山本浩二
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第3回WBC日本代表監督時代 (2013年3月8日 東京ドーム) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 広島県佐伯郡五日市町(現:広島市佐伯区) |
| 生年月日 | 1946年10月25日(79歳) |
| 身長 体重 |
183 cm 82 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年4月12日 |
| 最終出場 | 1986年10月27日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
| 選出年 | 2008年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県佐伯郡五日市町(現:広島市佐伯区)出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家[1][2][3]。スカパーJSATグループ番組審議会委員。
本名および旧登録名(1974年まで、後述)は「山本 浩司(読み同じ)」[4]。
2014年から2022年まで日本プロ野球名球会理事長を務めた。
「ミスター赤ヘル」(ミスターあかヘル)の愛称で知られ、現役時代は広島東洋カープのスター選手として活躍し[5]、引退後は広島の監督を2度務め、日本代表の監督も務めた。
NPB史上、大卒で500本塁打を達成した唯一の人物で[6][7]、セ・リーグ初の外野手部門でダイヤモンドグラブ賞(現:ゴールデングラブ賞)を受賞し[8]、セ・リーグ最多記録となるダイヤモンドグラブ賞を10回受賞している。日本代表監督としては2013年のワールド・ベースボール・クラシックでベスト4まで導いた。
経歴
[編集]プロ入りまで
[編集]父は元軍人で[9]、戦後は建築関係の仕事をした[3]。母と兄二人と姉は、広島の原爆投下に遭って被爆しており、自身も被爆2世である[9]。親もカープの大ファンで[2]、親に連れられ、子供の頃から、当時の広島カープの本拠地・広島県営球場へ太田川対岸から渡し船で何度も通った[2][10]。この時代の広島の主力選手であった、エースピッチャー・長谷川良平、4番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎らのプレーを間近で見る機会に恵まれ、特に小鶴にはバッティングフォームを真似るほど憧れた[11]。
自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって[要出典]、広島市立五日市中学校から[12]、野球では全くの無名の広島県立廿日市高等学校に進学した。同校はあまりにも無名で、後の法政2年時に東京六大学リーグ戦で早稲田の4年生エース・八木沢荘六から決勝タイムリーを放って脚光を浴びた時、当時の新聞に「甘日市高校出身」と書かれた[13]。陸上部から借りてこないと9人揃わないような野球部で[13]、当然、入学入部と同時にエース・4番打者となる(県内の同期には高橋一三、小川邦和らがおり、一学年上の後原富とも対戦がある[14])。3年時には主将として夏の甲子園県予選に臨み、準決勝でエース河本和昭(のちにサンケイスワローズ1位指名を拒否)を擁する強豪広陵高等学校に、17安打を打たれ1-9で敗北し、あと一歩で甲子園に手が届く所まで勝ち進んだ。
南海ホークスの鶴岡一人監督が、大阪と広島に「ちょうちん会」という後援会を持っており[13]、広島の後援会から鶴岡に推薦があり、鶴岡が廿日市高のグラウンドに視察に訪れた[13]。鶴岡は「投手としてはダメだが、打つ方はいい。しかし、一軍で通用するのは数年かかりそう」と感じ[15]、「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧める[13]。その言葉に従い、1965年に高校卒業後、鶴岡の母校である法政大学文学部英文学科に進学した[3]。
投手として法大野球部に入部したが、1年生部員だけで70~80人いた当時の野球部の中では台頭できず