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樺太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(南樺太から転送)
樺太島
樺太
所在地 北樺太: ロシアの旗 ロシア
南樺太(北緯50度以南): 帰属未定(実効支配: ロシアの旗 ロシア)
所在海域 オホーツク海、日本海
座標 北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積 76,400 km2
最高標高 1,609 m
最高峰 ロパチン山
最大都市 ユジノサハリンスク
(旧豊原市)
 プロジェクト 地形
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樺太(からふと)またはサハリン(ロシア語: Сахалин, ラテン文字転写: Sakhalin ロシア語発音: [səxɐˈlʲin])は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。南北約948 km、東西約160 kmで南北に細長く、面積は約76,400 km2で、北海道(78,073 km2)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう、ロシア語: Остров Сахали́н, ラテン文字転写: Ostrov Sakhalin)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。

樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

概要

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近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。

近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。

1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。

1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土にくわえて千島列島(得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。

1905年(明治38年)に日露戦争の講和条約により、樺太の南半分が日本に割譲された。

1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語:Сахалин)」としてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された[1]。日本本土の食糧確保のために農業移民が指向され、とくに1928年から1940年は集団移民制度が実施された[2][3]。その他、製紙・パルプ業、石炭業が主要産業となった。1940年には人口40万人となる[4]。

第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。

戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。

名称

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「からふと」の名の語源は、古くより諸説あり[5]、今のところ決着はついていない[6]。

樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシㇼ(樺太アイヌ語: Yankemosir)またはカラㇷト(樺太アイヌ語: Karahto)と呼ばれ[7]、北海道アイヌ語ではカラㇷ゚ト (アイヌ語: Karapto) と呼ばれる[8]。

ニヴフ語では、「遊ぶ土地」を意味する lermif か、語源不明の əɣmif と呼ばれる[9]。

また、日本語の「唐人(からひと)」がなまって「からふと」となったとの説もある[10]。

古くは「からと」とも書かれた。1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[11]。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[12]。

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[13]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島として描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1808年(文化5年)から1809年(文化6年)に亘って行われた間宮林蔵等の調査により樺太が島である事が確認された、1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる[14]。

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記