大老
大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、臨時に将軍の補佐役として置かれた最高職[1][2]。
江戸幕府においては大老と呼ばれる二系統の異なる役職があり、歴史関係の辞書においては、誰が大老に当てはまるかという議論が行われている[3]。
概要
[編集]大老は賢者として尊敬される老人や徳・位・齢が高い人を指す言葉である[4]。武家においては家中の重臣層を指して年寄・家老・宿老という言葉が用いられた。豊臣政権においては最高幹部となる五人の大名は五大老と呼ばれるが、同時代的には「五人の衆」「年寄」、いわゆる五奉行側からは「奉行」などの言葉が用いられており[5]、「大老」という言葉は使われていなかった。「五大老」の初出は江戸時代の明暦4年(1658年)に林羅山が著した『豊臣秀吉譜』である[4]。
高木昭作は徳川家康を支えた石川数正・酒井忠次・井伊直政といった大身の武将と、本多正信・本多正純といった家康側近層からの家老が江戸幕府における大老の淵源であるとしている[6]。
大老制度の成立には諸説がある。『柳営補任』では江戸時代初期の老中の上位職として「執事職」「元老」を用いており、元禄年間に成立したと見られる『諸役人系図』では「権現様御先手三人衆(井伊直政・本多忠勝・榊原康政)」「大老」の表現が用いられている[3]。現在研究で「大老」とされる人物にはこれらの人物である[1]。
寛永9年(1632年)、徳川秀忠は井伊直孝と松平忠明に将軍徳川家光の政治を補佐するように遺言した[7]。これは『寛政重修諸家譜』の直孝の項で「政事にあづかり(大政参与)」と表現されている[8]。彼らは後に老中と呼ばれる年寄衆らの老中奉書には加判しないが、年寄衆とともに臨席し、かつ上位者であった[8]。直孝は柳川一件の際にも老中より上位の立場から行動しており、将軍家光に対する助言を行っていた[9]。また日光東照宮の参拝では将軍の名代を務め、徳川家綱の元服においては加冠役を務めるなど、家臣中の最高位者としての役割を果たした[10]。その後彼らの地位は保科正之・榊原忠次・井伊直澄らに継承された[8]。『柳営補任』では彼らの地位は「執事職」と記載されている[3]。執事職と書かれた者らはいずれも老中を経験していない[11]。
『読史備考』では寛永13年(1636年)3月12日に酒井忠世が大老に就任したとしているが、1970年代以降では支持者は少ない[12]。
寛永15年(1638年)11月7日には老中土井利勝・酒井忠勝が小事への関与を免ぜられ、1日と15日の定例日と重要時のみに登城を求められることとなった。『徳川実紀』がこれを指して「今の世にいふ大老なり」としているように[13]、大老の最初であるとされることが多い[8]。ただし小宮木代良は『徳川実紀』は編纂された19世紀頃の政治意識に基づく書き換えが行われていると指摘しており、野田浩子は本件にも該当するとしている[8]。北原章男は二人が大老に「押し上げられた」と表現しており、二人の政治権力を奪うための措置であったと解釈している[13]。一方で、土井利勝は寛永16年まで、酒井忠勝は慶安年間まで老中奉書に加判を行っており、小池進は忠勝については変わらず老中としての職務を行っていたと指摘している[13]。
二人は『柳営補任』においてこれまでの「執事職」と異なり「元老」と記載されている[3]。野間浩子は『諸役人系図』において忠世・忠勝らが直孝・忠明らとは別の場所の「大老」に記載されていることを指摘し、「執事職」系の大老と、本来老中である「元老」系の大老は、別の職責であるとしている[14]。
松平太郎と藤野保は寛文6年(1666年)3月29日に酒井忠清が大老となり、職名としての「大老」と、職制としての大老が確立されたのはこれ以降であるとしている[15]。ただし『徳川実紀』やその原典となった『江戸幕府日記』には忠清が大老となったという記載はなく、忠清と阿部忠秋が尋常の奉書に対する加判を免ぜられたということのみが記載されている[16]。北島正元は『寛文録』寛文5年に「大楽」とあるのは「大老酒井雅楽頭」の略であり、この年に大老となったとしているが、美和信夫は「雅楽頭」の唐名であると指摘している[16]。
寛文9年の武鑑では忠清は「御家老」、老中は「御年寄衆」と記載されており、「大老」「老中」の名称が確立していたわけではない[17]。延宝4年(1676年)の武鑑『正極江戸鑑』は、忠清を「御家老」、井伊直澄を「御大老」として記載しており、これが江戸時代の古記録における「大老」の初出である[17]。天和年間の堀田正俊も武鑑では「御家老」とされていた[18]。
元禄10年(1697年)には井伊直興が大老となった。『柳営日次記』には「大老職被付」とあり、老中と同様に奉書を発し、職としての大老が成立したとみられる[8]。また老中の上位者を大老とする用法もこの元禄年間に確立されたと見られる[19]。一方で井伊家側では直孝・直澄らの地位を受け継いだものと認識しており[8]、『柳営補任』でも利勝・忠勝とは異なり「執事職」と記載されている[3]。ただし以降の大老は井伊家出身者でも「元老」と記載されるようになった[3]。
これ以降の大老は原則的に毎日登城し、大政全般に関与するが、月番や評定所への出座、奉書加判は免除されていた[20]。ただし老中の上席のものも同じ待遇を受けることがあったが、これだけでは大老と呼ばれることはない[20]。
在職中に殺害された大老は2人いる。堀田正俊は1684年に江戸城内で従叔父の若年寄・稲葉正休に殺害された[21]。また、幕末の井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸藩・薩摩藩の浪士に殺害されている(桜田門外の変)。
大老の一覧
[編集]寛永年間から元禄年間の大老については諸説があり、統一された見解はない[1]。美和信夫は1978年の論文「江戸幕府大老就任者に関する考察」において24の辞典・研究書等を検討したが、12通りの見解に分かれていたという[22]。
古記録においては保科正之・榊原忠次・井伊直澄・井伊直興ら「執事職」系は大老とは異なる記載が行われている場合が多い[11]。一方で酒井忠世は1970年代以降の研究と異なり、「大老」として記載されている例が多い[11]。保科正之は研究においては大老とされない場合が多いが、「大老」のみの記載がある古記録では「大老」とされる事が多い[23]。『徳川実紀』においては「直孝、正之、忠清、忠勝の四大老」として扱われている[23]。
また柳沢吉保は『読史備考』では大老とされているが、『古事類苑』や荒居英次『日本近世史入門』では大老格としている[24]。古記録では『柳営補任』『累代武鑑』『御役人全録』では大老格とされているが、「大老」としたものはない[24]。
下記の表では大老として扱われることがある人物および、『柳営補任』で「執事職」とされた井伊直政・本多忠勝・榊原康政を記載する。
| 氏名 | 在任中の官位 | 前職 | 在職期間 | 辞職理由 | 城地 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 井伊直政 | 従四位下侍従 | - | - 慶長7年(1602年)2月1日 | 死没 | 近江国彦根藩 | 執事職(柳営補任)[3] 権現様御先手三人衆(諸役人系図)[3] |
| 本多忠勝 | 従五位下中務大輔 | - | - 慶長15年(1610年)10月18日 | 死没 | 伊勢国桑名藩 | 執事職(柳営補任)[3] 権現様御先手三人衆(諸役人系図)[3] |
| 榊原康政 | 従五位下式部大輔 | - | - 慶長11年(1606年)5月14日 | 死没 | 上野国館林藩 | 執事職(柳営補任)[3] 権現様御先手三人衆(諸役人系図)[3] |
| 井伊直孝 | 従四位上行右近衛権少将兼掃部頭 →従四位上行右近衛権少将 | - | 寛永9年(1632年)正月- 万治2年6月28日 (1659年8月16日) | 死没 | 近江国彦根藩 | 執事職(柳営補任)[3] 大老(諸役人系図)[3] |
| 松平忠明 | 従四位下侍従 | - | 寛永9年(1632年)正月 - 寛永21年(1644年)3月25日 | 死没 | 大和国郡山藩 播磨国姫路藩 | 執事職(柳営補任)[3] 大老(諸役人系図)[3] |
| 保科正之 | 従四位下侍従 | - | 寛永16年(1639年)正月 - 寛文12年(1673年)12月18日 | 死没 | 陸奥国会津藩 | 執事職(柳営補任)[3] 大老(諸役人系図)[3] |
| 榊原忠次 | 従四位下侍従 | - | - 延宝4年(1676年)1月3日 | 死没 | 播磨国姫路藩 | 執事職(柳営補任)[3] 大老(諸役人系図)[3] |
| 酒井忠世 | 従四位下行侍従兼雅楽頭 | 不明 [注釈 1] | 寛永13年 |