ 峰山町 1963, p220-222
  65. ↑ 峰山町 1963, p304-305
  66. ↑ 峰山町 1963, p416
  67. ↑ 峰山町 1963, p417
  68. ↑ 峰山町 1963, p418
  69. 1 2 3 工藤 2006, p654

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
(丹後国)
行政区の変遷
1622年 - 1875年 (峰山藩→峰山県)
次代
豊岡県